2021年8月20日金曜日

IKKUBARU:『Summer Love Story / 無重力ファンタジア』(CA VA? RECORDS / HAYABUSA LANDINGS / HYCA-8023)


 インドネシアのシティポップ・バンド、イックバル(IKKUBARU)が新曲「Summer Love Story」を7インチ・シングルで8月28日にリリースする。カップリングは2018年にRYUTistへ提供した「無重力ファンタジア」のセルフカバーで、この曲をこよなく愛する筆者としては取り上げない訳にいかないのだ。

 イックバルはメイン・ソングライターでフロントマンのムハンマド・イックバル(Muhammad Iqbal、以降ムハンマド)を中心に、2011年12月にインドネシアのバンドゥン(Kota Bandung)で結成された4人組で、ボーカルとギター、キーボードを担当するムハンマドの他に、ボーカル兼ギターのRizki Firdausahlan、ベースのMuhammad Fauzi Rahman、ドラムのBanon Gilangから構成されている。
 彼らが活動しているバンドゥンはジャワ島西部の西ジャワ州の州都で、首都ジャカルタやスラバヤに継ぐインドネシア第三の都市である。国内外の観光地、避暑地として知られ、国内有数の大学が所在するカレッジ・タウンでもありカルチャーの交流が盛んな地であったことがムハンマドの音楽性にも影響し、10代の頃から様々なジャンルを聴き込んでいたらしい。そんな中にフュージョン・バンドのカシオペアもあり、日本音楽界への認識もあったようで、後にネットを通じて発見した山下達郎、角松敏生等の所謂シティポップ・サウンドに強く影響を受けたという。


 2015年から2019年までに5回もの来日を果たしており、TWEEDEES、脇田もなり、RYUTist、フィロソフィーのダンスなど国内アーティストへの楽曲提供やリミックスなどコラボレーションも多く、日本との繋がりは極めて強い。これまでに『Amusement Park』(2014年)、『Chords & Melodies』(2020年)の2枚のオリジナル・アルバムをリリースしており、今年6月には入手困難となっていた『Amusement Park』をCD2枚組のExpanded Editionとして、7月には『Chords & Melodies』をアナログ盤LPとしてリイシューしたのも記憶に新しい。

 本作はムハンマド作の新曲「Summer Love Story」と、『Chords & Melodies』の国内盤ボーナス・トラックとしてCD化されていた「無重力ファンタジア」の初アナログ化として、彼らのファンの他、RYUTistファンも注目すべき作品なのである。ジャケットはKADOKAWAのコミック・ブック『青騎士』(2021年4月創刊)で、「音盤紀行」を連載中の新進気鋭漫画家の毛塚了一郎(けずか・りょういちろう)が描き下ろした、リゾート感溢れるイラストを使用しており、視覚的にもサウンドとマッチしている。


 ではこのシングルの解説に移ろう。タイトル面の「Summer Love Story」はシャッフルのリズムで軽快にグルーヴするサマー・ソングで、メンバー4名の他にトランペットとトロンボーンの2名のホーン・セクションが加わっている。弊サイトでも以前特集した名ドラマーの故ジェフ・ポーカロが70年代後半に編み出した”ポーカロ・シャッフル”に影響されたリズムのヴァースがとにかく気持ちよく、ムハンマドのスウィートなボーカルと彼自身による一人多重コーラスが甘美なサビへと導くのだ。
 Rizkiによる間奏のギター・ソロはジェイ・グレイドンのそれに通じるので、全体的にグレイドンが手掛け、ジェフも参加したアル・ジャロウの「Breakin' Away」(82年 / 同名アルバム収録)の影響下にある良質なAORといえる。

 
無重力ファンタジア (ikkubaru Pre Masterd Short Ver.) 

