1952年、米合衆国Massachusetts州に生まれたAndy は、幼少期から音楽に親しみ、特に1960年代のポップミュージックに影響を受けた。彼の音楽への情熱は高校時代から本格的に開花し、早い段階で作曲の才能を発揮した。1970年代前半、Andyはバンド「The Sidewinders」のメンバーとして活動した。The Sidewindersでの経験は、Andyの音楽キャリアにおける基礎を築く重要な時期となった。
その後、Andyは兄Jonathanと共に「The Paley Brothers」を結成し、1970年代後半にデビューを果たした。パワーポップの黄金時代を象徴するバンドとして、彼らの甘美なメロディーと洗練されたハーモニーは、一部の熱狂的なファンを魅了した。「The Paley Brothers」は短期間の活動ながら、音楽業界に強い印象を残した。
2013年リリース『The Complete Recordings』(Real Gone Music – RGM-0182)では未発表曲を含む彼らの音楽的進化とともに、その時代の空気を感じさせる音が凝縮されている。
本作の大部分が、The Beach BoysゆかりのBrother Studioでレコーディングされているという点も、このアルバムの特別さを際立たせている。Brother Studioは、特にBrian Wilsonが数々の名作を作り上げた場所として、ファンにとっては非常に象徴的なスタジオだ。4曲目「Boomerang」では、なんとBrian Wilsonがバッキングコーラスで参加しており、Brianの存在感が感じられるビーチボーイズ風味が色濃く反映された一曲で、Paley BrothersのサウンドにBrianのハーモニーが溶け込んだ貴重な瞬間を体感できるトラックだ。26曲目の「Baby, Let's Stick Together」は、Phil Spectorによるプロデュースという点で注目に値する。Spectorの名を冠したWall of Soundがしっかりと感じられ、彼の特徴的な音作り(wrecking crewがフルサポート!)がこの曲に深みを与えている。
実は、この曲はDionの曲と同じメロディを持ちながらも、Spectorの手によってBrill Building風のアレンジが施されているのだ。この曲は、Spectorらしい壮大なアレンジと、Paley Brothersのバンドサウンドが絶妙に融合した結果、まるでBrill Buildingの黄金時代を感じさせる音が広がる。おそらく所属レーベルSire繋がりでRamonesと並行して行われたものと推測されるが、
Ramones同様レコーディング現場ではSpectorに相当振り回されたようでThe Paley Brothers活動休止の一端となる。このようにThe Paley Brothersは初期のガレージバンドとしてのエネルギーから、Spectorのプロデュースによって新たな音楽の高みを目指すよう進化を遂げていく。10歳年上のBrianが自身の栄達と重ねて感じている部分もあったに違いない。
そしてバンド活動と並行しプロデューサーや作曲家としての道を歩み始める。特に1980年代後半から1990年代にかけて、Brian Wilsonとのコラボレーションが彼のキャリアのハイライトとなり、弊誌でも何度も取り上げている。Andyは、Brianの音楽的復活を支えただけでなく、Madonna、Jerry Lee Lewis、Jonathan Richmanなど、さまざまなアーティストとの仕事を通じてその多才ぶりを証明した。Andyの音楽性はジャンルを超え、ポップ、ロック、カントリー、映画音楽など多岐にわたり、彼の楽曲は映画やテレビのサウンドトラックにも使用されるなど、幅広い層に親しまれた。
Andyの死は大きな喪失だが、Andy の音楽人生は、Bostonの草の根音楽シーンから始まり、世界的なステージへと飛躍を遂げた。彼が遺した音楽とその精神は、これからも多くの人々にインスピレーションを与え続けることだろう。
今回は極私的特集としてBrian Wilson以外の草の根パンクスピリットに溢れた彼の足跡を紹介しよう。
Andy Paleyの音楽的背景を理解するには、彼が生まれ育ったBoston周辺の音楽的な風土を知ることが不可欠である。1960年代から1970年代初頭にかけてのBostonは、文化的にも音楽的にも独特なエネルギーが満ちあふれ、フォークからロック、さらには実験的なサウンドまで、多様なジャンルが交差するこの街は、新しい才能が芽吹く肥沃な土壌があった。
Andyの死は大きな喪失だが、Andy の音楽人生は、Bostonの草の根音楽シーンから始まり、世界的なステージへと飛躍を遂げた。彼が遺した音楽とその精神は、これからも多くの人々にインスピレーションを与え続けることだろう。
