2024年10月20日日曜日

音楽と脳 ③ 最終話 「うた」が先か、「ことば」が先か



今年4月6日、有明の東京ガーデンシアターで開催されたジェイムス・テイラーのコンサートでのこと。コンサートが終わり、「あぁ、よかったなぁ。幸せな時間だったー」と思いながら係員の誘導にしたがって、会場の外に出るべく歩いているとき、まわりにいる大勢の人たちを眺めていて、不思議な気持ちになった。

「あぁ、この人たちと、同じ時代に、同じ音楽を聴いてきたんだ…」

あの日、同じ空間で、同じミュージシャンの歌を聴いたというだけの、まったく知らない人たちなのに、みんな仲間のような気がして、ほんのり安心するような、そんな気持ちになった。親近感。一体感。この感情の正体は、いったいなんだろう。

 

……なんていうことを、ふと思い出し、もしかしたら、トミーとポール(「音楽と脳」①で紹介したアルツハイマー型認知症患者のふたり)も同じだったんじゃないかな、と考えてみた。 認知症の症状が悪化していくなか、なにかの機会でふたりは出会い、ビートルズの歌を聴き、一緒に歌ったりする経験を重ねるうちに、認知症の症状が改善していく。その背景には、①と②で書いた脳の記憶の領域や仕組みという構造的なことに加え、一体感といった感情、人間としての本質的な、なにか本能的なものが働いていたのではないか。

 

そんなことも考えながら、さらにリサーチをすすめていくことにした。

現生人類ホモ・サピエンスは、人類の歴史のなかで、そして霊長類のなかでも、唯一、「言葉」をもつこと。

脳のなかで「言葉」と「音楽」を認知する領域はとてもよく似ていることが意味するものは?

「音楽」と言ってしまうと、現在の、楽器をつかった演奏や楽曲を思い浮かべてしまうけれど、太古の昔は、声? リズム? 「うた」のようなものから始まったんじゃないか……などなど。



「みんなで歌うこと」が生活の中心にある民族の存在

 

と、ここで、今年5月に放送されたNHKのドキュメンタリー番組「フロンティア」~「ヒトはなぜ歌うのか」の内容に戻ってみる。番組では、上記アルツハイマー型認知症患者のトミーとポールの症例のほかに、「音楽が言語よりも大事な意味を持つ」という文化をもつ「バカ族」が取り上げられている。

一説によると、「バ」は「人」、「カ」は「葉っぱ」で、バカ族とは「森の民」という意味だとか。アフリカ中部のカメルーンや中央アフリカ、コンゴ共和国などの熱帯雨林に暮らす狩猟採集民族で、暮らしのなかで頻繁に歌をうたう「音楽の民」としても知られる。

また、バカ族は、1020万年前のDNA(または遺伝的特徴)を色濃く残しているとされ、言語や暮らしなど人類に関するさまざまな分野の研究者から注目されている民族でもある。

番組では、京都大学の特任研究員、矢野原佑史さん(音楽人類学)が、バカ族の暮らしぶりを取材し、歌を録音するなどして情報を集め、その歌を、沖縄県立芸術大学の講師、古謝麻耶子さん(民族音楽学)が分析して、「音楽が言語よりも大事」という文化の意味を探っている。

 

 

バカ族の「うた」は共同体の生き方そのもの

 

バカ族で主に歌うのは女性たちだ。なにかのタイミングで、年長の女性が手拍子を始め、まずはひとりで歌いだす。すると、ほかの女性たちが次々と歌に加わっていく。

「みんなで歌うこと」を「ベ()」といい、祖先から歌い継がれてきたもので、ひとりきりで歌うことはないそうだ。みんなで歌う。でも、現代の音楽、たとえばポップスのように主旋律をユニゾンで歌うわけでも、コーラス的にハモるわけでもない。みんな、別々の旋律を歌っている印象。それなのに、絶妙に重なり合って、踊り出したくなるようなグルーブ感も生まれてくる。

 

一日のなかで、何度も、歌の時間があり、みんなが声をあわせて歌う。でもふいに歌は終わる。

「彼らの音楽はいつも最高潮に達するちょっと手前で止めて、また日常の時間が流れていく(「鍋、かけっぱなしだった」とか、「バナナでも取りにいこう」とか)。そしてまた誰かが手を叩きはじめると、また音楽の時間がはじまる。その繰り返しで、ちょっとずつ音楽的時間が増えていって、徐々に熟成して、コミュニティの音楽をみんなでつくっていく感じ」(矢野原さん)

 

男たちが狩りに行くときには、村に残る女性たちが「イエリ」という歌を歌う。生きていくために必要な獲物が手に入るように、森の神や動物の心に訴えかけるという意味があるそうだ。また、夜になると、長老的立場の人が中心となって、「リカノ」という歌を歌う。これは、民話、昔話のようなもので、「相手のことを疑うな」「お互いを思うときは歌を歌え」など、森の民としての生き方を歌で教わるのだという。そのほか、暮らしのなかのさまざまな場面で歌う歌があり、生まれてきた子どもは、赤ちゃんの頃からその歌を聴く。そのうち、一緒に歌うようになる。

