2020年3月1日日曜日

1970年代アイドルのライヴ・アルバム(沢田研二・バンド編 Tigers期)

 今回は20世紀最大の男性アイドルのひとり「ジュリー」こと沢田研二のライヴ・アルバムについてレビューする。このコラムは1970年代に活躍したアイドルについてまとめているが、沢田の正式デビューはグループ・サウンズ(以下、GS)のトップ・グループに君臨した「ザ・タイガース」で1967年だ。ただ彼の正式ソロ・デビューは1971年であり、そして1970年代におけるアイドル・シンガーとしての活躍ぶりは目を見張るものがあった。そんな1979年には当時のトップ・アイドルのひとり石野真子が<ジュリーがライバル>というタイトルの曲をヒットさせ、1970年代アイドルのひとりとして語る価値があると思う。

 そしてタイガース解散後は、GS界きってのトップ・グループから人気メンバーが集結した「PYG(ピッグ)」へ参加、その後正式にソロ・シンガーとなっている。そんな沢田の軌跡を「バンド~ソロ編」の順で紹介するが、今回は「バンド編」をGS期とロック期に分け、GS期のザ・タイガースでの活動を振り返ってみる。  

 まずは始動となった「ザ・タイガース」だが、バンドは彼を除く4人[森本太郎(以下、タロー)、岸部修三(現:一徳、以下サリー)、瞳みのる(以下、ピー)、加橋かつみ(以下、トッポ)]が大阪で見たザ・ベンチャーズに刺激され1965年1月に結成した「サリーとプレイボーイズ」だった。当初はインスト主体バンドだったが、ビートルズ等の影響でヴォーカリストを擁したバンドへの転換をはかり、専属ヴォーカリストを物色した。そんな彼らが目を付けたのが、四条河原町のダンスホール「田園」のハコバン「サンダース」バンド・ボーイ兼ヴォーカル担当の沢田だった。  
 そして1966年元旦、沢田はピーをリーダーとした「ファニーズ」に加入。当時の活動拠点は大阪・難波のジャズ喫茶「ナンバー一番」。当初は週2回のステージで、回数を重ねるごとに人気が上昇し、演奏回数も増えていった。そして、この年5月に京都会館で開催の「全関西エレキ・バンド・コンテスト」で、ローリング・ストーンズ(以下、ストーンズ)の<サティスファクション>で優勝に輝き、翌6月にはホーム・グラウンドでのトップ・グループに成長。

 その評判は東京方面にも伝わり、著名人が彼らのライヴに足を運び、東京のプロダクションと接触を持ち、彼らを高く評価した内田裕也(当時、ブルージーンズ専属ヴォーカリスト)からスカウトされる。そんな彼を経由して「テレビに出るチャンスが多い事務所」というメンバーの意向も反映され、渡辺プロダクション(現「ワタナベエンターティンメント」以下、ナベプロ)と契約を結ぶ。

  そして同年11月に東京に進出し、バンド名を「ザ・タイガース」と改名(すぎやまこういち命名)、リーダーもピーからサリーに変更された。なお彼らの初テレビ出演は、すぎやまこういちがディレクターを務めていた『ザ・ヒットパレード』(フジ系)で、そこではポール・リビアとレイダースの<Kicks>を演奏している

  その後、日本グラモフォンのポリドール(現ユニバーサル・ミュージック)と契約。翌1967年2月には<僕のマリー>でレコード・デビューを果たしたが、この時点では数あるGSの1つにすぎなかった。そして第2弾スタッフ間では「あまりに騒々しい」など難色を示す声もあった<シーサイド・バウンド>の発売で状況が一変。この曲はデビュー曲に不満を持つメンバーの意向が尊重され、ザ・ビートルズのEP<Twist And Shout>をモチーフにしたジャケットで発売し大ヒットを記録。続く<モナリザの微笑>も連続ヒットと、それまでGS界の頂点に君臨していたスパイダースとブルーコメッツの牙城を切り崩す最右翼に躍り出た。 



 そして、11月5日にはファースト・アルバム『The Tigers On Stage』を発表。これは8月22日東京・サンケイホールのリサイタル模様を収録したライヴ作であり、そのレパートリーは洋楽カヴァーが多く、彼らのテーマ曲も「ザ・モンキーズ」から拝借したものだ。ちなみに、デビュー・アルバムがライヴだったのは数あるGSでも彼らだけだ。その当時のGSはライヴにおいては積極的に洋楽カヴァーを演奏しているが、タイガースはその選曲センスも抜群だった。ストーンズの<Time Is On My Side>は彼らの演奏で有名になったとも言われ、またポール・ジョーンズ(元マンフレッド・マン)の映画主題歌<傷だらけのアイドル(Free Me)>が、日本で話題になったのも彼らが演奏していたからという説もあるほどだ。そんなファンたちはコンサートで、良質な洋楽の洗礼を受けていたといえるだろう。