 カップリングの「無重力ファンタジア」は、RYUTistのオリジナル・ヴァージョンのフェアリーなコーラスとソプラノ・サックスがデリケートな世界観を演出して、2018年の邦楽ベストソングにも選出した希有なメロウ・グルーヴだったが、ここでのセルフカバーも別アレンジで楽しませてくれる。ムハマッドは作曲とアレンジを手掛け、作詞は今月12日に配信限定で『境界線上に吹く風』(3曲収録EP)をリリースしたばかりの沖井礼二(元Cymbalsのリーダー)率いるTWEEDEESのボーカリスト、清浦夏実が担当している。
 このヴァージョンでは全ての演奏とプログラミングをムハンマドが一人で担当しており、オリジナルからBPMをあげてシンセ・ベースを強調し、サックスからオーバードライヴをかましたエレキ・ギターにアダプトしたことで、サウンドのカラーは全く異なり生まれ変わった。Rah Bandの「Clouds Across The Moon」(85年)に通じるベース・ラインがこのサウンドの肝になっているのだが、作詞家としても優れている清浦の歌詞の中で、「真空のカルーセル(※回転木馬の仏語訳)乗って あなたと星を巡るの 銀河に抱かれたなら 私たち無重力」というサビの幻想的で美しいラインと偶然にも符合して相乗効果を生んで耳に残る。正にこの季節にはぴったりのサマーナイト・アンセムになったと言える。 

 数量限定の7インチ・シングルなので、解説を読んで興味を持ったシティポップ・ファンは、リンク先のオンラインショップ等で早期に予約して入手することをお勧めする。


(テキスト:ウチタカヒデ





2021年8月14日土曜日

1974年 Elton John再来日公演(2月1日・日本武道館)Part-2

  (Part-1より)
 1973年のエルトン・ジョンは出す曲全てが大ヒット、もはやスーパー・スター的な存在になっていた。その再来日公演のキャッチ・フレーズは、彼のヒット曲に引っ掛け「クロコダイル・ロックン・ローラー再来日」というものだった。個人的にも彼は1971年の初来日から人気も実力も数段スケール・アップし、上機嫌での凱旋公演になるだろうと思っていた。


 この1974年2月の来日公演は、1973年末にリリースされたエルトンの代表作ともいえる初のWアルバム『Goodbye Yellow Brick Road(黄昏のレンガ路)』に伴うツアーの一環だった。ある意味このタイミングでのパフォーマンスは、長いエルトンの活動時期でもピーク時であり、この公演は私にとって最上の体験になるはずだった。


 ただこの前年のエルトンはディック・ジェームス(注1)と<Daniel>のシングル化でのもめごと(注2)や、自身のレーベル「Rocket」(注3の設立、全米ツアーという超多忙な日々を送っていた。

 このような状態にありながら新作『Caribou』のレコーディング(注4)にも入り、日本からやオーストラリアへ向けたツアーに出発前に完成させるスケジュールという課題でプレッシャーがかかっていたようだった。そんなストレスからエルトンは「アルコール依存症」に陥り、体重もかなり増えていたという。 

  なおこの来日公演のサポート・メンバーはそれまでのレコーディングでもお馴染みのナイジェル・オルソン(Dr.)、ディヴィー・ジョンストン(Gt.)、ディー・マレィ(B.)に加え、新作から参加したパーカションのレイ・クーパーという顔ぶれだった。この新メンバーのクーパーは後にエルトンのコンサートでもソロで帯同(注5)するほど重要な存在になっていく。 

 
 そんなエルトンの状態を全く知らない私は、大きな期待をもってこの初日の公演に臨んだ。コンサートは、最新アルバムのオープニングを飾る<Funeral for a Friend(Love Lies Bleeding(葬送〜血まみれの恋はおしまい(メドレー)>で幕を開けた。デヴィット・ヘンツエルによる風のSEから始まる壮大なシンセ・サウンドのドラマチックな展開に私の気分は一気に盛り上がった。そして主役のエルトン演奏の途中でピンクのスーツで登場ピアノ椅子に座った彼のプレイは力強く見えた

 そんななかこの公演を盛り上げようと大張り切りだったのが、レイ・クーパーだった。彼はそれまでエルトンを支えていたメンバー達以上に大張り切りで、その派手なパフォーマンスはひときわ目立っていた。 後になって考えれば、長年のサポート・メンバーは、2日の公演には間に合ったという、ど派手なステージ衣装が間に合わずエルトンの機嫌が悪いのを気遣い、おとなしく控えていたのかもしれない。 

