前作のリード・トラック「チャンネルNo.1」よりスムーズなシーケンス・パートと、昭和文学が醸し出す詩世界との奇妙な融合が独特のグルーヴをもたらしてる。
このシーケンスのリズム・パターンはこれらテクノポップでは王道であるが、ルーツを辿ればエンニオ・モリコーネが映画『荒野の用心棒』(64年)のテーマ曲で使ったのが知られ、その後もビートルズのジョージ・ハリスン作「While My Guitar Gently Weeps」(『The Beatles / White Album 』収録 68年)の左チャンネルで鳴っていたりする。
AORファンにはドナルド・フェイゲンの「New Frontier」(『The Nightfly』収録・82年)を彷彿とさせるかも知れないが、一般的に知られるようになったのはやはりYMOの「Rydeen(雷電)」(79年)だろう。作者の高橋幸宏氏によれば黒澤明監督の『七人の侍』(54年)にインスピレーションを受けたというから、既出の『荒野の用心棒』がオーバーラップしたのかも知れない。
大谷英紗子:サックスのレコーディングとしては、「My little red book」と、「水彩画の街」が一番「今、録っているな〜」という感覚があったように記憶しています。他の録り終えている音源に音を重ねていく過程や、今回は全体的に「ここ」というベストなタイミングに音を当てはめていくことを意識したレコーディングでした。
そしてこのライヴの翌日には、通訳に岩井信氏を帯同してインタビューに臨んでいる。その中では、山下達郎氏が「土曜日の恋人」のモチーフとした「We’ll Work It Out」(1965年サード・アルバム『Everybody Loves A Crown』収録)は「レコーディング以来一度も演奏していない」、1967年の傑作第7作『New
Direction』で起用したGary
Bonner=Alan Gordon(注2)について、「あれは失敗だった。自分には、Snaff GarrettとLoon Russellのコンビがベストだった」など、興味深いリアルな本音を聞き出している。こんな貴重な話を引き出せたのは、熱心なファンとの交流で、Gary本人も大満足だったという証拠だろう。なおこの内容は「25」や、Web.VANDAでも報告されている。
では「25」の話に移るが、ここで佐野さんが熱心に発信していたものとして、「Rock & Pops In LD &DVD」と題したロックやポップスの映像ディスク・ガイドだった。当時、DVD再生可能なゲーム機「Playstation 2」の大ヒットで、それまでのビデオやLDから劣化しないDVDに切り替っていく流れをいち早く取り上げたものだった。当時、CDやLPだけでなく音楽ソフトをビデオ(VHS&Beta)やLDで大量に所持していた佐野さんは、全てをDVDに切り替えるべくハードを揃えていた。さらには「リージョン・フリーDVD再生機」も購入し、海外盤の貴重映像チェックも怠らなかった。そんな彼はどんな映像も永久保存にすべく、当時「VHSビデオ」「Betaビデオ」「LD」でコレクションしていた音楽ソフトを「DVD」(その後Blue Ray)やパソコンに接続して、貴重映像の保存に邁進していた。
またこの「25」では、「24」に続き“サライター(サラリーマン・ライター)”浅田さんの英国ポップスの研究文献「Roger Cook=Roger Greenaway」「John
Cater」「Tony Burrows」の充実したWorksが三作掲載されている。そんな彼とは前年に開催された「VANDA Meeting」にて「Can’t Smile Without You」(Barry Manillow等)の話で意気投合し、それ以来電話やメールで交流するようになっていた。とくに彼のH.P.『Too
Many Golden Oldies』を通じて英国ポップスについての情報交換を頻繁に行っていた。この回の掲載分では、以前より佐野さんから聞いていた部分もあり、そんな三者でのトライアングルな関係を楽しんでいた。またこの話を彼にすると、数日中に音源を収録したカセットが送られてきた。佐野さんは思い立ったら即日タイプの方で、こんなやりとり以外でも彼のお奨め音源を入手すると即カセット(その後、MD~CD-R)が送られてきた。これは私がJigsawやPilotなどを紹介して以来の慣例としてずっと続いた。
そんな話題をいくつか紹介しておくと、まず業界ネタとして1973年9月20日に飛行機事故で亡くなったJim Croce(享年30歳)が生前発売した3枚のアルバムの爆発的なセールスにより、1974年に発売元のabcは全米一の収益を上げて話題となった。ただ、その5年後の1979年には業績悪化により、MCA(現:Universal)に買収されて消滅してしまった。また、歌詞の話題としてサザン・ロックのLynyrd Skyntrdが発表した「Sweet Home Alabama」は、Neil Youngの「Southern Man」への返礼ソングだということで大きな反響を呼んでいだ。
さらに、“マエストロ”Barry White率いるLove Unlimited Orchestraの美しいストリングスの音が日本中に響き渡っていた。中でもKLM(オランダ航空)のCMや、伊勢丹の開店テーマに起用された「Love’s Theme」は新しい時代のインストとして広く愛聴された。また、テレビの情報番組『ウィークエンダー』(注3)のテーマとして起用された「Raphsody In White」も、土曜の夜の定番ソングとして長らくお茶の間に響き渡っていた。この話を聞いた佐野さんは「(ナレーションには)アイアンサイドもですよね!」と、話は泉ピン子さんをはじめとする当時のコメンテーターのことまで広がっていった。そんな時、「あんな昔の話がポンポンでてくるなんて凄い記憶力ですね。」と彼に感心された。それまで私自身は「お前は記憶力の活用を間違っている」と皮肉めいた言われ方をされており、佐野さんとの会話はその後のライター活動に自信を持つきっかけとなった。
そんな佐野さんはこの頃、CDのコンピや単行本の制作に邁進しており、この当時彼が手掛けた『The Beach Boys Complete』『All That Mods』などは大きな評判を呼び、外部から続々と研究本の依頼が舞い込んでいた。そんななか、『Pop Hit-Maker Data Book』の話があり、「今度は鈴木さんも参加してください」と誘いを受けた。初めてのギャラ設定の話でうれしい反面、そこに参加される方々の名前を聞いたとき、「私ごとき新参者が書いても大丈夫なんだろうか?」と一瞬不安に駆られた。ただ佐野さんから「鈴木さんのやり方で進めたら大丈夫!」と励まされ、これまで以上に慎重に考えたうえで、9組(Pop
Group2組、Songwriter&Producer7組)を担当させていただくことにした。正直なところ、Pop groupで「The Grass Roots」、Producerの「Steve Barri」もまとめたかったが、文面はともかくリスト制作に不安があり、この2組は見送ることにした。とはいえ、この続きは佐野さんの代名詞となった『Soft Rock A To Z』の全面改定版『SOFT ROCK The Ultimate!』(2002年)でまとめさせていただくことが出来た。
このように「25」の制作過程では、佐野さんとのやりとりを通して自分の手法に自信を持つことが出来た。ただ今回も余計なことに首を突っ込みすぎていたため、依頼されたコラムは1つだったのにもかかわらず、「3月末締め切り」を大きくオーバーし、GWが終わった5月6日になってしまった。その完成した「25」が届けられた際、その表紙の裏には、『The Beach Boys Complete』『All
That Mods』の紹介はもちろんのこと、現在進行中の『Pop
Hit-Maker Data Book』や、話を聞いたばかりの『Harmony pop』の紹介も掲載されていた。このように「25」発行以降は、佐野さんのみならず私も彼から受けたVANDA以外の仕事にも大きくかかわっていくことになる。