前回は「VANDA26」が発行された2000年の中ごろまでについての記憶を回想してみた。この「26」の裏表紙には、この時点で発刊されていた6冊が写真付きで掲載され、近日発刊予定の「ソフト・ロックA To Z:日本編(正式題:Soft Rock In
Japan)」と「ビーチ・ボーイズ・コンプリート:New Edition(正式題:ザ・ビーチ・ボーイズ・コンプリート:revised edition」)も紹介されていた。前者は私がほぼ主導的なポジションで関わらせてもらったが、後者については佐野さんのLife Workという認識でいたため、執筆するには恐れ多い気がして情報提供者としては協力を惜しまなかったが、メンバーからは外させていただいた。
このようにこの頃は佐野さんだけでなく、私をはじめVANDAに関わっていたメンバーも課外授業が盛んだった。ただ、彼には本誌を発行していくために絶対に解決しなければならない重要課題があった。それは本誌の編集作業をどのようにしていくかということだった。そんな折、本誌「26」の編集に尽力いただいた(当時)音楽之友社(以下:音友)に勤務されていた木村さんより「音友への売り込み話」があったようだった。佐野さんにとって費用負担の軽減という願ってもない誘いではあったが、スポンサーを持つことで、これまでポリシーとしていた「自由なスタンスでの活動が制約されるのではないか?」と考え、積極的には行動に出なかったようだった。そんな悶々とした時期が続いていたが、ある時これまでVANDAが発刊する単行本の表紙を手掛けていたデザイナーのO氏から「格安で協力する」という申し出があり、佐野さんとしてはその方向で進めたいという気持ちが高まっていた。とはいえ、この好意を受け入れるための費用をどのように捻出するかという壁にぶち当たっていた。
そんな悩みを耳にした松生さんから私に「二人で費用を協力しませんか?」という連絡が入った。要するに、編集費を三等分して負担するという持ちかけだった。正直なところ、医師をされている松生さんと私とでは経済状況が違うので即答は出来なかったが、これまでの佐野さんへの恩返しにという気持ちから、「27」以降の編集代金を負担することを承諾した。この申し出に佐野さんは大変喜んでくれ、「負担分として本誌のページを提供するので、自由に書いて下さい」という話を頂いた。
こんなありがたい提案をいただいたが、この時期は「Soft Rock In
Japan」の内容吟味や割り振りなどに追われていたため、その時点では「Three Dog Night(以下、TDN)」くらいしか思いつかなかった。本音は高校時代から長らく聴き続けていた(特に日本では)軽視傾向にあるポップ系バンドについてまとめてみたい願望は持っていた。ただこの多忙状態ではVANDAとして発表できるレベルでまとめる自信がなかったので、その他の掲載については追々お願いすることにした。
少々話はそれるが、この当時一番はまっていたのは、子供の影響でテレビ番組「Hatch Potch
Station」だった。ご存知の方も多いと思うが、この番組はグッチ祐三さんを中心にしたマペット・バラエティ番組で、NHK・Eテレ(旧NHK教育)で歴代最高視聴率を記録したことでも話題となっていたプログラムだ。内容は架空の駅で繰り広げられるコント番組だが、音楽ファンには「What’s
Entertaiment」なるベタな洋楽を本人のコスプレをしてなりきりで歌う童謡替え歌に熱い視線が集まっていた。
ただ放映時間が、朝や夕刻でリアルでは見る事はほとんどなく、録画予約して週末にまとめて聴くのが常だった。その映像は佐野さんにも定期的に送っていたが、彼から「Oさんもあの番組のファンみたいで、全部チェック出来ないと嘆いてましたよ!」と伺い、Oさんと連絡を取りお互いに収録した録画ソフトを交換するようになった。余談ついでながら私のイチオシは「マホービン・ゲイ/山口さんちのツトム君」だった。この中味はMarvin Gayeが「Let’s Get It
On」リリース時期に出演した「Soul Train」出演時のコスプレで、Marvinの生前ラスト・ステージとなった「Motown 25th Concert」でのパフォーマンスを彷彿させる「What’s Goin’
On」の替え歌で「It’s
Got Too Go E No(いつが都合良いの)」とシャウトするところが大のお気に入りだった。なおこの番組は大好評につき、番組終了後も数年間「ハッチポッチあんこーる」として継続されていた。私はそれらも含め必死でチェックしていたが、ずっと気になっていた「しってる・ポルナレフ/雀の学校(シェリーに口づけ)」「グランド・ファン・クラブ・レイルロード/かもめの水兵さん(ロコ・モーション)」は、You Tubeが普及した現在でも残念ながらお目にかかった事がない。
