1973年のエルトン・ジョンは出す曲全てが大ヒット、もはやスーパー・スター的な存在になっていた。その再来日公演のキャッチ・フレーズは、彼のヒット曲に引っ掛け「クロコダイル・ロックン・ローラー再来日」というものだった。個人的にも彼は1971年の初来日から人気も実力も数段スケール・アップし、上機嫌での凱旋公演になるだろうと思っていた。
この1974年2月の来日公演は、1973年末にリリースされたエルトンの代表作ともいえる初のWアルバム『Goodbye Yellow Brick Road(黄昏のレンガ路)』に伴うツアーの一環だった。ある意味このタイミングでのパフォーマンスは、長いエルトンの活動時期でもピーク時であり、この公演は私にとって最上の体験になるはずだった。
ただこの前年のエルトンはディック・ジェームス(注1)と<Daniel>のシングル化でのもめごと(注2)や、自身のレーベル「Rocket」(注3)の設立、全米ツアーという超多忙な日々を送っていた。
このような状態にありながら新作『Caribou』のレコーディング(注4)にも入り、日本からやオーストラリアへ向けたツアーに出発前に完成させるスケジュールという課題でプレッシャーがかかっていたようだった。そんなストレスからエルトンは「アルコール依存症」に陥り、体重もかなり増えていたという。
そんなエルトンの状態を全く知らない私は、大きな期待をもってこの初日の公演に臨んだ。コンサートは、最新アルバムのオープニングを飾る<Funeral for a Friend(Love Lies Bleeding(葬送〜血まみれの恋はおしまい(メドレー)>で幕を開けた。デヴィット・ヘンツエルによる風のSEから始まる壮大なシンセ・サウンドのドラマチックな展開に私の気分は一気に盛り上がった。そして主役のエルトンは演奏の途中でピンクのスーツで登場、ピアノ椅子に座った彼のプレイは力強く見えた。
そんななかこの公演を盛り上げようと大張り切りだったのが、レイ・クーパーだった。彼はそれまでエルトンを支えていたメンバー達以上に大張り切りで、その派手なパフォーマンスはひときわ目立っていた。 後になって考えれば、長年のサポート・メンバーは、2日の公演には間に合ったという、ど派手なステージ衣装が間に合わずエルトンの機嫌が悪いのを気遣い、おとなしく控えていたのかもしれない。
演奏が進み<Rocket Man>や<Daniel>といったお馴染みのナンバーが演奏され、会場全体に和んだ良い雰囲気が感じられるようになった。
ところがそんなエルトンのやる気を削いでしまったのが、コンサートの半ばで披露した<Honkey Cat>でのパフォーマンスだった。エルトンは機嫌が悪いなりにもテンションを上げようと、サビの「Get Back Honkey Cat~」でオーディエンスに「Hoo~」のレスポンスを要求した。
しかし、この曲は日本においては知名度の低いナンバーで、来場客からのレスポンスへの反応はまばらで鈍かった。その無反応ぶりにエルトンはピアノに肘をつき「お前らこのライヴに参加する気は無いのか!」とばかりにふてくされてしまった。
その後のセット・リストは淡々としたナンバーが多く、アリーナ周辺では「<Crocodile Rock>はまだか。」といった囁き声も聞かれた。そして、来場者がお目当てにしていた曲も披露されないまま一旦メンバーがステージを後にした。そしてお決まりのアンコールの手拍子が鳴り響いた。少しするとエルトンが一人ステージにひょっこり登場し、弾き語りで<Your Song(僕の唄は君の歌)>を披露した。この日本でも人気抜群の名曲の演奏は、この日のライヴで一番盛り上がった瞬間で、会場からを割れんばかりの拍手が起こった。
しかし、その演奏が終わるとエルトンはステージを後にして、サポート・メンバーも戻ってはこなかった。まだ20時を少し回ったばかりだというのに館内の照明がつき「本日の公演は終了しました」というアナウンスが入った。
事件はそこからだった、そのまま帰途につく観客もいたが、1時間少々という手抜きとも思えるパフォーマンスだったばかりでなく、ヒット曲も全て披露しないとあって、会場内は騒然となった。「クロコダイル・ロックンローラーが何で<Crocodile Rock>をやらないんだ!」 といった当然とも思える不満のヤジが多々あがるほどだった。
このようにその日の公演内容の不満から、かなり多くの来場者が会場に居残り主催者に「公演続行」を叫んだ。主催者側はその場を何とか収拾させようと「エルトン・ジョンの体調不良」というコメントをするも、その回答をうのみにできるような雰囲気もなく、逆に火に油を注ぐようなものだった。
そして22時を回ったころになると「エルトン・ジョンからは早く会場を出てほしいとお願いされている」と伝えられたが、それにも「今さらふざけるな!」という声も上がった。とはいえそんなやりとりも、0時近くになると終電を気にしてか、千人以上いた居残りも2~300人ほどに激減していた。
私とTも納得いく回答が得られるまでその場に残っていた。そんな居残り組の大半はアリーナ入場者だったが、1階や2階にも激しく抗議する者も残っていた。その抗議で一番印象に残ったのは、2階席に陣取っていた一風ダニー・ハットン(注6)に似たお兄ちゃんだった。
0時もまわり、終電もなくなったころに、やっと主催者から妥協案が届けられた。それは「本日の公演チケット半券を持参すれば、2日公演の2階席に入場出来る」というものだった。最後まで残った200人弱(多分)ほどの居残り客は、それに納得せざる得なく、会場を後に帰途につくこととなった。とはいえ、その時点でこの武道館2デイズは売り切れになっていなかったことを聞き、日本でエルトン人気は大爆発していなかった事実を知った。
