2024年11月30日土曜日

ムーンライダーズ:『アマチュア・アカデミー 40周年記念盤』森 達彦 氏 インタビュー


 1976年のファースト・アルバム発表から現役活動する日本ロック、ポップス界の至宝とされるバンド、ムーンライダーズが、1984年8月にリリースした『アマチュア・アカデミー(AMATEUR ACADEMY)』(P-VINE PCD-18915)を、40周年記念盤として11月20日にリイシューした。 
 バンドの歴史上唯一、当時の所属レコード会社のA&Rマンだった宮田茂樹を外部プロデューサーとして起用したことで、他のアルバムとは明らかにカラーが異なり、通算9作目にしてファンの間でも「名作」「問題作」と異論が多いことで知られている。

  今回の40周年記念盤では、過去のリイシュー時にも収録されていたアルバム未収録のシングル曲と、別テイクから選抜された4曲をDISC1にボーナストラックとして収録し、DVDのDISC2には、オリジナルアルバム・リリース直前の1984年7月14日に渋谷公会堂で行われた、伝説的ライブ映像を4曲収録している。また16ページのブックレットの表紙には、黎明期だったCDとカセットのみで採用された、幻のカラー・ジャケット(ジャケット写真:伊島薫)が40年振りに採用されているので、ファンにとってはレアなコレクターズ・アイテムになったのではないだろうか。
 なお今回リイシューのリマスタリングは、ムーンライダーズと関係が深いシンガー・ソングライターの松尾清憲氏が、今年6月にリリースした最新アルバム『Young and Innocent』のサウンド・プロデューサーを務め、マスタリング・エンジニアとしても、これまで数多の作品を手掛けてきた、microstarの佐藤清喜が担当しているのも注目である。


DISC 1
1.Y.B.J.(YOUNG BLOOD JACK)
2.30(30 AGE)
3.G.o.a.P.(急いでピクニックへ行こう)
4.B TO F(森へ帰ろう~絶頂のコツ)
5.S・E・X(個人調査)
6.M.I.J. 
7.NO.OH
8.D/P(ダム/パール)
9.BLDG(ジャックはビルを見つめて)
10.B.B.L.B.(ベイビー・ボーイ、レディ・ボーイ)
ボーナストラック: 
11.Star Struck(BDLG English Ver.)
12. M.I.J.(Single Ver.)
13.GYM 
14.Happy Birthday(Demo Ver.)

DISC 2(DVD)Amateur Academy Live
1.Y.B.J.(YOUNG BLOOD JACK)
2.M.I.J. 
3.G.o.a.P.(急いでピクニックへ行こう)
4.NO.OH 

最前
鈴木慶一・Keiichi Suzuki(Vocals, Keyboards, Guitar, Bass)
2列目左から
武川雅寛・Masahiro Takekawa(Backing Vocals, Violin, Trumpet)
かしぶち哲郎・Tetsuroh Kashibuchi(Backing Vocals, Drums)
3列目左から
鈴木博文・Hirofumi Suzuki(Backing Vocals, Bass, Guitar)
岡田徹・Tohru Okada(Keyboards)
白井良明・Ryomei Shirai(Backing Vocals, Guitar, Percussion)


 管理人としては、ディープでコアなファンが多いムーンライダーズの名作を、ソフトロック/ポップス系の弊サイトで取り上げることはおこがましいのだが、前作『青空百景』(1982年)からリアルタイムでこのバンドの作品を聴き始め、本作『アマチュア・アカデミー』も高校1年生の頃に相当聴き込んだ、思い入れの強いアルバムだった。
 そのような個人的思いもあり、今回は特別にムーンライダーズと繋がりが深い、シンセサイザー・プログラマーの事務所hammer(ハンマー)の代表で、管理人も10年以上交流がある森達彦氏へのインタビューをおおくりする。

【hammer代表☆森達彦氏インタビュー】


「『アマチュア・アカデミー』は宮田さんがプロデューサーだったので、慶一さんは一歩引いたカタチになっていて、僕が知っているムーンライダーズの制作現場とは雰囲気が違っていました」



筒美京平先生の追悼企画以来のインタビューになりますが、今回はよろしくお願いします。 
先ずは森さんがムーンライダーズ(以降ライダーズ)とのお仕事から、『アマチュア・アカデミー』リリースとの時系列を含めて、hammerを設立した経緯をお聞かせ下さい。


◎森達彦(以下森):『アマチュア・アカデミー』(以降アカデミー)は、hammer が出来る直前にリリースされたアルバムなんです。hammerが出来たのも84年なんですが、アカデミーの録音は83年から84年の頭で、この録音中に会社(プログラマー・マネージメント会社)を作ろうって話になったんですよ。


●正しくアカデミーのレコーディングが、hammer設立に関わっていたんですね? 