話がだいぶ脱線してしまったのでVANDAに話は戻すが、「27」に向けて佐野さんが熱中していたものは、Radio VANDAの2000年7月で放送した「富田勲ミニ特集」が評判となったのに気を良くした「劇伴奏時代の富田勲」だった。それが証拠に、当時Radio VANDAの音源と一緒に「富田勲テレビ主題歌」テープを必ず同封してくれた。私も幼少より『手塚アニメ』『円谷プロ特撮作品』は、生活の必需品として慣れ親しんでおり、「ソノシート」「ビデオ・ソフト」もかなり所持していたので、盛り上がらないはずはなかった。まず『特撮』では、プラモデル絡みで「キャプテン・ウルトラ」「マイティジャック」、これは電話口で映像が再現するほど熱い会話に及んだ。そして、『アニメ』では「ジャングル大帝」「リボンの騎士」が中心となった。特に後者は、主題歌が「前半」「後半」「インスト」と3パターンあり、それがそれぞれ微妙に違う事や、新進ギタリスト押尾コータローさんのインディーズ時代のセカンド『LOVE STRINGS』(2001年3月)に絶妙なカヴァーが収録されていたこともあって、こちらもかなり大盛り上がり状態だった。
次にこの「27」で私が自信を持ってまとめたのはTDNだった。彼等はVANDAに初めて寄稿したGrass Roos同様、ポップスにはまり込んだ1970年前半に聴きまくっていたバンドのひとつだった。ちなみに彼らのファンになったのは、ギターとキーボードの絡みが絶妙なソフト・ロック「Out In The
Country」(1970年全米15位)を聴いた事がきっかけだった。そして初めて手にしたLPは大ヒット「喜びの世界(Joy To The
World)」(1971年全米1位)を収録した『Naturally』、この中で一番のお気に入りはBreadを彷彿させるように清々しい「Sunlight」だった。なお、このLPの国内盤購入後しばらくして米国初回盤は特殊仕様と気がつき、あわてて買い直した。とはいえ、この事実は2013年に紙ジャケCDが発売になるまでそのジャケットの存在を知る方は少なかったようだった。
ちなみに、TDNは1973年1974年1975年そして1993年と4回来日しているが、私は再結成後のラスト来日しか行くことは叶わなかった。ただ、2回目のマジシャン・キーボードSkip Konteが加入して8人組公演となった来日は、弟が静岡公演での演奏を録音してくれたので、ほぼ全盛期のライヴを疑似体験することができた。また、私が行った1993年のステージではCSNY風に椅子腰かけで「Sunlight」「Out In The
Country」のメドレーを披露し、(来場客は少なかったが)大喝采を浴びていたのが印象的だった。ある時、この話を佐野さんにすると「それは是非聴きたかった」と残念がったのが忘れられない。
このように、「VANDA27」の原稿もやらなければならない状態にはあったが、優先事項は年末までに発刊しなければならない「Soft Rock In
Japan」だった。この割り振りについては、「大瀧詠一」「山下達郎」「Garo」などビッグ・ネームは佐野さん、「オメガトライブ関連」「村田和人」「Piper」「ハルオフォン」といったバンド系は後輩のK君、そして私は作曲家としての「林哲司」「小田裕一郎」などのポップな作曲家と松生さんやSKさんが見送ったものを万遍なく手掛けることにした。
そんな折、編集担当の木村さんから「どなたかのインタビューを取ろうと思うのですが、希望はありますか?」という連絡が入った。私は間髪を置かず、「林哲司さんと話がしてみたい!」とリクエストをした。他の候補としては、松生さんから「杉真理さん」と挙っていたが、結果として私の希望が通った。
このインタビューはこの年の秋、東京駅の近郊にある喫茶店で、木村さん立ち合いの中で私と松生さんK君そしてSKさんの4人で実現した。なお佐野さんは「餅は餅屋」ということで、今回参加したメンバーに預ける形となった。特に当日の私はかなり興奮気味で、約25年前に購入したお気に入りのLP『Back Millor』(注:1)を持参して、その場に臨んだ。当初は、1時間程度という約束であったが、かなりコアな質問の応酬に、林さんもかなり熱心に対応いただき、倍以上の時間を共有させていただいた。帰りには持参したLPにサインをいただき、忘れられない一日となった。ここでの内容はかなり充実したものだったが、これを文面に起こすという面倒な作業が残った。誰も作業に手を挙げないので、木村さんから「鈴木さんやってくれない?」と頼まれ、仕方なく引き受けた。そこで、休日返上でまとめ上げたものの、紙面の関係でわずかP4しか掲載できなかった。ただ、この時の対応が林さんご本人に好印象を持っていだけたようで、翌年の『林哲司全仕事』オファーに繋がっていくのだが、その話は長くなるので次回にまわすことにする。
