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2018年5月16日水曜日

佐野邦彦氏との回想録13・鈴木英之


この回想録も「VANDA27」まで進み、今回紹介する「28」の製作期間となった2001年の中ごろから2002年の春頃になるのだが、この頃佐野さんは本誌以外の課外授業がさらに加速していた。そんな佐野さんの主たるスケジュールは、月1回のRadio VANDA、そしてWebVANDAへの日々情報発信に勤しんでいた。
まずRadio VANDA、ここでは彼にしかできない“佐野ワールド”が全開だった。例えば第21回のPat Upton(注1)特集など、「世界広しといえどここでしか聴けないプログラム!」と独自の視点のプログラムが組まれていた。さらに、VANDAスタート以前から探求している富田勲関連のアニメ・サウンド・トラックの特集も第15回に放送しているが、さらに本誌「28」に連動した特集も第23回で放送している。

またWeb.には続々リイシューされるCDや、1960年代の貴重DVDを入手しては、投稿を続けていた。その活動状況はサラリーマンの片手間で出来る範囲を逸脱しており、その多忙ぶりに、VANDA28の入稿を終えたのちに体調を崩して寝込んだと聞いた。
とはいえ彼のもう一つのLife Workとしていた沖縄離島への家族旅行(1999年より開始)もきっちりとこなしている。この2001年は6/2225にかけて34日で敢行した八重山諸島旅行記は「28」に6Pに渡って詳細に記されている。私自身もスキューバーダイビングのライセンスを取得した直後は、沖縄離島(慶良間諸島にある会社所有保養施設)に通っており、離島には馴染みがあったので、興味深く読ませてもらった。
そんな私にも音友の木村さんから「先日対談した林先生からオファーがありました。」という課外授業のメールが届いた。内容は彼の音楽作家生活30周年を記念したHistory本の制作依頼で、コピレーションCD(注2)と連動した企画と伺った。個人的に同郷出身(注3.)で、また清水エスパルスのファン(注4.)という話題で、より親近感を持ったので舞い上がるような気分だった。余談ながら、前回のインタビュー直前に林さんが音楽を手掛けたテーマ・パークのひとつ「レオマワールド」(注5)に、事前調査と家族旅行を兼ねて出向いている。そのインタビューではほとんどふれることはなかったが、こんな形で役に立つとは思わなかった。

2001年の春に初の打ち合わせで上京することになったが、彼の書下ろし曲が(その時点で)1,500曲はあるという話を聞き、打ち合わせまでにそのリストをまとめねばとあせっていた。そこで金沢工業大学PMCスタッフに協力いただき、書庫に籠って、所蔵レコードをチェックさせてもらった。とはいえ限られた時間ゆえ、500曲程度しか調査出来ず、不安交じりで打ち合わせに臨んだ。
当日、開口一番「リストが完璧になっていない」ことを告げると、「大丈夫、私の方にありますから」と本人の持参リストが渡された。そこにまとめられていたのは200曲程で、私のリストを見た林さんは大変驚かれ、その場で「全権依頼」の信頼を得た。そんな流れで当日の打ち合わせはすんなりと進んだ。なおここに佐野さん不参加だったので、その日のことを連絡すると、「鈴木さんらしいね!」と笑っていた。
その日から年末に向けて『林哲司全仕事』の制作がスタートした。項目については「History」「Works」「Disc Selection」以外に、三島にある林さんのスタジオ訪問と、著名人とのインタビューのラインナップも(ここのみ敬称略)萩田光雄、竹内まりや、杉山清貴、新川博、朝妻一郎、奥山和由、藤田浩一の7名がリスト・アップされた。すべてを一人でこなすのは厳しいと判断し、割り振りを決めた。まずスタジオ訪問は、ミュージシャンでオメガトライブのフリークでもある後輩K君と共同作業、彼には杉山さんのインタビューも依頼。また「まりやさんをどうしてもやりたい!」と手を挙げた松生さん、以外の5名を私が担当することにした。
この日から製作開始となったが、まず手を付けたのが、彼が手掛けた映画やテレビ・ドラマのサントラのチェックだった。幸いにもほぼ既発ビデオがほぼ揃ったので、しばらく映画鑑賞の日々が続いた。またインタビュー取材用資料として萩田光雄さん、新川博さんに関する編曲ワークス・リストつくりにも精を出した。
そして、いよいよ木村さん同行でインタビューを開始した。トップは林さんのYAMAHA時代の先輩であり、1970年代の日本の音楽シーンには欠く事の出来なかった重鎮で私の高校時代からの憧れ、作・編曲家萩田光雄さんになった。場所は品川プリンス・ホテルで、当日は林さんに関わったリストに加え、これまで手掛けた編曲リスト300曲程の作品を作成して臨んだ。対面時、そのリストに目を通された萩田さんはその内容に感心され、和んだ雰囲気の取材となった。林さんについては、「天国に一番近い島/原田知世」と「入れ江にて/郷ひろみ」(注6)にポイントをしぼっていた。それは大ヒットだけでなく、アルバム収録曲での印象が絶対必要と感じていたからだ。その回答をすんなりお話された萩田さんには「さすが!」と感嘆するばかりだった。その流れで、林さん関連以外の音楽談話にもお付き合いいただくことができた。そんな流れで初取材は充実度200%といえるほどだった。帰り際に萩田さんから「このリスト頂いていい?」と光栄な申し出に、私は「どうぞ、どうぞ」と即座にお渡しした。

