宮治淳一さんから「茅ヶ崎音楽物語」が届いた。これは嬉しい。いつ買おうかと思っていたが、最近は本を買っても体調で読み切る気力がなく、10冊以上読んでない本が積んであり本の購入は全て止めていたのだ。しかしこの宮治さんの本には格別な思い入れがあり、実際に届くと一気に読んでしまった。ただこの土日は体調が悪くパソコンを開く気にもなれない有様、でも気分が良くなった時に一気に読了した。加山雄三、加瀬邦彦、喜多嶋修、そして桑田佳祐を生んだ茅ヶ崎という奇跡の町の存在は知ってはいたが、それだけでなく、古くは中村八大、そして平尾昌晃、尾崎紀世彦も茅ヶ崎に住んでいたと知ってさらに驚いた。今でこそ、茅ケ崎の名は知られているが、小さな漁村で、古くは別荘街として売り出されたこの場所に、日本のポップス史上の最重要ミュージシャンがこんなに生み出されたなんて奇跡としか言いようがない。茅ヶ崎の人口は現在でも24万、ここにこれだけの才能が集まることはなぜなのか?生まれてから茅ヶ崎を離れたことがない生粋の茅ヶ崎人である宮治ささんはその事をさらに深く知ろうとし、こうして本にしてまとめ、映画にもなってしまった。この作業は音楽を愛し、何よりも茅ケ崎を愛する、宮治さん以外できない仕事だった。勤めは都心で通勤時間はかかるが、川を越えると自分の頭は会社から離れ、好きな音楽の世界の切り替わると宮治さんから聞いたことがあるが、このスイッチングがいいのだろう。自宅の一部はBrandinとレコード&カフェ(夜はお酒も)で、膨大な「宮治コレクション」を聴き、お客さんが持ちよって聴こともあり、音楽好きの楽園のような店を勤め人の傍らで作り上げた。これも今思えば、「音楽のまち」茅ケ崎への宮治さんの貢献だったのだろう。
明治時代に市川團十郎が広大な別荘を作ったことから茅ヶ崎は別荘地として知られていったらしい。山田耕筰や中村八大も住んでいたという。しかし本書の前半で最も思い入れを持って書かれているのは、加山雄三である。還暦を少し超えた宮治さんはほぼ私と同じ音楽体験をしてきているので、宮治さんが受けた衝撃は、自分とほぼ直結している。宮治さんの幼少期、茅ヶ崎の有名人といえば上原謙で、その息子が加山雄三として俳優デビュー、俳優でありながらシンガーソングライターという前例のない才能を持つ加山は1966年には「君といつまでも」が350万枚という大ヒット加山に夢中になった。しかし宮治さんがより好きだったのは同時発売されたエレキインストの「ブラックサンドビーチ」のシングルの方で、まだ小学生だった宮治さんはさすがに上原邸の玄関のベルを押すことはできなかったが、庭から加山とランチャーズが演奏するエレキインストが聴こえてきて、これが初めて生で聴くエレキコンボの演奏でずっと聴いていたという。なんと羨ましい想い出だろう。田園調布から2歳の時に環境の良さを考えて茅ヶ崎に引っ越してきた加山だが、有名俳優の息子ということもあって町中では遊べず、自作の手漕ぎ船で烏帽子岩まで行ってサザエなどを取っては夏休みを過ごしていたというワイルドなエピソードもあるほど。慶応高校に入学すると周りは政財界や文化人の有名人の子息が集まるセレブ校だったので、加山は特別視されず過ごしやすかった。この慶応高校時代には、裕福な家庭に育った平尾昌晃は湘南中学から家族や親戚がみな通った慶応高校に進学、加山を電車の中ではよく見かけたそうだが、高校時代は一度も会話したことはなかったいう。平尾はその当時、熱狂的に盛り上がったロカビリーに魅かれ歌手としての実力も評価されていたので、思い切って慶応高校を中退し、プロ歌手の道を選んだ。しかしロカビリーの大ブームはほどなく消えてしまうが、作曲ができる平尾は作曲家の道を選ぶ。布施明に書いた「霧の摩周湖」でレコード大賞作曲賞を受賞した平尾はヒットメイカーとなり、五木ひろしに書いた「夜空」がレコード大賞になるなど見事な転身を遂げた。話は戻って加山は、大学時代はカントリーバンドを作って進駐軍のキャンプなどで歌っていたが卒業で進路選択しなくてはいけなくなり、造船技師の夢はあったが就職すると俳優にはなれない、上原謙の息子という恵まれた立場を生かすべきという進言を受けて、東宝のニューフェースとして入社することを選ぶ。