この投稿も10回目となり、今回は20世紀最後の1999年6月に発行された「25」発行までの佐野さんとの回顧を紹介する。まずこの前年には、フィフス・ディメンションなど1960~70年代に活躍したポップ・スターのライヴを聴かせるスポット「六本木Sweet Bazil 139」(注1)がオープンするという、佐野さんにとって歓迎すべき出来事があった。ここではソフト・ロック系のライヴもコンスタントに行われており、オープン当時彼は頻繁に通っていたようだった。
かくいう私もたまたま上京していた折に、The Belmonts(「浮気なスー(Runaround Sue)」で知られるDionのバッキング)の単独ライヴに誘われ、佐野さんや松生さんと訪れる機会を持った。当日はGS出身の“ほたてマン“で知られるR氏も観覧に訪れており、演奏中にステージへ飛び入りしてギャラリーを楽しませてくれた。そんな3月19日には佐野さんが熱心に研究を続けていたGary Lewisの公演が行われている。テレビ中継(NHK・BS)もあったので、ご覧になった方も多いと思う。
そしてこのライヴの翌日には、通訳に岩井信氏を帯同してインタビューに臨んでいる。その中では、山下達郎氏が「土曜日の恋人」のモチーフとした「We’ll Work It Out」(1965年サード・アルバム『Everybody Loves A Crown』収録)は「レコーディング以来一度も演奏していない」、1967年の傑作第7作『New
Direction』で起用したGary
Bonner=Alan Gordon(注2)について、「あれは失敗だった。自分には、Snaff GarrettとLoon Russellのコンビがベストだった」など、興味深いリアルな本音を聞き出している。こんな貴重な話を引き出せたのは、熱心なファンとの交流で、Gary本人も大満足だったという証拠だろう。なおこの内容は「25」や、Web.VANDAでも報告されている。
では「25」の話に移るが、ここで佐野さんが熱心に発信していたものとして、「Rock & Pops In LD &DVD」と題したロックやポップスの映像ディスク・ガイドだった。当時、DVD再生可能なゲーム機「Playstation 2」の大ヒットで、それまでのビデオやLDから劣化しないDVDに切り替っていく流れをいち早く取り上げたものだった。当時、CDやLPだけでなく音楽ソフトをビデオ(VHS&Beta)やLDで大量に所持していた佐野さんは、全てをDVDに切り替えるべくハードを揃えていた。さらには「リージョン・フリーDVD再生機」
も購入し、海外盤の貴重映像チェックも怠らなかった。そんな彼はどんな映像も永久保存にすべく、当時「VHSビデオ」「Betaビデオ」「LD」でコレクションしていた音楽ソフトを「DVD」(その後Blue Ray)やパソコンに接続して、貴重映像の保存に邁進していた。
またこの「25」では、「24」に続き“サライター(サラリーマン・ライター)”浅田さんの英国ポップスの研究文献「Roger Cook=Roger Greenaway」「John
Cater」「Tony Burrows」の充実したWorksが三作掲載されている。そんな彼とは前年に開催された「VANDA Meeting」にて「Can’t Smile Without You」(Barry Manillow等)の話で意気投合し、それ以来電話やメールで交流するようになっていた。とくに彼のH.P.『Too
Many Golden Oldies』を通じて英国ポップスについての情報交換を頻繁に行っていた。この回の掲載分では、以前より佐野さんから聞いていた部分もあり、そんな三者でのトライアングルな関係を楽しんでいた。またこの話を彼にすると、数日中に音源を収録したカセットが送られてきた。佐野さんは思い立ったら即日タイプの方で、こんなやりとり以外でも彼のお奨め音源を入手すると即カセット(その後、MD~CD-R)が送られてきた。これは私がJigsawやPilotなどを紹介して以来の慣例としてずっと続いた。
ちなみにこの号へ、私が寄稿したのは連載コラム「Music Note」の1974年だけだが、この掲載分の出だしでふれた1974年2月1日のElton
