2025年1月19日日曜日

DAVID PATON:『Communication』


 英国ポップロック最高峰と称されるパイロット(Pilot)のフロントマンでベーシスト、デヴィッド・ペイトン(DAVID PATON)が、約2年振りとなるオリジナル・ニューアルバム『Communication』を1月22日にリリースする。
 2022年5月の日本のポップ・ユニット”SHEEP”とのコラボレーション・アルバム『メロディ・アンド・エコーズ』が記憶に新しいが、ソロ名義のオリジナル・アルバムとしては、2020年11月に個人レーベル“David Paton Songs”からリリースした『2020』以来、約4年振りとなる8作目となった。

 本作では『メロディ・アンド・エコーズ』に続き、SHEEPの堀尾忠司、田中久義との共作の4曲をはじめ、パイロット時代からファンには知られる作風通り、ポール・マッカートニー直系の英国ポップロック然とした本編11曲に、日本独自のボーナストラック2曲の全13曲を収録している。


 改めてデヴィッドのプロフィールに触れるが、1949年10月スコットランドのエジンバラ生まれの彼は、The Beachcombersのメンバーとして1968年にCBSレコードと契約し、同年バンド名をThe Bootsに変え、シングル「The Animal In Me」と「Keep Your Lovelight Burning」をリリースするも70年には解散してしまう。その後初期Bay City Rollersに代理メンバーとして加わるが短期間で脱退し、翌年同様に脱退したビリー・ライオール(キーボーディスト)、更にスチュアート・トッシュ(ドラマー)を加えて73年にパイロットを結成する。 
 彼らはEMIレコードと契約し74年にアラン・パーソンズのプロデュースで、ファースト・アルバム『From the Album of the Same Name』(同年10月)をレコーディングし、2曲目の先行シングル「マジック(Magic)」(同年9月)が全英11位、全米5位を記録し、カナダではゴールドディスクに認定されヒットした。ファーストのレコーディング後サポート・ギタリストのイアン・ベアンソンを正式メンバーに加えて4人組となり、翌75年の『Second Flight』の先行シングルで、デヴィッドが単独でソングライティングした「January」(同年1月)は全英1位となり国内最大のヒットとなった。
 その後オリジナル・メンバーのビリーが76年に脱退したため、サードの『Morin Heights』(76年)では残った3人にサポート・キーボーディストを加え、クイーンの諸作で知られていたロイ・トーマス・ベイカーのプロデュースの元でレコーディングしている。翌77年にはスチュアートも脱退し、デヴィッドとイアンの2人体勢のパイロットは、再びアランのプロデュースで『Two's a Crowd』(77年)をリリースするが同作がラスト・アルバムとなった。デヴィッド、イアン、スチュアートの3名は、アランが75年に結成したアラン・パーソンズ・プロジェクトの準メンバーとして、76年のファースト・アルバムから全盛期の80年前半まで参加し、そちらの活動の方がメインとなったことでパイロットは自然消滅した。

 この様に70年代から80年代を通して、英国ロック界でデヴィッドは大きく貢献してきた。パイロットとしては2002年と2007年にデヴィッドとイアンを中心にリユニオンしており、5thアルバム『Blue Yonder』(2002年)と、企画アルバム『A Pilot Project:A Return to The Alan Parsons Project』(2014年)をリリースしている。2017年以降はデヴィッドのソロ・プロジェクトとして現在も活動を継続している。
 一方イアン・ベアンソンは、長い認知症闘病の末、2023年4月7日に惜しくも69歳で亡くなっている。彼のギター・プレイは、パイロットやアラン・パーソンズ・プロジェクト以外のセッションでも知られており、日本でも有名なケイト・ブッシュの「Wuthering Heights(嵐が丘)」(1978年)のギターソロは、利き腕の右手首を骨折してギブスを付けたままプレイしたという。そんな彼のプレイは、この先も音楽ファンに長く聴き継がれていくだろう。 
 
