幣サイトでアルバムを紹介したミュージシャン達が出演するライヴイベントが、8月19日に下北沢ニュー風知空知で開催されるので紹介しよう。
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2023年7月29日土曜日
音楽百景#49
幣サイトでアルバムを紹介したミュージシャン達が出演するライヴイベントが、8月19日に下北沢ニュー風知空知で開催されるので紹介しよう。
2023年7月22日土曜日
ビジーフォーについて(改編)
ビジーフォーは、1990年代に一大ブームを巻き起こしたフジテレビの番組『ものまね王座決定戦』に出演していた。番組が初めて放映されたのは1973年。この頃から高視聴率を記録していたそうだけれど、1987年に番組の担当プロデューサーが木村忠寛に変わり、パロディ芸の要素を加えたエンターテインメント性の高い番組へ変化させたことで人気が高まり、一気にブームが広がったそうだ。
そんな世の中の風潮を意識していたわけではないにせよ、子供ながらに感じていた熱気は今でもわくわくするような思い出として記憶に残っている。ビジーフォーはグッチ裕三とモト冬樹のコンビで1983年から出演し、ものまね四天王(コロッケ、清水アキラ、栗田貫一、ビジーフォー)として活躍した。私にとって四天王の中でもとりわけ気になる存在だったビジーフォー。大人になった今なら、スタイリスティックスやプラターズ、フォー・シーズンズやライチャス・ブラザーズなどを演っていた彼らを音楽的な視点で見ることも自然かもしれないけれど、当時も別の出演者を見るのとは違った期待をよせていたように思う。外国なんて行ったことがなかった子供の頃、洋楽を歌って演奏しているビジーフォーは、ものまねという根幹がありながらも似ているか似ていないか以上に、得体の知れないどこか遠い場所の空気を味わわせてくれる人たち、という風に見えた。その頃ビジーフォーが4人組のバンドだったということや音楽的背景なんてまったく知らず、あくまでもバラエティ番組のタレントとして見ていた子供の私にも、本格的な異国情緒を感じさせてくれた二人のすごさを今になって改めて思う。
ビジーフォー/ラ・マラゲーニャ【トリオ・ロス・パンチョス】
小中高同級生だったグッチ裕三とモト冬樹は高校時代に親しくなり、卒業後はモト冬樹の兄エド山口に誘われブルーエンジェルというソウルバンドをやっていたそうだ。しばらくしてエド山口が抜けた後、2人はブルーエンジェルのドラム、キーボードと新しいベースを入れてサジテリアスという、同じくソウルバンドを結成して活動するのだけれど、そんな中モト冬樹に別のバンドからスカウトがくる。ピープルという、元オックスの福井利男がリーダーのGSバンドだった。何度かライブを観に行ったモト冬樹は、コーラスが素晴らしかったことや、なによりドラムだった牧ツトムとバンドをやってみたくなったことでサジテリアスを辞めピープルへの加入を決めた。ところがその直後に牧ツトムは脱退しチャコとヘルス・エンジェルを始めてしまったそう。モト冬樹(ここでのアーティスト名は東冬木)が加入、メンバーチェンジを経てピープルはローズマリーという名前に変わり(ローズマリーと名付けたのは内田裕也らしい)、TBSテレビで生放送されていた関東ローカルの情報バラエティ番組 『ぎんざNOW!』や日本劇場で開催されていた音楽フェスティバル『日劇ウエスタン・カーニバル』などに出演。ローズマリーでのモト冬樹はギターとメロトロンも演奏していたそうだ。在籍時のリリースはトリオ・レコードからのシングル4枚とアルバム1枚。
『あいつに気をつけろ!』/ローズマリー
1973年 「あいつに気をつけろ!」/「ROSEMARIE」(TRIO 3A-106)
1973年 『あいつに気をつけろ!』(TRIO 3A-1012)
1974年 「ふたりの休日」/「悲しい旅」(TRIO 3A-122)
1974年 「センチメンタル急行」/「はじめての朝」(TRIO 3A-127)
1974年 「傷心」/「一枚の銅貨」(TRIO 3A-129)
この頃グッチ裕三は、サジテリアスのメンバーの一部や宮本典子(mimi)ら新たなメンバーも加えスリーチアーズ&コングラッツレイションズというソウルバンドで活動。このバンドのドラムがウガンダ・トラだった。米軍キャンプや高級ディスコで演奏していたそうだ。ロサンゼルスでレコーディングを行ったようなのだけれど、リリース情報が見当たらなかった。飛び抜けて日本人離れしたソウルミュージックを聴かせるバンドだったらしい。