John日本武道館(以下、B館)公演の話から、昔通った来日公演の話で盛り上がっていた。その件は本文でもふれているが、当日のEltonは当日に衣装が間に合わなかったためテンションが低く、また「Honky Cat」でのコール&レスポンスに会場の反応が鈍く、さらにむくれてしまった。来日公演のキャッチ・コピーが“クロコダイル・ロックンローラー”だったのにもかかわらず、肝心の「Crocodile Rock」も演奏せずに終演となり、一部来場者(私も含む)が深夜まで会場に居残り抗議をしたというものだった。そんな残念な話は佐野さんにもあり、彼は1973年6月26日のDeep
Purple B館公演が中止になったことを会場に行って知らされたことだった。それは、前日の公演でバンドのコンビネーションが最悪で、アンコール無に終わった公演に一部の観客が暴徒化し、場内で破壊騒ぎが起こった結末だったという。
その流れで最悪から最高のライヴの話に移り、佐野さんイチオシは1974年1月のMoody Blues B館公演を挙げた。この公演にはメロトロンを操るMike Pinterが在籍しており、(一般の評判は芳しくなかったが)知的な雰囲気のライヴを体験し、待望にふさわしい公演だった位置付けていた。私といえば、1976年2月7日のEaglesと同年3月11日のNeil Young初来日B館公演だった。EaglesはBernie
Leadonが脱退しJoe Walshが加入したばかりの時期だったが、そこで披露された最高に美しいコーラスは生涯忘れる事のないものとして記憶に止まっている。また、Crazy Horseを率いてのNeilは、『Harvest』の裏ジャケでお馴染みのオルガンが設置されステージでの公演で、そこで披露された(当時、未発表曲)「Like A Harrican」「Lotta Love」の素晴らしさは身震いするほどだった。余談ながら、ここに同行した友人はこのコンサートで「自分の青春は終わった」と言い切るほど感動していた。
こんな話に夢中になっていくうちに、彼から「次回の特集はライヴ・アルバムを特集しましょう!」というところまで発展してしまったのだった。そのコメントは、「25」のP90「VANDA Vol.26予告」に「ライブアルバム大特集(Live in Japan特集も含む)」と表記されている。
ここで、「Music
Note ’74」に話を戻すが、前出の来日公演の話以外にもヒット曲に関連する話題をいくつか挟み込んでおり、この連載が単にヒット曲の羅列でなく、佐野さんに絶賛されたリアル・タイマーとしての手法がほぼ完成している。
そんな話題をいくつか紹介しておくと、まず業界ネタとして1973年9月20日に飛行機事故で亡くなったJim Croce(享年30歳)が生前発売した3枚のアルバムの爆発的なセールスにより、1974年に発売元のabcは全米一の収益を上げて話題となった。ただ、その5年後の1979年には業績悪化により、MCA(現:Universal)に買収されて消滅してしまった。また、歌詞の話題としてサザン・ロックのLynyrd Skyntrdが発表した「Sweet Home Alabama」は、Neil Youngの「Southern Man」への返礼ソングだということで大きな反響を呼んでいだ。
さらに、“マエストロ”Barry White率いるLove Unlimited Orchestraの美しいストリングスの音が日本中に響き渡っていた。中でもKLM(オランダ航空)のCMや、伊勢丹の開店テーマに起用された「Love’s Theme」は新しい時代のインストとして広く愛聴された。また、テレビの情報番組『ウィークエンダー』(注3)のテーマとして起用された「Raphsody In White」も、土曜の夜の定番ソングとして長らくお茶の間に響き渡っていた。この話を聞いた佐野さんは「(ナレーションには)アイアンサイドもですよね!」と、話は泉ピン子さんをはじめとする当時のコメンテーターのことまで広がっていった。そんな時、「あんな昔の話がポンポンでてくるなんて凄い記憶力ですね。」と彼に感心された。それまで私自身は「お前は記憶力の活用を間違っている」と皮肉めいた言われ方をされており、佐野さんとの会話はその後のライター活動に自信を持つきっかけとなった。