 ただ、このアルバムが発売された当日は、皮肉にも奈良あやめ池の野外ステージで開催された公演にて、押し寄せたファンが将棋倒しになり、多くのファンが負傷するという事故が発生。この事件以来、世間からGSに対し「風紀を乱す存在」「見るのは不良行為」なる烙印が捺され、以後彼らのような“長髪GSは世間からボイコットされる。とくにGSのコンサートには、学校やPTAの厳しい取り締まりが始まった。更に過敏に反応したNHKは人気番組『歌のグランド・ショー』で、当時収録済みのタイガース出演部分をカットするという暴挙に出た。また『NHK紅白歌合戦』にも対象外とされるなど、あまりに偏見の強いものだった。とはいうものの、そんなタイガースも1989年『NHK紅白歌合戦』の「紅白40回記念大会の昭和を振り返るコーナー」に初出場、そこでは<花の首飾り><君だけに愛を>を演奏している。


 このように世間からは逆風状況ではあったが、翌1968年1月リリースの<君だけに愛を>は、沢田の“指さしポーズ”に日本中のファンが熱狂し、GS史上でも屈指の名曲となった。ただ、当時一大旋風のアングラ・ソング<帰ってきたヨッパライ/フォーク・クルセイダース>が1位に君臨し、惜しくも2位止まりに終わっている。余談になるが、このようなノベルティー・ソングに1位を阻止された名曲には<木綿のハンカチーフ/太田裕美>がある。この時期には<泳げたいやきくん/子門正人>(史上初のシングル初登場1位・11週連続、454万枚以上)によってトップのチャンスを逃している。 


 話はタイガースに戻るが、この大ヒットにより彼らはGS界のトップ・グループに登りつめ、3月10日には日本人アーティストとして初の日本武道館単独コンサートを開催。そこには「月刊明星」3・4月号の招待券抽選に当選した1万2,000人ものファンが押し寄せ、スタッフは「あやめ池事件」の二の舞を踏まぬよう神経をとがらせていたという。当日は、初の主演映画『世界は僕らを待っている』主題歌となった5枚目のシングル<銀河のロマンス>と、映画の挿入歌でトッポ初リード曲<花の首飾り>(「月刊明星」1968年1~2月号で「タイガースの歌う歌詞」募集)の発表会も敢行した。そんな話題性と楽曲の素晴らしさもあって、このシングルは彼らにとって初のチャート1位(7週間)に輝き、売上げもGS史上最大のセールス(公称は130万とも200万枚超とも)を記録している。なお、募集歌は<ホリディ>(1967年/ビージーズ)を歌っているトッポをみたすぎやまこういちが、わずか30分で書き上げたものだった。ただ、歌詞の応募者の大半が沢田歌唱を想定とするがだったため、不満を漏らすファンもあったようだった。 

 さらに8月には彼らのファースト・アルバムに収録された<スキニー・ミニー>を連想させるような6枚目のシングル<シー・シー・シー>も連続1位(50万枚)を記録し、ゆるぎないGS界のトップ・グループに君臨した。余談になるが、当時中学生だった私は海水浴場やブール・サイドで、この曲を耳にタコができるほど聴かされた記憶がある。なお、GSには今も歌い継がれる名曲が多々あるが、1位獲得曲は彼らの2曲とテンプターズの<エメラルドの伝説>だけだった。補足ながら、当時はタイガースが「日本のビージーズ」、テンプターズは「大宮のストーンズ」とも言われた。だがタイガースはテンプターズ以上にストーンズ・ナンバーを多く歌い、沢田もミック・ジャガーを意識したパフォーマンスを展開している。なぜタイガースがビージーズと呼ばれていたかは、<マサチューセッツ>が日本で1位を獲得するほど人気が高く、所属が同じポリドールだからとも推測される。

  この爆発的人気を象徴するかのように、8月12日には日本における初の球場コンサートを後楽園球場で開催している。なおこのコンサートは一般にも大きな話題となり、当時の漫画「歌え!!ムスタング」(原作:福本和也、画:川崎のぼる/少年サンデー)の一コマに取り上げられている。どのように書かれているかは、国会図書館や京都マンガ博物館等の所蔵でチェックされたし。 
 そんなこの時期にはテレビで彼らを見ない日はないほどの人気頂点にあった。特に1967年12月からオンエアされた「明治製菓」のCMソングは、一般のヒット曲以上に日本列島の隅々まで響き渡った。そして、1968年春~69年秋までの間(合計3回)には「ザ・タイガース声の出るソノシート」(*1)が購入者プレゼントとして企画(包み紙150円分と切手70円が一口)された。 