インタビューを終えた後、「Soft Rock In Japan」での担当パートをまとめ、着々と完成に向かって進んでいった。このように、この本の「企画・構成」は佐野さんになっているが、最終的にかなりの面で私も関わっていた。当時このようなテーマの本は珍しいチャレンジで、発刊された際のMM誌でも、「『Harmony Pop』の亜流」と切り捨てられている。とはいえ、一般にはかなり好評に受け入れられ、最終的には完売することが出来きた。さらには、K君にまとめてもらった山本圭右さん(Piper)から「我々のことにこれだけのページさくの大変だっただろうな」(注:2)という感謝の弁をいただくという話もあり、やって良かったと胸をなでおろした。そして、発売から半年を経過した2001年6月には『Soft Rock』(シンコーミュージック)なるタイトルの類似本が発刊されている。この事実からも、我々の着目点に間違いはなかったと感じた。
その後、発刊直後に佐野さんから「Radio VANDAでプロモーションをしましょう!」という話になり、10回目の放送となる2001年2月の第2特集で「日本のソフト・ロック」をオンエアすることになった。ただ、当時の私は滋賀在住だったので、テープ編集したものを制作して流すことにした。その作業に協力してくれたのは金沢工業大学PMCで、年末に資料探索で出かけた際に、館内スタジオの録音機材を借りて収録した。そのカセットを佐野さんに送付し、オンエアする運びとなった。なおその音源は、林さんの自演曲「Rainy
Saturday And Coffee Break」、それに以前私が佐野さんへチョイスして送った音源から、「これこそがソフト・ロックのきわめつけ!」と太鼓判を押してくれたカルロス・トシキ&オメガトライブ『be yourself』(1989年)のトップに収録されている「失恋するための500のマニュアル」だった。
こんな流れで、単行本の作業は完了した。あとは、2001年3月に迫っていた「27」の寄稿分をまとめなければならなかったが、時間の関係でTDN以外には「Soft Rock In
Japan」の書き残し、「一発屋」といった安易なものしか書きあげられなかった。しかし、音楽以外にアニメにも造詣の深い佐野さんは、新婚旅行で向かった「冒険ガボテン島」によく似たタヒチにある「ボラボラ島」旅行記を一気にまとめている。これは彼のポリシーである「人生は家族と趣味のためにある」の実践記録で、こんな自作自演の旅行記は彼が病に倒れるまでずっと継続している。また、その手記は病床にあっても、旅立つ数日前まで懸命に綴り続けていた。
このような経過を経て「27」は2001年6月に、O氏の手によるセンス・アップされたパッケージに新装され、無事発行の運びとなった。このサンプル本にはいつものように、彼からの手紙が送付されており、そこには「音友への売り込みは慎重に考えたいので、次回も費用負担のご協力お願いします」とあり、「その負担分として8Pと、鈴木さんから依頼されたKさんにも4P、計12Pを提供します。」と書かれていた。ただ編集を受けてくれているOさんから、「より良い誌面に仕上げたいので、十分な時間が欲しい」との要望があったとのことで、「次回「28」の締め切りは1ケ月早めて2002年2月にします。」とあった。それはその時点で、私主導となる本格的なオファーが入っていたので、遅延癖のある私に早めの準備をするようにと、VANDA編集長として佐野さんからの苦言だった。
次回は、「28」発行までの経緯と、1年がかりで完成させた林哲司さんの本についての悪戦苦闘の日々について紹介することにする。ところで今朝方、Facebookより「今日は佐野邦彦さんの誕生日です。誕生日のメッセージを投稿しよう」というメッセージが届いた。彼が存命であれば、61歳の誕生日だった。思えば彼が亡くなる三週間前に、彼から誕生日の祝福メッセージが届いた。本来であれば、本日私がメッセージ送信しなければならないのだが、それも叶わぬことになってしまったので、この投稿を亡き彼への祝福メッセージとしたい。
(注1)1977年に発売されたセカンド・ソロ・アルバム。ここには大橋純子&美乃屋セントラル・ステーションが1976年に発表した『Rainbow』で取り上げた名曲「Rainy
Saturday And Coffee Break」の自演ヴァージョンが収録されている。なお、林氏は(この時点でインスト除き)6枚のソロ作品を発表しているが、このアルバムは2012年にタワーレコード限定販売にて待望の初CD化されている。
(注2)「Soft Rock In
Japan」では大御所「山下達郎」「大瀧詠一」でも2P枠ながら、Piperには1.5Pを割り振っており、この扱いにリーダーの山本圭右さんが感激してくれた時の話。なお、当時所属していたユピテルの音楽事業撤退で、長らく廃盤状態となり中古市場で高騰していたPiperの4作品が、2018年3月に(K君の解説付)待望の初CD化の運びとなった。
2018年4月24日22:00
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