<1964年〜編 実践から創造へ>
多忙を極めるBrianがとった、Wall Of Soundを念頭においた1964年時の制作手
法とは
Plan A:Wrecking Crewをそのまま使って、
ヴォーカル・コーラスに専念する
Plan B:自分達の演奏+ゲストでなんとかやってみる
の二者であった。果たして両者のうちどちらに軍配が上がったか?
結果はPlan B
「Fun,Fun,Fun」 (全米5位)
「I Get Around」 (全米1位)
「Dance,Dance,Dance」(全米8位)
一方
Plan Aに基づく作品では
「Why Do Fools Fall In Love」(全米120位)
「He' a Doll-The Honeys」 (チャート圏外)
「She Rides with Me-Paul Petersen」(チャート圏外)
「Endless Sleep-Larry Denton」(未発表)
マーケットが評価したのはPlan Bであった、その後のサウンドの変遷を考慮すれ
ば両者に優劣があるわけではなく、共通するのは音数の多い事と最終ミックスが
モノであることだ。師匠筋のSpector譲りのお約束はしっかり守られている。
ツアーなどでリハーサル時間の少なさから採用したPlan Bではあるが、3トラッ
クのうち、空きトラックの活用は単なるダビングの域を超えて現在でも行われて
いるマルチトラックの手法の萌芽となっている。
United Western Studio及びGold Star Studioは、Brianの根城となった。このことは所属レコード会社Capitolの従属から離れ、社内スタジオや録音スタッフから独立したプロデューサーとして活動する契機となったのだ。
1964年においてすっかり日陰者になったPlan A手法だが、Larry Dentonの「Endless Sleep」はBrianの独創性の芽生えが見られる非常に貴重な作品だ。
1964年2月18日Gold Star Studioでのセッション・シート
参加ミュージシャンは、
Steve Douglas, Hal Blaine, Frank Capp, Bill Pitman, Tommy Tedesco,
Leon Russell, Al Delory, James Bond, Ray Pohlman
本作は弊サイト2014年12月13日の記事でも紹介されているが、単なるカバーにとどまらず、インスト部だけ一聴すればSMILE時代のアウトテイクと言われても分からない出来となっている。この土着的なモチーフは、本稿第一回でも紹介した「Back Home」にも共通するものである。Brianの曲想の根底にあるものは、戦前のboogie-woogieやミュージカル、western swing
等々、実父Murryの影響あれど米国の日々の営みに基づく音楽であり、
Mikeや時代ごとのパートナーによりコンテンポラリーなものへと昇華されていく。
Brian自身は語っていないが、おそらく本作のイメージを元に一年後Help Me
Rhondaの制作に繋がったものと思われる。
さて、Larry Dentonとは何者だったか?
長らく不明とされていたが、長年の研究により意外な事実が判明する。
前稿の終わりで述べたAustralia,New Zealandツアーでは、Roy Orbison, The Surfaris, Paul & Paulaらが同道した。その中のPaul & PaulaのPaulこと
Ray Hildebrandは本ツアー参加前に学業専念を理由に辞退し、急遽白羽の矢が立ったのが『Paul』の代役Larry Dentonだった。
(左)オーストラリアのTV番組に『Paul』として、
ちゃっかり出演したLarry Denton
(右)の画像と比べれば別人であることが一目瞭然
ツアー中Larryとは親交を深め、米国帰国後はその勢いでBrianとのレコーディングの約束をしていたようだ。上のセッション・シートの画像をご覧いただきたい。右上の部分が空白となっていることが分かる。通常ここにはレコード会社の名前が入る(=出資者である)が、中央の欄にはBrianの名前があるので、Brian独自の制作した原盤であることを意味する。Larryのその後音楽業界での足取りは途絶え本作のマスター・テープも世に出ぬままendless sleepを続けている。
1964年のPlanA方式で生み出された作品の中で、まだご紹介していなかった作品がある。至宝とも言ってもいいだろう、Glen Campbellの「Guess I' Dumb」は同年の作品群の中でも異色の出来であり、翌年1965年以降のサウンド志向を決定づけたマイルストーン
となっている。
1964年10月14日に行われた「Guess I'm Dumb」
レコーディングのセッション・シート
右上にはCAPITOL RECORDSとあるのでCapitol提出用の
マスター音源であることがわかる。
当初の構想としてはThe Beach Boysが歌うことが
最優先であったと思われる。
セッション記録から同曲セッションの直近のセッションは「Dance Dance Dance」である(10月9日)、明らかに曲調はアップテンポの陽気な曲であって、この
ムーディかつ洗練とややスレた感じ、そして唐突に採用されたオーケストレーショ
ンを用いた同曲とは相反する。
本作レコーディングの契機とは何だったか?