 そして、1968年にはザ・モンキーズの来日公演(同年10月3・4日本武道館)の際に、彼らの希望で直接会う栄誉を持つ。さらに、テレビ番組『モンキーズ・ショー』のスポンサー(明治製菓)の絡みもあってトッポがタイガースを代表してディヴィー・ジョーンズとマイク・ネスミスとの対談に臨む機会を持っている。そこでは、トッポが持参したセカンド・アルバム『世界は僕らを待っている』を手にしたマイクから、「素晴らしいジャケットだ!」の称賛から始まった。そしてトッポは、「12月には僕の自作を収録した最新作が出る」とコメントするとディヴィーが興味を示し有意義な音楽談義に花を咲かせていた。

 そんなトッポ自作<730日の朝>収録したサード・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』は、ゴールデン・カップスの『ブルース・メッセージ』と並び、GSが生んだ大傑作と今も語り継がれているものだった。このアルバムは「旧約聖書」をコンセプトにしたトータル・アルバムで、メンバーのオリジナル曲も含む意欲作だった。その収録曲は、名曲の誉れも高い<忘れかけた子守唄>をはじめクオリティも高く、名作に恥じない楽曲が並び、日本の音楽シーンを牽引していた彼らにふさわしいものだった。さらにタロー作の<青い鳥>はシングル・カット(別テイク)され、大ヒット(4位:33.6万枚)。当時LPは驚異の20万枚超えの大ベストセラーとなった。 
 また、アルバム発売に先駆け<廃墟の鳩 / 光ある世界>(3位:30.3万枚)がリリースされているが、そのジャケットは伝説のバンド、バファロー・スプリングフィールドのサード・アルバム『Last Time Around』をモチーフ(その後、<美しき愛の掟><嘆き>にも)にしたものだった。
 

 そして、同月には主演第二作『ザ・タイガース 華やかなる招待』も公開され、タイガースはGSブームの牽引者として、さらに揺るぎない地位を確立している。しかし3月にはトッポがバンドを脱退し、一大ショックが日本中を駆け巡った。ファンにとっては<青い鳥>カップリング曲<ジン・ジン・バンバン>のエンディングで、メンバー同士による和気藹々とした笑い声を聴いていただけに青天の霹靂ともいえる事件だった。当時中学3年だった筆者の学校でも女子たちの動揺はすさまじいもので、なかでも私の憧れだった「ジュリーと同じポイントにほくろのある女子」を筆頭にこの話題に騒然としていた。とはいえ、新メンバーがサリーの弟・岸部シロー(以下、シロー)と報道されるや、「すごくハンサムらしい」と胸を膨らませており女心の移り気の速さに驚かされた。 

 シロー加入後の3月25日にはトッポ在籍時録音済みの<美しき愛の掟>を再録音版でリリース、4位(26.7万枚)と健在ぶりをみせた。その人気は海外にも伝わっていたようで、翌1969年3月1日にはアメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』 (Vol.28) の表紙にメンバー写真が掲載されている。これは日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾った最初で最後の栄誉だった。
  そんななか7月にシロー加入後、3作目の主演映画『ザ・タイガース ハーイ! ロンドン』を公開。また同月には映画の撮影で滞在したロンドンでの録音、ビージーズのギブ三兄弟提供曲<Smile For Me>(3位:28.4万枚)が発売された。このシングルは日本のB面曲<淋しい雨>をA面にして英国発売するなど、この年も話題に欠くことはなかった。ちなみにこの映画にはバリーが友情出演している。なお、この曲はビージーズがデモを録音したと聞くが、残念ながら筆者は未聴だ。当時この二大グループのジョイント・コンサート計画があったらしいが、ビージーズ多忙のため実現しなかったようだ。 

 この頃には急速にGSブームは完全に終焉に向っていたが、相変わらず沢田の人気は絶大だった。その事実はこの年に修学旅行で京都観光に出かけた際に感じさせられた、それは女子の一番気を惹いたスポットは「沢田の実家」だった。同乗のバスガイドが「ご覧ください」とコメントすると、女子が片側に寄りすぎバスが傾くほどだった。
 そんな12月には沢田がソロ・アルバム『JULIE』をリリース(公式データは6.9万枚だが、予約で15万枚あった報道も)、ここから<君を許す>(両A面<ラヴ・ラヴ・ラヴ>/18位:11.6万枚)がカットされた。1970年に入ると、岸部兄弟がソロ・プロジェクト『サリー&シロー トラ70619』を発表、タローはアイドル吉沢京子のデビュー曲を手掛けるなどメンバー個々が新たな道の模索始めている。

