2017年12月30日土曜日

The Beach Boys rare early '65 stage photo without Brian Wilson, Glenn Campbell as a substitute.


 筆者の友人でビーチ・ボーイズのレア・アイテム・コレクターが、今回は世界初公開であろう貴重なショットを提供してくれた。
 ブライアンがツアー活動から離脱後、サポートメンバーとして加わったグレン・キャンベルを中心に撮影された65年2月のステージの模様である。
 グレンはブライアンから引き継いだフェンダー・プレベのホワイト・モデル、アルはストラトキャスター、カールはヘッドがホッケー・スティックにように長いフェンダー・エレクトリックXIIのプロトタイプを各々プレイしている。デニスのドラム・セットは当時愛用していたcamcoだろうか?バスドラのヘッドのロゴがないので確認できない。
 何よりこのコンポジションからのカラー画像を目にするのは、コアなビーチ・ボーイズ・コレクターも初めてではないだろうか。
 音楽ファンならご存じの通り、惜しくもグレンは今年8月8日に81歳で逝去した。
この場を借りてあらためてご冥福を祈りたい。
(個人所蔵のポジフィルム画像により、無断転載と営利目的の使用を禁じます)

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The Beach Boysの歴史の中で12月は大きなイベントが起きることが多い1964年12月7日Brian Wilsonは最初の妻Marilynと結婚する。
春先に強権的で過干渉だった実父Murryを解雇し、心の安定を得られるかに見えたが楽曲制作の一切、ツアーなど全ての予定に追われプレッシャーは高まるばかりでありさらなる安定を求めてBrianは結婚を選んだ、しかしその安定もわずか十数日で終わる。
1964年12月23日Houston公演のため飛行機に乗り込んだThe Beach Boys一行のうちBrianがパニック症状を起こし一時錯乱状態となるもなんとかHoustonに到着する。現地のホテル逗留後もBrianの症状は安定せず、翌日の公演が危惧された。

ここからの記述は各種の伝記やドキュメンタリーで異なるBrianも含めて出演した、というものもあれば部屋にこもり翌日帰還したという話もある未確認であるが、現在も現地でDJを務めるRon Fosterという人物によれば、当時Detoursというバンドに所属し、何かのコネでThe Beach Boysの楽屋に入ることができたが楽屋でのBrianの様子は虚空を見つめ終始静かで、誰にも気がつかれないほどの様子であったとのことである、その後ステージに出たとのことであるが、真偽は定かでない。

経緯はなんであれ、The Beach Boysは南部のツアーをBrian抜きで行わざるを得なくなってしまったサポートメンバーの補充が考慮され翌日24日にGlenn Campbellの招聘が決定する。
今回のツアーの直前、The Beach BoysはABCTVの人気音楽番組Shindigに出演し当該番組のハウスバンドShindogsにGlenn Campbellが在籍していた。当時のメンバーは錚錚たる顔ぶれである。

Joey Cooper, Chuck Blackwell (drums), Billy Preston, 

James Burton, Delaney Bramlett, Larry Knechtel (on bass),
Leon Russell (on piano) and Glen D. Hardin.

その縁のみではないが、従来からレコーディング現場で双方の信頼関係は厚かったと思われる。

当時のGlenn Campbellはすでに売れっ子で多くのヒット曲のセッションで重宝され、音楽活動とは比重が小さいが俳優もしていた。
忙しさはむしろGlenn Campbellの方がBrianより多かったと思われるが、責任感からくるプレッシャーは段違いだったのだろう。
結局Glenn Campbell自身も多忙になりツアーへの同道が困難となり代役が検討されBruce Johnstonが1965年4月8日に決定する直前まで、後に70年代以降The Beach Boys関係で参加することになるEd Carterも検討されたが本人の事情で結局Bruceとなった。
そもそもCapitol契約後Al Jardineをメンバーに招聘した理由も音楽業界を熱望するAlの思いに応えたこともあるがAlにベースを任せてBrianはスタジオワークなどに専念しようという構想があったようである。
この後ツアーメンバーは安定し、Brianの制作活動も軌道に乗り始めるがこの数年後大きな試練が始まるのは誰も予想できなかっただろう。



今回紹介するアイテムは少なくとも1965年2月に現像されたものと推測されるので、Glenn Campbell加入直後のものと思われる。
画像の内容に戻ろう。何かの間奏でCarlのギターソロの瞬間をとらえたいい雰囲気が出ている。真剣な表情なのでオリジナル曲なのだろう。Alのバレーコードっぽい指使いも気になる。
観客の視線はステージ上というより端のどこかで、珍妙なモンキーダンスを踊るMikeに注がれているようだ。
会場の黄色い声援に応えながら演奏する気迫を感じる1枚である

Have a happy, healthy, peaceful Holiday Season, and all good things in 2018 with love and mercy!

