2020年6月7日日曜日

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(沢田研二・ソロ編 井上バンド-2)

 前回はソロになって4年目にして確固たるポジションを確立した沢田の軌跡を紹介した。 そんな沢田が次に目指したものは世界進出だった。それを目論み、ロンドン録音による全曲英詞の第6作『THE FUGITIVE ~愛の逃亡者』をリリースした。このアルバムはトニー・ウェディングトンとウェイン・ビッカートン(注1)のコンビに委ねたもので、ここに収録された<恋のジューク・ボックス (Juke Box Jive)>は、一時期沢田のライヴでは欠かせない定番になっている。 
 そして翌1975年1月にはイギリスでシングル<愛の逃亡者 THE FUGITIVE>(国内12位)を、フランスでは<Mon Amoure Je Viens Du Bout Du Monde(日本語版:巴里にひとり)>(国内5位)をリリースした。このうち、後者はフランスのチャートでトップ4に入るビッグ・ヒットとなり、日本人として初めてゴールデン・ディスク賞を受賞するに至った。 そんな海外に向けたアクションは、1978年にフランス、ドイツ、ベルギー等でシングル<Rock'n Roll Child>を発売している。その後1974年のハワイ、1977年・1978年にグアム、1979年にシンガポール、1980年・1982年には香港にてコンサートを開催した。

 またミュージシャン以外に俳優活動も始め、『悪魔のようなあいつ』(注3)の主演を務めている。この劇中歌となった<時の過ぎゆくままに>はソロ3曲目の1位で、しかも5週連続(91.6万枚:年間4位)という堂々たるもので、彼最大のヒットとなった。

 なおこのドラマで共演した岸部修三はシングルの録音が終わり放映開始から間もなく井上堯之バンドを脱退、翌年には岸部一徳と改名し俳優の道に進んでいる。これによってこの時点まで存在が曖昧だったPYGは完全に消滅したと言える。

 
 そんなドラマの放映中の7月20日に、比叡山でファンに向け伊藤エミ(ザ・ピーナッツ)との結婚を報告するフリー・コンサートを開催している。そこでは井上バンドとミッキー吉野グループ(注2)を率い、ブルーのラメ入りアイシャドウを施したい派手なでたちでライヴに臨んでいる。 
 この結婚報道後も「ジュリー人気」は衰えることはなかった。それを象徴していたのが人気テレビ・ドラマ『寺内貫太郎一家』での、貫太郎の母役きん婆さん(当時:悠木千帆、現:樹木希林)が、沢田のポスターを見て「ジュリ〜ぃぃ」と身悶えしながら叫ぶファン心理をくすぐるお約束のポーズといえるだろう。 
 そして12月にリリースした大ヒット曲<時の過ぎゆくままに>を収録した7作目のアルバム『いくつかの場面』は、細野晴臣、鈴木茂、大瀧詠一、山下達郎など、井上バンド以外のミュージシャンが参加し、ジュリー・マニア以外にも大きな反響をよんだ。 
 このようにソロとして順調に見えた沢田ではあったが、1976年12月と翌1977年5月に発覚した暴行事件により、マスコミのバッシングにあい、1ヶ月間の謹慎処分を受けることになる。復帰後、久々に沢田自身の全作曲による力作『チャコール・グレイの肖像』をリリースした。ここからシングルとなった<コバルトの季節の中で>(7位)は、個人的にいえば沢田の自作中トップ・クラスに挙げられるほどの秀作だった。しかし事件の影響か思ったような成果は上らず、この年はNHK紅白歌合戦、賞レースなど催しを全て辞退している。この様子に「ジュリーもこれまで」といった報道が飛び交っている。 

