2020年4月18日土曜日

【ガレージバンドの探索・第八回】The Enfields - Friends Of The Family


 60年代の学生ガレージバンドに関しては、ひとつのバンドを詳しく知ろうとする人は多くないと思う。わたしもWebVANDAの連載を始めるまで、曲単位で聴いていてあまり個々のバンドについて調べることがなかったのだけれど、少し詳しく調べてみるようになると、その過程で発見する関連の曲がすごく良かったり、メンバーの意外な経歴が見つかったりするのがおもしろい。今回は、「I'm For Things You Do」という曲が好きだったThe Enfieldsのことを調べた。一般的に広く知られてはいないけれど、世界中の一定数のフォークガレージやサイケガレージ、トワイライトガレージ愛好家やコレクターから愛され続けているようなバンドだと思う。 

【結成当初のラインアップ】
  Ted Munda(ボーカル、ギター)Charlie Berl(ボーカル)
John Bernard(リードギター)
Bill Gallery(ベース)
Gordon Berl(ドラム)

 1964年、デラウェア州ウィルミントンでThe PlayboysとサーフロックバンドのThe Touchstonesという2つのバンドが統合する流れでThe Enfieldsが結成された。中心人物はソングライターでボーカル、ギターのTed Munda。
 Ted Mundaと Gordon BerlはThe Playboysのメンバーで、John Bernard、Bill GalleryはThe Touchstonesのメンバーだった。Charlie BerlとGordon Berlは兄弟。ブリティッシュ・インヴェイジョンの影響を受けていた彼らは、ロンドン自治区エンフィールドに因んで名付けられた有名なライフルからとって、バンド名をThe Enfieldsとした。

 1966年にRichie Recordsからシングルを3枚リリースする。プロデューサーはVince RagoとTony Pace。最初に「In the Eyes of the World」(Richie 669)が地元でヒット。この曲はTed Munda とCharlie Berlの共作のようだ。A面、B面とも同じ曲を収録し、DJがどちらをかけても良いようにした。次にリリースした、フォークロックの影響が強い「She Already has Somebody」(Richie 670)ではさらに大きなヒットが続いた。
B面曲の「I'm For Things You Do」はThe Zombiesの影響が反映されている。この2ndはA面、B面ともTed Munda作。



I'm For Things You Do / The Enfields

 この頃までにThe Enfieldsはウィルミントンで最も人気のあるバンドになっていたそうだけれど、全国的に認知されるには至らなかった。
3rdシングルはバラード曲「You Don't Have Very Far」(Richie 671)。B面の「Face to Face」はおそらくThe Whoの影響があったようだ。

 Bill Galleryが進学のためにバンドを去り、The Wrecking Crew(後にThe Blues Magoosに加わったGeoff Dakingが在籍していたローカルバンド)のJohn Rhoadsがベースで加わる。


 1967年の初めにラストシングルとなる「Twelve Month Coming」 / 「Time Card」(Richie 675)をリリース。チャートには記録されなかった。
その後Charlie Berlが徴兵され、バンドは解散した。

 The Enfields解散後、Ted MundaはJohn Rhoads と、地元の別のバンドThe TurfsのメンバーだったWayne Watson(ギター) 、Jimmy Crawford (ドラム)を加えてFriends Of The Familyを結成。1967年の5月にFrank Virtueプロデュースの下、フィラデルフィアのVirtue Recording Studiosで6曲のデモを録音する。Kama Sutra Recordsなど、いくつかのレーベルが興味を示したものの契約には至らなかった。


 1967年のうちにJohn Rhoadsがバンドを去り、Ray Andrews(ベース/ボーカル)、Lindsay Lee(オルガン/ボーカル)が加わる。
1968年7月、新体制で5曲が録音された。プロデューサーはJoe Renzetti。

 1991年にリリースされたDistortions Recordsのアルバム『The Enfields / Friends Of The Family - The Songs Of Ted Munda』(Distortions Records ‎– DB 1003)にはThe Enfieldsの全音源と、Friends Of The Familyの1967年の音源が収録された。そして1993年、Get Hip Recordingsから出たCD版(GHAS-5000CD)では、未発表だったFriends Of The Familyの1968年の音源5曲も追加されている。わたしは今回調べるまでThe EnfieldsのFriends Of The Familyというタイトルのアルバムだと思っていて、後半だいぶ雰囲気が変わるなあと思っていたら違うバンドの音源がまとまっていたらしい。