◎森:もっと詳しい経緯を話しますと、アカデミーの録音は音響ハウスをメインに使っていたんですね。なんせライダーズの仕事は待ち時間がほとんどで、ロビーに居る訳ですよ。そうすると、(当時の)ライダーズ・オフィスの社長もロビーに居て「森君、忙しくしている?」と声を掛けられたので、僕もプログラマー仕事が軌道に乗り始めた時期だったから「いや~(笑)、だいぶ忙しくなりました」と。すると「これからはプログラマーの時代だよね。森君、会社を一緒に作ろうか」という話になって、それでhammerが出来たんですよ。
そういう意味では自分にとって、このアルバムはきっかけになった作品でもあるんです。


●因みにその当時はhammerのメイン機材となる、PPG Wave(※1)は既に導入されていたんですか?


◎森:いや~、まだですね。当時スタジオによく持って行ったのは、Linn Drum(※2)とシモンズ(※3)、それとEmulator I(※4)でした。まだギリギリ「I」で、hammerが出来た頃はもう「Ⅱ」でした。
それでLinn Drumは、ライダーズのレコーディングでは殆ど使われなくて、『青空百景』の頃からで、その前の『マニア・マニエラ』(以降マニエラ/1982年)でも使った記憶はないですね。


●マニエラのインナースリーヴ・クレジットを見ると、TR-808(※5)が多用されていたので、Linn Drumは使われなかったんでしょうね。


◎森:実はもっとライダーズとの経緯を遡りますと、レオ(ミュージック)に居た頃、ライダーズの初代マネージャーが、レオによくツインリヴァーブ(ギター・アンプ)を借りに来ていたんです。それで親しくなって、ライダーズの野球チームのメンバーが足りないから助っ人で来てよと誘われてね。それがきっかけで当時ライダーズが根城にしていた、タムコ・スタジオに出入りするになったんですよ。エンジニアは記憶では、ほとんどの場合SUPERBの田中信一さんで、アカデミーも田中さんでした。


●田中信一さんは、細野晴臣さんの『トロピカル・ダンディー』(1975年)や『泰安洋行』(1976年)も手掛けた名エンジニアの方ですよね。


◎森:そうです、そうです、ノイズにうるさい巨匠の方ですけどね(笑)。
当時岡田徹さんが持っていなかった、Linn DrumやEmulator Iをタムコに持って行くんですが、使ったり使わなかったりで、しかも待ち時間が長いんですよ。その待っている間に僕はタムコのはす向かいにあった雀荘に連れていかれたりしていました(笑)。 ライダーズのレコーディングって、くじら(武川雅寛)さんはダビングまですることが無くて、社長と二代目マネージャーの3人がずっと暇していたんですよ。それで「森を呼んで麻雀やろう」って、いつも企んでいたらしいです(笑)。草野球チームの助っ人に麻雀要員って、仕事には関係ないけど、そうやって僕はライダーズに関わっていくんですよ。


●そうだったんですね(笑)。でもどの業界でも人間関係の構築は大事ですから、関係性を築いていけたのは森さんの人徳だと思います。 


◎森:丁度タムコでマニエラのレコーディングしていた81年に、岡田さんはMC-4(※6)を買って自分で打ち込んでいたんですけど、時間が掛るし事故(エラー)が多いしで嫌になったらしいんです。それで土岐(幸男)君を特訓して覚えさせたんです。
それ以後ライダーズのプログラミングとシンセのオペレーションは、土岐君がメインでやるようになったんですよ。 


●その後土岐さんは、hammer設立時に入社される訳ですね。


 岡田徹氏サイン入り
カセットブック月光下騎士団
1984年 / 管理人所有)