 そんな逆風状態で迎えた翌1977年には開き直りとも思えるような行動に出た。まず年初の<さよならをいう気もない>(8位)では金色のキャミソールという衣装で登場、以後ヴィジュアル重視のスタイルをエスカレートさせていく。そして5月に発売された<勝手にしやがれ>ではかぶっていたパナマ帽を客席に飛ばすというパフォーマンスで、子どもたちもマネをするほど大きな話題をふりまいた。この曲はソロとして4曲目の1位で、しかも5週連続(89.3万枚:年間4位)という華々しいものだった。
 更にこのような派手なパフォーマンスは、Charとの共演でも話題になった<憎みきれないろくでなし>(3位)での“くわえ煙草にポリス・ハット”もきまりまくりっていた。そして年末には、ワインCMソング<あなたに今夜はワインをふりかけ>を収録した10作目『思いきり気障な人生』をリリース。このアルバムは沢田にとって自身最大ベストセラーとなり、一時の迷走から完全復活を果たした。

 その結果、この年の第19回日本レコード大賞、第8回日本歌謡大賞をW受賞するなど、同年の主要な賞レースを独占し、誰しもが認めるトップの座に返り咲いた。そして、この年にはタイガースから通算して、シングルの売上が1,000万枚を突破するという快挙も達成している。

 向かうところ敵なしといった1978年にはさらにヴィジュアルは過激化する。まず、刺青風の模様が施されたシースルーの上にナチスを連想させるハーケン・クロイツの腕章が施された軍服を羽織って歌う<サムライ>(2位)、セーラー服をプリントしたTシャツを着て水兵に扮した<ダーリング>(5曲目の1位)、オスカルの衣装に身を包んで歌う劇場用アニメ映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のエンディング・テーマ<ヤマトより愛をこめて>(2位)。さらに<LOVE(抱きしめたい)>(4位)ではスタジオに雨を降らせて血で染まった包帯を手に巻くというパフォーマンスを披露している。

 そんなこの年は年間のテレビ出演(バラエティ番組含)700本以上、ラジオ300本、地方公演100回など神出鬼没の露出ぶりで、恒例行事となったライヴ・アルバムも田園コロシアムのパフォーマンスをカセット限定で発表した。そのフィナーレとなった同年の第29回NHK紅白歌合戦では、紅白共にポップ・シンガーとして初のトリ(注4)を務めている。 
 このように誰しも認めるスーパー・スターとなった沢田は1979年も攻めのスタイルを加速させ、<カサブランカ・ダンディ>(5位)では歌いだしでウイスキーを口にふくんで霧のように吹き上げるのがお約束。また沢田自身が最も気に入らない曲と公言している<OH!ギャル>(5位)では、曲への反発もあってかマレーネ・ディードリヒをオマージュした女装メイクで登場し、身内の事務所から猛反発を買うこともあった。なおこの行動はブレーンの加瀬邦彦も後押ししていたようだった。このように常に話題のメイン・ストリートを突っ走っており、その存在感はアイドル歌手石野真子が<ジュリーがライバル>を歌うほどだった。 

 さらに歌手だけでなく俳優としても、主演した映画『太陽を盗んだ男』が第4回報知映画賞の作品賞に輝き、主演男優賞とW受賞。さらにキネマ旬報読者選定邦画部門で1位に選出され、日本アカデミー賞でも主演男優賞にノミネートされるほどの評価を得ている。 
 そんな沢田は11月に第10作『TOKIO』をリリースする。このアルバムのレコーディングには井上バンドの参加が大幅に後退し、当時ブレイクの兆しを見せていたYMO(注5)風のテクノ・サウンドを意識するものとなっていた。 
 そして、翌1980年1月1日にここからシングル・カットされた<TOKIO>(8位)のパフォーマンスでは、聴衆の度肝を抜くような電飾が施されたスーツ(注6)を身に纏い、パラシュートを背負って歌唱する奇抜なパフォーマンスで日本中を唖然とさせている。ただこのように過激なコスチュームに走る沢田の姿勢に対して井上堯之は拒絶し、同年1月24日にバンドを解散させ、PYGから続いた井上との蜜月は終焉となった。 
 