 

「ヒトはなぜ歌うのか」の公式サイトに、バカ族の女性たちが歌う様子の短い動画が出ている。それを見ると、各人が、自由に、自分が歌いたい旋律を歌っているかのようで、全体にバランスがとれていることがわかる。それは、幼いころから積み上げてきた「歌う」ことの経験によるものだろう。

分析をした古謝さんによると、「この人が、ほかのメロディにいった。このメロディがなくなったから、自分はそれを歌おう、みたいなことが、聴いているとわかるんですね。この人が、このメロディをやめてほかのメロディにいった瞬間、別の人がそこを埋めるように入ってきたりする」とのこと。

どんどん流れていく「歌」のなかで、それができるのは、一緒に歌う仲間の存在を意識して、その歌声や旋律、リズムをよく聴いているからだ。よく聴いて、寄り添ったり、サポートしたり、代わりを務めたりしている。それはまるで、支え合い暮らしていく共同体の生き方そのもののように思える。

熱帯雨林という過酷な環境のなか、家族の命を守り、食料を得、楽しく生き、命をつないでいくためには、「集団のきずな」が必要不可欠だ。そのためには、一緒に声を合わせること、歌を歌うことでの一体感。助け合える、みんなで生きていくのだという意識を高めるのに、歌が最適だったということか。

 

……というかたくるしい説明もありつつ、でも何より、歌っているバカ族の人びとが楽しそうなのが、いい。楽しそうで、一体感がある感じ。これが一番大切なのかもと感じる。

また、女性たちの手拍子は2拍子、男性がたたく打楽器は3拍子で、ポリリズムと呼ばれる独特なリズム感が生まれていて、思わず、リズムととったり、踊り出したくなるグルーブ感。脳科学的には、次に書くように、「報酬系が喜んでいる」になってしまうのだけど^^;

 

 

ヒトが音楽を手にしたのは進化上の「適応」 


「ヒトななぜ歌うのか」の番組のなかで、ノースイースタン大学で音楽と脳の関係を研究するサイキ・ルイ博士がこんなことを言っている。

「他人と一緒に歌ったり、体を動かすことは同じ体験の共有。〝助け合える〟サインだといっていい。社会的動物であるヒトにとって、報酬を感じる行動です。(脳の)報酬系は食欲など生存上不可欠なもので活性化します。報酬系が音楽と関わっているのなら、音楽がヒトの生存に不可欠だということになります」

「ヒトにとって社会的につながることはとても重要。協力すれば多くの仕事ができる、食料も分け合える。ヒトが音楽を手にしたのは進化上の『適応』だったと思います」

 

つまり、本能的、ヒトの本質的な部分に「音楽」があるということだ。

進化上の適応。

というか、言い方を変えると、音楽や言語、そして道具などを生み出す脳の構造を持っていた、そういう進化上の適応があったからこそ、約30万年前に出現したホモ・サピエンス、私たち人間は2024年の現在も生き続けていられる、ということだと思う。(*なぜ突然、「道具」が出てきたかについては、あとで少し触れますね)

 

 

「うたのようなもの」が、「言葉」と「音楽」に分かれて進化した

 

音楽や言葉については、その起源を探るのがとても難しいそうだ。道具や壁画などと違って、化石や遺跡として残っていないからだ。

しかし、古代ギリシャの時代から、学者たちは、天文学や医学と同じように、音楽についても論じてきた。また、18世紀から19世紀にかけては、ルソーやダーウィンが、言語の「音楽起源論」を発表するなど、言語の発生についての議論が繰り返しあった。しかし、言語神授論(言語は神が授けてくれたもの)を批判する研究者がいて問題になるなど、当て推量でものを言うな!的な風潮が高まり、ついにはパリ言語学会が「言語の起源と進化に関する論文を受けつけない」と決定して研究は滞り、再び研究や議論がなされるようになったのは、20世紀半ば頃だという。

その後、遅れを取り戻すかのように研究が盛んに行われ、いまでも議論は続いている。どの理論もいまだ「仮説」の域を出ないそうだが、今回参考にした資料をみると、現在は「音楽起源説」が主流らしい。

なかでも、私にでもわかりやすくて、納得感のある考察をしていたのが、岡ノ谷一夫(帝京大学先端総合研究機構教授/理化学研究所研究員など)の研究だった。岡ノ谷先生の書籍や論文を引用して、解説している参考資料やサイトがいくつもあった。これらをまとめて、きちんと説明しようとすると、本1冊分にもなりそうなので、あまり専門的になりすぎないよう、その一部を簡単にまとめてみようと思う。

 