 演奏が進み<Rocket Man>や<Daniel>といったお馴染みのナンバーが演奏され、会場全体に和んだ良い雰囲気が感じられるようになった。
 ところがそんなエルトンのやる気を削いでしまったのが、コンサートの半ばで披露した<Honkey Cat>でのパフォーマンスだった。エルトンは機嫌が悪いなりにもテンションを上げようと、サビの「Get Back Honkey Cat~」でオーディエンスに「Hoo~」のレスポンスを要求した。
 しかし、この曲は日本においては知名度の低いナンバーで、来場客からのレスポンスへの反応はまばらで鈍かった。その無反応ぶりにエルトンはピアノに肘をつき「お前らこのライヴに参加する気は無いのか!」とばかりにふてくされてしまった。 


 その後のセット・リストは淡々としたナンバーが多く、アリーナ周辺では「<Crocodile Rock>はまだか。」といった囁き声も聞かれた。そして、来場者がお目当てにしていた曲も披露されないまま一旦メンバーがステージを後にした。そしてお決まりのアンコールの手拍子が鳴り響いた。少しするとエルトンが一人ステージにひょっこり登場し、弾き語りで<Your Song(僕の唄は君の歌)>を披露した。この日本でも人気抜群の名曲の演奏は、この日のライヴで一番盛り上がった瞬間で、会場からを割れんばかりの拍手が起こった。


  しかし、その演奏が終わるとエルトンはステージを後にして、サポート・メンバーも戻ってはこなかった。まだ20時を少し回ったばかりだというのに館内の照明がつき「本日の公演は終了しました」というアナウンスが入った。

 事件はそこからだった、そのまま帰途につく観客もいたが、1時間少々という手抜きとも思えるパフォーマンスだったばかりでなく、ヒット曲も全て披露しないとあって、会場内は騒然となった。「クロコダイル・ロックンローラーが何で<Crocodile Rock>をやらないんだ!」 といった当然とも思える不満のヤジが多々あがるほどだった。 
  
 このようにその日の公演内容の不満から、かなり多くの来場者が会場に居残り主催者に「公演続行」を叫んだ。主催者側はその場を何とか収拾させようと「エルトン・ジョンの体調不良」というコメントをするも、その回答をうのみにできるような雰囲気もなく、逆に火に油を注ぐようなものだった。

 そして22時を回ったころになると「エルトン・ジョンからは早く会場を出てほしいとお願いされている」と伝えられたが、それにも「今さらふざけるな!」という声も上がった。とはいえそんなやりとりも、0時近くになると終電を気にしてか、千人以上いた居残りも2~300人ほどに激減していた。

 私とTも納得いく回答が得られるまでその場に残っていた。そんな居残り組の大半はアリーナ入場者だったが、1階や2階にも激しく抗議する者も残っていた。その抗議で一番印象に残ったのは、2階席に陣取っていた一風ダニー・ハットン(注6)に似たお兄ちゃんだった。 
 0時もまわり、終電もなくなったころに、やっと主催者から妥協案が届けられた。それは「本日の公演チケット半券を持参すれば、2日公演の2階席に入場出来る」というものだった。最後まで残った200人弱(多分)ほどの居残り客は、それに納得せざる得なく、会場を後に帰途につくこととなった。とはいえ、その時点でこの武道館2デイズは売り切れになっていなかったことを聞き、日本でエルトン人気は大爆発していなかった事実を知った。

 会場を後にした私とTは、私の居候先である牛込まで1時間以上とぼとぼと歩いた。道々、「明日の公演どうする?」とTに問いかけられるも、国立受験で1ヶ月以上猶予のある彼と違って、私大受験の私はカウント・ダウン状態でとても2日連続武道館に行く余裕などなかった。 なおこの事件は、翌日の朝日新聞に『八百長なみの騒ぎ~ロック公演「料金返せ」』として掲載されている。