  この時期、所属事務所は沢田を将来的にソロ・シンガーとしての活動を目論み、沢田をバンド内で優遇して他のメンバーを「バック・バンド」として差別した。しかし彼はタイガース解散に最後まで反対し、あくまでバンド活動に執着した。そんな状況のなか同年3月リリースの<都会>は10位(14.4万枚)と健闘し最後のトップ10ヒットになった。 

 翌4月26日には日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージでの「ザ・タイガース・ショー」を開催、また7月には沢田初の書き下ろし曲<素晴しい旅行>(15位:13.4万枚)をリリースするなど健在ぶりをみせている。ちなみに、この曲のモチーフは<シーサイド・バウンド>らしいが、井上堯之によるアレンジで<I Feel Fine/ザ・ビートルズ>を連想してしまった。
 そんな沢田はザ・ピーナッツに<男と女の世界><東京の女>(47位:6.7万枚)、ロック・パイロットには<ひとりぼっちの出発>などを提供し作曲家としての活動もはじめた。ちなみに、彼の作曲家最大ヒットは、1982年にアン・ルイスへ提供した<ラ・セゾン>(作詞:三浦百恵/3位:35.4万枚)だ。  

 この1970年後半にはGSの存在は完全に過去のものとなり、ブームを牽引していた多くのグループが解散した。ただ、タイガースはそんな逆境を拭い去るかのように11月には、12月発売予定の第5作アルバム『自由と憧れと友情』からの先行シング<誓いの明日>(18位:5.7万枚)をリリースした。しかし、12月7日ついに王者タイガースも解散を表明し、翌1971年1月24日に日本武道館で開催の「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を最後に解散した。この模様は、ニッポン放送で3時間にわたって生中継され、1月30日にはテレビで録画放映(フジ系)された。そしてこの模様を収録したライヴ・アルバム『ザ・タイガース・フィナーレ』は7月10日に発売されている。ただ、このアルバムの発売に先駆け2月に『サウンズ・イン・コロシアム』が発売されている。この内容は1970年8月22日に田園コロシアム(東京・大田区)にて開催された『田園コロシアム ザ・タイガース・ショー』のものだ。元々はライヴ映像として、同年11月頃からファンクラブ用に上映さていた音源らしい。解散という旬な時期のリリースということもあってアナログ2枚組ながら、国内チャートで3位を獲得。これは彼らの最高位で、改めて人気の高さを証明 した。



※このライヴは1960年代リリースのため、参考リストとして収録曲のみ紹介しておく。 『タイガース・オン・ステージ』
 1967年11月5日 / Polydor / MP-1377 国内チャート 3位 / 3.7万枚 
2013年5月29日( ユニバーサル・ミュージック/USMジャパン UPCY-6698 )

 ①ダンス天国(Land Of 1000 Dance)(カニンバル&ザ・ヘッドハンダース:1965/ウィルソン・ピケット:1967/ ザ・ウォーカー・ブラザース:1968)~LA LA LA (シャムロックス:1966 )、②タイガースのテーマ (Theme Of The Monkees) (ザ・モンキーズ:1966)、③Ruby Tuesday(ストーンズ:1967)、④Lady Jane(ストーンズ:1966)、⑤Time Is On My Side (カイ・ワインディングと彼のオーケストラ:1963/・ストーンズ:1964)、⑥As Tears Go By (マリアンヌ・フェイスフル:1964/ストーンズ:1965)、⑦Skinny Minnie (ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ:1958/トニー・シェリダン&ビート・ブラザース:1964)、⑧僕のマリー、⑨シーサイド・バウンド、⑩モナリザの微笑み、⑪Everybody Needs Somebody (ソロモン・バーク:1964/ストーンズ:1965)、⑫Pain In My Heart (オーティス・レディング:1964/ストーンズ:1965)、⑬I'm All Right (ボ・ディドリー:1958/ストーンズ:1965) 、⑭ハーマンズ(G-クレフス:1961/フレディ&ドリーマーズ:1964/ハーマンズ・ハーミッツ:1964) 



『サウンズ・イン・コロシアム』 
1971年2月20日 /  Polydor /  MP-9361/2 国内チャート 3位 / 3.7万枚 
2013年5月29日( ユニバーサル・ミュージック/USMジャパン UPCY-6703 ) 