◎まず考え方として、生物学的探求のアプローチとして「前適応説」というものがある。たとえば、鳥の羽毛は保温のためにできたものだが、やがて飛ぶ機能に発展した。これと同じように、言語とは直接関係のない、ほかの機能のために進化してきた機能がいくつか組み合わさって適応し、「言語」を獲得した、と考える方法。

 

◎音楽起源説の「前適応」

人間の赤ちゃんはとても大きな声で泣く。こんな目立つ行為は他の動物では考えられないこと。どうしてそうなったのか……。

人間の祖先が火や石器、道具を使うことを覚え、集団生活を営むようになると、野生生物などに襲われる危険性が減った→赤ちゃんが大きな声で泣いても生命が脅かされることが減った→大きな声で泣いて意思表示をし、親に世話をやいてもらうほうが生存には有利→大声で、いろいろな泣き声を出すためには、呼吸を自由にコントロールする機能が必要→この「呼吸を自由にコントロールできる機能」は、どんな動物にもあるわけではなく、これを得たことで、ヒトに発声学習の機能が備わった→これが、ホモ・サピエンスが言葉を得るための大事な「前適応」になった、とする考えがある。

 

◎「言葉」は「うたのようなもの」から始まった

親と子、家族、仲間たちとのコミュニケーション。はじめは、「あ」「う」「わ」など意味のない「音」を組み合わせて、そこに抑揚(メロディ的な…)や、声の強弱などがついた「うたのようなもの」で始まったと考えられる。そのほうが相手の意識を引きつけるのに便利だったのだろう。それが、何世代、何十世代と繰り返されていくうちに次第に、「狩りに行こう」「そこに危険な動物がいる。逃げよう」などの状況に合わせた「決まった歌詞(文章)のようなもの」ができていき、同時に文節もでき、状況に合わせた「音」の組み合わせができて、「狩り」「逃げる」といった「単語・言葉」ができていったのではないか。

 

◎そうした「うたのようなもの」は、その後、「言葉」と「うた・音楽」に分化して、それぞれ、脳の機能と共に進化していった。だから、世界のどこに行っても、「言葉」と「うた・音楽」がある。

 

◎脳の機能が共進化することで、食料を得ること、配偶者の競争(いい声で情熱的な「うた」を歌える男性のほうがモテた!とか……^^)、親子・家族関係、集団行動なども進化していき、それが、新たな道具の発明や、住む地域の移動……という具合に人類の生活も大きく変わっていったのではないか。

 

◎人間特有の能力としては、「ことば」「うた(音楽)」、そしてもう1つ、「道具」がある。これらに関わる脳の領域や機能は、それぞれ独立して動く領域もあるが、同時に、多くの領域で機能的な重なりがあり、相互作用を行えることを意味する。

また、この3つの能力の進化をみると、短時間に急速に多様化、複雑化しているという。たとえば道具は300万年くらい前に登場したが、5万年前くらいまではほとんど変革はなかった。しかし、私たち人間の祖先が「ことば」を得るとたちまち急速な進化が始まったとされる。

言葉も音楽も、道具もどんどん進化し、新しいものができていく。それらは現在進行形でもある。

 

◎ちなみに、現在までに発見されている最古の楽器は骨製のフルート。ドイツ南部の遺跡で見つかったもので、4万年前のものと判定されている。このことを掲載したナショナルジオグラフィックの記事では、同じヨーロッパに分布していたネアンデルタール人が絶滅した理由のひとつには「音楽」があるかもしれない、と書かれている……のだが、今回、参考にした資料を読む限り、ネアンデルタール人もうたを歌っていたようだ。言葉は獲得していなかったようなので、そのあたりも含む複合的な要因があったのかもしれない。


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簡単に書こうと思ったのに、だいぶ長くなってしまった……。

 

でも考えてみると、バカ族とはまったく違う形だけれど、現代を生きる私たちの生活には、さまざまなジャンルの音楽のほかにも、「歌」「音楽」があふれている。

幼い頃には手遊び歌でよく遊んだ。童謡もよく歌った。

校歌。自分が生徒だったころは、何かというと歌わされて、少々面倒だったけれど、卒業して何十年もたつと、それは懐かしい。

仕事歌(作業歌とも)は、民謡の一種で、田植えや漁、酒造りなど大人数で作業をするようなときに歌われてきた。こういうのは、作業のテンポなどもありつつ、一緒に作業をする仲間同士の一体感を生むのにも役立っていると思う。

なぜかテレビやラジオの番組にはニュースでもドラマでもアニメでもスポーツ番組でも、必ず音楽がついている。オープニング曲、エンディング曲。映画もそうか。CMも。

物売り(いまではだいぶ減ってしまったが……)の声もメロディがついているものが多い。そろそろ走り始めるかな、焼きいも屋さん。何年か前までは、都内でも「さおだけ屋さん」の車も走っていたよね。「たけや~、さおだけ~」。灯油屋さんは人の声ではなくて、オルゴールのような音で、「雪」や「たき火」のような冬にちなんだ音楽を流すことが多い。