◎森:そうです。話を戻しますが、アカデミーは宮田(茂樹)さんがプロデューサーだったので、(鈴木)慶一さんは一歩引いたカタチになっていて、僕が知っているライダーズの制作現場とは雰囲気が違っていました。


 ●なるほど、後の慶一さんのインタビューによると、当時ライダーズ側の窓口は白井(良明)さんにして、宮田さんと打ち合わせをされていたとか。曲毎のアレンジも白井さん主導で、後に岡田さんもアレンジャーとして加わっていくスタイルだったという。


◎森:はい、そうです。それで僕が知っている宮田さん像というのがあって、(清水)信之君がアレンジをやっていた頃のEPO(エポ)さんのレコーディングで、Linn Drumを持って行った際、宮田さんに「森君、Linn Drumの打ち込み方を教えてくれない」と言われたんです。そんな経験もなく短時間で覚えられる訳がないと思いながら教えたんですよ。そしたら直ぐに覚えちゃって、「この人なんなんだろう?」って思ったんです。 
僕は宮田さんをディレクター・タイプの人だと思っていたから、こういう楽器や編曲にまで口出しして、ダイレクトに関わる人って見たことがないんですよ。だからその頃から宮田さんは、本来在るべきプロデューサーのポジションの人で、凄く頭脳明晰で仕切るタイプの人なのかなと。 

僕みたいな外様のプログラマーが、こんなことを言うのは憚られるんだけど、今までのライダーズの制作現場って、「こんな録り方をしているんだ!」とか「こんなアイディアがあるんだ!」といった何が飛び出すか分からない雰囲気があったんだけど、アカデミーの現場では、そんな偶発的なことが許されないというか、宮田さんの頭にある予定調和の中でレコーディングが進んでいくみたいな感じでした。 
ちょっとネガティブな感想かも知れないけど、アカデミーを語る上でこれは重要点なので続けますが、つまり慶一さんの立ち位置っていうのは、それまでのライダーズの現場でおこなってきた「ハブ」的役割だったので、それが無かったという、独特なアルバムだと思います。慶一さんが一歩も二歩も引いた感じたという。


●やはり違いますよね、前後のアルバムと比べてもアカデミーの全体的雰囲気は。


◎森:そうなんですよね。ただ仕切るという意味では、ほったらかすと、スタジオ代が鬼のように掛かっているバンドなんでね(笑)。その後の『ANIMAL INDEX』(以降インデックス/1985年)や『DON'T TRUST OVER THIRTY』(以降ドントラ/1986年)は凄いことになったんです、スタジオ使用時間がね(笑)。
アカデミーに関する記事で、キックの音決めに一週間掛ったというのを見たんだけど、それはインデックスの時の話じゃないかと思いますよ。だって音響ハウスですよ、スタジオ代がタムコとは違うから(笑)。 


●スタジオ使用時間はバジェットにもろに影響しますからね(笑)。そういった意味でアカデミーは、それまでのライダーズのアルバムでは見られなかった、コントロールされたアルバムだったんだと改めて認識しました。例えるならXTCの『Skylarking』(1986年)で、プロデューサーのトッド・ラングレンが仕切っていたような感じですね。 
因みに機材についてなんですが、先にお聞きしたPPG Waveの本格的な導入時期はいつ頃だったんですか? 


左からWaveterm、PPG Wave 2.3(上段)
(画像出典元:https://www.flickr.com/)


◎森:岡田さんは初期のPPG Wave 2.2を持っていて、使っていたのかも知れないけど、Waveterm(※1)を含めてPPG Wave 2.3を導入したのはドントラからなんです。
丁度イタリアの知人楽器ディーラーが、PPGの販売から撤退するということで、在庫全てをhammerで引き取ったんですよ、1986年だったかな。
それでドントラから土岐君が一気にPPGの世界に塗り替えたんです。


●そうするとアカデミーで主に聴けるサンプリング・サウンドは、Emulator Iだったんですね?