幸先の良いスタートで、続いてはユーミンのバックなどで著名なキーボード・プレーヤで2000年には自身のレーベルを設立していた新川博さんとなった。場所は彼のスタジオで、ここにも本人のワークス200曲程度のリストを持参し、同行を希望したK君にも帯同してもらった。この取材も、リスト制作が功を奏し本論以外に大変興味深い裏話なども飛び出し、こちらも順調に終了した。その帰りには、新川さんの新作CDをお土産に頂き、「今回のリストをH.P.に使用したい」との要請を受け、帰宅後データ送信した。

この重鎮おふたりに続いては、林さんの存在無しには語れない杉山清貴さんとなった。当時は古巣Vapレコードに復帰(注7)で多忙中ながら、林さんのためにと快く協力していただいた。当初はK君単独予定だったが、原稿起こしのため私も同行した。取材はVap本社で、K君の満足げな表情に象徴されるように順調に進んだ。終了後、今回の本でも新作の告知協力する運びとなった。なお、このインタビューをきっかけに杉山さんは林さんに新曲のオファーを入れ、翌年リリースしている。またこの時期には『杉山清貴&オメガトライブBox/Ever Lasting Summer』を制作中で、その後この取材をきっかけにK君は『1986&カルロス・トシキ&オメガトライブBox/Our Graduation』のオファーを受けた。
このようにインタビューは順調に進行していったが、竹内まりやさんは新作(注8)キャンペーンで大忙しの中、体調を崩されてダウンされ、しばらく保留となってしまった。そんな訳で、他の対談相手(朝妻一郎、奥山和由、藤田浩一)は予定が決められず、「電話インタビュー」に切り替え、音友の応接室に出向いた。
まずは朝妻一郎さん(注9)からスタート。ここでは私がFM雑誌で彼の存在を知ったまだ無名時代を中心に伺った。電話ながら、デビュー当時の興味深い情報を聞きだし、実りの多い取材となった。そして、映画プロデューサーの奥山和由さん。こちらは林さんが担当した映画のサントラ(注10)の話題に終始した。そこでは現在進行中の作品の話まで広がり、林さんの最新作(注11)の話にふれると、「その音源を是非聴きたい!」とかなり本気モードに及んだ。終了後即この話を林さんにお伝えすると、彼は感激してサントラCDを送付している。最後に音楽プロデューサー藤田浩一さん(注12)、彼には作曲家林さんと黄金コンビで大活躍したVap時代の活動を聞かせていただいた

このようにインタビューはほぼ完了し、次は林さんのスタジオ(三島の自宅併設)取材を敢行することになった。ここには、私とK君に木村さんの三人で23日のスケジュールで現場に出向いた。そこに向かう途中でK君と「林さんはどんな車乗っているんだろうね?」という話題になり「もしかして「真っ赤なロードスター」?」(注13)と身内ネタで盛り上がっていた。ここでの3日間は林さんに「音楽の監査官に家宅捜査を受けているみたいだ!」とコメントされるほど、徹底した取材となった。