今回は極私的特集としてBrian Wilson以外の草の根パンクスピリットに溢れた彼の足跡を紹介しよう。
Andy Paleyの音楽的背景を理解するには、彼が生まれ育ったBoston周辺の音楽的な風土を知ることが不可欠である。1960年代から1970年代初頭にかけてのBostonは、文化的にも音楽的にも独特なエネルギーが満ちあふれ、フォークからロック、さらには実験的なサウンドまで、多様なジャンルが交差するこの街は、新しい才能が芽吹く肥沃な土壌があった。
Andyが少年時代を過ごしたこの地域では、小さなライブハウスや大学のキャンパスが音楽シーンの中心地だった。Bostonのストリートにはギターを抱えた若者たちが溢れ、彼らが奏でる音楽は街のざわめきと共鳴していた。その中には、地域密着型のフォークシンガーや実験的なバンド、さらにはプロを目指す熱意あふれるミュージシャンたちが混在しており、アンディはそんな環境の中で、サウンドに対する鋭敏な感性を磨いていった。特にボストン周辺の音楽コミュニティは、才能を持つ者を受け入れ、共に成長していく寛容さがあった。ここでは、ライブハウスのような伝説的な会場で、新進気鋭のアーティストたちがパフォーマンスを繰り広げ、音楽の新たな可能性を探る場が提供されていた。このような文化的ハブが、Andyにとって音楽の探求を促す無限のインスピレーションとなったに違いない。さらに、Boston独自の音楽的な気質も重要だ。この地域は、洗練されたインテリジェンスとストリート感覚が見事に融合した音楽を生み出すことで知られている。
その中でもThe Velvet UndergroundがBostonに残した影響は、ただの音楽的な遺産にとどまらず、都市の文化そのものを揺るがすほどの波紋を広げた。1960年代後半、彼らがManhattanで切り開いた前衛的な音楽シーンは、その時点ではほとんど理解されず、むしろ誤解されていた。しかし、Bostonという街はその特異な音楽の香りを敏感にキャッチし、歓迎する準備ができていた。この街の音楽ファンは、The Velvet Undergroundが奏でる荒涼としたプロトパンクの音に、ある種の解放感とエネルギーを見出した。その象徴的な場所がBoston Tea Partyだ。1969年、この伝説的なライブハウスで、The Velvet Undergroundはファンの熱狂を受け、圧倒的なパフォーマンスを繰り広げた。この瞬間、Bostonの音楽シーンに新たな息吹が吹き込まれたと言えるだろう。
その中でもThe Velvet UndergroundがBostonに残した影響は、ただの音楽的な遺産にとどまらず、都市の文化そのものを揺るがすほどの波紋を広げた。1960年代後半、彼らがManhattanで切り開いた前衛的な音楽シーンは、その時点ではほとんど理解されず、むしろ誤解されていた。しかし、Bostonという街はその特異な音楽の香りを敏感にキャッチし、歓迎する準備ができていた。この街の音楽ファンは、The Velvet Undergroundが奏でる荒涼としたプロトパンクの音に、ある種の解放感とエネルギーを見出した。その象徴的な場所がBoston Tea Partyだ。1969年、この伝説的なライブハウスで、The Velvet Undergroundはファンの熱狂を受け、圧倒的なパフォーマンスを繰り広げた。この瞬間、Bostonの音楽シーンに新たな息吹が吹き込まれたと言えるだろう。
Bostonの音楽シーンが本格的に花開いたのは、1970年代初頭だった。The Velvet Undergroundが残した痕跡は、単なる過去のものではなく、Bostonの若きアーティストたちに新たな創作の自由をもたらした。彼らの音楽が持っていた反骨精神、既存の音楽業界に対する挑戦的な姿勢は、その後のパンクムーブメントを先取りしていた。この時期、Bostonからは数多くのパンクバンドが登場し、その中でも特にThe Modern Loversは、The Velvet Undergroundがまいた種をさらに成長させ、進化させていく。中でも、The SidewindersはBostonの音楽シーンを象徴する存在となった。1970年代初頭、彼らはBostonのアンダーグランドを代表するバンドとなり、Boston Tea Partyなどのライブハウスで、強烈なエネルギーを放ちながらシーンをリードしていった。彼らの音楽には、The Velvet Undergroundの影響が色濃く感じられる。シンプルでありながら、深い感情を内包したサウンドは、まさにBostonの地下音楽シーンが持つ精神そのものだった。