 ところが、その後の新聞や雑誌で2日のコンサートを絶賛する記事を見て愕然とした。なぜなら、最低最悪だった1日とは比べ物にならないほど「素晴らしいパフォーマンスだった」とあったからだ。そこには煌びやかな衣装を身に纏い、公演時間も2時間を超え<Crocodile Rock>もしっかり演奏していたとあった。
 また1日には演奏されなかった<Saturday Night's Alright For Fighting(土曜の夜は僕の生きがい)>といったノリノリなナンバーも惜しみなく披露し、「完成度が高く濃密なコンサートは他に類を見ない」と絶賛の嵐だった
 この事件があって以来、私は連続公演のある初日チケットは絶対に購入しないと決めた。参考までに2/1と2/2のセット・リストを下記に列記しておくので、その無念さをくみ取ってほしい。

 <BUDOKAN HALL TOKYO JAPAN February 1, 1974 >
01. Introduction
02. Funeral For a Friend(Love Lies Bleeding)
03.  Candle In The Wind 
04. Hercules05. Rocket Man
06. Bennie And The Jets
07. Daniel
08.This Song Has No Title
09.Honky Cat
10. Goodbye Yellow Brick Road
11. The Ballad of Danny Bailey(1909-1934)
12. Elderberry Wine
13.I've Seen That Movie Too
14.Your Song

<BUDOKAN HALL TOKYO JAPAN February 2, 1974 >
01. Introduction
02. Funeral For a Friend(Love Lies Bleeding)
03. Your Song
04. Candle In The Wind
05. Hercules
06. Rocket Man
07. Bennie And The Jets
08. Daniel
09. This Song Has No Title
10. Honky Cat
11. Goodbye Yellow Brick Road
12. The Ballad of Danny Bailey(1909-1934)
13. Don't Let The Sun Go Down On Me
14. Elderberry Wine
15. I've Seen That Movie Too
16. All the Young Girls Love Alice
17. Step Into Christmas
18. band Introductions
19. Crocodile Rock
20. Saturday Night's Alright For Fighting 

 最後になるがその年の受験だが、こんなことに立ち会っていたせいもあって不合格の連続で二浪も頭をよぎる程追い込まれた。ただ運よく最後に受験したC大学へなんとか合格することができた。そして、音楽生活が充実する東京生活が始まることになった。なお秀才のTは希望通り国立のH大学に合格を果たしている。


(注1)イギリス本国の発売元DJM(ディック・ジェームス・ミュージック)のオーナー。

(注2)1973年1月リリースの『Don't Shoot Me I'M Only the Piano Player(ピアニストを撃つな!!)』 からの最初のシングルに<Daniel>を主張するエルトンと、<Crocodile Rock>を主張するDJM側との対立。結果は<Crocodile Rock>が選ばれ全米1位を獲得。その後、「トップ10ヒット」を条件にカットされたDaniel>は、全米2位・A.C.1位・全英4位となっている。このトラブルから、もっと自由な発言権や対等で公平な契約の必要性から自身がレコード会社を持つというきっかけに繋がった。
 

(注3)1973年5月に設立されたエルトン自身のレコード会社「The Rocket Record Company」。元々才能や実力がありながらデビューできない無名のアーティストに救いの手をさしのべるのが目的だった。初期レーベル・デザインは「きかんしゃトーマス」をあしらったもので、初リリース作品はディヴィー・ジョンストンのソロ・アルバム『Smiing Face』。このレーベルは1974年のニール・セダカ大復活の立役者となっている。なおエルトン自身のリリース作品1976年3月の第11作『Blue Moves(蒼い肖像)』から。


(注4)1974年6月リリースの第8作。1974年1月に超多忙スケジュールの最中、作曲、リハーサル、レコーディングをわずか10日で済ませている。


 (注5)1995年に開催された『An Evening with Elton John with Ray Cooper』。2月6大阪城ホール、7日 福岡国際センター、9日名古屋センチュリー・ホール、11日大阪城ホール、12日・14日・15日・16日日本武道館。

(注6)現在も活動するスリー・ドッグ・ナイトのヴォーカリストで、オリジナル・メンバーのひとり。

(文・構成:鈴木英之)

