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2022年2月26日土曜日

【ガレージバンドの探索・第十三回】The Kongsmen

 先日、友人からこれ知ってる?とThe Kongsmenというバンドの音源が送られてきた。KingsmenじゃなくKongsmen。



 アルバムジャケットは「Louie Louie」のカバーで有名な60年代オレゴン州のガレージバンドThe Kingsmenのパロディだ。


誰なのか調べてみると、

Nat King Kong (vocals)

Chango Reinhardt (lead guitar)

Ape Turner (rhythm guitar)

Paul McCaco (bass guitar)

Chimp Krupa (drums)

Thelonius Monkey (organ)

という威厳漂う名前のメンバー達。

 彼らはスペインの猿人のガレージバンドで、カバーする曲はすべて猿に因んだものばかり。ライブではバナナやピーナッツが投げられるらしい。コミックバンドかと思いまがうようなコンセプトながら音は正統にガレージで、ロックンロールやR&Bの曲を演奏する。

Chimpanzee / The Kongsmen


こちらは原曲↓

Chimpanzee / Count Yates


人間の時はどうやら

The Fabulous Ottomans

Imperial Surfers

Hollywood Sinners

Born Losers

というバンドのミュージシャン達らしい。

 2009年に最初の7インチをリリースし、2010年にはアルバムをリリース。その後はしばらく活動していなかったようだけれど、2020年に復活。7インチをリリースしている。


7インチとアルバム収録のカバー内容は下記。

2009年

「I Go Ape」 / 「Koko Joe」 Butterfly Records(BUT–36)

Neil Sedaka 「I Go Ape」

Don & Dewey 「Koko Joe」


2010年

『On Campus』Soundflat Records (SFR-021)(SFR-CD-010)

Chubby Checker 「Karate Monkey」

Mike Lawing「Chimpanzee Ride」

Mickey Lee Lane「The Zoo」

Rufus Thomas「Can Your Monkey do the dog」

The Beach Boys & Annette Funicello「Monkey’s Unlce」

Dr. Feelgood 「Monkey」

Big T Tyler 「King Kong」

The Ideals 「The Gorilla」

Jerome Kidd 「Doin' The Ape」

Johnny Ross「Monkey Man」

William Bell「Monkeying Around」

Count Yates「Chimpanzee」

John E Sharpe And The Squires「Monkeyshine」

Daddy Hamilton「One Monkey (Don’t Stop the Show)」

Toots and The Maytals 「Wooly Monkey Man」


2020年

「You're Bound To Look Like A Monkey When You Grow Old / Miss Orangatang」Family Spree Recordings(FSR058)

Clarence Williams 「You're Bound To Look Like A Monkey When You Grow Old」

Lincoln Chase 「Miss Orangatang」


【文:西岡利恵

参考・参照サイト:http://magicpopcat.blogspot.com/2014/09/gambeat-2014-kongsmen-una-banda-de-lujo.html


2022年2月19日土曜日

Brian Wilson:Long Promised Road(DVD 2022年 SM801701)



2022年を迎えThe Beach BoysもCapitolデビュー60周年となる。本来ならば何か企画がありそうなところだが、今のところリリース予定はない。やはり政権交代のジンクスか?ニュースもツアーやMike Love所有の豪邸の売却話程度である。Mike陣営の共和党保守派への傾倒はトランプ政権時顕著であったのは明白であり、その末期においては何度か報道され、その扱で肯定的なものはまれであった。西海岸メディアのリベラル派を敵に回しては分が悪いのは明らかだ、そんな状況でリリースされた本作は、インタビュアーにJason Fine(Rolling Stone誌編集者)を起用をしたことからわかるように、リベラル論壇からのThe Beach Boysへの祝福といっていいだろう。(ただし、Mikeへのインタビューは皆無だ。)


 本作はBrianとThe Beach Boysの知識ゼロで見た場合、有名人の故郷や旧宅を訪ね、グルメスポット(本当に登場する)も紹介し、時折有名人の礼讃話が挿入される構成で、なんだか偉い人なんだという印象で終わりそうな、日本のバラエティ番組でもよくある作りだ(日本なら最後温泉にでも入ってエンディングだろう)。