そんな佐野さんはこの頃、CDのコンピや単行本の制作に邁進しており、この当時彼が手掛けた『The Beach Boys Complete』『All That Mods』などは大きな評判を呼び、外部から続々と研究本の依頼が舞い込んでいた。そんななか、『Pop Hit-Maker Data Book』の話があり、「今度は鈴木さんも参加してください」と誘いを受けた。初めてのギャラ設定の話でうれしい反面、そこに参加される方々の名前を聞いたとき、「私ごとき新参者が書いても大丈夫なんだろうか?」と一瞬不安に駆られた。ただ佐野さんから「鈴木さんのやり方で進めたら大丈夫!」と励まされ、これまで以上に慎重に考えたうえで、9組(Pop
Group2組、Songwriter&Producer7組)を担当させていただくことにした。正直なところ、Pop groupで「The Grass Roots」、Producerの「Steve Barri」もまとめたかったが、文面はともかくリスト制作に不安があり、この2組は見送ることにした。とはいえ、この続きは佐野さんの代名詞となった『Soft Rock A To Z』の全面改定版『SOFT ROCK The Ultimate!』(2002年)でまとめさせていただくことが出来た。
このように「25」の制作過程では、佐野さんとのやりとりを通して自分の手法に自信を持つことが出来た。ただ今回も余計なことに首を突っ込みすぎていたため、依頼されたコラムは1つだったのにもかかわらず、「3月末締め切り」を大きくオーバーし、GWが終わった5月6日になってしまった。その完成した「25」が届けられた際、その表紙の裏には、『The Beach Boys Complete』『All
That Mods』の紹介はもちろんのこと、現在進行中の『Pop
Hit-Maker Data Book』や、話を聞いたばかりの『Harmony pop』の紹介も掲載されていた。このように「25」発行以降は、佐野さんのみならず私も彼から受けたVANDA以外の仕事にも大きくかかわっていくことになる。
こんな私が多忙となっていったのは、佐野さんが翌2000年5月よりスカパーで「Radio VANDA」をスタートさせ、さらにメジャーな存在となっていったことも影響している。またそれ以外の要因として、これまでのように海外物のレヴューばかりでなく、日本物についても手を広げていったからだった。当時の佐野さんは日本物について(一部を除き)未知の分野で、以後のVANDAには日本物のコアな書き手が登場している。ただ何事にもこだわる佐野さんは、1970年から日本の音楽情報に精通し、全般的な情報を持っていた私に白羽の矢を立ててくれたのだと思う。ゆえに「25」発行以降は、佐野さん並みとはいかないが、私もそこそこ表舞台に登場するようになった。次回はそんな「26」の発効までについての多忙な日々についてお届けすることとする。
(注1)1998年12月、六本木にオープンした最大250人収容のライブ・ハウス(レストラン兼用)。初期では1999年6月1日~6日に毎夜2回、全12回公演を開催したフレンチ・ポップスの歌姫シルヴィ・ヴァルタン公演が連日大賑わいで話題となった。その後、15年間で5,164公演、約100万人弱を動員し、2014年5月に建造物の老朽化から閉店。
(注2)The Turtles「Happy Together」等の作者をはじめ、Bobby Darlin’やPetula Clarkなどへの曲提供を通じ、1960年代にソングライター・チームとしての地位を築く。また1970年代に入ってもThree Dog NightやBarbra
Streisandが彼等(BarbraはAlan単独)の曲を取り上げ大ヒットさせている。
(注3)1975年4月放送開始(1984年5月終了)の「テレビ三面記事 ウィークエンダー」。加藤芳郎氏が司会のNTV系ワイドショーで放送時間は毎週土曜日22:00~。オープニング・テーマはLove Unlimited Orchestraの「Raphsody In White」、コメンテーターが登場する「新聞によりますと~」のナレーション部分のBGMはQuincy Jonesの「鬼刑部アイアンサイド(Ironside)(米NBC:ドラマ)」のテーマ曲が使用されていた。
2018年3月14日13:00
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