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2017年2月26日日曜日

VANDA以前にマンガとアニメのミニコミ「漫画の手帖」を作り拡大していくヒストリー。休学しながら収集、転売で暮らした3年や、新進気鋭だったマンガ家達のエピソード、無名の宮崎駿が評価される過程など70~90年代の思い出です。


自分がマンガに出会ったのは高2なので1974年、アニメーションに本格的に出会ったのは故あって休学していた1976年だったと思う。マンガは高校の頃に病気と思い込み、高2、高3で毎年欠課200数十時間も休んで、まあいわゆるドクターショッピングをしていた。原因が分からず大病院ばかり回ったので待ち時間が長く、退屈しのぎにふと本屋に行って初めて買ったコミック本が手塚治虫の「W3」だった。数ある手塚作品の中でも今でも最も好きなこのタイムパラドックスの傑作を読んで、湧き上がるような感動で胸が苦しくなるほど。それからもう病院以外の全てのお金をコミック購入につぎ込む。その頃は渋谷のディスクポート西武での並び順が、手塚治虫、石森章太郎、ちばてつやで、これらの大物の昭和30年代、40年代の作品を揃え十分に満足し、高校では同級生の女子にこれを読んでごらんと萩尾望都の「ポーの一族」を勧められ、単行本を読んで、昭和24組と言われる少女マンガにも夢中になった。高校卒業後は他大学に通っていた友人と3年間、休学してマンガとアニメーション三昧の日々を送る。アニメ―ションも実はマンガと同じく、それまでほとんど見ていなかった。ずっとロックばかり聴いていたからだ。しかし高校に入った1973年からは急速に音楽を聴かなくなった。大物、プログレ、ハードロックは「曲が長くなる」「異色作を出す」「その前の傑作を超えられずイマイチのアルバムを出す」というスパイラルに陥って、ガッカリなアルバムが続いた。さらに1974年にベイ・シティ・ローラーズが大ブレイク、その時に「ビートルズを超えた!」と多くのマスコミが紹介し、「こんなもんでビートルズを超えたらというならロックは終わったな」と、いったん見切りを付けてしまう。高2でマンガにシフト、さらに高3になった時に同級生に「佐野は「宇宙戦艦ヤマト」を見た?最高だから今度再放送があるから見てみろよ」と言われ、見始めたらもう自分の頃の夢が実現したアニメで瞬時に夢中になる。アニメは小学生の頃は見ていて、最も好きだったのが「レインボー戦隊ロビン」。ロビンたちとパルタ星との宇宙での戦いに興奮し、終わると紙に絵を描いてパルタ星の円盤を破壊していたが、その宇宙空間での戦いがさらに大きなスケールで実現したのだ。だれだけ夢中だったかというと、話の流れでは最も壮大な決戦になるはずの「決戦!七色星団の攻防戦!」の再放送に、某有名校の受験を最後まで受けると間に合わない。志望校なので世の中のほとんどの人は受験を選ぶだろうが、この1975年当時はビデオもなく、アニメの再放送があるなんて保証はどこにもなく、このチャンスを逃すと一生後悔すると、最後の試験は1時間前に退出した。出たのは自分たった一人。受験会場の受験生の「なんだこいつ?」というチラ見の雰囲気を今でも覚えている。でもその後で、知り合ったアニメファン達に話すと、それは仕方がない、七色星団じゃ当然だ、と納得してくれる(笑)ただ、その回は、有名なあっけない幕切れで、ガッカリな仕上がりだったが…。ヤマトのおかげでその当時のTVアニメの凄さに気づき「ガッチャマン」や「グレンダイザー」など夢中で見るようになったが、見たいアニメがUHFの千葉テレビやTVKで放送されていた場合も多く、三軒茶屋は電波状態が悪いためUHFのアンテナを物干し(平屋なので鉄骨で屋根より高く作られている)に上がってその最上部にあるUHFアンテナを最適な受信方向に向けるため物干し竿で、その都度変えていた。もちろん雨の日も。しかし見られるのは室内アンテナよりも悪い状態…。ついに録画できる機械が欲しくなり、その頃には三軒茶屋にナショナルの販売店があったので弟と半分ずつ月賦で払おうとナショナルの最新機種を購入してしまう。1976年の初旬だった。VX2000という機種で価格は208千円。ビデオカセットはUマチック並みに大きなテープで16千円もした。早く欲しいので、近所にあったゴミ収集所の人に頼んでリヤカーを借り、三軒茶屋の町中を、リヤカーをゴロゴロ引っ張って積み込んで帰った(笑)なにしろメチャクチャ重かったのだ。その年の年末に最新機種のVHSがビクターから販売、翌年にはナショナルも販売し、VXは一瞬で過去の遺産となったがこんな高額商品を簡単には買い換えられず、しばらく泣く泣く使っていた…。しかしアニメは大好きになったが、自分がミニコミの「漫画の手帖」まで作ろうという原動力にはならなかった。

