早いもので、この投稿も8回目(今年2回目)になる。前回はVANDA22に掲載されたコラムについて佐野さんとのやりとりを紹介させていただいた。それらを仕上げるために休日や帰宅後の時間を全てつぎ込んでの制作は大変なものだった。こんな調子で安請け合いして続けていくのは、実に厳しいことだとおもいしらされた次第だ。その反省から佐野さんとの話が盛り上がっても、これからの投稿は予め決めていた「Music Note」一編に絞ろうと決めていた。ただ、この回想録の一回でもふれたように、「23」では佐野さんに推薦した「Pilot」「Jigsaw」について情報提供に協力していたので、実質は複数に関わったのが現実だった。とはいえ、このような作業を長年に渡って編集までやり続けている佐野さんの行動力には改めて敬意を表したい心境になった。
そんな状況ではあったが、この頃投稿i以外に最も興味を持っていたのはVANDAのバック・ナンバーの内容チェックだった。特にSuger Babe以来長年のファンだった山下達郎さんとのインタビューが掲載されていると聞いていた「3」は絶対に読んでみたかった。そんなバック・ナンバーについて佐野さんにその所在を問い合わせると、「全国で取り扱ってもらっているショップには(返本しないことを前提に)委託したままになっているので、どこかにはあるかと思いますよ。」とのことだった。
そこで、レコード探索に出かける際には、VANDAの取扱いショップでのバック・ナンバー探しも並行するようになった。まずは地元滋賀からスタートして京都・大阪・神戸と回るも、なかなか成果は得られず、次は自宅の滋賀から実家の静岡までの帰省経路にあるショップをターゲットにした。具体的には、岐阜・名古屋・豊橋・浜松などで、当然ながら静岡県内も行けるところは全て回る計画を立てた。そんな帰省の途中、名古屋の「バナナ・レコード」で自社の発行するフリー・ペーパーに「VANDA」の推薦文が掲載されている記事を発見した。「ここにもVANDAの支持者がいる!」と感激のあまり、自宅に戻ると即佐野さんに連絡を入れた。ところが、あいにく彼は不在だったので電話を取られた奥様にこのことの伝言をお願いした。すると「主人は人気あるんですね。」と。さらっとした返答に「そんなもんかなぁ」と気が抜けてしまった。
そこで、レコード探索に出かける際には、VANDAの取扱いショップでのバック・ナンバー探しも並行するようになった。まずは地元滋賀からスタートして京都・大阪・神戸と回るも、なかなか成果は得られず、次は自宅の滋賀から実家の静岡までの帰省経路にあるショップをターゲットにした。具体的には、岐阜・名古屋・豊橋・浜松などで、当然ながら静岡県内も行けるところは全て回る計画を立てた。そんな帰省の途中、名古屋の「バナナ・レコード」で自社の発行するフリー・ペーパーに「VANDA」の推薦文が掲載されている記事を発見した。「ここにもVANDAの支持者がいる!」と感激のあまり、自宅に戻ると即佐野さんに連絡を入れた。ところが、あいにく彼は不在だったので電話を取られた奥様にこのことの伝言をお願いした。すると「主人は人気あるんですね。」と。さらっとした返答に「そんなもんかなぁ」と気が抜けてしまった。
そんな出来事に気分良くし、少しずつではあるがバック・ナンバーを入手していったが、お目当ての「3」はどこでも売り切れだった。徐々に諦めムードが漂い始めていたが、ある時立ち寄った豊橋の「ラビット・フット・レコード」(ex.2003年8月31日閉店)で、ついにお目当ての「3」をはじめ手元にない多くのバック・ナンバーを入手することが出来、「1」「2」以外はほぼ揃った。それをきっかけにVANDA誌の探索はここまででストップにした。この入手したバック・ナンバーを読み返し、改めてサラリーマンの傍らVANDAを発行し続ける佐野さんの情熱を再認識することができた。