 Friends Of The Familyはこの他に、アルバムには収録されていない1968年のシングル
「Can't Go Home」 / 「How You Gonna Keep Your Little Girl Home」(Smash Records ‎– S-2144)もある。これは、Cameo Parkway Recordsのスタッフ・ライターNeil Brianが録音したものだそうだ。


Can't Go Home / Friends Of The Family

 Friends Of The Familyの録音はそれが最後のようだけれど、Ted Mundaはその後も様々な活動を続けている。ガレージに関連するところでは、The Blues Magoosにも在籍していたようで、1969年リリースのThe Blues Magoos 「Let Your Love Ride」(Ganim, G-100)はTed Mundaの作だった。


【文:西岡利恵】



参考・参照サイト

http://therisingstorm.net/the-enfields-friends-of-the-family/

http://musicofsixties.blogspot.com/2012/09/the-enfields-enfieldsfriends-of-family.html


http://musicofsixties.blogspot.com/2012/09/the-enfields-enfieldsfriends-of-family.html


2020年4月11日土曜日

追悼 志村けん~音楽で語るAnother Side


  去る2020年3月29日に昭和・平成年間を通じ、日本はもとより世界中に笑いを発信し続けていた「日本の喜劇王」の一人、志村けんさんが「新型コロナ・ウィルス」感染による肺炎のために、70才の生涯を全うされた。 

 私は1954年生まれで彼とは5歳違いだ。彼が荒井注さんの脱退を受けて、正式にドリフターズのメンバーに加入した1974年4月には既に大学生になっており、当時さほど興味を持っているわけではなかった。 

 そもそも私がドリフに夢中になっていたのは1969年の中学生時代までで、その頃も『8時だよ全員集合!』よりも『コント55号の世界は笑う』に興味が移っていて、彼がドリフに加入した時期は完全に「ドリフ離れ」していた。しかも1985年9月に幕を下ろした『8時だよ!~』の末期には、『オレたちひょうきん族』に夢中になっていたので、彼を語るのはおこがましいものかもしれない。 

 ただ、私はハナ肇とクレイジー・キャッツ(以下、クレイジー)にはじまるコミック・バンドへの興味が高く、いかりや長介とザ・ドリフターズ(以下、ドリフ)はもとより、ドリフ脱退組のドンキー・カルテットやウガンダ・トラ在籍時のビジー・フォー(彼らも渡辺プロダクション)あたりまで、かなりコアなコミック・バンド・マニアだ。 特に1960年代、「シャボン玉ホリデー」等で繰り広げられた、クレイジーとドリフのジャム・セッションによるアドリブから発展するギャグの応酬には心ときめいたものだった。

 ちなみに、志村さんが1968年にいかりや長介さんへの弟子入りを目指したのは、「音楽性の面」からだったという。そこから彼も私同様にクレイジーとドリフのコミック・セッションに心惹かれていた一人だったとも推測される。補足になるが、志村さんは中学以来熱狂的な「ビートルズ・ファン」だったということで、1966年7月2日に日本武道館公演でのザ・ビートルズ日本公演に足を運んでいると聞く。その時に隠し撮りした「ジョンのサン・グラス着用」写真をパネルにして持っているとのことだ。 

 ちょっとした笑い話になるが、私は1971年9月23日にレッド・ツェッペリンの初来日公演を日本武道館で体験しているが、オープニングの<Immigrant Song>で見た間奏でのステージ・アクションに「まるでドリフだ!」という不謹慎な連想をしてしまっている。 

 さて話は志村さんに戻すが、そんなコミック・バンドとしてのドリフでのポジションはギターだったというが、私自身は彼のギタリストという印象が薄い。それはカトチャンのようにハナ肇さんとのドラムでのバトル・シーンを頻繁に拝見した記憶がないからだ。ただ、三味線や琵琶といった楽器を変えての奏者としての印象は鮮烈なものだった。そのテクニックは鮮明に焼き付いており、また真剣なプレイの最中に時折ズッコケるといった伝統的なオチで笑いを取るスタイルには、彼がコミック・バンドのメンバーであることを再確認したものだった。 