2021年8月8日日曜日

Cow Cow Boogie

 先日、ミュージシャン星野源の婚約発表があった。思えば2012年
The Beach Boysの結成50周年ツアーに出演してから5有余年、件のドラマ出演
後に星野の存在は社会現象となった。さらに1979年夏に開催されたイベントJapan Jam(The Beach Boysも来日する)に出演したサザンオールスターズは同イベントから5有余年、大作『Kamakura』は大成功を収め、自らの人気を盤石なものとした。


 星野の師匠筋には細野晴臣がいる。近現代の大衆音楽の碩学にして、自ら往時のサウンドの再現に勤しみ世間の評価も高い。
 当人は幼少時、影響を受けた音楽の中でBoogie Woogieを挙げている。

Cow Cow Boogie 細野晴臣

 Boogie Woogieは戦中から戦後の米国音楽の基層をなすものであって、その後訪れるRock'n rollにも大きな影響を与えている。
 当然ながら戦前生まれのBrian Wilsonにも影響がない訳ではなく、近年のインタビューや自伝等の中でBoogie Woogieの果たした大きな影響を述べている。
 Brianは母からピアノを学んだが、母はBoogie Woogie曲「(Pinetop’s) Boogie Woogie」を好みBrianもそれに親しんだという。
 2011年3月2日付け雑誌Goldmineのインタビューでも自身のBoogie Woogie愛を語っている、当時多大な影響を与えたのがFreddie Slackの演奏スタイルである。
 Freddie Slackは自らのバンドによる「Cow Cow Boogie」は大ヒットとなり、リリース元のCapitol Record隆盛の礎となった。
 そもそも(Pinetop’s) Boogie Woogieの作者はPinetop Smithという黒人で、1920年代非業の死を遂げており、Boogie Woogieのオリジネーターである。
 Brianの両親が好んでいた1940年代のBoogie Woogieは黒人コミュニティ限定されて
おらず、幅広く大衆音楽として既に普及していた。戦後以降のBoogie Woogieは黒人音楽の範疇を超えてCountry musicとの混交を激しく繰り返すようになる。
 Brianが好んだ多くのBoogieのフォーマットはHillbilly Boogieであり、言わばRockabilly誕生前夜の音楽でもあった。また、実父Murryの楽曲「Two Step,Side Step」もHillbilly Boogieの前に流行したWestern Swing風のアレンジでリリースされた版が存在する。

Johnni Lee Wills版Two Step Side Step(筆者蔵)

Cow Cow Boogie-Freddie Slack & His Orchestra 
w/ Ella Mae Morse

The House Of Blue Lights-Freddie Slack & His Orchestra 
w/ Ella Mae Morse

 Freddie Slackのピアノ演奏が楽しめる一曲である。Brianのピアノのチューニングは
かなり影響されていてSmile時代でもTack pianoを好んだ。
 The Beach BoysにおけるBoogie Woogieの影響は、Brian節が出始めるアルバム3枚目の『Surfer Girl』からうかがわれる。

 「Little Deuce Coupe」はBoogie Woogieを
基盤としたcar songである。

The Beach Boys-Boogie Woodie

「Boogie Woodie」はタイトル通り、surf musicからのBoogie Woogieへの回答である。一聴してわかる通り幼少時に両親から教わった(Pinetop’s) Boogie Woogieへのオマージュでもある。

Tommy Dorsey Orchestra-(Pinetop's )Boogie Woogie

 この動画の0:40辺りからのピアノソロは明らかにBoogie Woodieのリフとなっている。

The Rocking Surfer

 「The Rocking Surfer」は1950年代に流行したクラシックや伝統民謡を元にしたBoogie Woogieの制作フォーマットを借用している。

Bumble Boogie - Freddy Martin and his orchestra 

 原曲はRimsky-Korsakovによる「くまんばちの飛行」。
 同動画の2:20からのピアノソロは(Pinetop's)Boogie Woogieからの借用だ

Nut Rocker-B.Bumble and the Stingers

 B.Bumble and the StingersはEarl Palmer, René Hall,Plas Johnson,による覆面グループ。1962年のスマッシュヒットNut Rockerの原曲はTchaikovskyによる「くるみ割り人形」である。
 彼らはデビュー曲で「Bumble Boogie」をカバーしている、このプロジェクトの始動に際しては「Bumble Boogie」の作者 Jack Finaの多大な指南があったという。