それを根本的に変えたのが、高校卒業後3年間、常に一緒だった友人が東映動画長編アニメーション好きで、池袋文芸座地下でのオールナイト東映長編5本立てに行こうよと誘われたことがターニングポイントになる。画質が悪く内容も冗長な「西遊記」「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」「少年ジャックと魔法使い」が続き、ノスタルジアのみで楽しんでいる友人に比べこっちは退屈でもう限界だった。しかし4本目が、大塚康生が初の作画監督、同じく初監督の高畑勲、そして高畑のアイデアを全て具現化し中心となった場面設計の宮崎駿(森さんの話では宮崎さんの出現はモーツァルトのようで、諸君ひれ伏したまえというほどの衝撃だったという)そして映画で最も需要なヒルダという人間と悪魔の間を揺れ動く少女を奇跡のアニメートしたベテラン森康二という日本のアニメ界の後のスーパ―スターが集まった「太陽の王子ホルスの大冒険」だったのだ。もうあまりの感動に言葉が出ない。アニメーションにはこれだけの力があったのかと放心状態になり、友人に5本目はもうみないといってひとりロビーで余韻に浸っていた。そこからはもうこの4人の作品を追うことに必死になる。特に「ホルス」は、未だに自分にとって永遠の1位のアニメーション、その頃、大泉学園の東映動画スタジオで定期的に開かれる上映化で「ホルス」があると2日間の上映期間、午前午後の4回全てを見て帰るといった具合。アニ研の友人(今はアニメ演出家)も大の「ホルス」好きで、二人で全てのセリフを暗記してしまったので、よく遊びは、あるシーンのセリフを言うと、二人で延々とその後の全キャラクターのセリフを続けることが出来た(笑)何よりも「ホルス」の録画が欲しいと思い焦がれていた時に、九州で放送される情報をつかむ。ここでとんでもないことを考えるのが自分で、その放送しているエリアのナショナルのサービスステーションにいきなりテープ代と返送用の送料を同封した手紙を送り、「この「ホルス」が大好きですが九州では録画できません。是非、録画して返送していただけませんか」との手紙を添えた。打診しないのは正攻法だと断られるからだ。そのまま返金されても仕方がないとは思っていたがいつまで経っても送ってこない。半ば諦めていたらVXの巨大テープが送られてきて、なんとそこには「録画に失敗してしまったので、16㎜のフィルムを借りてきてテレシネ装置でダビングして送りました」という涙が出るほどうれしい手紙が。その後、ビデオソフト化されるまでの長い間、各地のTVで放送されるが必ずカット部分がある不完全版で、完全版はそのテレシネのビデオしかなく、縦に長い画面ではあったが長く自分の宝物だった。ちなみにこの強引戦略は、1984年の山下達郎さんのコンサートパンフレットのみ付けられた「山下達郎CM全集Vol.1」(ちなみにこの1st EditionにはCDになった2nd Editionでは聴けないテイクがある)の存在に気付いた時に、中古レコード店には一切なく、途方に暮れた時に、「山下さん本人からもらえれば」と思いつく。山下さん本人はまったく知らなかったが、山下さんがビーチ・ボーイズ、フォー・シーズンズが大好きな事は知る人ぞ知るところ、その両者が共演したシングル「East Meets West」というシングルが1983年にリリースされたもののFBIというマイナーレーベルで本国でも入手困難、日本発売はおろかシングル盤なので輸入盤を売っている店すら1軒もなく、外国から直接2枚買っておいたので、持っていない可能性があるなと山下さんの事務所に1枚送り、「こういうレコードがありましたのでお持ちでなければお収めください。今回のコンサートにはCMのレコードが付属したそうですが行けなかったので、是非次回のツアーにも付けてください」と婉曲な表現で手紙を添えたところ、山下さんからそのレコード付きのツアーパンフをサイン付きで送っていただいた。何のコネもない人間には、図々しい戦略を考えるしかなく、この手のエピソードはかなりある。20代そこそこだったので、今から考えると若い時しかできない無鉄砲な行動だった。