◎森:そうです、アカデミーの頃は僕がEmulator Iを持って行ってセッティングしていたんです。それとLinn Drumは、「Ⅱ」がライダーズ・オフィスにあったから、使っているのかと思って聴き直すと、結構生ドラムの音が多いから、かしぶち(哲郎)さんが叩いていたんでしょう。シンセ・サウンドもそれまでのアルバムよりは少ないから、そういうコンセプトだったんでしょうね。


●岡田さんが作曲に参加してアレンジした曲「Y.B.J.」や「G.o.a.P.」は、結構Prophet-5(※7)らしい音が聴けますね。それから「M.I.J.」のスネアやタムは明らかにシモンズですねよ。これはかしぶちさんが実機を叩いたのを録ったんですか? 


◎森:はい、確かに1曲目(「Y.B.J.」)の音はProphetですね。シモンズはモジュール音源だけで、生の音をトリガーにして音を出していました。


●細かいですけど、「Y.B.J.」で聴こえる車のクラッシュ音やヘリが旋回する音までは、さすがにEmulator な訳ないですよね?  YMOの『テクノデリック』(1981年)の際、当時アシスタント・エンジニアだった飯尾芳史さんがポータブルテレコで工場の音を録音し、LMD-649(カスタム・サンプラー)に移して使ったような感じで、近距離で録音するには危険過ぎて不可能ですし(笑)。


◎森:やった記憶はないけど、SEをダビングしたかも知れません。
サンプリング関係では、「BLDG(ジャックはビルを見つめて)」は特に印象に残っていますね。あれは20個くらい音をサンプリングしたんです。Emulator Iって録音可能時間が2秒で、サンプリング・ポイントは1回につき2個しか立ち上げられなくてね。かしぶちさんが紙袋をパンと叩いて破く音や、音響ハウスの机の引き出しをガタガタと開け閉めする音、マネージャーが何かを叩く音とかね(笑)。
全部入っていると思うけど、慶一さんが指定した20個くらいの音をサンプリングして構築しているんですよ。だから今でもこの曲を聴くと、その時の光景が浮かんで強烈に覚えています。


●そうなんですね!想像はしていましたが、当時そこまで細かくサンプリングして、あのサウンドを構築していたとは!タイプライターを打つ音もありました。次の曲「B.B.L.B.」でもモチーフが近いサンプリング・サウンドが聴けましたね。
森さんの話をお聞きしていると、嘗て10㏄が「I'm Not in Love」(1974年)で、あのコーラス・パートでおこなったような、試行錯誤しながらも、綿密で神懸ったレコーディングの光景が目に浮かびます。


◎森:とにかくライダーズの中でも特に慶一さんって、ファクトリー(サンプラー付属音源)の音なんか使わないんですよ。それでアカデミー以降の話ですけど、ライダーズでサンプリングした音は、向こう1年間は他のレコーディングで使わないって、慶一さんから禁止令が出ていたんです(笑)。
でもその話にはオチがあって、ライダーズでサンプリングした音って、他では絶対に需要が無いから使えないんですよ(笑)。 


●やはり音作りの拘りが人一倍強い方らしいエピソードだと思います。しかも1年間門外不出の禁止令まであったとは(笑)。



鈴木慶一氏サイン入り『マニア・マニエラ』
アナログ・リイシュー盤(2022年 / 管理人所有)

 
◎森:その拘りが、インデックスとドントラでどんどん過剰になっていくんですよ。その後ブランクが4年ほどあったじゃないですか、それは多分嫌になったんでしょう(笑)。
だから一回冷却期間を作らないと精神的に参っちゃうと思うんですよ。
この機会にアカデミーを聴き直していますけど、このアルバムってシンセはワンポイント的にしか使われていませんね。


●当時イギリスでネオアコースティック系が出てきて、ギター主体のサウンドが隆盛な時期でもあって、同時期の音楽誌に(鈴木)博文さんが寄稿されていた文章を読むと、結構お好きで熱心に聴いていたと思うんですよ。だから手掛けた曲(「B TO F」や「D/P」)にもその影響が出ているんでしょう。


◎森:フー(博文)ちゃんも好きだったと思うけど、やはりこのアルバムは良明さんが主導した一面があったので、どうしてもギター・パートが増えていますね。
基本的に僕が知るアカデミーのイメージは、プロデューサー:宮田茂樹、アレンジャー:白井良明って感じです。 ただ途中から良明さんは、松尾(清憲)さんのファースト(『SIDE EFFECTS-恋の副作用-』)に付きっ切りになってしまったので、岡田さん主導のアレンジも増えていったんだと思います。僕は松尾さんのレコーディングにも、プリプロの頃からEmulator Iを持って参加していましたから。


●アカデミーでの主導アレンジャーの変遷には、そういう事情があったんですね。
  最後にエンジニアでもある立場から、今回のリマスタリングの音はどう感じましたか?