(text by -Masked Flopper- / 編集:ウチタカヒデ

2017年12月26日火曜日

佐野邦彦氏との回想録6・鈴木英之

今回はVANDAに参加してから、佐野さんとの雑談から生まれた連載企画「Music Note」を回想してみる。このコラムの始まりも、元々は乱丁本に同封した「感想&リクエスト」手紙の中から発生したものだった。その内容は、VANDA18に掲載されたEdison Lighthouseの解説で「マイナー調の“What’s Happening”は失敗、その後なぜかマコウレイのプロデュースと記されている出来が極めて悪いチープな“My Baby Loves Lovin’”~」と書かれていたが、「“What’s Happening”は「悲しきハプニング」の邦題でAll Japan Pop 20(以下AJP;注1)年間12位、日本では10万枚以上のヒット。“My Baby Loves Lovin’”も「恋に恋して」の邦題で小ヒットしてます。」と書き添えて送ったものだった。

後日、佐野さんからその件について「あそこに書かれていた情報の元は何ですか?」と問い合わせがあり、私は「高校時代に毎週チャートをチェックしていたノートに書いてあるので間違いありません。」「それに「What’s Happening」は売れただけあって、(ローリー率いる)すかんちの「ペチカ」(9512作)にサンプリングされていますよ!」と返答した。そんなやり取りをしているうちに「その手書きした当時のヒット・チャートについて何か書けませんかね?」と彼から進言され、急遽始めることになったコラムだった。

そのはじまりについては私が洋楽を聞き始めた1970年からのスタートを提案されたが、この年の初めはまだ中学生で、当時の私は漫画家を夢見ていた頃だった。当然、音楽情報は全く疎く、せいぜいアニメのテーマ・ソングくらいしか興味がなく、洋楽といえばテレビで見ていたThe Monkeesを知っている程度だった。それに、春以降は大阪万博の話題で持ちきりだったので、この年にThe Beatles(以下、B4)が解散したことはおろか、存在そのものも知らなかった。そんな状態だったので佐野さんの期待に応えられるほどの内容にできる自信がなかった。

高校入学祝いに買ってもらった3バンド・ラジオで洋楽を聞くようにはなったが、正確には地元の静岡放送がオール・ナイト・ニッポン(以下、ANN)のキー局となった7月以降だった。ただ佐野さんからは「この時期、自分はチャート物から離れていた時期なので、当時のヒット状況は是非とも知りたい。」と言われ、さらに「何も概念のない聞き始めの時期に、どんなものに影響されていたかを知るいい機会じゃないですか!」と熱心に勧められ、この年から始めることになった。

そもそも私が洋楽を聴くようになったのは、ANN土曜深夜担当の亀ちゃん(元ニッポン放送社長亀淵昭信氏)の放送を聞くようになってからだった。この番組では「はがきぶん投げ作戦」(注2)なる1万円が当選する企画があり、それを目当てに(読まれも当選もしなかったが)リクエストをせっせと書くようになってからだった。そんなあるとき、「懐かしのゴールデン・ヒット(だったと思う?)」というコーナーで流れたB4の「抱きしめたい(I Wanna Hold Your Hand)」に衝撃を受け、洋楽の洗礼を受けた。


そして、当時上映していた『Let It Be』を見に行き、そこで併映されていた『ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!(A Hard Day’s Night)』が私の琴線に触れた。その後、この映画で特に印象に残った「Woh Woh, I~」の歌詞が出てくる曲を探しにレコード店を巡り、途中のフレーズだけでは店員も探しようがなく、清水の舞台から飛び降りる心境でLPを購入した。そこでお目当ての曲が「恋するふたり(I Should Have Known Better)」と知り、このアルバムは自宅の電蓄(ポータブル・プレーヤー)で毎日擦り切れるほどに聴きまくった。 
  
そんな経緯で、それ以降洋楽の世界にどっぷり浸かっていった。とはいえその頃のLP1,8002,200円、EP400円という価格だったので、私の小遣いではレコード購入はかなり慎重になっていた。そんな時に亀ちゃんが高校時代に弁当代をため込んでレコード購入にあてていたという話を聞き、即真似をして実践してみたが、23日で空腹に耐えられず断念(・・;)そこで、思い立ったのがヒット・チャート番組『AJP』を聞くことだった。それから地元の放送だけには飽き足らず、電波ノイズと闘いながら東京の放送にも手を伸ばし『TBS.Pops Hot 10(以下TP10;注3)』『ニッポン放送(不二家)Pops Best 10』『Your Hit Parade(以下YHP,文化放送)』などもチェックするようになった。