自分が宮崎駿さんらを追い始めた時にはまだ一般的な知名度は非常に低かった。なにしろ作品の中核を担っているのに、いつも「画面設計」というよく分からないクレジットしかされない。人間的に最も尊敬していた森康二さん、そして大塚康生さん、高畑勲さん、さらに「ハイジ」や「母をたずねて三千里」の作画監督だった同じ東映動画出身の小田部羊一さんにどれだけ憧れても、前述のアニ研の友人と親戚(彼も卒業後アニメ演出家)を合わせた3人だけでいったい理解者はどこに?と思っていたところ、日本医大の学祭で「ホルス」「長靴をはいた猫」「どうぶつ宝島」「わんぱく王子の大蛇退治」というこのスタッフの東映長編アニメ4大作品という上映会があってもう夢のチョイスだった。エンドロールにこの5人の名前が出ると会場は拍手喝采、特に画面設計という一番地味な扱いを受けていた宮崎駿さんに最大の拍手が沸いた時に、世の中にはこんなにアニメーションの事が分かっている人がいるんだと本当に感激したことを思いだす。そして1978年にNHKの「未来少年コナン」が宮崎駿さんの初監督作品となりブレイクが始まる。ただ本格的ブレイクはまだで、その頃、多摩にあった制作の日本アニメーションに行くと、毎週、「未来少年コナン」のセルを1400円くらいで販売していてしょっちゅう買いに行っていた。人気があるのはヒロインのラナだが、それよりももっと人気があったのが敵方で最後は味方になるクール・ビューティーのモンスリー。しかし日本アニメーションに集まるファンの間で、みんなにさらに羨ましがられるのが、宮崎さんの作った魅力的なメカの数々でファルコ、特にガンボートが出るともう宝くじを引き当てたような羨望のまなざしが集まった。三角踏にエネルギーを送る人工衛星は出たという噂はあったが、最高人気のギガンドは出ていない。引きだから出る訳がない(分かる人は分かる)。翌年の映画初監督作品の「ルパン三世カリオストロの城」が大ヒットすると状況は一変、1980年のTVの「ルパン三世(第2シーズン)」の最終回とその少し前の2回を宮崎さんが担当し、そのセルを販売すると告知された時には、会場前は大行列、セルは袋に入っていて選べず、開けたらルパンが走っている横顔だけだった。こうやって手に入れたセルだが、なぜか1枚も残っていない。いったいどこに行ったのか、引っ越した時に紛失してしまったのか…。先日、「まんだらけ」のオークション結果で、「天空の城ラピュタ」(ジブリ作品で一番好き)のシータの原画の落札価格が148万円、「トトロ」のネコバスのセルが81万だったのを見て、ああ、なんてもったいない事をしたのかと、残念さがつのった(笑)

そして1981年になってついに自分でマンガとアニメーションのミニコミを作りたくて「漫画の手帖」の編集人になり、まず知人の紹介で森康二さんのインタビューを掲載、森さんの紹介で大塚康生さん、小田部羊一さんのインタビューがつぎつぎ実現できたが、宮崎駿さんだけは森さんは「大塚さんと仕事をしている(未来少年コナン、カリオストロとずっと作画監督としてコンビだった)」から大塚さんに頼みなよ」。大塚さんの所へいくと「えー森さんが先輩なんだから森さんに頼んでよ(その時、宮崎さんは大塚さんと離れ「名探偵ホームズ」をやっていた)」と押し付け合い。お二人が異口同音に言うのは「ミヤさん(宮崎さん)は気難しいから」。これは難敵だ。第1話が完成していた「名探偵ホームズ」が権利関係で許諾が取れず3年間も塩漬けになるという今では考えられない状態の中、宮崎さんはさらにイライラしていると容易に推測されていた。前にも書いたが、こうなったら禁じ手を使おうと、所属していたテレコムに直接電話をかけ、「佐野ですが宮崎さんをお願いします」「あっちょっとお待ちしてください」「もしもし宮崎ですが」「すみません、はじめまして。私、「漫画の手帖」というミニコミを作っている佐野と申します。今まで森康二さんと大塚康生さんのインタビューを取らせていただいたのですが、是非、宮崎さんにインタビューをお願いしたいと思いまして電話いたしました」「ああ、いいですよ」とあっさりOK。見知らぬ無名のミニコミなのに、そういう事は一切関係なく、快く受けていただけた。宮崎さんの話はとても面白く、「漫画の手帖」1号分では惜しすぎると、その後4回連載したほど。「漫画の手帖」での森康二さん、大塚康生さん、宮崎駿さん、小田部羊一さんの4回のインタビューは、このミニコミのハイライトの一つだったと言える。この4人はアニメーターとして比類なき存在で、優劣などないレジェンドだが、その中でもっとも年配の森康二さんのアニメートが最も天才だと確信している。「ホルス」でのヒルダの眉ひとつわずかに動かすだけで内面を描く技術は神業。宮崎さんの女性キャラは森さんのキャラを明らかにオマージュしているので、是非、東映動画長編を見て欲しい。森さんは必ずご自身で描いた動物のイラストで年賀状を返していただき、ご病気になっても出してくださった。今なお、見習うべく自分にとっての偉人が森さんだ。