 弊誌読者目線で本作を鑑賞した場合でも、新事実の発見といった画期的トピックは極小である。画面の向こうに見えるBrianは本人には失礼かもしれないが、近年のライブ会場でも置物状態のBrianそのものであり、インタビューにも口数少なく返答する無愛想な老人でしかない。筆者も当初はBrianの安否確認ドキュメンタリーなのでは?と、先入観を持っていた。本作はほぼ時系列に故郷やBrian旧宅をJasonの運転でクルーズしていくが、作中序盤からBrianは20代から幻聴と統合失調症であることが明かされる。車中という閉鎖空間で家族以外の人物と話すだけでも、本人は苦痛なはずだ。しかし作中のBrianはいたっておだやかだ、これはJasonの長年の取材から得られた信頼関係からくるものであって、作中何度も発作的に恐怖心に取りつかれそうになるBrianをJasonがやさしく忍耐強く受け止めている。その信頼関係から、お茶目なBrianを見せてくれる場面もある。行きつけのレストランに駐車しようとした時、「障害者コーナーがあるからそこに停めよう」と自ら誘い躊躇するJasonに「いいよいいよ、いっつもそこだから大丈夫」と誘導までしたり、スイーツをペロリと片付けながらもなかなかヘビーな話をしたりする。

 好々爺といった風情のBrianだが、加齢とともに記憶も失うかと思われたが、インタビューに対し時折かなり克明なエピソードが帰ってくるのが驚きだ、あからさまに兄弟との薬物使用や暴飲暴食のエピソードを披露したりするのが悲惨を通り越してなぜか微笑ましい。

 大半は言葉少なげなBrianとのやり取りが占めるのだが、Jasonの語りかけに対するBrianの見せる視線や表情やジェスチャーが言葉以上の大きな情報を我々にもたらしてくれる。過去の自分や物故した肉親や知人に対して見せるこれら非言語的な振る舞いと空気感から、弊誌読者ならば絶対たまらずじわーっと込み上げてくること必定である。特に本作タイトル「Long Promised Road」を車中で聴きながら見せるBrianの表情にはBrianの深い内面の一部を覗いているような気分にさせ、本作の中でも見せ場だ。

Brian Wilson: Long Promised Road: Official Trailer
 この手のドキュメンタリーにありがちな有名人からの礼讃コメントは予想通りのPet Sounds~Smileスゴいの嵐であるものの、コメントしているミュージシャンでも意外だったのがBruce Springsteenだ。何故Bruce?どっちかと言えばJohnstonの方では?BrianでもBrian Adamsの方が合ってそうだが、コメントは的確で深い洞察をもってBrianの音楽を愛してきたことを教えてくれる。Brianとの共通点は音楽性以外だと、両者の父はブルーカラー出身で(しかもBruceの父はDoudlas、Brianのミドルネームと偶然同じだ)かつ父方の家系には北部ヨーロッパ系が多い。さらにBruceの作中に投影されているように父子関係の葛藤が本人の内面に長年あったいう。

 資料的なものでは、ファミリーヒストリーの領域が多いため、時折初公開と思しき幼少時の写真やプライベートな8mnフィルムの数々は貴重だ。また旧宅を訪ねるシーンではBellagio通りへ行く道順は「Busy Doin' Nothin'」の歌詞どおりに本当に辿って行けるのが興味深い。

 また、DVDのみ収録の映画からカットされた部分で母Audreeのシーンがあるのだが、配信のみリリースの「I Can Hear Music:20/20session」に収録されている「Is It True What They Say About Dixie」(ヴォーカルはAudree)は配信されているヴァージョンとは異なりここでしか聞けない。Wilson家母子の微笑ましいセッションだ。

 他にはYoutube動画などでも見られる「Good Vibrations」セッション時の動画は既出のものと比べてアングル違いがあり、Columbia studioと思しきスタジオのコントロールブースでのBrian一行の風景は貴重だ。

 また本編ではHelp Me Rhondaセッション以降険悪となった実父Murryからの8ページにわたるBrian宛の1965年5月8日付けの絶縁状も取り上げられている。