 とはいえ沢田のライヴにはパーマネントのバンドは不可欠であり、これ以降新たなバンドの結成を即し、AlwaysやEXOTICSを編成していくことになる。なおこのコラムは1970年代を振り返るものだが、1980年代のジュリーは日本の音楽シーンにとって欠くことの出来ないアイコンのひとりであり、その軌跡を完結編として次回まとめることにする。 


(注1)1970年代中期に活躍したソングライター&プロデューサー・チーム、1974と1977 年には英国の「ソング・オブ・ザ・イヤー」を受賞。代表作にはトム・ジョーンズの<Can’t Stop Loving You>(全米25位)、The Flirtations<Nothing But A Heartache>(全米34位)、そして1974年に全英1位(全米37位)となったルベッツ<Sugar Baby Love>等がある。1975年に自身のStateを設立。 

(注2)1974年にバークリー音楽院の留学から帰国した元ゴールデン・カップスのミッキ ー吉野が、以前から活動を共にしていたスティーヴ・フォックス、それに元The M の浅野孝己などと結成したバンド。1975年にソロ活動中のタケカワユキヒデ のサポートやレコーディングへの参加をきっかけにゴダイゴへ発展する。 

(注3)「3億円強奪事件」をテーマに製作されたTBSドラマ。 

(注4)紅組は山口百恵で彼女(当時18歳)の最年少記録は未だ破られていない。 

(注5)YMOが大ブレイクする『Solid State Suviver』の発売は1979年9月25日。 

(注6)総額250万の費用をかけたパラシュートを背負う衣装。そのコスチュームはビートたけしが「タケちゃんマン」の衣装に転用している。 


『比叡山フリーコンサート with 井上堯之Band,ミッキー吉野グループ』
 1975年10月10日 /  Polydor /  DR-950/1 国内チャート 4位 / 4.1万枚 

①Be My Brother Be My Friend、②夢のつづき、③グッド・ナイト・ウィーン((It's All Down To) Goodnight Vienna)(リンゴ・スター、:1972)、④夜の都会 NIGHT TIME、⑤恋のジューク・ボックス(Juke Box Jive)(ルベッツ:1974)、⑥十代のロックン・ロール(WAY BACK IN THE FIFTIES)(ルベッツ:1974)、⑦キャンディー CANDY 、⑧To Love Somebody、⑨時の過ぎゆくままに、⑩お前は魔法使い、⑪Medley:(1)Group Baund(インストルメンタル) (2)Move Over (3)The Jean Genie (4)You Gatta Move、(5)See See Rider、6)美しすぎて(You're So Beautiful)(ビリー・プレストン:1973/ジョー・コッカー:1974)、⑫花、太陽、雨、⑬自由に愛して歩いて、⑭What'd I Say、⑮聖者の行進(The Saints)、⑯気になるお前、⑰悲しい戦い、⑱残された時間、⑲叫び 

 1975年7月20日 蛇ヶ池人口スキー場に於ける、ピーナッツ伊藤エミとの結婚報告の披露したフリー・コンサート。この公演は後のGodiegoを連想させるようなミッキー吉野作①でスタートしている。当時の井上バンドはドラムの原田裕臣とベースのサリーが抜けたばかりだったが、原田はミッキー吉野バンドに加入しており観客には違和感なく馴染んでいたようだった。ジュリーのライヴとしては珍しくゲストにディヴ平尾、内田裕也、サリー、タローと昔からゆかりのメンバーが顔を揃え、⑭⑮で白熱のステージを披露している。

参考:カヴァー収録曲について
③グッド・ナイト・ウィーン  
 リンゴ・スターの1974年第4作アルバムのタイトル曲で、シングルは全米31位。

 ⑤恋のジューク・ボックス 
 1974年にリリースされたルベッツのサード・シングルで全英3位を記録。

 ⑥十代のロックン・ロール  
 1974年12月にリリースしたルベッツのファースト『Wear It's 'At』収録曲。

⑪Medley(6)美しすぎて  
 1974年にジョー・コッカーが全米5位に送り込んだ代表作のひとつで、第4作『I Can Stand a Little Rain』に収録。作者はB4『Let It Be』のセッションに参加した鍵盤奏者ビリー・プレストンで、自身も1974年5月リリースの第9作『The Kids & Me』に収録。