①Introduction~Honky Tonk Woman(ストーンズ:1969)、②(I Can’t Get No)Satisfaction(ローリング・ストーンズ:1966)、③Susie Q(デイル・ホーキンス:1957/ストーンズ:1964/クリーデンス・クリアーウォーター・リヴァイヴァル(以下C.C.R.):1968)、④I Put Spell On You(スクリーミン・ジェイ・ホーキンス:1956/ C.C.R.:1968)、⑤Route 66!(ナット・キング・コール:1946/チャック・ベリー:1961/ストーンズ:1964)、⑥(Sitting On The)Dock Of The Bay(オーティス・レディング:1967)、⑦Bee Gees Medley[a. 獄中の手紙(I’ve Gotta A Message To You)(ビージーズ:1968)~b. Words(ビージーズ:1968)~c.ジョーク(I Started A Joke)(ビージーズ:1968)]、⑧Looky Looky(ジョルジオ:1970)、⑨Cotton Fields (ハリー・ベラフォンテ:1958/バック・オーエンズ:1963/ビーチ・ボーイズ:1969/C.C.R.:1969)、⑩監獄ロック(Jahilhouse Rock)(エルヴィス・プレスリー:1957/ジェフ・ベック・グループ:1969)、⑪Travelin’ Band(C.C.R.:1970)、⑫Lalena(ドノバン:1968)、⑬What’s I Say(レイ・チャールズ:1967)、⑭都会 ⑮ザ・タイガース・オリジナル・メドレー(花の首飾り/坊や歌っておくれ/モナリザの微笑/青い鳥/坊や歌っておくれ)⑯Smile For Me、⑰散りゆく青春、⑱美しき愛の掟、⑲想い出を胸に、⑳ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)(アダモ:1969)、㉑Anyboday’s Answer(グランド・ファンク・レイルロード(以下G.F.R.):1969、㉒Heartbreaker(G.F.R.:1969)、㉓素晴らしい旅行、㉔怒りの鐘を鳴らせ、㉕ラヴ・ラヴ・ラヴ  

  ザ・タイガースの解散直後に発表された通算第6作で2枚目のライヴ・アルバム。 
 当日の前座は、ハプングス・フォー、アラン・メリル、ロック・パイロットが務め、またタイガースの演奏には、かまやつひろしが⑬などにヴォーカルやオルガンで、㉕にはハプングス・フォーのクニ河内がオルガンで参加しているようだ。  長年のライヴ活動の成果もあってか、バンドのコンビネーションは良好で、とくに要となるサリーとピーのリズム・セクションも盤石で、サイケ調のフレージングを聴かせるタローのギターもあわせ、彼らがライヴ・バンドとしても円熟していたことを証明している。 
 ここでは、各メンバーが選曲したナンバーでヴォーカルを取り、各自の嗜好がうかがえて興味深い。ちなみに沢田以外のヴォーカル・ナンバーは、「⑤タロー、⑥サリー、⑦⑫シロー(⑫のバックは、ブレッド&バター)、⑧ピーだ(トッポのリード曲はシロー)。なお⑧では沢田がドラムを披露、これはタイガースが沢田のバック・バンドではないことを再認識させている。また、③④⑪㉑㉒といった選曲や、プレスリーで有名な⑩では、ジェフ・ベック・グループのカヴァーをお手本にしたプレイ、⑨は英国で話題となっていたビーチ・ボーイズのテイクで披露するなど、当時のトレンドにも敏感に反応している。 