 左上から時計回りに1stから4thアルバム

 本作『Communication』は既出通り、デヴィッドのソロ名義のオリジナル・アルバムとして、『2020』(2020年11月)以来、約4年振りとなる8作目となった。本国の英国では昨年10月20日にリリースして11曲を収録していたが、今回の邦盤では2曲のボーナストラックを追加して全13曲を収録しているのが嬉しい。
 デヴィッド単独名義のソングライティングは6曲で、SHEEPの田中久義との共作は3曲、同じく堀尾忠司との共作は1曲、また本作に参加したサポート・ドラマーのマーティン・ワイクス(Martin Wykes)、キーボーディストのジョン・ターナー(Jon Turner=John Turner)と各1曲ずつ曲作している。因みにターナーはエンジニアとして、プリファブ・スプラウトのファースト・アルバム『Swoon』(1984年)を手掛けていた。残りの1曲はデヴィッドと同郷のバンドザ・プロクレイマーズ(The Proclaimers)の1988年作「I'm Gonna Be (500 Miles)」のカバーで、選曲的によく練られた構成となっている。
 マルチプレイヤーであるデヴィッドの以外の参加ミュージシャンについては曲ごとに触れていくが、やはり共作者が演奏にも参加するスタイルが多い。ジャケットにも触れるが、セピア色のジャケット両面のショットは、デヴィッドの妻であるメアリー・ペイトンが撮影しているのが微笑ましい。ブックレットにはそんな夫妻の姿も写っている。

'Communication', the new album from David Paton. 
 Available now from pilot-magic.com 

 ここからは収録曲中筆者が気になった主要曲を解説していこう。 
 冒頭に相応しい「Yeah! Yeah! Yeah! Yeah!」は田中久義との共作曲で、原曲は田中がSHEEPの前に結成し、デヴィッドもリードボーカル他で参加した、BEAGLE HATのメジャーデビュー・アルバム『MAGICAL HAT』(2006年)レコーディングの際、デヴィッドが提供した「ON MY WAY」である。アレンジの基本構造は同じだが、ややテンポが早くなって、曲としての完成度も高くなっている。マーティンによるドラムと一部キーボード以外の全楽器をデヴィッドが一人多重録音でプレイしている。年齢を感じさせないデヴィッドのボーカルも健在で、パイロット・ファンも楽しめる。
 続く「All I Need」はデヴィッド単独のソングライティングで、ポール・マッカートニー直系のビートリーな良曲だ。レコーディングにはドラムのマーティンの他、“David Paton Songs”に所属するケニー・ハーバート&ラブ・ホワットの2人が、エレキギターとコーラスで、プロデューサーのデイヴィー・ヴァレンタインがオルガンで参加しており、スコットランドのハートビート・スタジオで撮影された同曲のMVで、参加メンバー達の楽し気な姿を目にすることが出来る。

 
All I Need. david@pilot-magic.com 

「Raindrops」は『メロディ・アンド・エコーズ』から引き続き再収録された堀尾忠司との共作で、尺が僅かに短くなっているが基本アレンジは同じで、ポールの『Ram』(1971年)をこよなく愛するファンは好きになるだろう。デヴィッドはウクレレとベース、キーボードとドラム・プログラミング、堀尾は特徴的なリフを弾くエレキギターとシロフォンの他コーラスも担当している。 
 一転してシリアスな「No Words」はソングライティングとアレンジ、全ての楽器をディッドが一人多重録音すており、コーラスには愛娘のサディが参加している。サウンドのポイントになっているフレットレス・や間奏のギターソロまで巧みにこなす、デヴィッドの器用さには脱帽するばかりだ。
 
 マーティンと共作した「Before I Let Go」は、やはりドラマーということでポリリズムのビートが基調になっていて、サウンド自体もデヴィッドが持つポップス感覚とは異なり、ピーター・ガブリエルなどを彷彿とさせて興味深い。こういった要素をアルバムの中でスパイスにさせているのだろう。
 タイトル曲「Communication」はデヴィッド単独のソングライティングで、所謂英国的なシリアスな曲調で、マーティンのドラム以外はデヴィッドの一人多重録音だ。「Before I Let Go」同様にこういった、80年代を意識したサウンドは、当時聴き込んでいたであろうマーティンがアレンジのアイディアを出しているようだ。
 本編ラストの「I Will Be King」はジョン・ターナーとの共作で、アレンジとキーボード、ドラム・プログラミングはジョンが担当し、デヴィッドは全てのギター、ベースをそれぞれ担当している。シンプルなドラム・トラックのビートと必要最低限の音数で構成されたサウンドをバックにデヴィッドのボーカルが感動的なバラードである。