鉄道でも、いつの頃からか、ジリジリジリと急かすような発車ベルから、メロディに変わっていった。急に増えたのは1980年代のようだ。いまでは、ご当地発車メロディなんていうものもあって、遠出したり旅行先でそれを聴くと、とても楽しい。

 

きりがないので、このへんでやめておこう^^;

 

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ヒトはなぜ歌うのだろう。

音楽はどうしてこんなに人の心に響き、そして、そばにいてくれるんだろう。

どうして音楽は必要なんだろう。

そんなことを知りたくて書き始めた「音楽と脳」。言葉よりも先に音楽(うた)があったらしいこと、趣味や文化である以前に、人間の本質的、本能的なものだとわかって、それはとてもよかったな。1回の原稿量が多くなってしまったけれど、楽しく読んでいただけただろうか。もしそうだったら、うれしいです。

3カ月にわたって読んでいただき、ありがとうございました。


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●参考文献

『言葉はなぜ生まれたのか』岡ノ谷一夫著 文藝春秋 2010

『音楽する脳 天才たちの創造性と超絶技巧の科学』大黒達也著 朝日新聞出版 2022

『音楽と人のサイエンス 音が心を動かす理由』デール・パーヴス著 小野健太郎監訳 徳永美恵訳 ニュートンプレス 2022

『新版 音楽好きな脳 人はなぜ音楽に夢中になるのか』ダニエル・J・レヴィティン著 柏野牧夫解説 西田美緒子訳 ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス 2021

NHK フロンティア「ヒトはなぜ歌うのか」 2024年5月2日放送

「総合人間学」第8号 2014年9月 うたとことばからヒトの進化を考える  下地秀樹

「音楽知覚認知研究」Vol.22, No.1, 11-31,(2016) 音楽と言語の比較研究  星野悦子、宮澤史穂

「JT生命誌研究館」公式サイトから「進化研究を覗く  音楽と言語」西川伸一  2017



大泉洋子

フリーのライター・編集者。OLを経て1991年からフリーランス。下北沢や世田谷区のタウン誌、雑誌『アニメージュ』のライター、『特命リサーチ200X』『知ってるつもり?!』などテレビ番組のリサーチャーとして活動後、いったん休業し、2014年からライター・編集。ライター業では『よくわかる多肉植物』『美しすぎるネコ科図鑑』『樹木図鑑』など図鑑系を中心に執筆。主な編集書に『「昭和」のかたりべ 日本再建に励んだ「ものづくり」産業史』『今日、不可能でも 明日可能になる。』など。編著書に『音楽ライター下村誠アンソロジー永遠の無垢』がある。

2024年10月12日土曜日

音楽生成AIを試す:UDIOの力を体感してみた

   
 ドラマ『Shogun』がエミー賞を史上最多18部門受賞の栄誉に輝いた。原作小説では、17世紀の日本を舞台に異文化の出会いや権力闘争を描いた作品であったが、リメイク版では、日本人キャラクターの視点を強調し、徹底した時代考証によって日本文化を忠実に再現。特に衣装、建築、言語の表現が高く評価された。外国人視点からだけでなく、現地の人々の視点からも描かれたことで、文化的な複雑さと奥行きが生まれ、物語の深みが増したことが受賞の要因となったという。