違法行為だが、アニメのソフト、特にこの4人の初期作品がビデオになるなど想像もできない時代、2,3か所の図書館から16㎜フィルムを借りてきて、渋谷のスタジオで、テレシネ装置でβⅠでダビング、10万以上かかるので10人有志を集い均等割りでダビングしたビデオを渡していた。何しろ元がβⅠだからダビングでもクオリティが下がらない。こういう貴重なビデオを揃え、また凄いレアビデオを持っている人がいるなどの情報も集め、「漫画の手帖」でお世話になったマンガ家、アニメ関係者、ライター、ゲストを招いて、発行人のご自宅でオールナイトのビデオ上映会を複数回開いた。発行人の方は大変な資産家で1982年頃にそのために巨大なプロジェクターを購入、家も広いので30人ぐらいでも見られる部屋があり、持ち寄ったビデオで大いに盛り上がった。その時に初めて「ウルトラセブン」の欠番「遊星より愛をこめて」を見て、持ってきた人以外みな初めてなので、息を詰めて見ていたもの。まだプロになる前、学生時代に庵野さんら大阪芸大のスタッフが作った「愛国戦隊大日本」「怪傑のうてんき」「帰ってきたウルトラマン」はそのクオリティの高さと演出の上手さで大喝采だった。そして宮崎さんが「名探偵ホームズ」の第1話を海外用のプロモーションに作った英語版が、声優の声も最高、この時点ではお蔵入り状態なのでこれも大喝采だった。このビデオ、10年以上探しているのに未だに見つからない…もちろん、公になったことがない。こういう上映会に多くの方を招いて親交を深め、またマンガ家の方同士も初めて話す場であったり、こういう努力が原稿料のないミニコミの「漫画の手帖」を続けていく大きな力になっていた。

「漫画の手帖」の中核はやはりマンガ。そちらに話を移そう。1979年に奇想天外社から出た吾妻ひでおさんの「パラレル狂室」「不条理日記」を買って、人生が変わった。今まで読んだことないSFマインド溢れるマニアックなギャグの連続。そしてキャラクター、特に昭和30年代の手塚治虫や石森章太郎を彷彿とさせる、最も魅力的なフォルムの美少女達。まさに吾妻ひでおの出現は、ファンだけでなくこの当時の多くのマンガ家にとってもカリスマだった。あの手塚治虫さんもライバル視するほど。自分が「漫画の手帖」に参加した3号がで紹介したのが吾妻ひでお同人誌作品特集だった。まだどこも取り上げていなかったので大ヒット、それで1981年から1991年までの11年間、5号からVANDAを始める33号まで編集人として全てフリーハンドで編集人をやらせてもらった。版下と営業を、別の発行人がやってくれたので、VANDAより楽でやれたのは確か。ただのマンガ好き、アニメ―ション好きの一介の学生が売れるミニコミにしていくのは、人間関係が全てだった気がする。この「漫画の手帖」で、リレーマンガというまったくプロットをあえて決めずに次のマンガ家の方に続きを描いていただく「ぬいぐるみ殺人事件」という連作があり、全てプロのマンガ家にタダで描いていただいた。第1回は文:新井素子さん、絵:ふくやまけいこさんからスタート、吾妻ひでおさん、とり・みきさん、ゆうきまさみさん、高橋葉介さん、魔夜峰央さん、出渕裕さん、中山星香さん、かがみあきらさん、伊東愛子さん、火浦功さんなど19人のマンガ家と作家の方で連作し、案の定ストーリーはハチャメチャになったが最後はしりあがり寿さんが見事に締めていただいた。漫画の手帖増刊でまとめた本を作ったが瞬時に売り切れ、そのまま増刷はしなかったため、伝説のようにマンガファンの間で語っていただいて、復刊ドットコムという会社に非常に多くの復刊リクエストが集まったので単行本で復刊してくれたほど。この連作は「漫画の手帖」のハイライトだったが、その中のマンガ家でいくつかの思い出エピソードを。