余談になるが、当時友人の兄が大学進学にあたり、60年代の音楽雑誌(Music LifeTeen Beat等)を処分するという話を聞き、約100冊を譲り受けた。この雑誌の運搬は毎日自転車の荷台に載せて一週間かけてせっせと運んだのだが、全部持ち帰った3日後に友人宅は火事で全焼してしまった。そんな経緯もあり、この音楽雑誌の譲渡には運命的なものを感じてしまった。もちろんこの雑誌は今も大切に保管し、私の執筆活動に欠く事の出来ない相棒として活躍してくれている。
話は戻るが、チャート番組を聞くのが日課となってからは、毎週のチャートをせっせとノートに記入するのが習慣となった。その後、「映画音楽」偏重のYHPは放送時間が遅く(日曜深夜)で重荷となり、またニッポン放送はTP10と時間がダブり、TP10で生まれて初めてリクエストハガキが読まれるといううれしい出来事もあり、結果としてTP10の常連となり、AJP 2つに絞って記入を続けていくようになった。以後数年間、この番組は欠く事の出来ない日課となっていたので、テーマ曲やホストのスピーチについては今も鮮明に記憶しているほどだ。

このように1970年はやっと洋楽に馴染んでいった時期なので、佐野さんのアドヴァイスでリアルなチャート・アクションには触れず、この年のトピックスを覚えている限りを列記して紹介することにした。まず、この年と言ったら男性化粧品マンダムのCMUn、マンダム」でお馴染み「男の世界(Lovers Of The World/Jerry Wallace」につきる。起用されたチャールズ・ブロンソンは、その勢いのまま主演映画「狼の挽歌」「雨の訪問者」も大ヒット。また、発売元の「丹頂化粧品」が「MANDOM」に社名変更をするなど、社会現象ともいえるほどの一大ブームとなっていた。


またYHPに象徴されるように、映画音楽がメインストリームにいた時期で、『ボルサリーノ(アラン・ドロン主演)』『さらば夏の日(ルノー・ベルレー主演)』『ガラスの部屋(レイモンド・ラブロック主演)』など人気映画スターの主演映画サントラが大いに賑わっていた。また、後にユーミンがバンバンに提供した曲のタイトルとして有名な『いちご白書』、そのテーマ「サークル・ゲーム(The Circle Game/Buffy Sainte=Marie」も爆発的にヒットしていた。そして映画といえば、B4の『Let It Be』。当時このサントラLPが写真集付3,900円(後に写真集なしで2,000円で発売)という現実離れした価格で販売されていたのが忘れられない。この話を佐野さんにした際、彼は「そんな値段では、欲しくてもとてもじゃないが手が出せなかったですよね。」と同情してくれた。
 ポップスでは、Shocking BlueVenus」の大ヒットでイントロ「B7sus4」コードを自慢げに弾く「にわかギタリスト」をよく見かけた。また、深夜放送の影響もあり「Mr.Manday/Original Caste」、「マルタ島の砂(The Maltese Melody/Herb Alpert & The Tijuana Brass」、「Train/1910 Fruits Gum Co.」など日本のみの大ヒットが続出した。そして深夜放送のみのヒットとして「便秘のブルース(Constipation Blues/Screemin’ J.Hawkins」、も忘れられない1曲だった。そんな日本独自といえば、(私には全く無縁の)ラブ・サウンドの使者Paul Mauriat Grand OrchestraLettermen。この二組は恋人たちのBGMの定番として、必聴アイテムだったことも付け加えておいた。

第一回の1970年はこんな感じでまとめ上げたが、手書きチャートを振り返って書いたわけではなかったので、佐野さんの反応が不安で仕方なかった。ただ、彼は「この内容は本当に面白い!次回以降も楽しみです。」との好反応で、「Music Note」というタイトルまで命名してくれた。こんな疑心暗鬼な船出だったが、VANDA 221971年からは正真正銘手書きヒット・チャート表をベースにした内容で書き、VANDA 261975年まで6回も連載は継続した。私としてはこの連載を始めて、やっとVANDAの一員になれたような気分になった。

ということで、この6回目が2017年最後の投稿とさせていただく。来年最初となる次回は、佐野さんがはまりにはまっていたNeil Sedakaについてのやりとりを紹介する予定だ。では平成年号最期となる来年もよろしくお願いします。


(注11962年にスタートした『9,500万人のポピュラーリクエスト』が、19675月よりこの番組名に改編され、19853月まで文化放送をキー・ステーションに全国34局ネットで放送されていた。当時の日本で最も信頼性の高い洋楽チャート番組。1970年前後のホストは「みのみのもんた」のフレーズが懐かしいみのもんた氏と高橋小枝子嬢のコンビ。当時のテーマは「Star Collector1967年日本独自シングル)/The Monkees」。

(注2ANNでは番組によせられたリクエストの中から毎回一万円を贈呈する企画があった。亀ちゃんの放送では当日まで届いたはがきをDJデスクから部屋中にばらまき、一番遠くに飛んだはがきが当選という名物企画。

(注3197173年にかけて日曜815900TBSラジオで放送していた洋楽チャート番組。ホストの音楽評論家故八木誠氏が独断と偏見で構成していたアメリカナイズされたプログラムが特徴だった。番組のテーマ曲は、「空想の色(Fancy Colours)」「僕らに微笑を(Make Me Smile)」(1969年『Chicago』収録曲)の組み合わせ。