『リサイタル・ハムレット』 1977年8月10日 /  Polydor /  MR-9608/9    国内チャート 4位 / 6.5万枚

オーヴァーチュアー、②銀河のロマンス、③僕のマリー、④モナリザの微笑み、⑤君だけに愛を、⑥美しき愛の掟、⑦シーサイドバウンド、⑧青い鳥、⑨ラブ・ラブ・ラブ、⑩序曲~プロローグ~、⑪先王の死(Le Vieux Roi)、⑫先王の亡霊(Le Spectre Du Roi)、⑬亡霊の言葉(Priere Du Specture A Hamlet)、⑭忘れてしまおう(J'effacerai De Ma Memoire)、⑮俺は気が狂った(Je Suis Fou)、⑯狂気のオフェリア(OphelieE Oh Folie)、⑰なすべきかなさざるべきか(To Be Or Not To Be)、⑱静粛に (Ecoutez)、⑲オフェリアの死(いとしのオフェリア)(La Mort D'Ophelie)、⑳オフェリアへの愛(Je L'Aimais)、㉑終曲(Le Rideau Tombe)、㉒危険なふたり 、㉓勝手にしやがれ、㉔さよならをいう気もない、㉕時の過ぎゆくままに、㉖愛の出帆 LA MALADIE D'AMOUR (訳:竜真知子/Jacques Levaux) 、㉗愛は限りなく(Dio Come Ti Amo:J.Revaux) 、㉘誓い-二人の心- LE COEUR EN DEUX (Jacques Levaux) 、㉙SUPERSTAR(ベートーヴェン交響曲第5番第4楽章付 Tim Rice Andrew Lloyd Webber )、㉚I Belive In Music 

 1977年6月29日-30日NHKホールでスタートしたライヴ・パフォーマンスに演劇的要素を盛り込んだステージ。大復活を遂げたからこそ実現した、変幻自在のパフォーマンス活動といえる。 

『Julie Rockin’ Tour ’78( with 井上堯之Band,Horn spectrum)/田園コロシアム・ライブ』 1978年10月5日 /  Polydor KMF-1021 (カセットテープのみ)
  
①LIES (ストーンズ:1978)、②That All Right、③ハッピー・レディ、④探偵(悲しきチェイサー) 、⑤LOVE(抱きしめたい) 、⑥女はワルだ、⑦ヤマトより愛をこめて、⑧I Saw Her Standing There(B4:1965/エルトン・ジョン:1978)、⑨ダーリング 、⑩Hot Legs(ロッド・スチュワート:1977)、⑪Born Loose(ロッド・スチュワート:1977)、⑫I've Got The Music In Me (キキ・ディー・バンド:1974)、⑬(Encor)Rock'n Roll Child、⑭お前は魔法使い、⑮時の過ぎゆくままに、⑯I Belive In Music 

 1978年8月31日 の田園コロシアム・ライヴから。ロッド・スチュワートの最新作からのカヴァーに加え、1977年にドイツ・ベルギー・オランダでリリースしたシングル⑬を披露するなど、スーパースターらしい存在感が際立っている。 

参考:カヴァー収録曲について
①LIES 
 1978年にストーンズが発表した第8作『Some Girls(女たち)』の収録曲。このアルバムからロン・ウッドが全面参加(正式加入はビル・ワイマンが脱退した1991年)となった最初のアルバム。当時パンク・ロッカーたちに旧世代の代表格として標的となっていた彼らが、彼らの挑戦に対する解答として発表。このアルバムは全収録曲がライヴで披露されたほどの傑作だった。