    吾妻ひでおさんは、最も描いていただきたかったカリスマ。ご自宅へその同人誌の特集やアニメの美少女を集めた特集などお送りし、何かお描きいただけないかとお願いしたところ、まず文字だけの「別のハガキが来ますので少し待ってください」のハガキが届き、しばらくしてもう本の表紙にしても余りあるほどのクオリティのラナ(未来少年コナンのヒロイン)のカラーイラストが2枚も届き、OKの返事。あまりの素晴らしさに家宝にしていたが、後に吾妻さんの単行本にカラー掲載で提供させていただいた。吾妻さんの原稿を受け取りに深夜、練馬のご自宅に伺ったが、住所が分からず、また畑が多かった深夜の大泉学園で前を歩いている女性に後ろから「すみません」と声をかけたら走って逃げられてしまった(笑)

    とり・みきさんは昔、下北沢に住んでいて、何度もお邪魔させていただいた。とりさん達は一時、「時をかける少女」主演を期に原田知世さんにドはまりしてプロだけの同人誌を作って大林監督と原田さんにプレゼントしたほど。1983年の大みそかだったと思うが、とりさんの家へいくとゆうきまさみさんも来ていて、突如、原田さんが主演していたTVドラマの「セーラー服と機関銃」の舞台となった横浜のバーに行こうとその頃自分が乗っていた黄色のシティで高速をすっとばして行った思い出がある。自分はいつも車で移動していて常に路駐、膨大な路駐時間からは少ないかもしれないが、交通違反は全て駐車違反で7回切符を切られた。だからこの日もすぐ車で行けた。そのシティだが、「漫画の手帖」のオマケ企画の「夏の音楽」で対談し、そのあとに対談相手のとりさんとたきたかんせいさん(とりさんのマンガのキャラクターだが実在の人)と一緒に晴海へ行って、私ととりさんが好きなビーチ・ボーイズ風の写真を使おうと、私が運転席、とりさんとたきたさんがボディの上に乗って指をさし、『Surfin’ Safari』のジャケット風に撮影したが、案の定、天井がボコっとへこんでしまった。車の中から上に思い切り叩いたらボコッと音がして元に戻った(笑)私の結婚式には何かビーチ・ボーイズの歌をこの3人で披露しようと練習したが、たきたさんはファンではなく、音程がとれないので、なるべくハーモニーの音が動かない曲で探したら「Wendy」になり、オケはとりさんが完璧に仕上げてくれ、カセットで流しながら式で3人で歌った。その時のとりさんのMC「えーこの曲は失恋の歌でして、選んだ責任は全て新郎にあります」(笑)

    高橋葉介さんは、「マンガ少年」の「夢幻紳士」を見てその絵の美しさに惚れ込んだ。まだお会いする前だが、「漫画の手帖」の裏表紙に「夢幻紳士」がいかに素晴らしいかを書いてそこに主人公の「夢幻魔実也」のイラストも載せた。私が最初に入院したのが1984年で1か月入院したのだが、ベッドのテーブルにその「漫画の手帖」を何気なく置いていたら、ひとりの看護師がそれをみて「あら、まみや君!」。マイナーな雑誌だったので驚いて「知っているんですか?」と声をかけた。それが今の妻である。高橋さんのご自宅には家族ぐるみで何度もお邪魔していて、ある日大雪となってしまいチェーンも持っていなかったのに夜の246を走っていたら急にハンドルのコントロールが効かなくなり景色がぐるぐる回ってヤバいと思ったがぶつからず、ああ良かったと思ったらフロントに遠く見えるのはヘッドライド。これこそヤバい、180度回転しているじゃないか!何とか後続車もゆっくり走っていたのでなんどか切り返して少し大げさだが命拾いした。

    しりあがり寿さんは「エレキな春」の単行本での衝撃的なデビューで、とり・みきさんなど多くのマンガ家の方にとって最も気になる、マンガ家になっていた。その時に所属出版社の編集者さんの好意で、「漫画の手帖」の企画でのプロ野球対談に参加していただけることになった。あんなハチャメチャなギャグを書くのに大企業のエリート・サラリーマンという情報は聞いていた。みんなわくわくしながらしりあがりさんの登場を待つと、七三の髪型にメガネ、スーツにアタッシュケースのよう見えたカバン、もう非の打ちどころのないカッコいいサラリーマン姿で現れ、分かっていながら拍手喝采したい気分だった。野球対談は自分も含め一騎当千のプロ野球ファンが集結したのでマニアックな選手の会話で大いに盛り上がった。特に活躍しなかった外人選手の話題なんて、最高の話題になる。日拓ホームフライヤーズの七色のユニフォーム、太平洋クラブライオンズのアメフトのような前が番号だけのユニフォーム、昔のドラゴンズのノースリーブ・ユニフォームなど思い出すことが多く、その企画はその後も続いた。なお、キリンのハートランドビールは社員時代のしりあがりさんのデザイン。