 日本独自のボーナストラックに触れておこう。 「How can this love survive?」はデヴィッド単独作で、フェイザーが効いたテンポ感のある打ち込み主体サウンドが、本編のカラーが異なるのでオミットされたのかも知れないが、曲としては悪くない。プリファブ・スプラウトの『From Langley Park to Memphis』(1988年)でトーマス・ドルビーがプロデュースした楽曲に通じていて、好きにならずにいられない。 
 続く「I'm gonna be (500 miles)」はThe Proclaimersの1988年作のカバーで、オリジナルはリリースの5年後にジョニー・デップ主演の米映画『ベニー&ジューン(Benny & Joon)』(1993年)で使用されたことで英国外でもリバイバル・ヒットした。 
 ここではデヴィッドの愛娘サディが味わい深いリードボーカルを取り、テンポをかなり落とし、ブルージーなアレンジにモディファイされていて別曲の様な仕上がりになった。ボーナストラックゆえにパーソナル・クレジットがないのだが、ハーモニカのプレイも光っていて素晴らしい。

SADIE PATON

 英国が誇る伝説のロック・ミュージシャンであるデヴィッド・ペイトンの最新作を、パイロットの全盛期から半世紀過ぎた現在もこうして聴けるのは幸運である。筆者のレビューを読んで興味を持った音楽ファンは、是非入手して聴いて欲しい。 



(テキスト:ウチタカヒデ













2025年1月12日日曜日

追悼 Andy Paley(1952-2024):極私的セレクションで紐解く彼の音楽的遺産


 Andy Paleyは2024年11月20日、音楽界に多大な足跡を残してこの世を去った。享年72歳。彼の死は、幅広いジャンルで活躍してきた才能あふれるプロデューサー、作曲家、パフォーマーを失ったことを意味し、音楽ファンや関係者にとって大きな悲しみをもたらした。
 1952年、米合衆国Massachusetts州に生まれたAndy は、幼少期から音楽に親しみ、特に1960年代のポップミュージックに影響を受けた。彼の音楽への情熱は高校時代から本格的に開花し、早い段階で作曲の才能を発揮した。1970年代前半、Andyはバンド「The Sidewinders」のメンバーとして活動した。The Sidewindersでの経験は、Andyの音楽キャリアにおける基礎を築く重要な時期となった。


 その後、Andyは兄Jonathanと共に「The Paley Brothers」を結成し、1970年代後半にデビューを果たした。パワーポップの黄金時代を象徴するバンドとして、彼らの甘美なメロディーと洗練されたハーモニーは、一部の熱狂的なファンを魅了した。「The Paley Brothers」は短期間の活動ながら、音楽業界に強い印象を残した。


 2013年リリース『The Complete Recordings』(Real Gone Music – RGM-0182)では未発表曲を含む彼らの音楽的進化とともに、その時代の空気を感じさせる音が凝縮されている。
 本作の大部分が、The Beach BoysゆかりのBrother Studioでレコーディングされているという点も、このアルバムの特別さを際立たせている。Brother Studioは、特にBrian Wilsonが数々の名作を作り上げた場所として、ファンにとっては非常に象徴的なスタジオだ。4曲目「Boomerang」では、なんとBrian Wilsonがバッキングコーラスで参加しており、Brianの存在感が感じられるビーチボーイズ風味が色濃く反映された一曲で、Paley BrothersのサウンドにBrianのハーモニーが溶け込んだ貴重な瞬間を体感できるトラックだ。26曲目の「Baby, Let's Stick Together」は、Phil Spectorによるプロデュースという点で注目に値する。Spectorの名を冠したWall of Soundがしっかりと感じられ、彼の特徴的な音作り(wrecking crewがフルサポート!)がこの曲に深みを与えている。
 実は、この曲はDionの曲と同じメロディを持ちながらも、Spectorの手によってBrill Building風のアレンジが施されているのだ。この曲は、Spectorらしい壮大なアレンジと、Paley Brothersのバンドサウンドが絶妙に融合した結果、まるでBrill Buildingの黄金時代を感じさせる音が広がる。おそらく所属レーベルSire繋がりでRamonesと並行して行われたものと推測されるが、
 Ramones同様レコーディング現場ではSpectorに相当振り回されたようでThe Paley Brothers活動休止の一端となる。このようにThe Paley Brothersは初期のガレージバンドとしてのエネルギーから、Spectorのプロデュースによって新たな音楽の高みを目指すよう進化を遂げていく。10歳年上のBrianが自身の栄達と重ねて感じている部分もあったに違いない。