少々話が本論からそれてしまったので、「23」の制作経緯に話を戻すことにする。この号に掲載した「Music Note」の1972年は、お気に入りのヒット曲をチェックするだけでなく、ラジオなどで耳にした自分好みの曲を血眼になって探すようになっていた時期だった。それゆえ当初は書きたいことだらけで、収拾がつかなくて困っていた。そこで佐野さんに相談すると、「ミュージシャンから派生した面白い話はなかったですか?」と尋ねられ、即座に浮かんだ出来事があった。
それはこの年の11月に発表されたRolling
Stonesの来日公演(影の仕掛け人は、後に参議院議員糸山英太郎氏)のチケットを手に入れるため、友人と三人で上京したことだった。この時期は受験生の身でありながら、前売り券を手に入れるため、ふとどきにも3日間学校をエスケイプした。なおこの公演は73年の1/28~2/1の5回公演予定で、発売日は12/1だった。そこで「発売日の2日前なら余裕だろう」と意気込んで発売場所となった渋谷東急本店プレイ・ガイドを目指した。しかし、そこには既に1,000人以上詰めかけていて、行列はビルの地下駐車場に並び、1日3回の点呼を受けながら、空いた時間は渋谷・新宿界隈を彷徨っていた。この徹夜組は当日までに4,000人にも及び、その報道は新聞紙面を飾った。ちなみに、チケットの価格はS席1枚2,700円で、当時同じくスーパー・スターの来日として話題になっていたTom Jonesの来日公演のS席30,000円(大阪公演は、33,000円)にくらべ、かなり破格の価格だった。(当時のOL平均月収50,000円程度)その話を聞いた佐野さんは、「それだけでコラムになりますね!」と絶賛された。その好反応に今回は触る程度で、いつか別の形でまとめようと思い、その後2012年に出版した『よみがえれ!昭和40年代』(小学館)で紹介した。
また、価格といえばChicagoの初ライヴ『Live At Carnegie Hal』のことも忘れられない出来事だった。そのアルバムはなんと「4枚組7,800円!」と、その価格設定に「誰が買うんだ!?」とうそぶいていた。本国では2枚組程度の価格で、輸入盤では2,000円ほど安く(その価格も決して安くはなかったが)売られていた。どうしても手に入れたい衝動を抑えられず、当時昼食代として渡された小銭をピン・ハネし、数か月昼食抜きにして貯めこみようやく手に入れた。「鈴木さんよくそこまでやりましたね。私は5,000円超えていたら諦めてますよ。」と佐野さんに言われたが、「いや、これはオールナイト・ニッポンの亀ちゃん(亀淵昭信氏)が学生時代にやっていたことを見習っただけです!」と付け加え、大爆笑になった。
そんなやりとりをしながら、その他にインパクトの強かった記憶を振り返った。そこでまず思い出したことが、Alice CooperのパンツをはいたLPレコード『Scholl’s Out』」だった。さらにこのレコード・ジャケットは、組み立て式で「学校の机」になる仕様で、その中からパンツLPが取り出せる仕掛けが話題になっていた。ちなみに、このパンツは『すいか/サザンオールスターズ』(1989年7月21日発売)の付録の元ネタになっているので、かなりメジャーな話題のはずだ。そして、それと同じくらいインパクトのあったニュースといえば、フレンチ・ポップスの貴公子Michel
Polnareffのパリ・オランピア劇場公演の「お尻丸出しポスター」で、当時は「見せる●ルノレフ」といじられていた。余談ながら、私の妻は「自分の葬儀には「愛の休日(Holidays)」を流して欲しい」と宣言するほど彼の大ファンで、彼女に前ではとても口に出来ない話だ。なお佐野さんと私が大変お世話になった元音楽之友社のK氏の初ライヴはポルナレフだったそうだが、親同伴だったのであのポスターみたいなことされたらどうしようかとドキドキしながら鑑賞していたとのことだった。