    魔夜峰央さんは先のオールナイトビデオ上映会にいらっしゃったのだが、そこで高橋葉介ファンクラブの代表の女性と知り合いになる。たしかここから半年くらいで入籍のハガキをいただいて大いに驚いたもの。その後、家族でディズニーランドに行った時に「佐野さん」と声がかかり、振り向くとダンボのところに魔夜さんと奥さんが並んでいてしばらく立ち話をしたことを思いだした。もちろんあのサングラス姿だった。

    20代で急逝してしまったかがみあきらさん。美少女を描くことが得意で一気に売れっ子になった。その頃、麻布十番のマンションに住んでいて、遊びに来てというので、一番多く遊びにいっていた。アニメもマンガも映画もロックも好きでともかく話があった。夜の10時ごろ行って車はずっと路駐、かがみさんはずっと机に向かって仕事そしていたが、かがみさんのコレクションのビデオを見たり、CDを聴いたりして、話かけてももちろんOK、人懐こく私のような多趣味でそういう話に花を咲かせることが好きな方だった。かがみさんにダビングしてもらった1983年から3年半放送された怪物ランド主演の「ウソップランド」という深夜番組の中での「懐かCM」というコーナーの部分だけを集めたベータのテープは今でも宝物。この時代での懐かしいCMなので他では見られないもの多数。そのかがみさんは仕事が忙しくなりすぎて不便な麻布十番から高田馬場へ引っ越しされ、私は高田馬場には一度も行けないうちに室内で急逝してしまった。

何人かのマンガ家の方のエピソードを書かせていただいたが、マンガではないがイラストと文では江口寿史さんや山田ミネコさんなどもお描きいただいた。「漫画の手帖」は発行人の方が印刷費さえでればいいという考えだったので150円という安価をキープし続け、18号では販売部数が1万部という驚くべき水準に達してその年のコミケットの売り上げ第1位にランキングされた。(毎回アンケートで販売部数の申告が必要で、次回のパンフで売り上げベスト10が掲載されていた)そのため、コミケでは常に壁サーと呼ばれる壁を背にしたゆったりとしたスペースが用意され、VANDAになっても2年ほど行ったので、12年間のコミケットは楽な思い出しかない。

こういう本を続けるのにはマンガを常に集め続ける必要がある。資料がないと次のネタは作れないし、自分自身も好きなマンガが欲しい。その頃にすぐに注目した、前述のマンガ家以外では諸星大二郎、大友克洋、星野之宣、高橋留美子、江口寿史や、萩尾望都、大島弓子、吉田秋生、倉多江美といった新進気鋭のマンガ家の作品はリアルタイムで入手できるが、「ファイヤー!」より前の水野英子の主に昭和30年代の掲載少女誌や、矢代まさこの貸本の「ようこシリーズ全28巻」、そして単行本未収録の吾妻掲載誌など数多くのターゲットは古本屋と古書展で入手するしかない。古本屋はマンガに関しては神田ではなく高田馬場がメインだ。週に3日は通っていた。しかし貴重本は古書展に出る。専門書しかないお茶の水の古書会館の古書展ではなく、毎月のようにあったデパートの古書展だ。先に会場の階を下見し、エスカレーターを駆け上がるか、エレベーターが速いか作戦を立てる。多くは開店と同時にエスカレーターを駆け上がり、ライバルたちとの戦いに勝てば、貴重本は総取りだという場合になる。いつも行動を共にしていた友人以外に、古書展では一人増え最低3人、多ければ4人。こっちは混成軍だが、敵は別大学のグループだ。ただ敵であってもいらないものを融通することがあり、その中の一人とは今でも年賀状を交わしているほど。集めているものが違えば同じグループで行動できるが、バッティングすれば敵となる。その頃は時々1960年代の「ティーンビート」や「ミュージックライフ」が数百円で売っていて、好きなアーティストが載っていると買って、ビーチ・ボーイズのインタビューが載ってるなとか、フーのいい写真が載っているなと思うと、なんと本をばらしてそその部分だけをファイリングしていた。今考えるともったいないことをしたものだ…。そのうちマンガの専門店もできた。その中で画期的な店はなんといっても1980年に中野ブロ―ドウェイの2階という客のこない場所で小さなスペースで開業した「まんだらけ」。売れないガロのマンガ家の古川益三さんが始めた店だったが、それまで持っていくと「全部で〇〇円」と言われる古本屋の買取が、11冊これはいくらと買い取り価格を言ってくれ、いらないものはいらないと返してくれた。そして何よりも高く売れる本は1冊何万円も出した。有名な藤子不二雄のデビュー本「ユートピア」は180万という値段が付いたほど。この高額な買い取り価格は全国に広まり、全国のコレクターから買い取り希望が殺到し、店は他店にはない貴重本がずらりと並ぶようになって一気にまんだらけはメジャーとなる。まだメジャーになりはじめた頃には、古川さんの家まで遊びに行ったことがある。国領のこじんまりした都営アパートだったが、今やプール付きの豪邸に住んでいる。まんだらけの隆盛は、小さい頃から知っているだけに感慨深いものがある。