モト冬樹はローズマリーの後、ジュテーム(多くはローズマリーのメンバー)というGSバンドでもシングルを1枚リリース(「鏡の中のあなた」/「哀しみの悪戯」WARNER PIONEER L-1282A)、その後もいくつかバンドをやっていたよう。しばらくして何か別の面白いことがやりたいと友人だったウガンダに話し、ウガンダが連れてきた元ザ・クーガーズの島田与作と3人で銀座のミニクラブで練習代わりに演奏し始める。この頃にはスリーチアーズ&コングラッツレイションズも活動しておらず、時々グッチ裕三が遊びにきてオンリーユーやアンチェインド・メロディなどを歌っていて4人でバンドをやろうという話になったそうだ。
こうして1977年に結成されたビジーフォーの前身バンドは、当初は仕事がたくさんきて忙しくなるようにとの願いがこめられた『いそがしバンド』という名前だった。コミックバンドとして六本木界隈のナイトクラブで掛け持ちして演奏していたところ話題になり、多くのプロダクションからスカウトがきたそうだ。その中から目標だったコミックバンド、クレイジーキャッツが在籍していた渡辺プロダクションに入ることを決める。その際、「busy」と、4人組の意味の『ビジーフォー』に改名している。
結成時のメンバー
Ba リーダー:島田与作(イタッケ島田)
Vo: グッチ裕三(初期:高田グッチ裕三)
Gt :モト冬樹(初期:武東スリム冬樹)
Dr :ウガンダ (ウガンダ・トラ)
ビジーフォー/SOUL MUSIC MEDLAY 初期1981
自分達でチケットを売って大規模なホールで演奏したり、渡辺プロの仕事でとしまえんのステージに立ったり日本テレビの番組に出演するなど、様々な活動を行っていたそう。大瀧詠一の特別ラジオ番組で、レコーディングの機材や環境によるサウンド変化の実験・解説を行う 『笛吹銅次ショー』にビジーフォーがゲスト出演し演奏していたことも驚いた。『ものまね王座決定戦』へはグッチ裕三、モト冬樹のコンビで出演。フジテレビからものまねをやってみないかと持ちかけられたことがきっかけだったらしく、ものまねなんてやったことがないと最初は躊躇したようだけれど、やっているのは洋楽の"コピー"だと考え承諾したそう。(※後にモト冬樹はコピーとものまねは違うものだと話している。)継続的な人気を得ていた中、ウガンダ・トラがタレントとしてソロで活動するためにビジーフォーの脱退を決める。この時、ウガンダがいなければビジーフォーではないからとリーダーの島田与作はバンド自体を解散することにしたそうだ。
この後モト冬樹はコメディアンの桜金造とお笑いコンビAJAPAとして活動したそうだけれど1年で解散。しばらくしてグッチ裕三と2人でまたやろうと、バックバンドにウーロン茶(Ba)、ロバよしお(Dr)、紅一点(Key)を加えビジーフォー・スペシャルとして再スタートした。後にドラムはエデン東に変わり、北海龍がマネージャーで参加。ビジーフォー・スペシャルは日本テレビ系列の音楽バラエティ番組 『夜も一生けんめい。』『THE夜もヒッパレ』での演奏も担当した。
■ビジーフォー
1981年 「たいへん!バイキン音頭」(CBS/SONY 07SH 1102)
1981年 「じゃりン子チエ/春の予感」(CBS/SONY 07SH960)
■ビジーフォースペシャル
1991年 「身から出たサビしさ」/「CRYIN’ FOR YOU」(SRDL-3420)
1991年 「学問のスズメ」/「嫌いにならずにはいられない」(PCDA-00148)
1992年以降は、グッチ裕三はグッチ裕三とグッチーズ、モト冬樹はモト冬樹とナンナラーズ(当初はモト冬樹とフリーマーケット)やエド山口とのユニット、東京ドンバーズなどで活動していた。最近ではそれぞれのタレント活動が主体と思われるけれど、モト冬樹は自身のブログでビジーフォーは解散したわけではないと書いていた。
昔はコミックバンドが今ほど珍しくなかったのかもしれないけれど、現代ではなかなか見ることができない。実力派でありながらオリジナル曲を演奏することはほとんどなく、エンターテイナーであり続けるビジーフォーは特別な存在に思える。
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2023年7月5日水曜日
ザ・スクーターズ:『東京は夜の七時』(VIVID SOUND / HIGH CONTRAST HCR9721)
今回のカバーが実現したのは、昨年9月に高円寺で開催されたライヴ・イベント『GOING TO A GO GO』のステージで、ザ・スクーターズのセットにゲスト・ヴォーカルで参加していた小西康陽氏が、MC中当然「東京は夜の七時」をカバーすることをメンバーに提案し、当日客席にいた信藤三雄が快諾し、この企画がスタートしたという。