 彼がドリフでブレイクしたネタは、1976年から唄いだした日本人で知らない人はいないほど有名な「東村山音頭」だった。しかしこのヒットは荒井注さん在籍時のドリフと基本ラインは同じで「クレイジーのようなオリジナルを避け、カヴァー・ソングや民謡等で勝負」という手法だった。言い方を変えれば、この時点での彼のネタはファンや一般に向けてドリフターズの正式メンバーとして立派に認知された成果だったが、それは従来路線のドリフに同化した結果だったといえるものだった。
  また1980年前後に大反響を呼んだ「カラスの勝手でしょ~♪」は、1972年以降に登場した<タブー>をBGMにしたカトチャンの「ちょとだけよ~」のストリップ・ネタ同様に、当時のPTAから「低俗番組」として目の敵にされている。こんな事例でも、彼はドリフの伝統をしっかり引き継いでいた存在だった。

 そんな志村さんが、「ドリフの~」ではなく「志村けん」という一コメディアンとして彼らしさを前面に打ち出して頭角を現すのは、1979年に始めた「ヒゲダンス」といえるだろう。 この曲のリズムは1970年代後期に「セックス・シンボル」の称号を与えられていたアメリカのR&B.シンガー、テディ・ペンダーグラスの曲からフレーズをリフレインしたカヴァーで、1979年にリリースしたサード・アルバム『Teddy』(注1)の収録曲<Do Me>だ。ただこの曲は本国でのシングル曲ではなく、1980年に<「ヒゲ」のテーマ>(注2)が大流行となった日本でのみシングル・カット(注3)されたナンバーだった。これは彼がソウル・ミュージック等に造詣が深いレコード・コレクターという側面からの成果だったといえるだろう。 

 またドリフ名義ではあるが<ドリフの早口ことば>(注4)もソウル・ミュージックからのひらめきと言われている。それはシュガーヒル・ギャングの<Rapper’s Delight>(注5)にウィルソン・ピケット1971年のヒット<Don’t Knock My Love Pt.1>(注6)のバック・トラックをはめ込んだものと一般には伝えられている。ただそれのみならず、この曲はダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイの共演アルバム『Dianna & Marvin』(注7)に収録された<Don’t Knock My Love>(注8)が1974年にヒットしたことも影響していたのように思える。 

 このような彼のソウル・ミュージックに触発されたセンスは当時、音楽業界からも注目された。その評価は1980年前後に発刊されていた音楽雑誌『jam』などからオファーを受け、ソウル系アルバムのレビューを寄稿する「ソウル・ミュージック評論家」としての顔を持つことに繋がっている。 

 更に「志村けん」としての代名詞と言われる「変なおじさん」の元ネタは、沖縄を代表するバンド「喜納昌吉&チャンプルーズ」の1977年本土デビュー曲(沖縄では1972年)として知られたナンバーだ。そんなこのシングルには「赤塚不二夫イラスト版ジャケット」(注9)があり、このイラストは「変なおじさん」を連想させるものだった。個人的な見解になるが、彼はこのイラストに触発されて「変なおじさん」を考案したのではないだろうか?もしそうであったなら、こんなところにも彼の音楽にこだわったギャグ・センスのひらめきに非凡さを感じる。 

 そして、1988年からは『志村けんのだいじょうぶだぁ』で、だいじょうぶだぁファミリーが様々なコスプレをして歌い踊ったことで話題になった<ウンジャラゲ>(注10)で視聴者を虜にしている。
 この曲はいかりやさんがドリフ時代「クレイジー的な音楽にはかなわない」とばかりに避けていた「ハナ肇とザ・クレイジー・キャッツ」のオリジナル・ナンバーだ。しかも、この曲はクレイジーの大ヒットではなく、クレイジー末期の1969年にリリースされた<あんた>のB面曲だったのだ。こんなことろから引っ張り出して再構築させているところにも、彼のギャグに対する探求心の旺盛さに圧倒させられるばかりだ。しかもこのカヴァーは、オリジナル・アレンジのままという大胆なものだった。
 なお、この曲では「中森明菜」「田原俊彦」など多くのシンガーを巻き込んだパフォーマンスが評判になった。そして「志村けんとだいじょうぶだぁファミリー」として「夜のヒットスタジオ」 に出演しているが、その際には大先輩植木等さんが登場し、御大の前で本家以上のパフォーマンスを披露している。