 確かに今回のドラマ『Shogun』のリメイクは、前作と異なり、外国人視点に加え、日本人キャラクターである虎永や鞠子の視点からも当時の日本社会や文化が描かれている点は特徴的だ。前作では、英国人航海士の視点を通じて日本が「不思議で野蛮な国」として表現されていたが、今回は日本人視点を取り入れることで、より多層的でバランスの取れた描写が実現されている。関ヶ原の戦いは国内政治情勢のみでなく、海外の宗教勢力や貿易・経済問題をも包摂した副次元の政治空間であったのだ。
 前作では、日本の封建制度や武士道の厳格さが強調され、外国人視点での「異様さ」や「野蛮さ」が際立っていたが、今回のリメイクでは徹底した時代考証が行われ、日本文化や歴史に対する深い理解が反映された内容が高評価を得ている。特に、日本側の視点で社会や価値観が丁寧に描かれており、異文化間の相互理解や交流がテーマとして浮かび上がっている。衣装や建築、言語の使い方など、時代考証に基づいた細部の再現も非常に精密で、原作ドラマを換骨奪胎した結果、視聴者は日本の歴史に深く没入できる内容となっている。
1975年に原作小説『Shogun』は刊行された。日本人から見れば異国趣味や東洋文化の西洋に対する劣後を強調する内容となっている。奇しくも1970年代後半に米国の批評家Edward Wadie Saidによる『Orientalism』が刊行された。同書では西洋が東洋をどのように認識し、表象し、支配してきたかを批判的に分析している。Saidは、東洋が西洋の視点から異質でエキゾチックなものとして描かれ、それが帝国主義や植民地主義の正当化に使われたと指摘する。彼の理論は、東西の文化的な力関係やステレオタイプの問題に焦点を当てている。
そしてSaidとほぼ同時期、YMOは1970年代後半から1980年代にかけて、彼らのサウンドは世界に広まり活動を国外で展開した。YMOは、電子音楽やテクノロジーを駆使して、日本文化を積極的に取り入れながらも、世界市場を意識したサウンドを作り出した。彼らの音楽には、しばしば日本やアジアをテーマにしたエキゾチックな要素が見られるが、これらは自己表現でありながらも、西洋の視点を意識した戦略的な演出として機能している。
 両者の同時代性としては、Saidが指摘するような「東洋の表象」という問題がYMOの音楽にも反映されている点が挙げられる。YMOは日本という「東洋」の文化的アイデンティティを持ちながらも、それを西洋に「エキゾチック」として消費させることに成功した。この意味で、YMOの世界戦略はSaidの批判した「オリエンタリズム」の構造を逆手に取りつつ、それを再解釈し、世界に向けた音楽的・文化的な表現として展開したと考えられ、真田版『Shogun』の先達といえよう。
 一説によれば、原作小説『Shogun』が米国でベストセラーとなり、空港の書店で山積みになっていたその光景を目にした日本人スタッフの記憶が、バンド「SHŌGUN」の命名に影響を与えたという。このエピソードには、当時の米国における「日本趣味」とも言える現象が色濃く反映されている。小説『Shogun』は、米国人の日本に対する神秘的な憧れを強く刺激した。


1979年、SHŌGUNは米国の人気音楽番組『American Bandstand』に出演し、注目を集める。同じ回には、米国を代表するバンドであるThe Beach Boysも登場。「Lady Linda」を披露し、さらには異国趣味全開の「Sumahama」も演奏した。「Sumahama」は日本の風景や文化への憧れをテーマにした楽曲で、歌詞には日本を幻想的に描く表現が多く盛り込まれている。しかし、その背景には、日本を異国情緒豊かな背景として消費する米国的な視点も垣間見える。
こうして「日本」をステージに引き込んだ二組のパフォーマンスは、文化の相互理解を深める場であったと同時に、日本をエキゾチックに見せる一種の舞台装置としての役割も果たしていたのかもしれない。 
   
 近年、生成AIは大きな変革をもたらし、特に、ディープラーニングやニューラルネットワークを用いたモデルの進化により、AIは音楽の分野においても単純なメロディ生成を超え、複雑な音楽作品を作り出す能力を獲得している。初期段階で、AIは大量の音楽データセットを学習し、特定のスタイルやジャンルに合わせた曲を自動生成できるレベルに達している。
 筆者の知るところでは、音楽やオーディオ分野で注目されているAI技術を提供するスタートアップやプラットフォームにUdioとSunoがあり、生成AIによる音楽や音声生成に特化しているプロジェクトである。そのうちの1つであるUdioを利用してみることにした。