その後、体調が回復したまりやさんとの予定が決定した。ただ、肝心の松生さんが学会の都合でキャンセルとなり、急遽私が呼び出された。しかし、その前日は台風の襲来で新幹線も空路も運休、唯一の交通手段となった各駅停車に飛び乗り、10時間以上かけてやっとの思いで上京。当日の会場は所属ワーナーの応接室で私と林さんそれにご本人の三者対談となった。会場に「こんにちは。」と現れた彼女はまだ咳き込んでおり回復途中のように写った。そこでは私がまとめたかなりコアな質問集で進行したが、気持ちよく懇切丁寧に対応いただけた。余談ながら、この取材で私はまりやさんから風邪をプレゼントしていただいたようで、帰宅後高熱で寝込んでしまった。この事を佐野さんに伝えると「それが一番の収穫でしたね!」、知人たちからは「せっかくならもう少し温存して寝込んでいたら良かったのに、もったいない!」といじられる始末だった。

このように春から秋まで、仕事以外のすべての時間を使い全精力を費やした『林哲司全仕事』は、年末の発売に間に合わせることが出来た。この作業の最終チェック終了後、私は過労が原因でダウンしてしまった。この時は激痛で身動きできないほどで、病院で診察を受けた。医師からは、「ヘルペス(帯状疱疹)ですね。薬出しておきましょう。」と言われ、窓口で受け取った薬の値段(保険提示で)「1万円」には仰天した。ただ、服用後漫画のように完治して「スゲー薬!」と感動した。
なおこの発売告知として、発売日1210日「読売新聞(関東版)」第1面に広告掲載。発売の週末には、林さんの新ユニットGRUNIONのインストア・イヴェント(新宿タワレコ)を実施するなど賑々しくプロモーション活動が行われていった。また佐野さんにお願いしてRadio VANDAでも、第20回の第二特集で私の収録したテープ音源を放送した。ちなみにこの本はVANDA名義で出版しているが佐野さんは直接参加していない。とはいえ発売後多くの読者から賞賛のコメントを頂き、胸をなでおろした。このように2001年はめまぐるしく過ぎていった。

このプロモーションが終了すると、「28」に掲載するコラムに取り掛かっている。ただ、課外事業の紹介がだいぶ長くなってしまったので、2002年々初から春にかけてのやりとりは次回にまわすことにさせていただく。

(注11969年全米12位のヒット「More Today Than Yesterday」を持つThe Spiral Staircaseのリード・ヴォーカリスト兼ソング・ライター。
(注2)『林哲司ソングブック~Hit&Rare Track~』『林哲司ヴォーカル・コレクション~ナイン・ストーリーズ~』『林哲司ヴォーカル・コレクション~タイム・フライズ~』『林哲司サウンドトラックス~Movie&TV Tracks~』の4作品。
(注3)出身は富士市、鈴木は清水市(現:静岡市清水区)。

(注41999124J1チャンピオン・シップ第2戦(清水vs磐田)を日本平スタジアムで観戦。林さんは「清水エスパルス」の公式応援歌「王者の旗」の作曲者。

(注5香川県丸亀市に1991開業したテーマ・パーク。私は無期限休園(20009月)に入る直前に来園。なお、この施設は2004年に「ニューレオマワールド」として再開。

(注6「天国に~」は林さんの初1位獲得曲。「入り江にて」は1979年『SUPER DRIVE』(24丁目バンド参加の「マイ・レディー」別ヴァージョン収録)への提供曲。

(注71983年オメガトライブでのデビューからソロとなった1990年までVap、その後Warnerに移籍。20017月にVapへ復帰し(第17作)『ZAMPA』を発表。

(注820018月発表の第9作(復帰4作)『Bon Appetit !』。

(注9フジパシフィック音楽出版社長(当時;現代表取締役会長)。Jigsawへ林哲司作の「If I Have To Go Away」を売込。この曲は全米93位、全英36位のヒットを記録。

(注10)『ハチ公物語』(1987年松竹富士)、『遠き落日』(1992年松竹)、『大統領のクリスマスツリー』(1996年松竹)など。特に1996年作の音楽を絶賛されている。

(注112000年フジ系で放送された今井美樹主演のテレビ・ドラマ『ブランド』。

(注12GSアウトキャスト~The Loveのメンバー。1975年「トライアングル・プロダクション」を設立し、プロデューサーとして、角松敏生、杉山清貴&オメガトライブ、菊地桃子を輩出。20091011日没。

(注13Tinker Bell/松田聖子』(1984年第9作)への提供曲。

20185152000

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