よく郊外を回ったのは、貸本屋が閉店したという雰囲気の店を捜して閉まっているカーテンの隙間からマンガ本を確認、あとは電話をかけるか呼び鈴を押して、大学の漫画研究会ですが研究のために本を見せていただきたいといって頼んで開けてもらって、いい本だけ売ってもらう作戦だ。しかしこれは他グループも回っているので、行ってみたら先客にいい本をごっそり買われていたという事も多々あること。その中、練馬の古本屋が貸本屋をそのまま買い取った本が倉庫に入っていて半日だけ見せてくれた。倉庫を開けると高さ3m近くが古いマンガの貸本本。梯子でその山の上に乗り、炭鉱を掘る耕夫のように本の山を掘り進み、99.9%がクズ本の中、いくつかの宝石を見つけた。残念ながらダイヤモンド級はなかったが、ルビー、サファイア級の本はあった。古い本の埃で全身真っ黒、まさに炭鉱夫だったが、コストパフォーマンスは悪かろうがあれだれワクワクした瞬間は無い。

長く書かせていただいたが、友人との3年目の終わりに、相手から「俺、大学辞めるわ」と言われ、その時にああ、こいつと一緒じゃいけないなと思って「俺は行くわ」と言って袂を別った。その3年間、日中のほとんどをその友人と一緒に過ごし、本などを買って消費するだけではすぐに破産する。そのためマンガ本のコレクター達に、見つけた古い雑誌などを安く買って相場で売り、差額が大きい場合が多く、二人の食費や交通費、本を買うお金までこういう「転売」で賄っていた。マンガ以外でも、SF本は本屋で初版だと高く売れるので、普通の古本屋では探してこれも転売していた。(古本屋で本をさっと抜いて奥付で初版かどうかだけ確認し、初版じゃない本はすぐに戻すという作業を黙々と続けている人は、「背取り屋」といって本の転売で生計を立てている人だ。)学校へ行くと、購買部に中学生の頃、どうやっても入手できなかったビーチ・ボーイズのオリジナル・アルバムがみな日本盤でリシューされているではないか!まさに浦島太郎、全部買ってきて、それから音楽へ戻るきっかけになる。学校で7年生なんてめったにいないので、学籍番号を出席で読み上げる奴がいて、6年以上はみな声の方向に振りかえる(笑)卒業前の適正テストを全部本音で書いたら、「あなたは社会人に適していません」と返ってきて笑った。建前で書けばいい評価になるのは分かっていたのであえて試してみた。就職部にも見捨てられたので、求人票から転勤の少なそうな会社(本つくりに支障が出るので)を選んで面接では「漫画の手帖」をドンと出すとみな面接官は驚き、「いったいこの本がうちの会社に役に立つんですか」と必ず聞くので「もちろん役立ちません。ただこういうミニコミを1万部作っていたので、他の遊んでいた学生より創作能力はあります」など言いたい放題言い放って帰ったが、けっこう合格をもらった。だから面接など少しもあがらない。ある意味、何も失うものがないので「無敵の人」だったのかもしれない。まあ色々あってこれらの会社には行かなかったが。