 そしてバンド活動と並行しプロデューサーや作曲家としての道を歩み始める。特に1980年代後半から1990年代にかけて、Brian Wilsonとのコラボレーションが彼のキャリアのハイライトとなり、弊誌でも何度も取り上げている。Andyは、Brianの音楽的復活を支えただけでなく、Madonna、Jerry Lee Lewis、Jonathan Richmanなど、さまざまなアーティストとの仕事を通じてその多才ぶりを証明した。Andyの音楽性はジャンルを超え、ポップ、ロック、カントリー、映画音楽など多岐にわたり、彼の楽曲は映画やテレビのサウンドトラックにも使用されるなど、幅広い層に親しまれた。
 Andyの死は大きな喪失だが、Andy の音楽人生は、Bostonの草の根音楽シーンから始まり、世界的なステージへと飛躍を遂げた。彼が遺した音楽とその精神は、これからも多くの人々にインスピレーションを与え続けることだろう。
今回は極私的特集としてBrian Wilson以外の草の根パンクスピリットに溢れた彼の足跡を紹介しよう。

 Andy Paleyの音楽的背景を理解するには、彼が生まれ育ったBoston周辺の音楽的な風土を知ることが不可欠である。1960年代から1970年代初頭にかけてのBostonは、文化的にも音楽的にも独特なエネルギーが満ちあふれ、フォークからロック、さらには実験的なサウンドまで、多様なジャンルが交差するこの街は、新しい才能が芽吹く肥沃な土壌があった。 
 Andyが少年時代を過ごしたこの地域では、小さなライブハウスや大学のキャンパスが音楽シーンの中心地だった。Bostonのストリートにはギターを抱えた若者たちが溢れ、彼らが奏でる音楽は街のざわめきと共鳴していた。その中には、地域密着型のフォークシンガーや実験的なバンド、さらにはプロを目指す熱意あふれるミュージシャンたちが混在しており、アンディはそんな環境の中で、サウンドに対する鋭敏な感性を磨いていった。特にボストン周辺の音楽コミュニティは、才能を持つ者を受け入れ、共に成長していく寛容さがあった。ここでは、ライブハウスのような伝説的な会場で、新進気鋭のアーティストたちがパフォーマンスを繰り広げ、音楽の新たな可能性を探る場が提供されていた。このような文化的ハブが、Andyにとって音楽の探求を促す無限のインスピレーションとなったに違いない。さらに、Boston独自の音楽的な気質も重要だ。この地域は、洗練されたインテリジェンスとストリート感覚が見事に融合した音楽を生み出すことで知られている。
 その中でもThe Velvet UndergroundがBostonに残した影響は、ただの音楽的な遺産にとどまらず、都市の文化そのものを揺るがすほどの波紋を広げた。1960年代後半、彼らがManhattanで切り開いた前衛的な音楽シーンは、その時点ではほとんど理解されず、むしろ誤解されていた。しかし、Bostonという街はその特異な音楽の香りを敏感にキャッチし、歓迎する準備ができていた。この街の音楽ファンは、The Velvet Undergroundが奏でる荒涼としたプロトパンクの音に、ある種の解放感とエネルギーを見出した。その象徴的な場所がBoston Tea Partyだ。1969年、この伝説的なライブハウスで、The Velvet Undergroundはファンの熱狂を受け、圧倒的なパフォーマンスを繰り広げた。この瞬間、Bostonの音楽シーンに新たな息吹が吹き込まれたと言えるだろう。