参考1:カヴァー収録曲について 
①Honky Tonk Woman 
 1969年にストーンズがリリースした傑作ナンバー。オリジナル・メンバーのブライアン・ジョーンズ脱退後の初シングルで、後任ギタリスト、ミック・テイラー初参加曲。結果として、英米1位(英5週、米4週)に輝く大ヒットとなり、以後、彼らのライヴでは欠かすことのない定番曲。なお、この曲でプレイされている「オープンGチューンング」は、このセッションに参加したスライド・ギターの名手、ライ・クーダーが発案したとも言われている。なおこの曲は彼らが長年所属したDeccaでのラスト・シングル。 
②(I Can’t Get No)Satisfaction 
 ストーンズが1965年に発表した初の全米1位(4週間/年間3位)とミリオン・セラーを記録した彼らを世界的なバンドに飛躍するきっかけとなった代表曲の1つ。この原型はキースが寝ている間に思いついたメロディと、ミックが考えたバラードとラップ的なフレーズを合わせた曲で、当初二人はシングル化をこばんでいたという。 印象的なノイジーなギター・リフは、チャック・ベリーの<30ディズ>(1955年)などをヒントに生み出した。この曲があったからこそ、彼らはビートルズの最大のライヴァル的存在になり、今なお現役バンドとして活動出来ているといっても過言ではない。 
③Susie Q 
 オリジナルは、1957年のデイル・ホーキンスで全米27位(R&B7位)を記録。1964年にはストーンズがセカンド・アルバムでカヴァーしたが、一般にはC.C.R.が1968年のファースト・アルバムに収録した8分超ヴァージョンが有名。なお後に短縮版シングルが全米11位を記録し、C.C.R.快進撃の起点となっている。 
④I Put Spell On You 
 ショック・ロックの元祖とも称されるスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが1956年に発表した彼の代表作。1968年になってC.C.R.がファースト・アルバムに収録し、その後シングル・カットされ全米58位を記録。 
⑤Route 66 
 ジャズ・ピアニストで、ジャズ歌手ジュリー・ロンドンの夫としても知られるボビー・トゥループが1946年に書き下ろした代表作。「ルート66」とはイノイ州シカゴとカルフォルニア州サンタモニカを結ぶ国道で、歌詞には沿線の地名などが登場。 同年、ナット・キング・コールがヒットさせ、以後多くのアーティストによってカヴァーされスタンダードとなった。1961年にチャック・ベリーのカヴァー(第5作『New Juke Box Hits』)が発表されると、このヴァージョンをお手本にストーンズ(英米ファースト)やゼムなど、ロック・フィールドにも広がり、さらに幅広いジャンルでカヴァーされる。ストーンズは1969年ツアーのオープニングに取り上げ、同ツアーの正規ライヴ盤以前に出回っていた海賊盤『Liver Than You'll Ever Be』で確認することが出来る。 なお、1960年には、NHKやフジテレビで放映された米国(CBS系)同名テレビ・ドラマのテーマになり、主演のジョージ・マハリスが唄ってリヴァイヴァル・ヒットした。 
⑥(Sitting On The)Dock Of The Bay  
 1960年<Gettin' Hip>でデビュー、<Respect>(1965年/全米35位;R&B4位)、<Try A Little Terderness>(1967年/全米85位;R&B20位)などのヒットで知られる“ビッグ・オー”ことオーティス・レディングの最大ヒット。1968年発表のこの曲は、彼にとって初の全米1位となったが、彼はその前年12月に飛行機時事故で故人となっていた。なお、この曲は1960年代で初めてアーティストの死後にチャート1位を獲得したものとなった。 
⑦a. 獄中の手紙 
 1963年にオーストラリアでデビューしたギブ兄弟を中心に結成されたビージーズの1968年のヒット曲。彼らは、1967年に<ニューヨーク炭鉱の悲劇(New York Mining Disaster 1941)>英米デビューを果たしており、この曲はその8枚目のシングル。全米で8位を記録し、全英では<マサチューセッツ>に次ぐ2作目の1位を獲得。 
b. Words 
 ビージーズ1968年の第6作シングル。全米では15位、全英は8位を記録。
 c.ジョーク 
 ビージーズ1968年の第9作シングル。全米で6位を記録。 
⑧Looky Looky  
 後に、ドナ・サマーのプロデューサーとして一世を風靡するジョルジオ・モロダーが、ジョルジオ名義で1970年に発表したポップ・ソング。スイスでは3位を記録するなど、ヨーロッパを中心に大ヒットとなり、ゴールド・ディスクに輝いている。
 ⑨Cotton Fields 
 1940年に黒人民謡の王者レッドベリー(ハディ・レッドベター)が、<コットン・ソング>のタイトルで歌ったカントリー・ソング。この曲が広く知れ渡ったのは、ハリー・ベラフォンテが1958年にヒットさせ、1959年の名作『カーネギー・フォール・ライヴ』のレパートリーにしたからといわれている。1962年にはハイウェイメンがヒットさせ、その後バック・オーエンズ(1963年)やニュー・クリスティー・ミンストレルズ(1965年)などがこぞってカヴァーし、カントリーの定番となった。 そして、1969年にはC.C.R.が第4作『Willie And The Pour Boys(クリーデンス・ロカビリー・リヴァイヴァル)』に収録、1970年にメキシコでシングル・カットされ堂々の1位にまたビーチ・ボーイズも1969年の『20/20』に収録し、1970年にはシングルが英国では5位(全米103位)と大ヒットとなっている。 
⑩監獄ロック 
 1957年にエルヴィス・プレスリーが7週連続全米1位を獲得した大ヒット曲で代表曲のひとつ。なお、全英では史上初の初登場で1位獲得曲となっている。また、この曲はプレスリー3作目の主演映画『監獄ロック』の主題歌でもあった。 1958年には日本でも、小坂一也&ワゴン・スターズや平尾昌晃などにカヴァーされ、ロカビリー時代を代表するヒット曲となった。さらに1969年には、ヴォーカルにロッド・スチュワートを擁したジェフ・ベック・グループが、セカンド・アルバム『Beck-Ola (Cosa Nostra)』でカヴァーし、大きな話題となった。 
⑪Travelin’ Band
 1968年から1970年代初頭にかけて大ブレイクしたC.C.R.が、1970年に放った12枚目のシングル。このシンプルなロックン・ロール・ナンバーは、当時ロカビリー・リヴァイヴァルのブームに乗り2週連続全米2位の大ヒットを記録した。なお彼らには、この曲を入れて5曲[<Proud Mary>(3週連続)、<Bad Moon Rising>、<Green River>、<Lookin’ Out My Back Door>]も全米2位を記録しているが、全米No.1を獲得出来なかった歌手、音楽グループの中で最多の全米2位楽曲を持つという珍記録を持っている。 
⑫Lalena 
 1965年に<Catch The Wind>でデビューし、イギリスのボブ・ディランと呼ばれた吟遊詩人ドノバンが、1968年に発表した13枚目のシングル。1960年代中頃を象徴するようなサイケデリック色の濃いメランコリックなフォーク・トラッド・ナンバーで、全米では33位を記録している。ただ、英国では契約の関係でシングル・リリースされなかった。 ⑬What’s I Say 
 スティービー・ワンダーも敬愛した盲目の黒人シンガー、レイ・チャールズがアトランティック時代に発表した代表曲のひとつ。1959年全米6位(R&Bチャート1位)を記録。 
⑳ヘイ・ジュテーム
 サルバトーレ・アダモ1969年秋のヒット。日本では1972年に発表された日本語アルバム『アダモより愛をこめて(“bonjour amis japonais!”)』の収録曲で知られる。 
㉑Anyboday’s Answer 
 1969年に結成された米国を代表するハード・ロック・バンドG.F.R.が、1969年に発表したデビュー・アルバム『On Time』の収録曲。 
㉒Heartbreaker 
 G.F.R.1st収録曲で1970年には4thシングル。大ヒットではないがライヴの定番曲で、日本でよく知られるようになったのは、1971年7月後楽園球場初来日公演での暴風雨の中の観客による大合唱から。 