 とはいえ彼の功績は、過去の遺産を消化して見事に自分流のものに仕上げるものばかりにあらず、オリジナル・ユニットを通じてもそのギャグ・センスを爆発させている。そんなお馴染みのコンビと言えば、1993年田代まさしさんと組んだ<婆様と爺様のセレナーデ>(注11)、そして研ナオコさんとのユニット「けん♀♂けん」の<銀座あたりでギン!ギン!ギン!>(注12)が思い浮かぶはずだ。 
 とはいえ彼の矛先は、このようにありそうなメンバーだけでなく、2002年には当時一世風靡していたモーニング娘からの派生ユニット「ミニモニ」と組むという想定外のコンビをも誕生させている。そこでは「バカ殿様とミニモニ姫」名義で<アイ~ン体操/アイ~ン!ダンスの唄>(注13)をリリースし、何と「ゴールド・ディスク」を獲得するほどのヒットにつなげた。 


 そんな志村さんだが、彼は生前ジュリーこと沢田研二さんとの交流が深かった。その交流は彼がドリフに加入する前の「マックボンボン」時代に、ジュリー・コンサートの前座を務めていた頃から続いていたようだ。 
 そんな二人は2001年には『ジュリけん』(文化放送)という1時間番組で1年半近く共にしていた。この縁からか同年10月13日には『二人のビッグショー』での共演に繋がっている。さらに、2003年7月19日~8月9日の『沢田・志村のさぁ、殺せ‼』では舞台共演も実現しているが、これらは全てジュリーからの希望だったという。 このように日本を代表するシンガーであるジュリーが共演を切望していたのは、彼のコントには音楽の息吹が脈づいていたという証だったのではないだろいうか。

 近年の音楽の楽しみ方は「観賞用」としてではなく、完全に「BGM化」している。そんな昨今の世情ではあるが、志村けんさんの愛した「音楽ネタ・コント」の伝統は、後進に末永く引き継がれていかれることを祈るばかりだ。
 最後なってしまったが、改めて志村さんが生み出した沢山の「笑い」の功績に感謝し、ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。 


(注1)1979年6月 23日 Teddy Pendergrass 3rd『Teddy』 U.S.5位 R&B.1位 
(注2)たかしまあきひこ&エレクトリック・シェーバーズ 
    1980年2月25日発売 (SMS) SM06-52 5位 32.3万枚 
(注3)1979年 Teddy Pendergrass (Philadelphia International) 06SP-454 
(注4)いかりや長介とザ・ドリフターズ 第13作Single 
    1980年12月21日発売 (SMS) SM07-81 10位 23万枚 
(注5)1979年9月 16日 The Sugarhill Gang 1st Single U.S.36位 R&B.4位U.K.3位 
(注6)1971年4月 Willson Picket 36th Single U.S.13位 R&B.1位 
(注7)1973年10月26日『Dianna & Marvin』U.S.26位 R&B.7位 U.K.6位Japan1位 
(注8)1974年Dianna & Marvin 4th Single U.S.26位 R&B.7位 
(注9)喜納昌吉&チャンプルーズ 1977年11月5日発売 フィリップスFW-2007 
(注10)志村けんと田代まさしとだいじょうぶだぁファミリー
     1988年11月2日発売 ポニーキャニオン7A-0919 20位 10.1万枚
     ハナ肇とクレイジー・キャッツ 第20作Single<あんた/ウンジャラゲ> 
     1969年7月10日発売 東芝音楽工業 TP-2186 
(注11)1993年12月17日発売 ポニーキャニオンPCSA-00279 48位 2.9万枚 
注12)2001年10月28日発売 ポニーキャニオンPCSA-00279 41位 2.7万枚 
(注13)2002年4月24日発売 Zetima EPCE-5156 3位21.2万枚

                         2020年4月2日鈴木英之

2020年4月2日木曜日

WACK WACK RHYTHM BAND :『THE 'NOW' SOUNDS』(WWRB / WWRB004)


 傑作ファースト・アルバム『WEEKEND JACK』を2年前にリイシューしたのが記憶に新しいWACK WACK RHYTHM BAND(ワック・ワック・リズム・バンド)が、オリジナル・アルバムとしては、『SOUNDS OF FAR EAST』(05年)以来約15年振りとなるフォース・アルバム『THE 'NOW' SOUNDS』を4月4日にリリースする。