 Bostonの音楽シーンが本格的に花開いたのは、1970年代初頭だった。The Velvet Undergroundが残した痕跡は、単なる過去のものではなく、Bostonの若きアーティストたちに新たな創作の自由をもたらした。彼らの音楽が持っていた反骨精神、既存の音楽業界に対する挑戦的な姿勢は、その後のパンクムーブメントを先取りしていた。この時期、Bostonからは数多くのパンクバンドが登場し、その中でも特にThe Modern Loversは、The Velvet Undergroundがまいた種をさらに成長させ、進化させていく。中でも、The SidewindersはBostonの音楽シーンを象徴する存在となった。1970年代初頭、彼らはBostonのアンダーグランドを代表するバンドとなり、Boston Tea Partyなどのライブハウスで、強烈なエネルギーを放ちながらシーンをリードしていった。彼らの音楽には、The Velvet Undergroundの影響が色濃く感じられる。シンプルでありながら、深い感情を内包したサウンドは、まさにBostonの地下音楽シーンが持つ精神そのものだった。

  

 The Sidewindersは1969年にCatfish Blackとして結成され、Maine出身のJimmy Mahoney(ボーカル)、Wisconsin出身のJerry Harrison(キーボードのちにTalking Headsへ)、Connecticut出身のErnie Brooks(ベース)など、Harvard University周辺に住む3人の学生を含む6人編成でスタートした。リードギターのEric Rose、リズムギターのMike Reed、ドラマーのAndy Paleyもメンバーに加わっていた。
 Mahoneyが1970年に脱退した後、Andyがボーカルとハーモニカを担当し、ドラマーにはHenry Stern(ギタリストのMike Sternの兄)が加入する。Harvard やその他の大学、Boston Tea Party、Stonehenge Clubなどの地元の会場で演奏し、数回にわたってAerosmithの前座を務めることで、地元で熱狂的なフォロワーを獲得し、彼らのレパートリーは、カバー曲とオリジナル曲を組み合わせたもので、特にAndyによって書かれたオリジナルが特徴的だ。

 1970年末、バンドはある程度の評価を得ていたものの、レコード契約は見込めない状況で、Wellesley出身のSusie Adamsをマネージャーとして迎える。その後、Marblehead出身のプロモーター、NeilとRoy Grossmanが彼らにデモを録音させ、レコード会社への売り込みを試みた。その後、BrooksとHarrisonがThe Modern Loversに加入し、リーダーのAndyとRoseが残り、バンドは5人編成に縮小された。興味深いことに、The Modern Loversの最初のライブは、1970年9月にCatfish Blackの前座として行われたものだった。
 1971年半ば、ラインナップ変更から5ヶ月後、Andyの友人であるRichard Robinson(プロデューサー、ラジオホストであり、ロックジャーナリストのLisa Robinsonの夫)がバンドにNew YorkのMax’s Kansas Cityでの出演を手配する。この場所は1970年にVelvet Undergroundがレギュラー出演して以後、久しくなかったレギュラー出演を果たしたバンドとなった。バンドはその前にCatfish BlackからThe Sidewindersに名前を改名する。この名前はRoger McGuinnの「Chestnut Mare」の歌詞に由来しているとのこと。
 Max’s Kansas Cityでの演奏を見たRCA RecordsのA&R担当Dennis Katzが、彼らと契約を結び、レコーディングの機会を得ることとなる。しかし、録音の直前にRobinsonがLondonに行き、Lou Reedのソロアルバムの制作を担当することになり、代わりにLenny Kaye(後のPatti Smith Group)がプロデューサーを務めた。この結果、1972年にThe Sidewindersのセルフタイトルのデビューアルバムがリリースされた。しかし、彼らが残した唯一のアルバム『The Sidewinders』は、商業的には成功を収めることはなかった。それでも、批評家からの評価は高く、後に続く多くのミュージシャンにとって、その存在は忘れがたいものとなった。
 Andyを中心にしたThe Sidewindersは、その後も数々のラインナップ変更を経ながら活動を続けるが、最終的に解散を迎える。しかし、解散後のメンバーたちは、それぞれに個々のキャリアを築き上げることとなる。Billy Squirerは1980年代にソロアーティストとして成功し、アメリカのFMラジオやMTVを席巻することとなる。


