改めてデヴィッドのプロフィールに触れるが、1949年10月スコットランドのエジンバラ生まれの彼は、The Beachcombersのメンバーとして1968年にCBSレコードと契約し、同年バンド名をThe Bootsに変え、シングル「The Animal In Me」と「Keep Your Lovelight Burning」をリリースするも70年には解散してしまう。その後初期Bay City Rollersに代理メンバーとして加わるが短期間で脱退し、翌年同様に脱退したビリー・ライオール(キーボーディスト)、更にスチュアート・トッシュ(ドラマー)を加えて73年にパイロットを結成する。
彼らはEMIレコードと契約し74年にアラン・パーソンズのプロデュースで、ファースト・アルバム『From the Album of the Same Name』(同年10月)をレコーディングし、2曲目の先行シングル「マジック(Magic)」(同年9月)が全英11位、全米5位を記録し、カナダではゴールドディスクに認定されヒットした。ファーストのレコーディング後サポート・ギタリストのイアン・ベアンソンを正式メンバーに加えて4人組となり、翌75年の『Second Flight』の先行シングルで、デヴィッドが単独でソングライティングした「January」(同年1月)は全英1位となり国内最大のヒットとなった。
その後オリジナル・メンバーのビリーが76年に脱退したため、サードの『Morin Heights』(76年)では残った3人にサポート・キーボーディストを加え、クイーンの諸作で知られていたロイ・トーマス・ベイカーのプロデュースの元でレコーディングしている。翌77年にはスチュアートも脱退し、デヴィッドとイアンの2人体勢のパイロットは、再びアランのプロデュースで『Two's a Crowd』(77年)をリリースするが同作がラスト・アルバムとなった。デヴィッド、イアン、スチュアートの3名は、アランが75年に結成したアラン・パーソンズ・プロジェクトの準メンバーとして、76年のファースト・アルバムから全盛期の80年前半まで参加し、そちらの活動の方がメインとなったことでパイロットは自然消滅した。
この様に70年代から80年代を通して、英国ロック界でデヴィッドは大きく貢献してきた。パイロットとしては2002年と2007年にデヴィッドとイアンを中心にリユニオンしており、5thアルバム『Blue Yonder』(2002年)と、企画アルバム『A Pilot Project:A Return to The Alan Parsons Project』(2014年)をリリースしている。2017年以降はデヴィッドのソロ・プロジェクトとして現在も活動を継続している。
冒頭に相応しい「Yeah! Yeah! Yeah! Yeah!」は田中久義との共作曲で、原曲は田中がSHEEPの前に結成し、デヴィッドもリードボーカル他で参加した、BEAGLE HATのメジャーデビュー・アルバム『MAGICAL HAT』(2006年)レコーディングの際、デヴィッドが提供した「ON MY WAY」である。アレンジの基本構造は同じだが、ややテンポが早くなって、曲としての完成度も高くなっている。マーティンによるドラムと一部キーボード以外の全楽器をデヴィッドが一人多重録音でプレイしている。年齢を感じさせないデヴィッドのボーカルも健在で、パイロット・ファンも楽しめる。
続く「All I Need」はデヴィッド単独のソングライティングで、ポール・マッカートニー直系のビートリーな良曲だ。レコーディングにはドラムのマーティンの他、“David Paton Songs”に所属するケニー・ハーバート&ラブ・ホワットの2人が、エレキギターとコーラスで、プロデューサーのデイヴィー・ヴァレンタインがオルガンで参加しており、スコットランドのハートビート・スタジオで撮影された同曲のMVで、参加メンバー達の楽し気な姿を目にすることが出来る。
マーティンと共作した「Before I Let Go」は、やはりドラマーということでポリリズムのビートが基調になっていて、サウンド自体もデヴィッドが持つポップス感覚とは異なり、ピーター・ガブリエルなどを彷彿とさせて興味深い。こういった要素をアルバムの中でスパイスにさせているのだろう。
タイトル曲「Communication」はデヴィッド単独のソングライティングで、所謂英国的なシリアスな曲調で、マーティンのドラム以外はデヴィッドの一人多重録音だ。「Before I Let Go」同様にこういった、80年代を意識したサウンドは、当時聴き込んでいたであろうマーティンがアレンジのアイディアを出しているようだ。
本編ラストの「I Will Be King」はジョン・ターナーとの共作で、アレンジとキーボード、ドラム・プログラミングはジョンが担当し、デヴィッドは全てのギター、ベースをそれぞれ担当している。シンプルなドラム・トラックのビートと必要最低限の音数で構成されたサウンドをバックにデヴィッドのボーカルが感動的なバラードである。
日本独自のボーナストラックに触れておこう。
「How can this love survive?」はデヴィッド単独作で、フェイザーが効いたテンポ感のある打ち込み主体サウンドが、本編のカラーが異なるのでオミットされたのかも知れないが、曲としては悪くない。プリファブ・スプラウトの『From Langley Park to Memphis』(1988年)でトーマス・ドルビーがプロデュースした楽曲に通じていて、好きにならずにいられない。
続く「I'm gonna be (500 miles)」はThe Proclaimersの1988年作のカバーで、オリジナルはリリースの5年後にジョニー・デップ主演の米映画『ベニー&ジューン(Benny & Joon)』(1993年)で使用されたことで英国外でもリバイバル・ヒットした。
そしてバンド活動と並行しプロデューサーや作曲家としての道を歩み始める。特に1980年代後半から1990年代にかけて、Brian Wilsonとのコラボレーションが彼のキャリアのハイライトとなり、弊誌でも何度も取り上げている。Andyは、Brianの音楽的復活を支えただけでなく、Madonna、Jerry Lee Lewis、Jonathan Richmanなど、さまざまなアーティストとの仕事を通じてその多才ぶりを証明した。Andyの音楽性はジャンルを超え、ポップ、ロック、カントリー、映画音楽など多岐にわたり、彼の楽曲は映画やテレビのサウンドトラックにも使用されるなど、幅広い層に親しまれた。 Andyの死は大きな喪失だが、Andy の音楽人生は、Bostonの草の根音楽シーンから始まり、世界的なステージへと飛躍を遂げた。彼が遺した音楽とその精神は、これからも多くの人々にインスピレーションを与え続けることだろう。 今回は極私的特集としてBrian Wilson以外の草の根パンクスピリットに溢れた彼の足跡を紹介しよう。
Andy Paleyの音楽的背景を理解するには、彼が生まれ育ったBoston周辺の音楽的な風土を知ることが不可欠である。1960年代から1970年代初頭にかけてのBostonは、文化的にも音楽的にも独特なエネルギーが満ちあふれ、フォークからロック、さらには実験的なサウンドまで、多様なジャンルが交差するこの街は、新しい才能が芽吹く肥沃な土壌があった。
1970年末、バンドはある程度の評価を得ていたものの、レコード契約は見込めない状況で、Wellesley出身のSusie Adamsをマネージャーとして迎える。その後、Marblehead出身のプロモーター、NeilとRoy Grossmanが彼らにデモを録音させ、レコード会社への売り込みを試みた。その後、BrooksとHarrisonがThe Modern Loversに加入し、リーダーのAndyとRoseが残り、バンドは5人編成に縮小された。興味深いことに、The Modern Loversの最初のライブは、1970年9月にCatfish Blackの前座として行われたものだった。