 彼等ワック・ワック・リズム・バンド(以下ワック)は、92年にフリーソウル・ムーヴメントの立役者の一人で東京モッズ・シーンの顔役である山下洋(ギター)の仲間達からリーダーを小池久美子(アルト・サックス)にして結成された。当時のクラブ・シーンを背景にイギリス経由のR&Bをベースとしたインスト・バンドだが、そのヴァーサタイルなスタイルは他に類を見ない唯一無二な存在と言えよう。

 本作には18年の10月と11月の7インチ・アナログ盤でリリースされた、『Easy Riding / I’ll Close My Eyes』と『Madras Express / Stay-Pressed』に収録された4曲をはじめ、エキゾチック・サウンドの大家マーティン・デニー(Martin Denny 1911年4月~2005年3月)、70年代からブルーアイドソウル~AOR界きってのシンガー・ソングライターであるボズ・スキャッグスのカバーまで全12曲を収録している。ここでは前回レビューした7インチ収録曲以外で筆者が気になった曲を解説したい。



 冒頭の「Everyday Shuffle」はキーボードの伊藤寛による作品で、イントロのジャングル・ビートに導かれたビッグバンド・サウンドをバックに伊藤のピアノがリードを取るシャッフル系のラウンジ・ナンバーだ。2コーラス目からは伊藤さおりのトロンボーン、仲本興一郎のソプラノ・サックスへとソロ楽器が受け継がれる。 
 続く「Flyaway on Friday」はベースの大橋伸行とトランペットの國見智子のソングライティングで、90年代UKジャズファンク経由のレアグルーヴなリズム・セクションに、ニューソウル系のムーディーなコード進行とヴォイシングが効いている。國見とパーカッションの福田恭子(仲本と共にVacation Threeのメンバーでもある)の女性2人のダブル・ヴォーカルが魅力的だ。


【wack wack rhythm band 
New Album THE 'NOW' SOUNDS trailer】 

 マーティン・デニーのカバーは「Something Latin」(『Latin Village』収録 64年)で、テナー・サックスとメイン・ソングライターでもある三橋俊哉の選曲らしい。オリジナルではアタックの強いアコースティック・ピアノとヴィブラフォン主体のエキゾチック・ラウンジだったが、ここでは鍵盤がウーリッツァーとなり、山下によるエレキシタールや福田によるスティールパンとクイーカが加わったことで豊かなアレンジになって新鮮に聴けた。
 一方ボズ・スキャッグスの方はサードアルバム『Moments』(71年)から冒頭の「We Were Always Sweethearts」を取り上げている。所謂「Tighten Up」(Archie Bell & The Drells 68年)に通じるシェイク系ファンクで、フリーソウルのルーツとしても面白い選曲だ。ここでは山下のヴォーカルもオリジナルを意識しているが、ベースの大橋とドラムの和田卓造のリズム隊の切れ味もあり、ワックの演奏に軍配が上がりそうだ。
 続く「Finish feat. Lemon」はタイトル通り、元ワックのメンバーで女性ヴォーカリストのLEMONがフィーチャーされたスカ風味の光速R&Bである。その圧倒的でソウルフルな歌唱はアルバムの中でも存在感を放っている。作曲は三橋で作詞は元ザ・ハッピーズで現中村ジョー&イーストウッズを率いる中村ジョーである。
 因みにこのイーストウッズにはワックから三橋、國見、福田の3名が参加している。蛇足だが弊サイト連載企画の「ベストプレイ・シリーズ」に参加した松木俊郎(ベース)と北山ゆう子(ドラム)はこのバンドの結成時からのメンバーである。 



 「Stay-Pressed」とラストの「Right and Bright」はいずれも三橋のソングライティングによるインスト・ナンバーで、前者はブッカー・T&ザ・MG'sよろしく古き良きスタックス・ソウル感漂うオルガン・ダンサーだ。後者は弊サイトではお馴染みのトニー・マコウレイが手掛けたファウンデーションズに通じる良質なノーザンソウルで、エレキとアコギを使い分けた山下のプレイが光る。 両曲ともフロアを熱くするに違いない。
 なおミキシングは大橋が10曲と、國見とマイクロスターの佐藤清喜が各1曲手掛けており、エンジニアリング面でもセルフ・プロダクションが行き渡っている。
 このレビューで興味を持った弊サイト読者や音楽マニアは是非入手して聴いて欲しい。
 (ウチタカヒデ)