 以下の作品は極私的なセレクションだが、Andy が携わった数ある名作のほんの氷山の一角に過ぎないものの、彼の音楽は、ガレージ、パワーポップ、サーフなど、さまざまなジャンルを超えた音楽的冒険であり、そのすべてが彼の独特なセンスと情熱を反映している。
                                    
◯ Patti Smith Group – Ask The Angels / Time Is On My Side
(1977年仏Arista – 2C 006 98529)
B面では、The Rolling Stonesの名曲を大胆にカバー!
Andyのパンキッシュなドラミングが炸裂する、心拍数が上がる一枚。


◯ The Paley Brothers & Ramones / Come On Let’s Go
 (1978年米SIR 4005)
Ritchie Valensの名曲をRamonesと共にカバー。
エネルギッシュでパンク魂溢れる名演が楽しめる。


◯The Beatles Costello / Washing The Defectives
 (1978年米Pious JP310)
ギターとバックヴォーカルで参加バンド名の通りビートルズ風直球。


◯The Wicked / The Spider And The Fly / This Diamond Ring
(1979年米Isabelle Records Inc. IS-0001)
ここではYelapの変名でプロデューサーとしてクレジット。
1967以降のサイケデリックサウンドを展開。


     
◯The Notes / Rough School Year 
(1979年米Sounds Interesting Records SI45-003)
兄Jonathanと変名でリリース。
特にB面はXTCミーツThe Zombiesのような摩訶不思議な魅力のある曲。


◯V.A / The Boston Incest Album 
(1980年米Sounds Interesting RecordsSILP 005)
全14曲入りのコンピだが、内実は殆どが
Paley兄弟変名プロジェクト+周辺人脈によるガレージ・サウンドの嵐。


◯Nervous Eaters / Nervous Eaters 
(1980年米Elektra 6E-282)
こちらもPaley兄弟が参加。パンク/パワー・ポップ直球ど真ん中に
仕上がっているPaley兄弟のエッセンスが炸裂する、熱いアルバム。


   
◯Professor Anonymous / Living In The World
 (1980年米Quark Records)
またまたPaley兄弟及びBoston人脈参加。
メジャー作品に参加しながらインディーでも展開するところが面白い。
ガレージ風の作風でNervous Eatersのメンバーも参加。


 
◯Plastic Bertrand / Jacques Cousteau
(1981年仏RKM 101583)
テクノ・パンク・サーフといったところか?
初の海外進出なのか?今後も欧州での仕事が増えていく。

               
 
◯The Trodds / Wild Child 
(1981年米Stanton Park Records)
Andyプロデュース作でキャッチーかつガレージ風味満載の快作。


 
◯The Young Jacques / Jacques Cousteau
(1981年米Ambition Records AMB45-105)
Plastic Bertrandと同曲。実質The Paley Brothersの変名バンド、
こちらの方がガレージ度が高い間奏のギターがSurfin’ Safariを
彷彿とさせるものがあり、将来のBrianとの邂逅は偶然ではなかった?


◯Border Boys / Tribute
(1983年ベルギー Les Disques Du Crépuscule TWI 174)
プロデューサーとしてクレジット。A面2曲目『When Will You Be Back?』は
Brianの『Lonely Sea』に匹敵するほどのムーディーなバラードだ。
ここでもBrianとの妙縁を感じさせる。
作者のPhilippe Auclairは渡英後Louis-Philippeを名乗り音楽レーベルÉlを興した。
同レーベルからLouis-PhilippeによるBrian作カバー『Guess I’m Dumb』を
リリースしているのも何かの縁を感じずにはいられない。
Phillipによると、バンド名の「Border Boys」は、彼の故郷であるBelgiumが
多くの国と国境を接していることに由来しているとのこと。
この名前には、彼の地の地理的特徴だけでなく、
異なる文化や音楽の影響を受けながらも独自のアイデンティティを
保つ姿勢が込められているように感じらる。
プロデューサーとしてのAndyの縁が音楽の奇跡を紡ぎ出す!

『ブリュッセルより愛をこめて』
(1983年日本 新星堂SC-10)
同曲は日本のみリリースされたLP2枚組にも収録されている。