 利用方法は凡百あるweb上の説明を参考にしていただきたい、アカウント開設後はすぐ無料で始められるようになっている。先行しているChatGPTなどのAIプラットフォーム同様にプロンプトを入力すると勝手に楽曲を生成してくれるのだ。ただし、既存の著作権との関係で”The Beatles風に”のようなアーティスト/グループ名をプロンプトに入力してもAI側で弾かれてしまう。したがってプロンプトの内容が好みのサウンドに直結するかどうかの方向を左右する。AIは自然言語処理に基づくモデルであり、プロンプトが曖昧または不明瞭な場合、期待通りの出力を生成するのが難しくなる。たとえば、「美しいメロディを」といった指示では、「美しさ」の基準が人によって異なるため、生成される内容が期待とずれる可能性が高い。プロンプトが具体的であればあるほど、AIは適切な応答を生成しやすくなる。
 次に、AIの学習データに依存する側面も大きい。AIは大量のデータを学習しその中からパターンや関連性を見つけ出すが、学習データに含まれない情報やトピックに対しては、生成能力が限られる。たとえば、最新のサウンドやニッチなジャンルの音楽についての情報が学習されていない場合、AIは適切な応答を生成できない。
 と、ウジウジと悩んでいても、何も始まらない。思い切って行動を起こすしかない。目指すのは、あのThe Beach Boysの爽やかなサウンドだ。しかし、なかなか理想通りのサウンドが生成されない。プロンプトを詳細に設定すればするほど、文章は長くなり、もはや何を求めているのか分からなくなってしまう。貴重なサーバー電力を消費していることを思うと、申し訳なさが心に重くのしかかる。
 「苦心孤軍」の状態で、もう一度プロンプトを見直すことにした。長文ではなく、シンプルに短くまとめることが鍵かもしれない。「Summer Surf Fun」というフレーズで勝負をかけてみた。直感に従って、トライすることにした。
 その結果、数十曲を生成するうちに、徐々に目指していたサウンドが姿を現し始めた。最初は迷走していた音が、次第に青空の下で波打つサーフィンのような、心地よいリズムに変わっていく。ビーチの風を感じるようなトーン、若さと野心が溢れ出すメロディーが、次々に響いてくるのだ。音楽が生まれてくる瞬間、その高揚感はまさに言葉では表現しきれない。目の前のスクリーンに広がるメロディーは、波の音とともに、彼らのサウンドが心に染み込んでくる。自分の手の中で、夏の楽しい日々が再現されていく感覚は、何物にも代えがたい喜びだ。
 短いプロンプトが、豊かな音楽の世界を開く鍵になった。この経験は、試行錯誤の大切さを教えてくれた。結局のところ、行動し続けることが、理想のサウンドへと近づく道なのだと実感した。
 生成AIが生み出す音楽は、単にメロディを奏でるだけではない。驚くべき精度で、コーラスやバックの演奏までもが緻密に再現される。さらに作詞までやってくれるのだ。その音は、時にはバンドが演奏しているかのようなリアルな響きを持ち、聴く者をその場に引き込む。耳を傾けると、思わず「これが本当にAIなのか?」と疑いたくなる瞬間が訪れる。
 一度生成が身に付くと、次にどんな音楽が流れてくるのか、どんなサウンドの波がやってくるのか、期待と興奮が止まらない。生成AIは、既存の音源をランダムに配信しているのではなく、音楽の本質を捉え、そこから新たな音楽の世界を生み出している。自分の想像を超える新しい音楽体験に、生成AIが描く未来の音楽、その可能性を体感すれば、新しい音楽の楽しみ方が見つかるに違いない。
 長々とした説明はさておき、いよいよ生成されたサウンドを披露する時が来た。目指したのは、The Beach Boysのサウンド。果たしてその再現度がどれほどのものか、聴く皆の判断に委ねたい。筆者が特に魅了されるのは、Candix時代からCapitol初期にかけての音楽、実父Murryが辣腕をふるっていた頃。まさにその時代の魅力を凝縮した内容が盛り込まれている。
このAIの作品には、所々にBrianやMikeの特徴が巧みに再現されていて、思わずニヤリとさせられる。時にはKIngston Trio風だったり、Jan and Dean風やSunrays風になるのはご愛嬌。
 まるで彼らが才気のあふれる20代の勢いが現代に蘇ったかのような感覚だ。音の重なり、ハーモニーの美しさ、そして何よりもその独特なメロディラインは、聴く人を惹きつける要素に満ちている。しかしながらいずれもNik Venetには却下されそうな佳曲集ではあるが、聴き進めていくうちに、いつの間にか心が高揚し、彼らがデビューを前にして興奮する情景が蘇ることだろう。
 しかし、今回はあえて弊誌の独断場であるSoft Rockの要素は皆無であり、あの名盤『Pet Sounds』の雰囲気も意図的に除外している。まさに、The Beach Boysの原点とも言えるシンプルかつダイナミックなサウンドに焦点を当てた結果、真に彼ららしい音楽が形になったと言える。
 そして、この生成サウンドの集大成を「Usurped Masters」という形で動画にまとめた。そこには、テクノロジーの進化とAIが導き出した「古い」サウンドが詰まっている。果たしてどのような音が生まれたのか、その全貌をぜひ体験していただきたい。


(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

2024年10月1日火曜日

MY DARLING CLEMENTINE WITH STEVE NIEVE:『カントリー・ダークネス -エルヴィス・コステロを歌う-』

 イギリスのカントリーデュオ、MY DARLING CLEMENTINE(マイ・ダーリン・クレメンタイン/以下表記MDC)が、10月末からの初来日公演ツアーを記念して、本国で発表していた『COUNTRY DARKNESS』(Fretsore Records/FR0022)にボーナストラックを追加収録して新装盤『カントリー・ダークネス -エルヴィス・コステロを歌う-』(Ca Va? Records / Hayabusa Landings / HYCA-8080)として9月25日にリリースした。