作中で取り上げられる手紙の一部
ちなみに、CarlとGwenはWilson家ではなく
母方のKorthof家の縁者

 本作から伝わるのは長い人生で信頼、財産、家族や知人を時には失いながらも、それと同じくらいの世俗の名声や愛情、賞賛を得ながらも淡々とピアノに向かい続けるBrianの姿である。天性の才能とは文字通り天からの授かりものである、しかしこの才能を宿す替りに約束された道を歩んでいかねばならない。天はなかなか厳しい約束をBrianに課すものだ、と呆れながらもBrianを見守っていこう。


2022年2月12日土曜日

Mott よみがえれ!昭和40年代(コラム Part-2)

  今年から始めた私の新投稿シリーズ、著書『よみがえれ!昭和40年代』に掲載出来なかった未公開の私的「時代考証」「昭和40年代史」 。前回は新聞掲載に見るT.V.とラジオの勢力図を紹介しました。今回は著書にも一部掲載したT.V.番組のスポットを振り返ってみた。

 2.TVの番組スポンサー

 CM 昭和40年代にはテレビ番組のスポンサーは1社のケースが多くスポンサー名が大きく登場していた。それゆえ番組タイトル・ソングのエンディングでは提供するスポンサーの名前連呼やメーカー・ソングのオンエアのオンパレードだった。 

 その元祖といえば、私の著書のP8でも紹介しているに大村崑主演の『トンマ天狗』(昭和34年~)主題歌に登場する「姓はオロナイン、名は軟膏~」という「オロナイン軟膏」(大塚製薬)のCMともとれるフレーズ挿入。 またこれも著書のP22で紹介した『てなもんや三度笠』(昭和37年~)の藤田まこと扮する「あんかけの時次郎」お約束の名言「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」単一スポンサーならではの風物詩。このフレーズはSMAPのヒット曲や缶コーヒーCM(注1)にも登場するほど「殿堂入り」級だ。

 そしてこのパターンの代表格といえば、この当時に放映されていたアニメにはあって当然のパターンだった。著書P11でもふれた『鉄人28号』(38~41年)や『遊星少年パピイ』(40~41年)『遊星仮面』(41~42年)といったの主題歌エンディングに挿入されている、「グリコ、グリコ、ぐ~りぃ~こぉ~」とスポンサー「江崎グリコ」の社名を連呼になるだろう。故佐野邦彦氏のような熱狂的アニメ・マニアはこの「グリコ」連呼が入らないと、正式なテーマ・ソングとみなさないのは常識といったところだ。

鉄人28号

 メーカー連呼といえば、『ジャングル大帝』(40~41年)でもエンディングに「サンヨー、サンヨー、サンヨぉー電機」が挿入されていた。もっとも、サンヨー電機がこの番組のスポンサーとなったのは、初の国産カラー・アニメ(注2)を触れ込みにカラー・テレビ販売促進の一環だったと言われており、なるべくしてなった結果だろう。ちなみに「サンヨー」(現:Panasonic)提供番組は榎本健一(エノケン)の歌う「うちぃ~のテレビにゃ色がない、隣のテレビにゃ色がある!ありゃまキレイとよく見たら、さ~んよ~ぉカラー・テレビ♬」なる<サンカラーの歌>とセットになっていた。 そんな電機メーカーでは「東芝」がスポンサーとなっていた『高速エスパー』『日曜劇場』等では「光る、光る東芝、回る、回る東芝、みん~なみ~んなあ東芝、東芝のマぁーク」の歌から主題歌が始まっていた。なお昭和44年に放送開始した『サザエさん』では、主題歌のアニメのラストと一緒に「TOSHIBA」マークが登場し、サザエが「この番組は東芝がお送りいたします!」とコメントしていたほどだ。 それに対抗するかのようにしていたのが「松下電器」(現:Panasonic)で、スポンサー番組『水戸黄門』等では番組主題歌の前にダークダックスが歌う「明るいナショナル~みんな家中、何でもナショナルぅ~」といったお決まりの<メーカー社歌(?)>をこれでもかというほど聴かされたものだ。