Carmen Cavallaro-Anitra's Boogie 

原曲はEdvard GriegによるPeer Gyndtの一節より


 元the Stray CatsのBrian Setzerは自ら率いるBrian Setzer Orchestraによる全編Boogie風クラシックの『Wolfgang's Big Night Out』をリリースしている。

The Tri-Five-Come and Get It

 イントロはFreddy MartinのBumble Boogieから頂戴しているようだ
「Come and Get It」はCarlとDennisが加わりThe Tri-Fiveの変名により
(Damark 2400)リリースされているが実態は「The Rocking Surfer」だ。
 「The Rocking Surfer」の作曲クレジットは何かしらの伝統音楽を示唆いるが長らくその起源は不明であった。


 近年の研究で明らかになるうえで、手がかりとなったのは、本曲を当初Brianが命名したのが「Good Humor Man」。当時Californiaでも展開していたGood Humor社は有名なアイスクリーム販売店で街中を同社のトラックが走り回り、アイスクリームを街角で販売していた。


 そのトラックから流れるジングルの一つがチェコ民謡をルーツとする「Stodola Pumpa」であった。創業時のオーナーが用いて以来、1962年のオーナーチェンジまで南カリフォルニアでトラックから流れていた。


 BrianのGood Humor好きはその後も続き、あの『Sunflower』では自らアイスクリーム販売員に扮している。

        

 Cow Cow Boogieに戻ろう、この曲はBrianに多大な影響を与えているだけでなく、間接的に後のrock時代にも影響を及ぼしているのだ。
 フック部分の歌詞で牛追いのフレーズである

Get along, get hip, little doggies

Get along, better be on your way

Get along, get hip, little doggies


をアレンジし

So get along, sweet little woman get along

Better be on your way

Get along, sweet little woman get along

Better be on your way


に変えCow Cow Boogieの女性視点から、男性視点の列車に乗ってきた東部からの女性との逢瀬に転換したのがTiny Bradshawによる「The Train Kept A-Rollin'」だ。

Tiny Bradshaw-The Train Kept A-Rollin'

 本曲はBoogie Woogieの絶対的影響下にあることがわかる
さらにカバーしたのがJohnny Burnette Trioである。
 そろそろお馴染みのアレンジに近づいてきた感のあるThe Johnny Burnette Trio ヴァージョンだ。

The Johnny Brunette Trio-The Train Kept A-Rollin'

 フックに使われる「Get Along」はそもそも戦前の流行歌「The Last Round Up」の

Git along little dogie, git along, git along

の一節から転用している。
 牛追い歌の意で使われるGit alongはその30年後、車と女性にうつつを抜かす。
 Mikeをして「I git around」と歌わしめたのか?
 Hawthorneの風土がその伝世の謎を解き明かしてくれるのかもしれない。

George Olsen and his music版「The Last Roundup」
同曲は戦前日本にも伝播した。
東海林太郎版「カウボーイの歌」

 「The Train Kept A-Rollin'」は60年代に入りThe Yardbirdsによるカバーは一世を風靡する。同曲は世界へ拡散し多くのいわゆる「カバーのカバー」またはそのオマージュが現れる。
 弊誌の読者向けとしてはガレージ感満載の「The Train Kept A-Rollin'」をおすすめする。

Precious Few版

The Up版

Tav Falco & The Panther Burns版
Punk時代のJohnny Brunette回帰が明らかだ。

 メジャーアーティストで最も有名なのはAerosmith版だ。
 アルバム『Get Your Wings』で取り上げて以来同曲はライブの定番曲となっている。
 邦題「ブギウギ列車夜行便」となっている、この洋楽の邦題命名センスはユニークだが、この曲の出自をふまえれば至極伝統に忠実なセンスといえよう。