The Sidewindersは1969年にCatfish Blackとして結成され、Maine出身のJimmy Mahoney(ボーカル)、Wisconsin出身のJerry Harrison(キーボードのちにTalking Headsへ)、Connecticut出身のErnie Brooks(ベース)など、Harvard University周辺に住む3人の学生を含む6人編成でスタートした。リードギターのEric Rose、リズムギターのMike Reed、ドラマーのAndy Paleyもメンバーに加わっていた。
Mahoneyが1970年に脱退した後、Andyがボーカルとハーモニカを担当し、ドラマーにはHenry Stern(ギタリストのMike Sternの兄)が加入する。Harvard やその他の大学、Boston Tea Party、Stonehenge Clubなどの地元の会場で演奏し、数回にわたってAerosmithの前座を務めることで、地元で熱狂的なフォロワーを獲得し、彼らのレパートリーは、カバー曲とオリジナル曲を組み合わせたもので、特にAndyによって書かれたオリジナルが特徴的だ。
1970年末、バンドはある程度の評価を得ていたものの、レコード契約は見込めない状況で、Wellesley出身のSusie Adamsをマネージャーとして迎える。その後、Marblehead出身のプロモーター、NeilとRoy Grossmanが彼らにデモを録音させ、レコード会社への売り込みを試みた。その後、BrooksとHarrisonがThe Modern Loversに加入し、リーダーのAndyとRoseが残り、バンドは5人編成に縮小された。興味深いことに、The Modern Loversの最初のライブは、1970年9月にCatfish Blackの前座として行われたものだった。
1971年半ば、ラインナップ変更から5ヶ月後、Andyの友人であるRichard Robinson(プロデューサー、ラジオホストであり、ロックジャーナリストのLisa Robinsonの夫)がバンドにNew YorkのMax’s Kansas Cityでの出演を手配する。この場所は1970年にVelvet Undergroundがレギュラー出演して以後、久しくなかったレギュラー出演を果たしたバンドとなった。バンドはその前にCatfish BlackからThe Sidewindersに名前を改名する。この名前はRoger McGuinnの「Chestnut Mare」の歌詞に由来しているとのこと。
Max’s Kansas Cityでの演奏を見たRCA RecordsのA&R担当Dennis Katzが、彼らと契約を結び、レコーディングの機会を得ることとなる。しかし、録音の直前にRobinsonがLondonに行き、Lou Reedのソロアルバムの制作を担当することになり、代わりにLenny Kaye(後のPatti Smith Group)がプロデューサーを務めた。この結果、1972年にThe Sidewindersのセルフタイトルのデビューアルバムがリリースされた。しかし、彼らが残した唯一のアルバム『The Sidewinders』は、商業的には成功を収めることはなかった。それでも、批評家からの評価は高く、後に続く多くのミュージシャンにとって、その存在は忘れがたいものとなった。
Andyを中心にしたThe Sidewindersは、その後も数々のラインナップ変更を経ながら活動を続けるが、最終的に解散を迎える。しかし、解散後のメンバーたちは、それぞれに個々のキャリアを築き上げることとなる。Billy Squirerは1980年代にソロアーティストとして成功し、アメリカのFMラジオやMTVを席巻することとなる。
Andyを中心にしたThe Sidewindersは、その後も数々のラインナップ変更を経ながら活動を続けるが、最終的に解散を迎える。しかし、解散後のメンバーたちは、それぞれに個々のキャリアを築き上げることとなる。Billy Squirerは1980年代にソロアーティストとして成功し、アメリカのFMラジオやMTVを席巻することとなる。
以下の作品は極私的なセレクションだが、Andy が携わった数ある名作のほんの氷山の一角に過ぎないものの、彼の音楽は、ガレージ、パワーポップ、サーフなど、さまざまなジャンルを超えた音楽的冒険であり、そのすべてが彼の独特なセンスと情熱を反映している。
◯ Patti Smith Group – Ask The Angels / Time Is On My Side
(1977年仏Arista – 2C 006 98529)
B面では、The Rolling Stonesの名曲を大胆にカバー!