 またその連呼タイプ流れは製薬会社も負けてはおらず、その代表格といえば円谷プロ制作の『ウルトラ・シリーズ』主題歌前には「タケダ、タケダ、タケダぁー」とけたたましい連呼の後に「タケダ薬品」の本社の映像が登場。それに続けて三船敏郎のアリナミンCM「飲んでますか!」(CM出演料1億円!)がペアのように流れていた。また同じ本社映像登場といえば『お笑い頭の体操』(昭和43年2月~)に始まる「ロート製薬」提供の大橋巨泉司会番組でも、「ロート、ロート、ロぉート、ロおぉート製薬ぅ~」の連呼と同時に本社工場から鳩が飛び立つ映像が映し出されるパターンが、二大巨頭といえるだろう。おまけに加えると、忍者アニメ『風のフジ丸』のスポンサー「藤沢薬品」(現:アステラス製薬)も、アニメ・テーマ・ソングのエンディング、唐突に「ふじさわ~、ふじさわ~、ふじさわやく~ひん~」とメロディー・ラインに挿入させていた。ちなみにこのアニメの原作は、白土三平の『忍者旋風』だが、アニメ化に際しスポンサーに合わせ「フジ丸」に変更されたものだ。

 

シャボン玉ホリデー

 さらにバラエティ番組『シャボン玉ホリデー』では、番組冒頭でショート・コントがあり、そのオチには必ずスポンサー「牛乳石鹸」のトレードマークである牛が登場して「もぉお~」雄たけびを上げ、ピーナッツが牛乳石鹸提供、シャボン玉・ホリデー!」とコメントしてからスタートしていた。 また「プラチナ万年筆」が提供していたバラエティ番組『プラチナ・ゴールデンショー』も、オープニング&エンディング・ソングがまさにスポンサー名が耳にこびりつく連想ソングだった。その歌詞は「プとラとプとラとチとラ~♪プラチナ♬」というもので、この曲の歌唱担当は司会を務めるフォーリーブスの役回りだった。 

3.テレビ番組の時差 

 昭和40年代(60年代から70年代初頭)までは、地方には首都圏のキー局となるテレビ局はほぼ一局状態だった。主要都市に育った都会っ子と地方出身者では、テレビ番組をどの時間帯で見たのか全く違っていた。 

 ちなみに静岡生まれの私は昭和40年代前半までTBS系放送局のみだったので、一部の人気番組を除きTBS系以外の番組は首都圏とは異なった時間帯で見ている。これは昭和44年大学入学で上京後、首都圏出身の友人が出来てから判明した事実だ。 

 ではほんの一部ではあるが、当時の人気番組での放送時間枠を較べてみることにする。まず一般参加の買い物ゲーム『オリエンタル、がっちり買いまショウ』(NET系:現テレビ朝日)(注5)は首都圏では日曜日12:45~13:15の放映だが、この時間帯は日曜のお昼時間帯はTBS系の『ロッテ歌のアルバム』のため 静岡では土曜の14:00~14:30だった。

 当時のアニメは「子供向け」という認識があり、テレビの主導権は親が持っていたこの時代、民放テレビ局の少ないこの時代のアニメは、ほぼ時差放映という差別を受けていた。まず前出した『風の藤丸』(NET系)の放映時間は都心部では火曜日18:30~19:00(後に19:30~20:00)だったが静岡では日曜の13:00~13:30、ちばてつや先生の傑作『ハリスの旋風』(フジ系)(注3)も木曜19:00から放映だが同じく日曜午後(時間は度忘れ)に放映されていた。

 クレイジョー・キャッツを中心にナベプロのオール・スターが総出演していた人気番組 『シャボン玉ホリデー』(NTV系)でさえも日曜18:30が、金曜18:30(※金曜は「ホリデー」ではない!)。私が初めて洋楽に熱中体験をした番組『ザ・モンキーズ・ショー』(TBS系)(注5)は首都圏では金曜19:00~19:30というゴールデン・タイムに放映されていた。しかし、静岡では火曜18:00~18:30というクラブ活動を無視しなければならない時間帯だった。

ザ・モンキーズTVショー

 そして、当時特撮物に目がなかった私の大好きな『マグマ大使』(日本初の特撮カラー放送)は首都圏の月曜19:30(フジ系)に対し、土曜の14:30からという、これまたクラブ活動をさぼるしかない時間帯放映だった。 また桂小金治司会で「名物指圧師:浪越徳次郎先生」が登場する『アフタヌーン・ショー』は12:00(NET系)の1時間番組だったが、当時の静岡では15:00からの放映と小中学生ではほとんど見ることの出来ない時間帯に放映されていた。