さてヒット曲の傾向だが、当時は新進のシンガー・ソングライター(以下、SSW)が続々と頭角を現していた。その代表的格としては、ギター初心者だった私でもEm7さえ押さえれば簡単に演奏できた「孤独の旅路(Heart Of Gold)」のNeil Young、後にMadonnaにもカヴァーされた「American Pie」のDon McClean、そしてEaglesの「Take It Easy」の作者であり、Jackson Fiveにも取り上げられた「Docter My
Eyes」のJackson Brownらだった。
そんな彼らの活躍で日本でもSSWブームが到来していた。それは「結婚しようよ」で大ブレイクしたよしだたくろうをはじめとするElecレコード所属シンガー、泉谷しげる・ケメ・古井戸などが目立っていた。そんな話になると佐野さんは和製CSNYと呼ばれていたGaroについて熱く語りはじめた。彼とは「学生街の喫茶店」の位置づけで、「良い曲だけど、あれはGaroとしては...」「Garoは1stと「美しすぎて」が最高!」という共通認識があったので、話は大いに盛り上がった。さらにTin Pan系が参加した『吟遊詩人』も、売れなかったけど音楽的にセンスの良いアルバムという評価も同意見だった。ただ後に「学生街の喫茶店」抜きのコピレーション『エッセンス・オブ・ガロ・ソフト・ロック・コレクション』(1998年)をまとめるコアなGaroファンの佐野さんだったが、このCDに収録された「美しすぎて」をシングルではなく、アルバム・ヴァージョンで収録してしまったことをずっと後悔していたのが忘れられない。
こんな感じで、「23」の制作過程では余計な回り道をしていたので、今回もあまり余裕を持って原稿を仕上げることが出来ず、「締め切りは10/10」と受けていたが、完成したのは二週間遅れの10/24だった。その後完成したVANDA
23には「VANDA編3冊目の単行本『All
Mod Cons』の発売予告」と「次号よりVANDAは年一回発行、ネットのWeb.VANDAで毎月情報更新」と書かれていた。これ以降は本格的にネット参入していくことになり、佐野さんとの雑談で閃いたネタは雑誌ではなく、Web.へアップするようになった。本誌には私がこだわってまとめたコラムのみを掲載するようにした。
そんな状況にはなったが、ネットもさほど発達していなかったこの頃、私の情報源は相変わらずショップの巡回というアナログなものだった。そんな時に佐野さんから「音源が見つからなくて困った時には、国会図書館にいったらどうですか。あそこなら著作に関するものは全て揃ってますから!」という話を聞き、「国会図書館」でのチェックを始めるようになった。ただ、確かに全てチェック出来る場所ではあったが、「視聴は1日3点」(当時、現在は1回3点、1日3回まで)という制約があり、出向くときには慎重に厳選して向かった。そんな活動にシフトしていったが、関西や中部圏と違い東京と滋賀の往復は日帰りできるような距離ではなかった。そもそも個人的な趣味での活動だったので、移動手段は「高速バス」で安くあげ、泊りは京葉線の稲毛海岸に住んでいた後輩のM君のマンションを頼った。
VANDAに参加してから早2年、国会図書館通いで上京する事が増加し、何度目かの上京の際にやっと佐野さん本人に会う機会を持ち、彼の仕事帰りに三軒茶で合流した。偶然にも最終学歴が同じ中央(学部は別)という事を知り、音楽以外の話も含め大いに盛り上がった。そこでのディープな会話はこれが初対面とは思えないほどで、好奇心が強くなんでも聴きまくる雑食系の私は、頭脳明晰で探究心が強く研究熱心な佐野さんとお互いの意思疎通ができ、これから2017年までの付き合いが再スタートした。とはいえ、これ以降彼と生前直接会うことが出来たのはわずか5回だった。しかし、いつどこでどんな話をしたのか今も鮮明に頭に浮かぶほど内容の濃い付き合いだった。
ということで、今回は「23」制作過程を通しての回想をまとめてみた。次回の振り返りでは、医者の松生さんがVANDAに参加するきっかけとなった経緯などについて紹介させていただく予定だ。
2018年1月30日23:00