会場を後にした私とTは、私の居候先である牛込まで1時間以上とぼとぼと歩いた。道々、「明日の公演どうする?」とTに問いかけられるも、国立受験で1ヶ月以上猶予のある彼と違って、私大受験の私はカウント・ダウン状態でとても2日連続武道館に行く余裕などなかった。 なおこの事件は、翌日の朝日新聞に『八百長なみの騒ぎ~ロック公演「料金返せ」』として掲載されている。
また1日には演奏されなかった<Saturday Night's Alright For Fighting(土曜の夜は僕の生きがい)>といったノリノリなナンバーも惜しみなく披露し、「完成度が高く濃密なコンサートは他に類を見ない」と絶賛の嵐だった。
この事件があって以来、私は連続公演のある初日チケットは絶対に購入しないと決めた。参考までに2/1と2/2のセット・リストを下記に列記しておくので、その無念さをくみ取ってほしい。
<BUDOKAN HALL TOKYO JAPAN February 1, 1974 >
01. Introduction
02. Funeral For a Friend(Love Lies Bleeding)
03. Candle In The Wind
04. Hercules05. Rocket Man
06. Bennie And The Jets
07. Daniel
08.This Song Has No Title
09.Honky Cat
10. Goodbye Yellow Brick Road
11. The Ballad of Danny Bailey(1909-1934)
12. Elderberry Wine
13.I've Seen That Movie Too
14.Your Song
<BUDOKAN HALL TOKYO JAPAN February 2, 1974 >
01. Introduction
02. Funeral For a Friend(Love Lies Bleeding)
03. Your Song
04. Candle In The Wind
05. Hercules
06. Rocket Man
07. Bennie And The Jets
08. Daniel
09. This Song Has No Title
10. Honky Cat
11. Goodbye Yellow Brick Road
12. The Ballad of Danny Bailey(1909-1934)
13. Don't Let The Sun Go Down On Me
14. Elderberry Wine
15. I've Seen That Movie Too
16. All the Young Girls Love Alice
17. Step Into Christmas
18. band Introductions
19. Crocodile Rock
20. Saturday Night's Alright For Fighting
最後になるがその年の受験だが、こんなことに立ち会っていたせいもあって不合格の連続で二浪も頭をよぎる程追い込まれた。ただ運よく最後に受験したC大学へなんとか合格することができた。そして、音楽生活が充実する東京生活が始まることになった。なお秀才のTは希望通り国立のH大学に合格を果たしている。
(注1)イギリス本国の発売元DJM(ディック・ジェームス・ミュージック)のオーナー。
(注2)1973年1月リリースの『Don't Shoot Me I'M Only the Piano Player(ピアニストを撃つな!!)』 からの最初のシングルに<Daniel>を主張するエルトンと、<Crocodile Rock>を主張するDJM側との対立。結果は<Crocodile Rock>が選ばれ全米1位を獲得。その後、「トップ10ヒット」を条件にカットされた<Daniel>は、全米2位・A.C.1位・全英4位となっている。このトラブルから、もっと自由な発言権や対等で公平な契約の必要性から自身がレコード会社を持つというきっかけに繋がった。
(注3)1973年5月に設立されたエルトン自身のレコード会社「The Rocket Record Company」。元々才能や実力がありながらデビューできない無名のアーティストに救いの手をさしのべるのが目的だった。初期レーベル・デザインは「きかんしゃトーマス」をあしらったもので、初リリース作品はディヴィー・ジョンストンのソロ・アルバム『Smiing Face』。このレーベルは1974年のニール・セダカ大復活の立役者となっている。なおエルトン自身の初リリース作品は1976年3月の第11作『Blue Moves(蒼い肖像)』から。
(注4)1974年6月リリースの第8作。1974年1月に超多忙スケジュールの最中、作曲、リハーサル、レコーディングをわずか10日で済ませている。
(注5)1995年に開催された『An Evening with Elton John with Ray Cooper』。2月6日大阪城ホール、7日 福岡国際センター、9日名古屋センチュリー・ホール、11日大阪城ホール、12日・14日・15日・16日日本武道館。
(注6)現在も活動するスリー・ドッグ・ナイトのヴォーカリストで、オリジナル・メンバーのひとり。
(文・構成:鈴木英之)
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