 MDCは2010年イギリスのバーミンガムで結成された、Michael Weston King(マイケル・ウェストン・キング)とLou Dolgleish(ルー・ダルグリーシュ)の夫妻によるデュオで、タイトルをご覧の通り、本作はイギリスが生んだ偉大なシンガー・ソングライターの一人、Elvis Costello(エルヴィス・コステロ)の楽曲を独自のカントリー・サウンドでアレンジしたカバー集なのだ。そもそもは2019年10月に4曲入り12インチ・アナログEPシリーズとして発表された『Country Darkness Vol.1』(FR0010)、同Vol.2(2020年6月/ FR0016)、Vol.3(2020年10月/FR0021)の計3枚の12曲に1曲プラスしてCDアルバム化したのが、前出の『COUNTRY DARKNESS』である。
 この諸作にはコステロの活動初期からの盟友で、ザ・アトラクションズのメンバーとして知られるSteve Nieve(スティーヴ・ナイーヴ)がキーボーディストとして参加し、アルバム化の際は共同プロデューサーとして彼らをバックアップしており大注目であろう。
 他の参加ミュージシャンとして、この『COUNTRY DARKNESS』シリーズの共同プロデューサーのColin Elliot(コリン・エリオット)はベースの他、ストリングスやホーンのアレンジを担当しており、ネオジャイヴ・バンド”King Pleasure And The Biscuit Boys”のメンバーでドラマーのDean Beresford、ギターをはじめ各種弦楽器をセッション・ギタリストのShez Sheridanがプレイしている。
 繰り返しになるが、今回の日本新装盤ではボーナストラック3曲を追加した全16曲を収録しているので、オリジナルを輸入盤で所有して聴いていたファンにも強くアピールするだろう。


 MDCのプロフィールについては、本作のブックレット(岡村詩野氏執筆)に詳しいので、弊サイトでは簡単に紹介する。彼らはこれまでに6枚のアルバム(10インチEP含む)を発表した後、2020年に『COUNTRY DARKNESS』をリリースしており、マイケル・ウェストン・キングとルー・ダルグリーシュは、MDC結成前からイギリスにおいて音楽的キャリアがあった。まず1961年ダービーシャー生まれのマイケルは、18歳から移り住んだリバプールのポストパンク・シーンで様々なマイナー・バンドにギタリストとして参加した後、1992年にオルタナティブ・カントリー・バンド“The Good Sons”を結成する。2001年までに4枚のオリジナル・アルバムをリリースしたが解散してしまう。ソロのシンガー・ソングライターとなったマイケルは、ヨーロッパやアメリカの大都市でのライヴ演奏をしたものを含め、9枚のオリジナル・アルバムと2枚のコンピレーション・アルバムをリリースしている。妻のルー・ダルグリーシュもシンガー・ソングライターとして1995年から99年までに4枚のソロアルバムを発表しており、確かなキャリアを歩んでいた。

 
Either Side of the Same Town (feat. Steve Nieve) 

 ここからは、本作で筆者が気になった収録曲を解説していく。
 冒頭の「Either Side of the Same Town」は、Elvis Costello & The Imposters名義の『The Delivery Man』(2004年)に収録されていたスケールの大きいバラードで、作曲はローリング・ストーンズのカバーで知られる「Time Is on My Side」(1963年/初演:Kai Winding)の作者として知られるジェリー・ラゴヴォイだ。オリジナルでもアコースティック・ピアノとハモンド・オルガンを弾いていたスティーヴのゴスペル・ライクなプレイが光る。マイケルとルーはヴァース毎に歌い分け、サビでデュエットを取っている。それぞれ個性的な声質ではないが、2人の声がブレンドして生み出されるマジックがMDCの最大の魅力だろう。

 筆者はリアルタイムでは、『Imperial Bedroom』(1982年)から『Brutal Youth』(1994年)までのコステロのソロ作品を特に愛聴していたので、この時期の楽曲カバーには強く反応してしまうが、The Costello Show Featuring The Attractions名義の『King Of America』(1986年)から「I'll Wear It Proudly」と「Indoor Fireworks」の2曲取り上げられている。ボブ・ディランのRolling Thunder Revue(1975~1976年)のツアー・メンバーだったT Bone Burnett (Tボーン・バーネット)と共同プロデュースしてロスアンゼルスでレコーディングされ、アメリカン・ルーツ・ミュージックに最接近したこのアルバムは、リリース時に音楽ジャーナリストから賛否両論があったが、この問題作から2曲もチョイスしているのはマイケルとルーの強い拘りを感じさせる。
 前者はコステロが当時交際していたCait O'Riordan(ケイト・オリオーダン/The Poguesの元ベーシスト)に贈ったとされるラヴソングで、ここではオリジナルと異なる全編アコースティックギターのアルペジオで歌われるので、2人の歌唱と共に繊細な歌詞もビビッドに浮き上がっている。
 後者はルーがソロアルバム『Calmer』(1999年)でアコギのバックだけで取り上げており、彼女にとって思い入れのある曲なのだろう。ここではルーが自ら弾くピアノだけをバックにマイケルとヴァース毎に歌い分けており、限りない愛を感じさせる。この曲はコステロをフックアップした兄貴分で、シンガー・ソングライター兼プロデューサーのNick Lowe(ニック・ロウ)も『The Rose of England』(1985年)でいち早く取り上げており、この曲が持つ原石の輝きを見抜いていたのだ。