 ただキー局でなくともほぼ全国同時放映番組がなかったわけではない。その代表格は金曜20時からの『プロレス中継』ではないだろうか。何故ならタッグ・マッチの合間にはリング上の清掃作業がお決まりだったが、その掃除機は番組スポンサー「三菱電機」の「風神」だった。それを実況中継アナウンサーもコメントするので、我々世代で掃除機といえば「風神」という一致回答からもうかがうことができる。

 そんな地方のローカル・テレビ局も、昭和43年頃からUHF局として続々設立(静岡最初のUHF局はフジ系テレビ静岡)され、徐々にではあるが時差が解消されることになる。とはいえ、放送局が多かった首都圏では地方と違って放送番組不足していたようだった。その番組数の不足を補うために、再放送も多かったらしい。特に娯楽等で外出の多かった日曜日の午後枠等、あまり視聴率の稼げそうにない時間帯には、アニメの再放送が頻繁に流れていたと故佐野氏から伺ったことがある。ビデオが存在しない昭和40年代には、そんな再放送は都会の小中学生格好のエサ箱で、こぞって見あさっていたというのだ。その影響もあって熱心なアニメ・ファンは都心部に集中していたというのは彼の説だ。

注1)宮藤官九郎作詞のSMAPの2005年7月発売の37枚目シングル<BANG! BANG! バカンス!>。アサヒ飲料「WONDA」のAKB48を起用したCMの2014年8月からスタートした「モーニングショット」シリーズでのコメント。

注2)本邦初カラー・アニメは米MGM制作『トムとジェリー』が昭和39年5月より放映開始。『ジャングル大帝』の放映スタートは昭和40年10月より。ちなみに新聞紙面のカラー放送表示は昭和39年頃から登場している。昭和41年11月からは確認しやすくするために番組名の頭に黒に白抜き表示されている。

注3)漫画自体が当時No.1ガム・メーカーだった「ハリス」(現:クラシエフーズ)から使用承認を受けてスタートしており、アニメ化の際のスポンサーは当然といえるものだった。

注4)3組の一般公募による参加者が、司会の漫才コンビ夢路いとし・喜味こいしの「5万円3万円1万円運命の分かれ道」(当初)という掛け声で、体を張ったゲームに挑戦して買い物金額を競い、ショッピング金額をゲットできる人気番組。

注5)昭和42年10月6日に「青春コメディ」として放送開始。このフレーズは同年6月に『米エミー賞』で「最優秀コメディ賞」受賞から表記されたようである。

「朝日新聞 昭和42年10月6日(金) 9面」より抜粋
※画像使用でご指摘があり次第削除します。

(文・構成:鈴木英之

2022年2月5日土曜日

【追悼 ロニー・スペクター】ゲスト ~ The Pen Friend Club 平川雄一

 
 60年代のガール・グループを代表したThe Ronettes(ザ・ロネッツ)のリード・シンガーで、ソロ・シンガーとしても活躍したロニー・スペクター(本名:Veronica Yvette Greenfield~ヴェロニカ・イヴェット・グリーンフィールド/以降ヴェロニカ)が、現地時間の1月12日に逝去した。
 コネチカット州ダンベリーにある自宅で短期間の癌闘病中、現夫でマネージャーのジョナサン・グリーンフィールドをはじめ家族達に看取られ、75歳の生涯を閉じたという。昨年1月16日にカリフォルニア州立刑務所内で亡くなった、元夫で名プロデューサーだったフィル・スペクター氏とは対照的に、静かで平安な最期だったようだ。