またPlan A方式なら自慢のGold Starでのエコーをふんだんに使うところだが、スタジオはUnited Westernでのエコーチェンバーを利用しているがエコー感が異なる。多くの評伝類はGlen Campbellへの労いの印として本作を提供した云々との経緯が語られているが、セッション当時はまだバックトラックのみでヴォーカル録音は行
われておらず、この時点での制作意図は不明である。
手がかりとなるのは、唯一1964年10月という日付だ。ここでも師匠Spectorのプロジェクトが大きな影響を与えていると思われるのだ。
Spectorは地元で活躍するblue eyed soulグループThe Righteous Brothersのポテン
シャルは自らのレーベルPhilles向きだと確信する、当時の彼らの所属レーベル
MoonglowからPhillesへの引き抜きを画策し、1964年10月1日に両レーベル間で契約締結となり晴れてPhillesからのリリースが実現する。そこから生み出された「You've Lost That Lovin' Feelin'」(11月リリース)はPhilles最大のヒットとなる。
ここで分かる事実とは、契約締結からリリースまで一ヶ月しかないことである。
おそらく同月前半のGold Starはほぼ同曲のセッションがらみでぶっ通してブッキ
ングされていたのではないのだろうか?(バックトラックだけでもテイクは40近く費やし、さらにヴォーカル+ストリングス+コーラスのテイクも長時間に及んだ)
Brian自身も同月後半はツアーとTAMI SHOWへの出演の予定があり、何とかWrecking Crewを調達できてもスタジオは根城のUnited Westernとなってしまったのだろう。
「You've Lost That Lovin' Feelin'」の作者はBarry MannとCynthia Weil
当時のヒット曲の多くを手がけた売れっ子であって、いわゆるBrill Building Soundの中心人物の一人でもある。彼らが当時在籍していた音楽出版社Screen Gemsには若き日のCarole Kingとその夫Gerry Goffinも在籍していた、Jan and DeanのJan Berryもそのひとりであり、Jan and DeanのマネージャーLou Adlerは同出版社の西海岸オフィス代表であった。
前年BrianはJan and Deanへの楽曲提供が縁でScreen Gemsの作家として契約していた。「You've Lost That Lovin' Feelin'」の噂は当然このScreen Gemsファミリーの中では公然の秘密であったはずだ。実際小心者のSpectorは何度も関係者に「You've Lost That Lovin' Feelin'」のデモを聞かせ意見を求めている、Brian自身はその中にいたかどうかは不明である
が「Guess I'm Dumb」制作の契機の一つであることは間違いない。
もう一つ疑問は残る、西海岸のライフスタイルの代弁者から一転して、至極パー
ソナルな「何も言えねー」と心情を吐露するに至る曲想はいかに形成されたのか?