  『King Of America』/『The Rose of England』


 本作がカバー集として優れているのはコステロが本人名義で発表した曲だけはなく、コラボレーションした曲も含まれている点だ。ポール・マッカートニーの『Flowers In The Dirt』(1989年)でポールとコステロは4曲を共作しているが、最もアメリカン・ルーツ・ミュージック然とした「Different Finger」を選んでいるのはさすがである。
 オリジナルは同時期コステロがリリースした『Spike』(1989年)や前出の『King Of America』、『Mighty Like A Rose』(1991年)にも参加した、鬼才キーボーディストでプロデューサーでも成功していたMitchell Froom(ミッチェル・フルーム)のカラーが強く出たサウンドだった。ここではコリンの奇をてらわない的確なホーン・アレンジをはじめ、スティーヴの豊かなピアノ、Shezのドブロ・ギターが有機的に絡んでおり、本来この曲が持つ、The Bandに通じる理想的サウンドに仕上がったのではないだろうか。


 この新装盤製作時期の関係で、ボーナストラックについてはブックレットで触れられていないで、こちらで解説しておく。 
 3曲の内2曲はライヴ音源で、「April 5th」は、2008年アメリカのカントリー・シンガー・ソングライター達とのコラボレーション曲で、Johnny Cashの娘、Rosanne Cash(ロザンヌ・キャッシュ)、Kris Kristofferson(クリス・クリストファーソン)やJohn Leventhal(ジョン・レヴェンソール)との共作曲だ。後の2015年にコステロの自伝本『Unfaithful Music & Disappearing Ink』出版時に同時企画でリリースされたコンピレーション・アルバム『Unfaithful Music & Soundtrack Album』に収録されている。本作でのカバーは、2022年7月9日リバプールのSt. Michael's In The Hamletでの演奏と思われるが、マイケルとルーに、スティーヴがピアノでサポートしている。
 続く「I’m Your Toy」は、コステロのカントリー・カバーアルバム『Almost Blue』(1981年)に収録されており、オリジナルはThe Flying Burrito Brothers の『The Gilded Palace of Sin』(1969年)に収録された「Hot Burrito #1」が原曲だ。The Byrdsを脱退して同バンドを結成したGram Parsons(グラム・パーソンズ)と、同僚のベーシストChris Ethridge(クリス・エスリッジ)の共作で、コステロは『Almost Blue』の翌年にライヴ・ヴァージョンをシングルでもリリースしていた。本作のカバー音源は、その残響から前曲とは異なる狭い空間(カフェか?)での演奏ではないだろうか。マイケルとルーの2人だけのシンプルな演奏と歌唱である。

 
The Crooked Line (feat. Steve Nieve)
※ノーマル・ヴァージョン 

 もう1曲は、本作5曲目に収録された「Crooked Line」のリミックス・ヴァージョンだ。オリジナルは『Secret, Profane & Sugarcane』(2009年)収録で、グラム・パーソンズとの共演でも知られるカントリー・シンガー・ソングライターのEmmylou Harris(エミルー・ハリス)がゲストで参加し、コステロとデュエットしている。
 本作ではBPMをアップしてスティーヴのコンボ・オルガンをフューチャーした軽快なアレンジで高揚感がある。リミックス・ヴァージョンでは同じ3分25秒の尺だが、Shezの複数のエレキギターが大きくミックスされており、ダイナミックなサウンドに仕上がっているので、カントリー・ロック好きにはこちらが好まれそうだ。


 最後にMDCの来日公演ツアーについて紹介する。70年代後半日本国内では一部の音楽ファンにしか知名度が無かったトム・ウェイツやエルヴィス・コステロを。いち早く日本に招聘したプロモーター会社Tom’s Cabin(トムス・キャビン)。同代表で伝説のカレッジ・フォーク・グループ ”モダン・フォーク・カルテット” のメンバーとしても知られる麻田浩氏が、今回も尽力したという
 これは今年4月にエルヴィス・コステロとスティーヴ・ナイーヴがデュオで来日公演(※注釈)した際、スティーヴからMDCの来日について相談があり、麻田氏率いるThe flying Dumpling Brothersが全公演のバックバッドを務めることで可能になり、この来日公演ツアーが実現したのだ。
 本作『カントリー・ダークネス -エルヴィス・コステロを歌う-』のレビューを読んで興味を持った音楽ファンは、この来日公演ツアーにも是非参加して欲しい。

【MY DARLING CLEMENTINE●公演日程】 

10/28 大阪クアトロ
10/29 金沢もっきりや
10/30 名古屋TOKUZO
10/31 横浜サムズアップ
11/02 北海道鶴居村ヒッコリーウインド
 
INFORMATION
Tom’s Cabin


【参考元サイト】
●The Elvis Costello Wiki

※筆者は4月12日の追加公演に参加。
終演後『This Year's Model』(1978年)CDのインナースリーヴに
コステロとスティーヴからサインを入手した。
その際1999年2人の来日公演時もらったサイン入りのパンフレットを
コステロに見せると、嬉々としてその上からサインをしてくれたのだ。

(テキスト:ウチタカヒデ