 定期誌VANDA及びWebVANDA読者には説明不要かも知れないが、彼女を中心としたザ・ロネッツは、ウォール・オブ・サウンドの総本山でフィル・スペクター率いるフィレス・レコードを象徴するガール・グループとして知られ、その影響力はビートルズのジョン・レノンやジョージ・ハリスン、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンなど錚々たるミュージシャン達を虜にした。フィルとザ・ロネッツの存在無しに、その後の彼らのサウンドは無かったと言っても過言では無いだろう。
 ヴェロニカは1943年にニューヨークのイースト・ハーレムで、アフリカ系アメリカンとチェロキー族の血を引く母親とアイルランド系アメリカンの父親の娘、ヴェロニカ・イヴェット・ベネットとして生まれた。
 マンハッタンのジョージ・ワシントン・ハイスクール時代、2歳年上の姉のエステル、3歳年下の従姉妹のネドラ・タリーと共にDarling Sisters(ダーリン・シスターズ)を結成し、地元で活動していた。60年代初頭にはグループ名をザ・ロネッツに変えて、ニューヨークの都市圏でライブ活動を続けながら、Colpix Records(コルピックス・レコード)と契約し「I Want a Boy」「I'm Gonna Quit While I'm Ahead」等のシングルをリリースしたが成功には至らなかった。

Be My Baby (Philles Records–116)

 転機になったのは63年で、フィル・スペクターがヴェロニカの特徴ある歌声に興味を持ったことでフィレス・レコードと契約することとなる。スペクターの読みは当たり、同年8月にフィレスからのファースト・シングルとしてリリースした「Be My Baby」(ジェフ・バリー、エリー・グレニッチ、フィル・スペクター作)が全米2位の大ヒットとなる。名ドラマー、ハル・ブレインによるイントロのバス・ドラムが象徴するフィレス・サウンドは、スタジオ・ミュージシャン集団”The Wrecking Crew”の活躍もあり隆盛を迎える基礎となった。
 同年11月には同じくバリー&グレニッチ作の「Baby, I Love You」(ツアー中のエステルとネドラの代わりに、ダーレン・ラヴ、シェールとソニー・ボノがバック・ボーカルを務めた)、翌64年6月には「Do I Love You?」(ピート・アンダース、ヴィニ・ポンシア、フィル・スペクター作)、同年10月の「Walking in the Rain」(バリー・マン、シンシア・ワイル、フィル・スペクター作)とトップ40ヒットが続いた。
 しかし64年初頭のビートルズのアメリカ初公演を起点とするブリティッシュ・インヴェイジョンの影響は大きく、65年の全米チャートではブリティッシュ・ミュージシャンの楽曲が多くを占めるようになる。同年ザ・ロネッツはシングル「Born to Be Together」(バリー・マン、シンシア・ワイル、フィル・スペクター作)と「Is This What I Get For Loving You?」(ジェリー・ゴフィン、キャロル・キング、フィル・スペクター作)をリリースするが、前者は52位、後者は75位と大ヒットには至らず、徐々に彼女達をはじめフィレス・レコードのセールスにも陰りが見え始める。
 66年10月のバリー&グレニッチ作の「I Can Hear Music」は、そのクオリティーとは相反して100位止まりでオリジナル・メンバーとしてのラスト・ソングルとなった。翌67年初頭に彼女達はヨーロッパ・ツアーを終え、ついに解散してしまう。

 その後ヴェロニカは68年4月にスペクターと結婚するが幸福とは言えず、様々なトラブルに巻き込まれながら別居し74年に正式離婚している。
 この期間69年にスペクターのプロデュースのもと、A&Mレコードから「You Came, You Saw, You Conquered」(フィル・スペクター、トニー・ワイン、アーウィン・レヴィン作)を”The Ronettes Featuring the Voice of Veronica”名義でリリースしているが、実質ヴェロニカのソロと言える。またビートルズ元メンバーであるジョンとジョージからリスペクトされていたスペクターが彼らの初期ソロ作を手掛けていた縁もあり、71年4月にはジョージのソングライティングと共同プロデュースでシングル「Try Some, Buy Some」をリリーし、全米77位を記録した。
 73年ヴェロニカは心機一転、新しい2人のメンバーとしてチップ・フィールズとデニース・エドワーズを加え、Ronnie Spector And The Ronettesを結成し、ブッダ・レコードから4作のシングルをリリースしたが、フィレス時代のように成功することは無かった。 彼女のキャリアの中で成功の頂点だった、ザ・ロネッツ黄金期がその後も呪縛になっていたことが垣間見られ、ポップ・スターの悲劇を感じて切なくなるが、彼女が偉大な女性シンガーであったことは紛れもない事実である。