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2017年12月17日日曜日

The Beach Boys 『Graduation Day 1966: Live At The University Of Michigan』・平川雄一


 2016年末に海外で既に配信されていた本盤であるが、この2017年12月に日本での販売が解禁された。本盤にはビーチ・ボーイズによって1966年10月22日に行われたミシガン大学でのライブ演奏、2ステージ分が収録されている。

 この年の10月と言えば既にアルバム『ペットサウンズ』、シングル『グッドバイブレーションズ』が発売されブライアン・ウィルソンは天才の名を欲しいままにし、次作アルバム『スマイル』のレコーディングの真っ只中にあった。
 レコーディングに専念するブライアンに代わりブルース・ジョンストンがライブに参加していたが、当日は『グッドバイブレーションズ』初披露の日。"ボーイズ"達が我が傑作をしっかり演奏出来るか不安になりミシガンまで同行、リハーサルを監督した。更にブライアンは2ステージ目のアンコールで喝采の中、登壇。メンバーと共に『ジョニー・B・グッド』を歌った。その模様も収録されている。


 肝心の『グッドバイブレーションズ』だが両ステージともブライアンの指導のお陰か丁寧な歌唱、演奏ではあるがやはり薄さは否めない。更にアウトロのリボンコントローラが両テイクともピッチを大きく外しており少々残念な結果に。

 他の曲もそうだがこの頃のビーチ・ボーイズは楽器演奏面でかなりラフで悪い言い方をすれば適当な印象だ。後のアメリカでの人気凋落後のライブへの気合の入れ様(ホーン隊を追加したり)とは格段の差だ。ブライアンがライブに参加していた時期の熱気を帯びたグルーヴもこの頃にはない。

 余談ではあるがカールはフェンダー社のジャガーやリッケンバッカー社の12弦エレキなど個性的なギターを鋭角な音色で使用、独特のキラキラ感を演出していたが、本盤ではギルド社のセミアコ6弦エレキのスターファイアを乾いた音色で使用。これを使い出してから音に煌きがなくなったようにも思えてならない。それに加えてデニスのドラミング、グルーヴが最もないのが1960年代中盤のまさにこの時期なのではないだろうか。



 しかしながらブライアンという存在感のあるボーカルを欠いていたとしても依然、各人のボーカル、コーラス面での魅力が溢れている。やはりビーチ・ボーイズは歌、ハーモニーの人たちなのだと再確認させられる。

 サントラ『エンドレス・ハーモニー』にも収録されている、『Medley: Fun, Fun, Fun / Shut Down / Little Deuce Coup / Surfin’ USA』は演奏共に聴ける代物。『God Only Knows』のカールの美しい歌唱も堪能できる。各曲のコーラス、ハーモニーにも唸る瞬間が沢山ある。マルチで録ってあるので音の分離もよい。

 本盤は1966年秋のまさにバンド絶頂期の余裕ぶっこいていた時期の危機感のないラフなライブ演奏を聴くことが出来るし、なによりブライアン本人が監督した『グッドバイブレーションズ』の初演も収録されている。そんな意味でも価値ある一枚(配信ですが)ではないだろうか。

 因みにボーナストラックの『Row Row Row Your Boat (Live)』。一聴してお分かりいただける通りこれはライブ演奏ではなくスタジオ録音版だ。しかもこれは前年1965年11月にブライアンのプロデュースではあるがハニーズのボーカルで録音されたもの。公式での初出は喜ばしいことではあるが、果たして本盤に収録した意味があるのだろうかと疑問に感じる。

2017年12月15日金曜日

佐野邦彦氏との回想録5・鈴木英之

この回想録も早5回、今回もVANDA18の乱丁本に同封した「感想&リクエスト」手紙の中から発生したもう一つのコラム「Classics Ⅳ」についてのエピソードをまとめさせていただく。彼らについては、前回紹介した「The Grass Roots」と違い、全くの後追いなのでもともと誰かに伝えられるほど詳しいわけではなく、単にもっと知りたいという興味半分の軽い気持ちで書いたにすぎなかった。ちなみに彼らを知ったのは1981年にレンタルした『American Hit Anthology 1965-1975(アメリカン・トップ40)』での偶然の出会いが始まりだった。



このLPの目当ては、Cornerious Bros. & Sister RoseToo Late Turn Back Now」だったが、ここに収録されていたClassics Ⅳの「Spooky」にノック・アウトされてしまった。そして、馴染みのショップでClassics Ⅳのレコードを探してもらったところ、「グローリー・オブ・60’sアメリカン・ポップス」という1,500円廉価版シリーズに『Traces/ Classics featuring Dennis Yost』があり、即座に入手した。このアルバムには「Traffic Jam」「Free」「Rainy Day」など粒ぞろいのオリジナルが並び、またカヴァー「Sunny」でのDenis Yostブルージーなヴォーカルにも魅せられ、完全にはまってしまった。その後、カット盤のセカンド『Mamas And Papas/Soul Train』をゲットし、ここでもヒット曲「Stormy」やYostのヴォーカルが光るカヴァー「The Girl From Ipanema(イパネマの娘)」にくぎ付けになり、その後この2枚は我が家のステレオではヘビロテ状態が続いた。