                           
 「The Train Kept A-Rollin'」は日本へ伝播し九州のバンド、サンハウスにより「レモンティー」として姿を変える。サンハウス解散後はシーナ&ザ・ロケッツにより歌い継がれる。
 同曲が収録されたアルバム『スネークマンショー』のプロデュースはBoogie Woogieで育った細野晴臣だ。シーナ&ザ・ロケッツは「オマエガホシイ」でThe Stoogesの「1970」をカバーした。
 同曲収録のアルバム『Fun House』をプロデュースしたDon Gallucciはかつて、Don and the Goodtimesを率いアイスクリーム売りに扮した。

                           

 「1970」をカバーしたThe Damnedは末期のT.Rexと共演し、T.RexはBoogie Woogieを70年代初頭のロンドンに蘇らせた。
Cow Cow Boogieの縁は果てしない。

(text by Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

2021年8月1日日曜日

Seals & Crofts について


Jimmy Seals (ボーカル、サックス、フィドル、ギターなど)
Dash Crofts  (ボーカル、ドラム、マンドリン、キーボード、ピアノなど)

 Seals & Croftsは1969年、Jimmy SealsとDash Croftsがロサンゼルスで結成したデュオで、1972年に全米6位となった 「Summer Breeze」 が最もよく知られていると思う。中学生の頃たまたま録音していたラジオでこの曲が流れた。当時はインターネットですぐに調べられる環境もなかったので、どんな人達なのかも知らないままカセットテープに録音したこの1曲だけをよく聴いていた。その後いつのまにか聴かなくなっていたけれど、最近改めてこの曲の魅力を感じる。


Summer Breeze / Seals & Crofts

 2人は元々テキサスの出身で、ロカビリーミュージシャンのDean BeardのバンドDean Beard and the Crew Catsなどで演奏していたらしい。1958年に「Tequila」のヒットで有名なThe Champsに参加する為ロサンゼルスに渡り、Jimmy Sealsはサックス、Dash Croftsはドラムを担当して数年間活動する。

 1962年、同じくThe ChampsのメンバーだったGlen CampbellとGlen Campbell & The GCsを結成。長くは続かず、その後しばらくして2人はThe Dawn Breakersというバンドに参加。この時彼らの音楽性にも大きく影響することになるバハイ教(19世紀にペルシャで発祥した宗教)に入信している。The Dawn Breakersという名称も、バハイ教の書物に由来しているらしい。このバンドには、Seals & Croftsの多くのアルバムでプロデュースを手掛けることになるLouie Sheltonも在籍していたようだ。1stアルバムプロデュースのBob Alcivarもアレンジで参加している。

Hear Me Now / Dawnbreakers

 1969年からはSeals & Croftsとしてデュオの活動を始め、TA Recordsから2枚のアルバムをリリース。1st アルバム『Seals And Crofts』(TA Records TA 5001)はBob Alcivar、2ndアルバム『Down Home』(TA Records TA 5004)はJohn Simonがプロデュースしている。その後Warner Recordsに移籍。Louie Sheltonプロデュースの4枚目のアルバム『Summer Breeze』(Warner Bros. Records – BS 2629)でヒットし人気デュオとなった。

 Seals & Croftsの音楽はカントリー、クラシック、ジャズなど多様なジャンルがルーツにあり、さらにバハイ教の影響が特徴的な異国情緒を生み出していたようだ。1980年の解散までコンスタントに活動し、多くの作品を残している。「Summer Breeze」の他、「Hummingbird」 「Diamond Girl」「Get Closer」などが代表曲。

Diamond Girl / Seals & Crofts

 そして2004年には再結成アルバム『TRACES』もリリースされている。
 2000年代初頭、Jimmy Sealsと彼の弟、Dan Seals(England Dan & John Ford Coleyなどの活動で知られる)はSeals & Sealsとしてツアーを行ったりもしていたそうだ。Dan Sealsは2009年に悪性リンパ腫で逝去。Jimmy SealsとDash Croftsの現在は、音楽的な活動は行っていないようだ。

【文:西岡利恵


参考・参照サイト

http://www.sealsandcrofts.com/

http://thompsonian.info/sc-landau-SR-1-71.html

https://thevogue.com/artists/seals-crofts/

https://www.lapl.org/collections-resources/blogs/lapl/music-memories-seals-family

http://louieshelton.com/biography/