 さてここからはヴェロニカ=ロニー・スペクターを敬愛するミュージシャンとして知られる、The Pen Friend Club(ザ・ペンフレンドクラブ)のリーダ-、平川雄一君の貴重なエピソードと、彼が選んだロニー・スペクターの楽曲オールタイム・ベストソングを掲載する。
 このベストテンに筆者の選曲分も加え、サブスクのプレイリストにしたので聴きながら読んで欲しい。

 

新年を迎えて早々に悲しいニュースが飛び込んできた。
大好きなロニー・スペクターが1月12日に死去した。
弊バンドであるザ・ペンフレンドクラブはフィル・スペクター関連曲をいくつかカバーしており、ザ・ロネッツの曲も取り上げている。
2017年、ロニー・スペクター来日公演が計画され前座として弊バンドが候補に上がったが、諸事情につき公演そのものが中止になってしまった。
ロニー亡き今となっては非常に残念でならない。 
ロニーが歌った曲は大体すべて「好き」と言えるのだが、記事にするにあたり敢えて順位付けしてみた。 
平川雄一  


1. Do I Love You?(1964年) 
ピート・アンダース、ヴィニ・ポンシア、フィル・スペクター作。 天才的なイントロから始まる全てが完壁な一曲。 弊バンドでは一番最初に取り上げたロネッツの曲であり今でもライブで演奏している。

2.How Does It Feel?(1964年) 
こちらも'64年のアンダース&ポンシア、スペクター作。 あえて『Do I Love You?』を1位に挙げたが本心ではこの曲の方が好きだ。 こんな夢のような曲が他にあるだろうか。 弊バンドでは二番目にカバーしたロネッツ曲。

3.Born To Be Together(1965年) 
バリー・マン、シンシア・ワイル、フィル・スペクター作。 アイケッツのP.P.アーノルドも'68年にカバーした、聴けばいつでも夢心地になれる強烈な一曲。弊バンドでは三番目にカバーしたロネッツ曲。

4.Something's Gonna Happen(2003年) 
マーシャル・クレンショウの'81年作を'03年にロニーがカバーしたもの。 しっかりと「ロニー・スペクターの曲」に仕上がっているところが素晴らしい。 ザ・プッシーピロウズによる掛け合いコーラスも可愛い。

5.When I Saw You(1966年) 
フィル・スペクターのペンによる'66年作。 テディ・ベアーズの『To Know Him, Is To Love Him』に通ずる三連バラード。ロニーの愁いを帯びた名唱が染みる。

6.Is This What I Get For Loving You(1965年) 
ジェリー・ゴフィン、キャロル・キング、フィル・スペクターによる'65年作。3位に挙げた『Born To Be Together』同様、いよいよロックンロール、ガールズポップスがソフトロックのそれへと変わっていく「狭間」を感じる一曲。 

7.I Wish I Never Saw The Sunshine(1966年) 
ジェフ・バリー、エリー・グレニッチ、フィル・スペクターによる'66年作。 ドラマチックな曲想とエモーショナルなロニーのボーカルに溜息が出る。

8.Sleigh Ride(1964年) 
ルロイ・アンダーソン、ミッチェル・パリッシュ作のクリスマス・スタンダード・ナンバー。 '63年にフィル・スペクターによるクリスマス・アルバム『Christmas Gift For You From Phil Spector』に於いてロネッツの歌唱でカバーしたもの。 そりすべりの疾走感のあるサウンド、はち切れるロニーの歌いっぷりがいい。

9.Paradise(1965年) 
ギル・ガーフィールド、ペリー・ボトキン・ジュニア、ハリー・ニルソン、フィル・スペクター作。'65年に録音された。 大音量で没入感を味わいたい一曲。

10.How Can You Mend A Broken Heart(2016年) 
バリー・ギブ、ロビン・ギブ作。 ビー・ジーズの'71年のシングル。この珠玉のバラードをロニーは遺作となった'16年のソロアルバム『English Heart』でカバーした。 しっとりとオルガンに寄り添うロニーの歌声に落涙を禁じ得ない。 


 (企画編集・テキスト:ウチタカヒデ)