さらに、以前から聴いていたAtlanta Rhythm Section(以下ARS)はClassics Ⅳの発展型と知り、彼らはUnderdog』(1979/8作)で「Spooky」をカヴァーしていた。また、Santanaが『Inner Secret(太陽の秘宝)』(1978/10作)で「Stomy」をカヴァーしている事実を知り、彼らについてさらに詳しく知りたいという探究心が芽生えた。加えて当時の愛聴盤『パジャマ・デート/Juciy Fruits』のLPセルフ・ライナーに「~コーラスがちょっとデニス・ヨースト&クラシックス的~」という表記を見て興味は深まるばかりだった。ただ、当時は田舎暮らしでショップも少なく、1960年代のポップ・バンドを探すには困難を極め、その後に入手出来たのは『The Very Best Of~』だけだった。さらに当時著名ショップが「Denis Yostカムバック・ソロ作」とプッシュしていた新作LPを手に入れるも、それなりの健闘作とは感じたが、やはり全盛期には遠く及ばない出来に失望し、以降彼らについての探索心は萎えてしまった。


その後、稲垣潤一が1987年のシングル「思い出のビーチクラブ」のカップリングに「Traces」を収録するといった出来事もあったが、徐々に彼らの記憶も薄れていった。そんな時期にVANDA誌と出会い、この本の執筆陣には詳しくまとめくれる方がいるのでは?という切なる願いから要望を入れたのだった。その期待に応え、VANDA20に佐野さん自らまとめた待望のClassicⅣ単独コラムが掲載された。また、その末筆には「次号ではまだ未聴の音源を探して特集を組む予定なので、お楽しみに。」とあり、次号ではさらに掘り下げた深い内容を披露してくれるのだろうと楽しみになった。しかしその直後、佐野さんから「鈴木さんにお願いしたい。」と連絡が入り、まさか自分がまとめることになるとは思っておらず、想定外の展開に唖然としてしまった。とはいえ、彼がコラムを掲載したことにより、関西の大手ショップでも「ClassicsⅣ」のコーナーが設置されるようになったので、「きっとこれなら音源も探しやすくなるだろう」という安易な気持ちから引き受けた。

実際に私が担当になったと言っても、ヒストリーやディスコグラフィーは、既に佐野さんがほぼまとめてあったので、内容に専念しGrass Rootsでも参考にした「1960年代の音楽雑誌」の情報をベースに当時の状況チェックしはじめた。とはいえ前回と違って、かなりの後追いなので、自分の得意とするリアルタイマー的なまとめ方が上手く表現出来ず、佐野さんには頻繁に内容確認をしていた。それほど不安交じりのスタートだったが、彼から「それだけ古いことを記憶しているのだから大丈夫!」と励まされ、ClassicsⅣがARSに繋がっていく経緯も含め、それなりに納得のいくものをまとめる事が出来た。そして19966月にVANDA21が届き、目次をみたところClassicⅣは(恐れ多くも)第2特集で掲載されていた。ディスコグラフィーもなく、たったP4でこの扱いは恐縮するばかりではあったが、今回は二編掲載ということでの配慮かと思うことにした。

そのもう一編とは、前回の寄稿後に佐野さんとのやり取りから突然浮上したもので、私が高校当時に書き綴っていた手書きヒット・チャート表をベースにしたコラム「Music Note」(と佐野さん命名)のことだ。こちらは私よりも佐野さんがとても楽しみにしていたものだった。

なおこの号の発売された1996年にはVANDA18で大特集した「ソフト・ロックA To Z」が、音楽之友社より単行本として発売されている。また828日には東芝EMIより『Soft Rock Collection~Traces』なるコピレーションも発売され、ClassicⅣの音源が(多分)本邦初CD化されるとともに、「ソフト・ロック」という言葉が、日本の音楽シーンに定着するきっかけとなった。そんな飛躍の年に、執筆者の一人としてVANDAに参加させていただけたことは光栄に思っている。

ちなみにこのCDにはヒット曲のみならずClassicⅣ前身のClassics名義の「Pollyanna」や、アルバム収録曲の「Rainy Day」も選曲されており「さすが!」と唸った。さらには山下達郎ファンにはお馴染みの「Guess I'm Dumb/Glen Campbell」など鋭い選曲が組まれ、まるであのRhinoにも迫るようなコンピだった。これをメジャーのレコード会社で発売できたのは、全ては佐野さんの博識に対する信頼の表れだと感じた。このようにClassics ⅣもJigsaw同様、日本でその存在がクローズ・アップされた。