⑧I Saw Her Standing There 
 B4の英国デビュー・アルバム『Please Please Me』収録曲。米国では<I Want To Hold Your Hand(抱きしめたい)>のB面ながら、14位のヒットとなる。全米1位となったエルトン・ジョンの1975年シングル<フィラデルフィア・フリーダム>B面にライヴで収録。それは1974年11月28日のエルトンのマディソン・スクエア・ガーデン公演に、ジョン・レノンが飛び入りした共演したものだった。 

⑩Hot Legs、⑪Born Loose  
 1977年にロッド・スチュワートが発表した第8作『Foot Loose & Fancy Free(明日へのキック・オフ)』の収録曲。⑩はシングル・カットされ、全米28位と全英5位を記録。なおこの曲はビートたけしのステージ・レパートリーでもある。

 ⑫I've Got The Music In Me  
 エルトン・ジョンのレコーディングに参加していたキキ・ディーがキキ・ディー・バンド名義で1974年7月にリリース。エルトンの設立したロケット・レコードからの作品で、全米12位と全英19位を記録した代表曲のひとつ。なお彼女は1976年にエルトンとのデュエットでリリースした<Don’t Go Breaking My Heart(恋のデュエット)>が全米全英で1位を記録している。 

『Julie Rockin’ Tour ’79 (with 井上堯之Band) 1979年8月25日 / 
 Polydor  KRZ-5001(カセットテープのみ) 

①OPENING~So Glad To See You Here(ウィングス:1979)、②おまえのハートは札つきだ、③恋のジューク・ボックス、④カサブランカ・ダンディ、⑤MC~アムネジア、⑥TOKIO、⑦Red Summer(Coca Cola CM Song)、⑧危険なふたり、⑨花・太陽・雨 、⑩Sunday Driver、⑪トロピカル・ウィンド・Summer、⑫翔べ“スニーカー”、⑬Brown Sugar(ストーンズ:1971)、⑭Only You Can Rock Me(U.F.O.:1978)、⑮We All Fall Down~堕ちてゆく夜、⑯ダーリング、⑰憎みきれないろくでなし、⑱Oh!ギャル、⑲勝手にしやがれ、⑳サムライ、㉑夜の河を渡る前に、㉒気になるお前 、㉓Stay With Me Baby(ロレーヌ・エリソン:1966)

  1979年7月28-29日の 渋谷公会堂公演で、これまで同様にバックは井上堯之バンド。ここでは11月に発表される予定の第10作『TOKIO』から収録曲をいち早く披露しているが、シングルとなる<TOKIO>の演奏は純粋なロック・ナンバーで“テクノ色”は薄い。また当時オンエア中のCoke CMを歌っているのも興味深いところ。

 参考:カヴァー収録曲について
①So Glad To See You Here  
  ポール・マッカートニー率いるウイングスと総勢23名の豪華ロック・スターの集結した“ロッケストラ”として録音されたナンバー。1979年第7作でバンドのラスト作となった『Back to the Egg』に収録。

 ⑬Brown Sugar 
 1971年にストーンズが自身のレーベルRolling Stonesレコードから初リリースした『Sticky Fingers』収録曲。シングル・カットされ全米1位を記録した、彼らの代表曲のみならず、ロックの古典的ナンバーのひとつ。

 ⑭Only You Can Rock Me
  “神”の異名を持つギタリスト、マイケル・シェンカーが在籍したことで知られる英国バンドU.F.O.の1978年第7作『Obsession(宇宙征服)』収録曲。シングル・カットされ全英50位と、バンドとしての初ヒット。

 ㉓Stay With Me Baby
  1966年にレディ・シンガー、ロレーヌ・エリソンが全米64位ソウル・チャート11位を記録した代表作。作者は<Time Is On My Side>で知られるジェリー・ラゴヴォイ、と<ライオンは寝ている(Lion Sleep Tonight)>のジョージ・デヴィッド・ワイスの共作。 

                                 (鈴木英之)

1 件のコメント:

  1. 1979年シンガポール公園見ました。今でも私の中でのベストライブです。

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