鍵となるのが共作者のRuss Titlemanだ。本人の在籍していた高校は本人曰く
”Rockn' Roll HIgh School” Fairfax HighにはMo Ostin, Lou Adler, Phil Spector, Herb
Alpert, Steve Barriがいた。また本人の姉と付き合っていたのはMarshall Leib後にPhilが結成し大ヒットを記録したTeddy Bearsのメンバーだ。
そのツテもあってかRussはPhilからギターの手ほどきを受けつつ、その裏方や
Phil自身のグループのメンバーに加わるなどPhilの舎弟格として行動してきた。また、作曲家としてもPhillesのパートナーだったLester Sill経由でScreen Gemsファミリーとなっていたのだ。
年下とはいえBrianにとってRussはmini Spectorであった。Specto同様西海岸と東海岸を行き来するRussの存在はPhillesの源流であるBrill Buildingのもつ東海岸
的センスに触れるチャンスであったのだ。当時Brianは時間があれば、Lou Adler
のオフィスに立ち寄ることが多かったそうで、Russもよく来ていたそうだ。この縁で曲作りに参加するようになったようである。
実際RussはThe Beach Boysのセッションにも参加している。
8月に行われた「She Knows Me Too Well」で曲中聴くことができる
”キーン キーン”鳴る音はRussがマイクスタンドをドライバーで叩いている音だ。Russ繋がりで考えれば、確かにGoffin-King作を研究したと思しき、若者の持つ繊細さと感情の陰影をコードチェンジで表現した内容となっている。
また後に同曲はアルバム『Today!』に収録されたのも「Guess I'm Dumb」の流れ
で考えれば合点がいく。
同年のRussの作品のいくつかを事前にBrianも聴いていただろう。
DimensionからリリースされたThe Cookiesの「I Never Dreamed」 や多くの共演で知られる「What Am I Do With You?」は「Guess I'm Dumb」に繋がる内省的な響きとなっている。
Calore KingによるScreen Gemsで制作されたデモ用アセテート
Russ自身は10月以降はテレビの新番組『Shindig』におけるハウスバンドのメンバー加入により多忙となっているので8月から9月に「Guess I'm Dumb」の作曲が行われたものと思われる。
「Guess I'm Dumb」制作の伏線としてあげられるのは、ここでも同様Screen
GemsファミリーであるJan Berryの存在がある。
Janは既にアレンジとコンダクターとしての技量を持っていた。その力量を持って将来自身の曲を、オーケストラアレンジで制作することを企図
していた。その構想は翌年’65年にアルバム『Jan & Dean's Pop Symphony No.1 』で実現する。
また、Jan and Deanのレコーディングセッションへの参加は’64年になっても続
き、3月10日に行われた「Easy As 1,2,3」のセッションはBrianも参加した。
Brianもピアノで参加している。
「Easy As 1,2,3」はJanの当時のガールフレンドJill Gibsonが作曲しJanとJillとのデュエット曲である。いわゆるnorthern soul風の趣がありJan and
Deanの他の曲とは異彩を放っている。特にホーン部にはフリューゲルホーンが用いられている点はBrianにとって参考になったであろう。
また、そこから二ヶ月遡ること6月中旬は『Christmas Album』の制作期間であり、その中のスタンダード曲のアレンジャーはDick Reynoldsだ。
DickはBrianの幼少時からの憧れであるThe Four Freshmenの楽曲でのアレンジャーであるので、Dickの仕事に触れる機会は今後のオーケストレーション導入の伏線と
なった。実際翌年'65年にはDickを招聘し3曲セッションを行なっている。
また、SpectorがらみのストリングスアレンジではJack Nietzcheが多くを手がけたが、その初期(Paris Sisters, The Crystals)にあってはHank Levineが関わった。
1961年リリースのHank Levine and Orchestraの「Image-Part I」は地元ラジオ局
KFWBのテーマ曲で地元でも親しまれヒットした。どことなく 「Guess I'm Dumb」を思わせるが真偽は如何に。
(あくまでシャレなのでご愛嬌!)