そして、20141119日には東芝EMIより“Soft Rock Best Collection 1000”シリーズの中に佐野さん選曲(&解説)による待望のClassics Ⅳ単独のベスト・アルバム『The Very Best Of The Classics Ⅳ』が発売されている。このCDが発売された時期に、この選曲について佐野さんと話す機会を持ち、カヴァー曲は何故外したのか伺ったが、彼は「あくまでオリジナルにこだわった」とのことだった。ただ自分としては、Yostのシンガーとしての力量にスポットを当てたカヴァーも捨てがたいと思っているので、可能であれば初期オリジナル4作を「4 in 2」(多分これくらい?)での完全CD化の実現を望むところだ。


という事で、次回は私が音楽マニアになりたての頃に聴いていた、当時のラジオ番組のチャートを振り返る「Music Note」について紹介させていただくことにする。




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2017年12月5日火曜日

佐野邦彦氏との回想録4・鈴木英之

今回は私が初めてVANDA誌に寄稿させていただいたThe Grass Rootsでの佐野さんとのやり取りの回想を掘り起こすことにする。
第一回目の投稿でも書いたように、私と佐野さんとの出会いは、19956月発行のVANDA18の乱丁本に同封した「感想&リクエスト」手紙が取り持つものだった。こう書くと聞こえはいいが、実態は礼儀知らずの「クレーマー」からの挑戦状といったものだった。そこに私が書き記したことは、特集記事に掲載された一部アーティストの間違いや記述不足などの指摘(というより苦情!)、そしてこの特集に「The Grass Roots」「Classics Ⅳ」がないのは手落ちだとばかりに、言いたい放題をレポート用紙数枚に延々と書き綴っていた。今にして思えば、あの佐野さんに対して恐れ多いことを掻き立てたものだと呆れるばかりだ。

ただ、こんな偉そうなことを書いたのは、旧職場の後輩で音楽評論家として活動を始めたばかりのK君のライナー・デビュー作「JazzシンガーAさんの新作アルバムの選曲と解説」について協力依頼を受け、かなり時間を割いて手伝い、某雑誌のレヴューで絶賛されたことがあったからだ。そんなこともあり少々慢心していたからかもしれない。とはいえ、そんな一方的な私の手紙に対する佐野さんからの回答は大変丁寧なもので、間違いや記述不足などには率直に謝罪、また要望に対しては「詳しく研究している人がいないので、書いてみませんか?」というオファーだった。


これをきっかけにVANDA誌へのコラムを始めることになるのだが、本音をいえば私が洋楽を聴き始めたころに最も影響を受けた評論家八木誠氏に書いてほしいという切なる願いだった。それゆえまさか自分で書くようになるとは夢にも思わなかった。なにせ文字とのにらめっこは、即睡魔に襲われてしまうような自分が文章なんて書けるのだろうか?という不安も過っていた。正直、売られた喧嘩を買われてしまい、どうやって逃げようかという思いで、毎日もやもやしていた。すると「こう書いたらいいんですよ!」とばかりに、この年秋に発行されたVANDA19を送付いただいた。
ここには、私が長年読みたかった5th Dimensionの特集記事が掲載されており、熱烈なファンであろう筆者の熱い愛情が伝わり、自分もThe Grass Rootsの一ファンとして書いてみたくなった。また、当時は閑職勤務の身だったこともあり、課外授業するだけの時間はたっぷりあったので、翌年春に発売する20に向けお受けすることにした。

そんな経緯で安請け合いはしたものの、その時点で自己所有のLPレコードは『Lovin’ Things』『Move Along』とベスト『Their 16 Greatest Hits』、それに中期以降の主要シングルとくらいしか手持ちがなく、ネタ不足は明らかだった。
そこで週末は滋賀から京都や大阪のショップに遠征し、ローラー作戦で音源探索に励んだ。しかし、ロックやソウルの王道ものならともかく、ポップスでしかも代表作といわれるアルバムもないポップ・バンドの音源探しは難航の連続だった。そして数ヶ月かけて、リイシュー間もない復刻CDWhere Ware You When I Needed You』『Let's Live For Today/Feelings(2 in 1)』と、LPAlotta’ Mileage(恋に乾杯)』『The Grass RootsHeaven)』を何とか入手し、最低限の準備は整えることが出来た。

早速、ディスクに挿まれていたライナーを読みながら音源に耳を傾けた。すると高校時代「Temtation Eyes(燃ゆる瞳)」を聴いて彼らのファンになり、最後の全米トップ10ヒット「Snooner Or Later(恋はすばやく)」を購入した頃の思い出がよみがえってきた。