慶応幼稚舎出身の加瀬邦彦も田園調布に住んでいたセレブで、茅ケ崎へ引っ越してきたが、慶応高校時代に加山の妹に恋心をいだき、ボーイフレンドとなって加山の家へ足繁く通うようになり、エレキギターの魅力に魅かれて、バンド活動を開始する。「ワイルド・ワンズ」の名前は加山が名付けたものだった。そして作曲ができる加瀬は自信作の「想い出の渚」でデビュー、大ヒットになったのは存知のとおり。加瀬は加山の下にいるのでなく、最初はスパイダースに加入するものの意見が合わずに3カ月で脱退、その後寺内タケシとブルージーンズに加入し、またそこも辞めて自分のバンドのワイルド・ワンズを作る…という積極性がGSの人脈を増やしたのではないか。GSブームは3年ほどで収束してしまうが、加瀬は作曲家に転身し、沢田研二のヒット曲の多くを書き、「危険なふたり」で日本歌謡大賞を受賞するなど、後の活躍は見事の一語。そして茅ヶ崎には岩倉具視の子孫である喜多嶋修も住んでいて、母方の親戚でもあった。喜多嶋がギターを弾けるのを見た加山は茅ヶ崎に来る時は、まだ湘南学園の1年生だった喜多嶋とセッションを重ね、メンバー4人でバンドを作り、加山が茅ヶ崎に入る時はセッションに励んだ。そして1966年2月には加山は喜多嶋のランチャーズをバックに、全曲加山の英語の作詞作曲のアルバム『Exciting Sounds Of Yozo Kayama And The Launchers』をリリース、洋楽扱いで発売されたこのアルバムは。日本のポップス史に残る画期的かつ唯一無二の傑作となった。ちなみに驚く事に高校生の喜多嶋はフェンダーのジャズマスターのギターを持っていて、今の価格では200万くらい。こんなギターを買えたのはさすが岩倉一族としか言いようがない。しかしこの後のGSブームからエレキ=不良という「エレキ排斥運動」が全国の高校に吹き荒れ。湘南高校も禁止に。慶応大学に進学した喜多嶋は、加山にランチャーズとして単独で活動したいと告げ、喜多嶋の書いた「真冬の帰り道」がヒット、GS史上に残る傑作となった。GSブーム終了後、喜多嶋はロスに移住し海外での音楽活動に拠点を移す。そして尾崎紀世彦がいた。尾崎もGSブームの中ワンダースというグループにいたがヒットは無く解散する。しかし同じレコード会社でズーニーヴ―というGSのシングルの「ひとりの悲しみ」の可能性を信じていたプロデューサーが、阿久悠宇に歌詞を変えさせ、ソロになった尾崎に持ち前の声量を目いっぱい生かした「また逢う日まで」に変えてシングルにすると大ヒットになり1971年のレコード大賞まで獲得してしまう。尾崎はプロシンガーの道を極め、ローカル色を一切出さなかったので、茅ケ崎との関係は知られずじまいだったが、茅ケ崎の祭りの神輿かつぎに毎年来るなど茅ヶ崎愛は深かったという。
そして最後はもちろん桑田佳祐だ。宮治さんとは小中で同級生、中学では同じ野球部で、ビートルズのレコードを全部持っている桑田の家に放課後によく通ったという。高校は別の高校へ進学したが、自分の高校の文化祭に桑田のバンドを呼ぶなど交流は続いた。大学受験は現役で青山学院に合格していた桑田はバンド活動を開始していて、一年遅れて早稲田に合格した宮治さんに、ある日、名前の無かったバンド名に名前を付けてくれと依頼され、その時夢中で聴いていたニールヤングの「サザン・マン」と、ラジオで宣伝が流れていたファニア・オールスターズ来日のニュースを組み合わせて「サザン・オールスターズ」と名付けた。以降40年も使っているわけだが。宮治さんと桑田さんの細かいエピソードは本で読むのが一番。それまで尾崎紀世彦の家庭は分からないが、加山雄三から喜多嶋修までまあみな絵にかいたような裕福な家庭で、慶応つながりというセレブな関係がまぶしい。一般の家庭が出てくるのは桑田佳祐からだ。ただ裕福でセレブというだけでは音楽の才能など現れない。やはり茅ヶ崎のという場所が育んだとしか思えない。(佐野邦彦)
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