◎森:今回のリイシュー音源を聴いてみて、佐藤(清喜)ちゃんは本当に良いリマスタリングしたなと思っていますよ。
というのはね、何を素材にリマスタリングしたんだろうと思ったんです。つまりマスター・テープ(※8)は残っていない筈なんですよ。


●そうですね。40年という長い年月からマルチ・テープどころか、2chマスターすら残っている可能性は低いですからね。


◎森:この頃はひょっとすると、アナログで録っている可能性(※9)があるんです。それで僕が言わんとしていることは、これって田中信一の音なんですよ!凄くきれいな音がしている。
で、あの人のミックスした音を今風のリマスタリングにしたら、多分highが上がってあまり良くない音になっていたと思うんです。ちょっと音を潰して音圧を稼ごうとかしてね。それが一切感じなくてね、本当にびっくりしましたよ。
こんなにオリジナルのエンジニアが、誰って分かるリマスタリングは珍しいなと思って(笑)。


●おっしゃる通りです。佐藤さんの巧みなリマスタリング技術によって、巨匠の田中信一さんがミックスした、ライダーズの名作サウンドが蘇ったことに、多くのファンは感激していると思います。
今回は貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。




【森達彦氏プロフィール】
長崎県出身のシンセサイザー・プログラマー、エンジニア、サウンド・プロデューサー。
1978年にレオミュージック入社。入社後にシンセサイザーのプログラミングを習得する。
1984年ムーンライダーズと共同出資で、プログラマーのマネージメントを業種としたhammer(ハンマー)を設立。
1987年には社名をHAMに変更するが、1991年に自身が立ち上げたインディペンデント・レーベルをHammer labelとしてその名を復活させている。
シンセサイザー・プログラミングの仕事の傍ら、プライベート・スタジオで後に渋谷系と呼ばれるクルーエル・レコードやエスカレーター・レコードのエンジニアリングをサポートし、現在は郷里の長崎に戻り音楽制作を継続している。 
プロデューサーとして手掛けた近年のアルバムは、サイケデリック・ギター・ロックバンドshinowaの『Flowerdelic』(2018年 / 弊サイト・レビュー記事)がある。


【注釈】
※1:PPG Wave~独Palm Products GmbH社製デジタル・シンセ / 製造時期:2.2>1982~84年、2.3>1984~87年。専用サンプリングマシンWAVETERMは2.3から接続可能だった。

※2:Linn Drum~米Linn Electronics社製ドラムマシン。製造時期:1982年~85年

※3:シモンズ~英SIMMONS社製シンセ・ドラム。六角形パッドが特徴だった。

※4:E-MU Emulator~米E-mu systems社製サンプリング・キーボード。Ⅰが1881年、Ⅱが1984年にリリースされ、散開前の後期YMOやDepeche Modeなどが多用した。

※5:TR-808~ローランド社製ドラムマシン。説明不要の名器。

※6:MC-4~ローランド社製シーケンサーで正式名はMC-4 MicroComposer。80年代に普及したシーケンサー。

※7:Prophet-5~米Sequential Circuits社製ポリフォニック・アナログシンセサイザー。Rev.1(1978年)からRev.3(1984)までリリースされ、欧米や日本を中心にプロミュージシャンの間でベストセラーとなった。

※8:マスター・テープ~今回のリマスタリングのマスター音源は、2004年の『アマチュア・アカデミー 20周年記念盤』と同じ、フジパシフィックミュージックに保管されていた、U-MATICテープをマスター・テープとして使用している。

※9:アナログ録音~『アマチュア・アカデミー』のレコーディング時は、3M社のデジタル・マルチトラック・レコーダーを使用していた。
つまりデジタル・レコーディングだった。

(※8, 9情報提供:平澤直孝氏)




(11月某日通話アプリにて / 企画・編集・設問作成・テキスト:ウチタカヒデ




0 件のコメント:

コメントを投稿