そんな気分になったところで、彼らを知るきっかけとなった『TBSポップス・ホット10(日曜;815)や、All Japan Pop 20(文化放送系~私は静岡放送で日曜;2000~)などのチャートを数年書き溜めたノート、加えて友人から譲り受けた大量の1960年代音楽雑誌(MLTeenbeat等)を読み返しながら作業を開始した。その資料から日本独自ヒットPain」の事などを思い出し、リアルタイマーとしての体験をベースにした内容で書き進めた。ただ、困ったのは結成から初ヒットまでの経緯が当時のLPライナーに書かれている内容とリイシューCDでは大きく異なっていることがわかり、またヒットの出なくなった1970年代中期以降は資料がほとんどないことに躓き、作業は難航し始めた。要するに、「起承転結」の「起」と「結」がうまくまとめられなくなってしまったのだった。


こんな沈滞ムードのなか、佐野さんより「進行状態はいかがですか?」と催促が入り、とりあえずその時点での原稿を送った。するとディスコグラフィーやその他関連資料については、「良いんじゃないですか。」と一発で合格評価を頂けた。ただ、不安視していたヒストリーは内容以前に「誤字脱字」「意味不明表現」など文章力のなさを含め細かく指摘され、それをまともな文章にするだけでも、56回は書き直しを繰り返した。

その様子たるや大学受験期に体験した通信添削をしているような気分で、出すたびにやり直しを繰り返した。まるで赤点補習を受ける不出来な学生になったような気分だった。しかし今思い返せば、あんな幼稚な体裁の文章を何回も読み返していただいた佐野さんの辛抱強さに感謝しなければ罰が当たると思う次第だ。

そして文面がましな体裁になってくると、「まだ何か書き忘れている感じがする」と不安が募り、約束の入稿日を過ぎても提出できない状態になってしまった。佐野さんからは「いつ提出いただけますか?」と催促されるようになるも、「この内容ではVANDAに載せられない」とばかりにひたすら資料探索を続けていた。そして、ついに痺れが切れた佐野さんから「鈴木さんがわからないものは、誰にもわかりませんよ!」とダメ押しされた。その言葉を聞いて、ヒストリーの内容も関連資料同様に佐野さんは納得されていたのだと認識し、318日約3週間遅れで入稿を果たした。

この処女作となった私の原稿は610日発売のVANDA20で、それまで誌面を飾っていたそうそうたる顔ぶれを差し置いて第三特集8ページという扱いで掲載となった。ただ発売前に自宅に届いた本誌をわくわくする想いで読み返すと、文字化けや表記ミスが目立ち、反省点ばかりで落ち込んでしまった。
さらに「解散後の1982年再結成作『Powers of the Night』(Bon Joviのセカンド・シングルのオリジナル収録)」を書き落とすという大チョンボ(勝手に不要と判断)まで犯していた。ちなみにこれらの加筆&修正は、後にVANDAで発刊する書籍で発表するチャンスをいただいている。


こんな至らなさのあまり「これで、私の出る幕は無くなった」という心境になっていた。しかし、この本が届いた数日後に佐野さんから「次回は、今20号で私が簡単に紹介したClassics Ⅳをお願いしたい。」と要請があり、またチャンスをいただけたことに胸をなでおろした。その時に、今回の原稿をまとめるにあたり、高校当時に書き綴っていた手書きヒット・チャート表がとても役に立ったという話した。すると「そのネタも面白そうですね。それも一緒にまとめておいたらどうですか。」と切り出され、なんとVANDA21には2本も書かせていただけることになった。
という事で、次回は「Classics Ⅳ」、そしてその次は当時の手書きチャートについてまとめた「Music Note」について紹介させていただくことにする。




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2017年12月3日日曜日

THE LAKE MATTHEWS:『Gimme Five!!』 (Happiness Records/HRBR- 006)


 今回紹介する“THE LAKE MATTHEWS”(ザ・レイク・マシューズ)の『Gimme Five!!』は、過去筆者によるレビューで評価が高かった女性シンガーソングライターの杉瀬陽子が、自身のイベント企画のために結成した“一夜限りのミステリーバンド"のファースト(ラスト?)・ミニアルバムで、今月の6日にリリースされる。 

 メンバーは杉瀬のサポート・バンドからは、ベーシストの伊賀航(細野晴臣バックバンド等に参加)、ドラマーの北山ゆう子(曽我部恵一のバックや流線形等の参加で知られる)がピックアップされ、加えてゆずやキリンジ(KIRINJI)など多くのメジャー・アーティストのセッションやライヴ・サポートからアレンジャーとして活躍するキーボーディストの伊藤隆博が参加している。
 そして何より特筆すべきは、元キリンジからソロに転向した堀込泰行が、杉瀬と共にフロント・メンバーとしてヴォーカルとギターを担当していることだろう。
 杉瀬のアルバム『肖像』(15年)収録の「五月雨二鳥」を2人で共作したことで、彼女のライヴにもゲスト出演した機会があり筆者も聴いたのだが、2人のハーモニーのブレンドは実に調和していて味わい深かった。