 『ザ・タイガース・フィナーレ』 
1971年7月10日 /  Polydor /  MR-5004 国内チャート 10位 / 3.6万枚 
2013年5月29日( ユニバーサル・ミュージック/USMジャパン UPCY-6705 ) 
①Time Is On My Side、②青春の光と影(Both Sides Now)(ジュディ・コリンズ:1968/ ジョニ・ミッチェル1969)、③Yellow River(クリスティー:1970)、④ヘンリー8世君(I'm Henry The Eighth I Am)(ハーマンズ・ハーミンツ:1966)、⑤どうにかなるさ(サリー&シロー:1970/かまやつひろし:1970)、⑥出発のほかに何がある、⑦友情、⑧僕のマリー、⑨シーサイド・バウンド、⑩モナリザの微笑、⑪花の首飾り、⑫青い鳥、⑬銀河のロマンス、⑭君だけに愛を、⑮誓いの明日、⑯ アイ・アンダスタンド(I Understand Just How You Feel)、⑰ラヴ・ラヴ・ラヴ 
※当日の【ビューティフル・コンサート】の全演奏曲は下記の通り 
第1部 1. Time Is On My Side、2.Susie Q、 3.I Put A Spell On You(アンソニー・ホーキンス:1956/C.C.R.:1968)、4.青春の光と影(Both Sides Now)5. The Dock Of The Bay、6. Yellow River、 7.ヘンリー8世君(I'm Henry The Eighth I Am、8. Honky Tonk Women、9.Cotton Fields、10.Lalena、11.ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)、12.Gimme Shelter (ローリング・ストーンズ:1969/G.F.R.:1971)、13.あの娘のレター(The Letter)(ボックス・トップス:1968/ジョー・コッカー:1970) 、14.光ある限り(Long As I Can See The Light) (C.C.R.:1969)、15.Anybody’s Answer、16.Heartbraker 
第2部 17.都会、18.白い街、19.どうにかなるさ、20.出発のほかに何がある、21.友情、22.世界はまわる、23.僕のマリー、24.シーサイド・バウンド、25.モナリザの微笑、26.花の首飾り、27.青い鳥、28.銀河のロマンス、29.スマイル・フォー・ミー、30. 淋しい雨、31.君だけに愛を、32.美しき愛の掟、33.素晴しい旅行、34.怒りの鐘を鳴らせ、35.誓いの明日、36. アイ・アンダスタンド(I Understand Just How You Feel)、37.ラヴ・ラヴ・ラヴ 