Andyのパンキッシュなドラミングが炸裂する、心拍数が上がる一枚。
◯ The Paley Brothers & Ramones / Come On Let’s Go
(1978年米SIR 4005)
Ritchie Valensの名曲をRamonesと共にカバー。
エネルギッシュでパンク魂溢れる名演が楽しめる。
◯The Beatles Costello / Washing The Defectives
(1978年米Pious JP310)
ギターとバックヴォーカルで参加バンド名の通りビートルズ風直球。
◯The Wicked / The Spider And The Fly / This Diamond Ring
(1979年米Isabelle Records Inc. IS-0001)
ここではYelapの変名でプロデューサーとしてクレジット。
1967以降のサイケデリックサウンドを展開。
◯The Notes / Rough School Year
(1979年米Sounds Interesting Records SI45-003)
兄Jonathanと変名でリリース。
特にB面はXTCミーツThe Zombiesのような摩訶不思議な魅力のある曲。
◯V.A / The Boston Incest Album
(1980年米Sounds Interesting RecordsSILP 005)
全14曲入りのコンピだが、内実は殆どが
Paley兄弟変名プロジェクト+周辺人脈によるガレージ・サウンドの嵐。
◯Nervous Eaters / Nervous Eaters
(1980年米Elektra 6E-282)
こちらもPaley兄弟が参加。パンク/パワー・ポップ直球ど真ん中に
仕上がっているPaley兄弟のエッセンスが炸裂する、熱いアルバム。
◯Professor Anonymous / Living In The World
(1980年米Quark Records)
またまたPaley兄弟及びBoston人脈参加。
メジャー作品に参加しながらインディーでも展開するところが面白い。
ガレージ風の作風でNervous Eatersのメンバーも参加。
◯Plastic Bertrand / Jacques Cousteau
(1981年仏RKM 101583)
テクノ・パンク・サーフといったところか?
初の海外進出なのか?今後も欧州での仕事が増えていく。
◯The Trodds / Wild Child
(1981年米Stanton Park Records)
Andyプロデュース作でキャッチーかつガレージ風味満載の快作。
◯The Young Jacques / Jacques Cousteau
(1981年米Ambition Records AMB45-105)
Plastic Bertrandと同曲。実質The Paley Brothersの変名バンド、
こちらの方がガレージ度が高い間奏のギターがSurfin’ Safariを
彷彿とさせるものがあり、将来のBrianとの邂逅は偶然ではなかった?
◯Border Boys / Tribute
(1983年ベルギー Les Disques Du Crépuscule TWI 174)
プロデューサーとしてクレジット。A面2曲目『When Will You Be Back?』は
Brianの『Lonely Sea』に匹敵するほどのムーディーなバラードだ。
ここでもBrianとの妙縁を感じさせる。
作者のPhilippe Auclairは渡英後Louis-Philippeを名乗り音楽レーベルÉlを興した。
同レーベルからLouis-PhilippeによるBrian作カバー『Guess I’m Dumb』を
リリースしているのも何かの縁を感じずにはいられない。
Phillipによると、バンド名の「Border Boys」は、彼の故郷であるBelgiumが
多くの国と国境を接していることに由来しているとのこと。
この名前には、彼の地の地理的特徴だけでなく、
異なる文化や音楽の影響を受けながらも独自のアイデンティティを
保つ姿勢が込められているように感じらる。
プロデューサーとしてのAndyの縁が音楽の奇跡を紡ぎ出す!
『ブリュッセルより愛をこめて』
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