 このTHE LAKE MATTHEWSの活動としてはライヴの他、今年9月に7インチ・シングル「Pegasus」をリリースし既に完売状態だという。その後押しもあり、このミニ・アルバムに至ったという見方も出来る。
 収録曲はこの「Pegasus」以外は各メンバーが選んだ昭和時代の楽曲カバーということで、各々のルーツや趣向が垣間見られて興味深い。
楽曲と選曲者は下記の一覧を参照してほしい。

1. 氷の世界 <井上陽水カバー>(選曲:杉瀬陽子)
2. 星くず <久保田真琴と夕焼け楽団カバー>( 選曲:北山ゆう子)
3. 水に挿した花 <中森明菜カバー>(選曲:伊藤隆博)
4. 渚・モデラート <高中正義カバー>(選曲・伊賀航)
5. Pegasus  <THE LAKE MATTHEWSオリジナル>
6. 地球はメリーゴーランド <GAROカバー>(選曲:堀込泰行)

 

 ここでは筆者が気になった主要な曲を解説したい。 
 冒頭の「氷の世界」は説明不要と思うが、国内初のミニオンセラー(100万枚)となった井上陽水の同名アルバム(73年)のタイトル曲である。アルバム『氷の世界』は、当時の日本における『狂気(The Dark Side of the Moon)』(ピンクフロイド 73年)のようなロングセラー・モンスター・アルバムだった。
 この曲はロンドンのソーホーにある、かのトライデント・スタジオで全面的にレコーディングされており、当時としては非常にファンキーなアレンジが施されているのが特徴的だ。現地のセッション・ミュージシャンは、後にロキシー・ミュージックに関わるベーシストのジョン・ガスタフソンや彼と同じくクォーターマスのメンバーだったピート・ロビンソンがクラヴィネットをはじめキーボードを弾いており、コーラスには後にグリース・バンド(ジョー・コッカーのバックバンド)と合流してココモの母体となったアライヴァルのヴォーカリスト3名も参加している。なんでも当時陽水達はスティーヴィー・ワンダーの「迷信 (Superstition)」 (73年)にインスパイアされたサウンドを目指していたという。
 前置きが長くなったが、THE LAKE MATTHEWSのヴァージョンでは、べースラインにデオダートの「摩天楼(Skyscrapers)」(『Deodato 2』収録 73年)のそれをモチーフにしており、原曲以上にバックビートを強調している。数々のセッションをこなしている伊賀と北山のリズム隊のコンビネーションは完璧と言える演奏でたまらない。また肝心のヴォーカルだが、1番と2番でワンコーラスずつ堀込と杉瀬で分け合い、間奏後に2人のツイン・ヴォーカルとなり曲を盛り上げている。

 先行のオリジナル・シングル「Pegasus」は、杉瀬1人によるソングライティングだが、堀込とのヴォーカルを想定したようなミディアム・メロウな曲調であり、嘗て堀込がキリンジ時代に残した稀代の名曲(最近CMに起用されている)「エイリアンズ」(『3』収録 00年)に通じる、心情風景を背景とした不毛の愛がテーマとなっている。
 堀込の荒削りなギター・ソロに続き、アレンジにも貢献したと思しき伊藤隆博が自らプレイするトロンボーン・ソロのコントラストも非常に効果的だ。
 そしてラストはガロの「地球はメリーゴーランド」であるが、原曲が和製ソフトロックとしてエヴァーグリーンな存在であることは、古くからのVANDA誌読者なら言わずもがなだろう。自らもその読者だったらしい堀込ならではの趣味性と言え、前曲「Pegasus」からの流れからもこのミニ・アルバムの着地点としてこれ以上相応しい選曲はないかも知れない。
 ニール・ヤングの「Out on the weekend」(『Harvest』収録 72年)を彷彿とさせるダウントゥアースなビートをバックにして、堀込の叙情的なヴォーカルに寄り添う杉瀬の無垢なハーモニーは慈愛に満ちあふれている。この曲を歌うために組んだのではないかと思わせる必然性に感動するばかりだ。
 興味を持った音楽ファンは入手して是非聴いてほしい。
(ウチタカヒデ)


2017年12月2日土曜日

「Springs Live Picnic 2018」のご紹介

VANDA書籍にも執筆参加されているヒロ渡辺氏が、土屋剛氏、シンディ浅田氏と組んでいるソフトロック・グループ、 スプリングスのライヴ情報です。 
ゲストに原めぐみさんが出演されます。 
来年2月のライヴですが会場の席数に限りがあるので、下記リンクで早期の予約をお勧めします。



日時:2018年2月10日
OPEN 18:00 START 19:30
出演:スプリングス<シンディ浅田(vo)・ヒロ渡辺(g,vo)・ 土屋 剛(key,vo)
> ゲスト:原めぐみ
料金:¥3,500 ※別途、飲食代+消費税が必要です。
※小学生以下無料 
場所:神保町 楽屋(らくや)
東京都千代田区神田神保町1-42-7 ソマードビル1F
 【予約受付中】
電話予約:03-3518-9496
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