 1971年1月24日に日本武道館で開催されたタイガースの解散コンサート(ビューティフル・コンサート)を収録した、彼らにとって通算第7作、第3作目のライヴ・アルバム。 
 実際は『~コロシアム』のライヴ同様、第1部は当時のシーンを意識したナンバーや、長年演奏してきたお馴染みの洋楽カヴァーが演奏されている。そして2部では近年のオリジナル・ナンバーとヒット曲を演奏し、まさにフィナーレを飾るにふさわしい長丁場の公演(3時間超)だった。 
 しかし、このリリースされた公式アルバムは、当日の演奏曲が大幅にカットされており、大変物足りない仕上がりになってしまっている。GSの終焉では仕方ないとは思うが、トップ・グループのラスト・アルバムとしてもう少し敬意を払っていただきたかった。 

参考1:カヴァー収録曲について 
①Time Is On My Side 
 ノーマン・ミードの書き下ろしで、1963年にジャズ・トロンボーン奏者カイ・ワインディングと彼のオーケストラがオリジナルといわれる。その後、1964年にソウル・シンガー、イルマ・トーマスとストーンズがカヴァー[セカンド・アルバム(米『12×5』、英『No.2』)]した。なお、ストーンズ版は4枚目のシングルとなり、全米6位を記録。 
②青春の光と影 
 1961年『A Maid of Constant Sorrow』でデビューした“青い眼のジュディ”ことフォーク・シンガー、ジュディ・コリンズが、1967年に大ヒット(全米8位)させた彼女の代表曲。同年、グラミー賞ベスト・フォーク・パフォーマンス・オブ・ザ・イヤーを受賞し、アン・マレーやフランク・シナトラなど多くがとりあげ、スタンダード・ソングの仲間入り。この曲の作者ジョニ・ミッチェルも1969年のセカンド・アルバム『Clouds(邦題:青春の光と影)』でセルフ・カヴァーしている。 
③Yellow River 
 1967年<When The Work Is Thru'>でデビューしたジェフ・クリスティー率いる英国3人組クリスティーが1970年に発表した第4作。この軽快なナンバーはまたたくまに全英1位に輝き、全米でも23位を記録、日本はじめ世界26ヶ国で1位となった。彼らはこの曲に続く<想い出のサンバーナディーノ(San Bernadino)>が全英7位(独1位)、翌1971年の<うわさの男(Man Of Many Faces)>も独で2位と気を吐いている。 
④ヘンリー8世君 
 1964年に<朝からゴキゲン(I'm into Something Good)>でデビューした英国バンド、ハーマンズ・ハーミッツが1965年にリリースした米国6枚目のシングルで、<ミセス・ブラウンのお嬢さん(Mrs. Brown, You've Got a Lovely Daughter)>に続き、全米1位を記録した彼ら代表曲のひとつ。 
⑤どうにかなるさ  
 ザ・スパイダースのかまやつひろし(以下、ムッシュ)が、グループ在籍中の1970年に発表したソロ・デビュー曲(50位)。元々はザ・タイガースのサリーとシローのアルバム『サリー & シロー トラ70619』への提供曲だった。この曲はムッシュのルーツとも言われるハンク・ウィリアムスの<淋しき汽笛((I Heard That) Lonesome Whistle)>をモチーフにしたといわれている。なお1971年6月、スパイダース解散後に発表されたムッシュのセカンド・アルバム『どうにかなるさ/アルバムNo.2』に収録。 
⑯アイ・アンダスタンド 
 1961年に米国コーラス・グループ、G-クレスフが<蛍の光(Auld Lang Syne)>をモチーフに全米6位に送り込んだヒット曲。その後、1964年にフレディ&ドリーマーズやハーマンズ・ハーミッツがカヴァー。ちなみにタイガースのカヴァーはハーマンズがベース。

*1)A面は5種類で、「あなたに電話するピー」(盤の色は青、BGM「君だけに愛を」~ただし、タイガースの演奏ではない、以下同)、「あなたとドライブするサリー」(盤は黒、BGM「シーサイド・バウンド」)、「あなたとデートするトッポ」(盤は緑、BGM「落葉の物語」)、「あなたと散歩するタロー」(盤はオレンジ、BGM「モナリザの微笑」)、 「あなたにささやくジュリー」(盤は赤、BGM「星のプリンス」)。いずれも本人のナレーションが収録されており、メンバーの個性がよく分かる内容になっている。B面は共通で、全員が出演する「お部屋でおしゃべりタイガース」だが、最後に2曲収録されている。  この2曲のクレジットの記載はないが、ジュリーが「愛しのデラ」と紹介して始まる曲(作詩=山上路夫、作・編曲=すぎやまこういち)と、「チョコレートは、めぇ~い~じぃ~」のフレーズでおなじみの明治チョコレートCMソング(タイトルは「明治チョコレート・テーマ」で、作詩・作曲=いずみたく)。 後者は間奏部分に<落葉の物語>のフレーズがインサートされるタイガース・ヴァージョンだが、アレンジはすぎやまこういちによるものと思われる。 
                              (鈴木英之)

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