レコーディングは3トラックのレコーダーで行われた。
Plan A方式なので師匠のSpector譲りのスタジオでのライブ録音
一発録りであるが、Brianの独自性がここで発揮されているのだ。
従来のSpectorの手法では
1トラック ドラム+ギター+ベース+ホーン
2トラック ヴォーカル+コーラス(後から録音)
3トラック ストリングス+効果音(後から録音)
そして1トラックモノマスター作成=完成
となるが 、本作以降のBrianの場合
1トラック ドラム+ベース+ギター (ライブ録音)
2トラック ピアノ+周囲の残響音+ストリングス(ライブ録音)
3トラック ホーンセクション (ライブ録音)
上記を1トラックにまとめ新たな3トラックレコーダーへダビング
(残り2トラックはヴォーカル+コーラス)
と、最終的には師匠Spectorと同じモノマスターとなるわけではあるが
バックトラック部分の録音手法は完全にマルチトラックを前提として
意識的に運用していることがわかる。
以後4トラックレコーダーが導入されるようになると、ドラム+ベース
を1トラック目に録音し、2トラック目にギターを録音するようになる。
本作で処理されているギターとホーンの音色は明らかにエコー感の薄い
原音に近い音で録音されている。ホーンについてはデビュー以来のこだわり?
か常にドライな音像となっている。
ギターについてもドライな音が本作以降
増えてくるようになる。通常ギターの録音はアンプの前にマイクを設置して、その音を拾ってコンソールでミックスするのだが、本作ではアンプっぽい音がしないのは何故か?
答えは意外なところにあった、Motown!
Motownではアンプのノイズ対策としてギターやベースからの信号を直接コンソールへマイクを通さず送る手法を開発していた、現在でもdirect input(また
はD.I)と呼ばれる手法だ。Motownの楽曲のうち、James Jamersonのベースサ
ウンドを好んで聴いていたPaul McCartneyは当初このdirect inputのマジックの原理を知らず、このサウンドの再現のため試行錯誤していた。特にユニークな
エピソードとしては、「Paperback Writer」の録音の際どうしてもMotownと同じ音が欲しいため、ラウド・スピーカーを出力ではなく入力機器として、なんと
マイク代わりに使ったことがある。
再びCaliforniaへ戻ろう、United Westernでもいつの頃からかこのdirect inputの手法が使われるようになったのだ。おそらくこれはMotownの西海岸オフィス開設と関係があるのだろうか?
オフィスの開設目的がA&Rやセッション、
音楽出版事業となっており、デモの制作で地元Los Angelsのスタジオを使った可能性は否定できない為、Motwonのセッションでdirect inputの原理を教わり、プリアンプ的な回路をカスタマイズして信号をブーストすればいいので、技術の伝搬は容易であっただろう。United WesternやGold Starでは機器の関係上direct inputによる演奏はスタジオ内でなくコンソールの近くで
行われた。
映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』で
再現された「Wouldn't It Be Nice」レコーディング風景
同動画の20秒目になんとdirect input を再現している
MotownのスタジオでのRobert White とJoe Messina
direct inputの機器が使われていることが見える
この手法はアルバム『Today!』以降の曲においてあちこちで使われており、
ギターストロークにユニゾンを求めたSpectorとは違いBrianの場合はポリリズムのギターアンサンブルを構築している。そして存在感のあるホーンが絡みストリングスやヴィブラホンなどが加わり、Gold Starのエコーが全てを包み込んで、Brian独自の管弦楽法が完成していく.....。
以後Brianはツアーからの脱退によりスタジオワークに没頭し、レコーダーのマルチトラック化に助けられライブでは再現不可能な作品を作り続ける。
Brian同様The Beatlesはマルチトラックやテープ編集の活用で、ロックの歴史を書き換えた。技術の進化が個々の感覚を開花させた、しかしそれが契機となり、皮肉にも両グループともメンバー間の不和を早めることとなった。
<完>
1965年3月18日付けで登記された「Guess I'm Dumb」
ヴォーカル録音は翌月4月でシングルリリースは6月だ。
この時点ではBrianが作詞、作曲となっている 。
シングルリリース直前に『Shindig』出演した映像(1965年5月19日)
作曲者のRuss Titlemanは当時同番組のハウスバンドの
メンバーであり、Glenも時々ギターで参加していた。
(text by MaskedFlopper / 編集:ウチタカヒデ)