こうして1991年の暮れからVANDAをスタート、2017年2月1日、2016年4月14日に書いたエピソードにつながる。「漫画の手帖」時代は今から30年以上前。きちんと資料を残しておけば、単行本に出来たなと思う連載もあった。東京はもちろん出かけた先で変わった缶ジュースがあると買って、味や色などの1本ずつ記載した連載は、缶も写真も捨ててしまったため、ずっと後に同じ企画の本が出てもったいないなと。世界中の変わった果物を買ってきて品評する企画や、変わったケモノや鳥の肉を買って焼肉にした企画、思いつく限りの酒を揃えた利き酒回もあった。ここでは知人のお坊さんが20数万もするブランデーの「ルイ十三世」を惜しみなく提供、度数が96(注射の時の消毒用アルコールの度数が70だから…)のウォッカ、スピリタスを一気にあおって泥酔した人間がいた。また、まだ数多くのハンバーガーチェーンがあった時の分解したイラスト付きのグルメ評も。雪印の「スノーピア」、グリコの「グリコア」は誰も知らないだろう。明治の「サンテオレ」や「森永ラブ」「デイリークイーン」「アービーズ」は覚えている方もいるかも。こういう企画もひとつひとつの写真を残していなかったのが失敗。色々なニッチな本を見ると、納豆の包み紙まで全部残している人がいるから、まだまだ甘かった。(佐野邦彦)


2017年2月18日土曜日

黒沢健一さんとの思い出を偲び、大好きだったL-Rの全音源を集めるCollecting Guideを作ってみた。未だにシングルのみの14曲、サントラの2曲、ベスト盤のみの4曲など要チェック。


 黒沢健一さんが昨年の125日に亡くられてから2カ月半経った。123日には「黒沢健一を偲ぶ献花の会」に、黒沢さんの所属のrpmのマネージャーさんよりご案内をいただいたが、この体なので参加できないとの返事を差し上げて自宅でご冥福をお祈りした。部位は違っても病気は同じであり、明日の我が身でもある。他の人より衝撃は深い。彼は48歳と私より11歳も若く、無念のほどは察して余りある。
 
 黒沢さんとお会いしたのは2回あり、最初は萩原健太さんのイベントで、萩原さんのギターでの「Surf’s Up」のハイトーンヴォイスの美しさに、うっとりと聴き惚れた。2回目はブライアン・ウィルソン2回目の来日の時で、バック・ステージに入ることが出来たのだが、黒沢さんもその場にいた。黒沢さんはLPを持ってきていて、「Hello」と現れたブライアンが一人一人と握手する中、サインをもらって、少年のように目を輝かせていたのを思い出す。
 毎回、何か話をしたのだが内容は覚えていない。でもとてもシャイで物静かで、でも優しい雰囲気を纏った方で、話をしてとても好印象を持った方だった。私はL-Rの時から黒沢さんの作る音楽がまさにストライク、そのポップで明快で高揚感のあるメロディと美しいハーモニー、素晴らしいハイトーンのヴォーカル、そして類まれなポップ・センスに夢中だった。 
 rpmのマネージャーの方のメールで黒沢さんが「佐野さんが、いかに音楽が好きで造詣が深いか、VANDAがいかに音楽好きの自分の心をくすぐるのか、社会人をやりながらここまで…」とマネージャーの方に敬意を言葉にされていたそうで、身に余る光栄でとても嬉しかった。私はただ好きな音楽を見つけて紹介しているだけで、曲を作るわけではないのに。黒沢さんの死後、L-Rのアルバムがリイシューされ全アルバムが聴けるようになった。自分もこの機会に聴きなおし、シングルのみの9曲の紹介など、L-Rの全音源を集めるCollecting Guideを作ってみたので紹介しておきたい。一人でも多く黒沢健一さんの音楽の素晴らしさが伝わって残るように。

 

20172月現在)

LR

L-Rとしてオフィシャル・リリースされた曲のみ。サンプル盤のみの曲は最後に記載。

 

☆オリジナル・アルバム

1991  L』※1997年『L+R』(プロモ盤『R』とセット。初回限定盤には「Paperback Writer」「Both Sides Now」のCDシングル付でリリース。前者はこれのみ)

1992 『Lefty In The Right』(ポリスター)

1992  Laugh+Rough』(ポリスター)

1993 『Lost Rarities』(ポリスター)

1993 『Land Of Riches』(ポリスター)

1994 『Land Of Riches Reverse』※前作のアウトテイク(ポリスター)

1994 『Lack Of Reason(ポニーキャニオン)

1995 『Let Me Roll It(ポニーキャニオン)

1997 『Doubt(ポニーキャニオン)

1997 『Live Recordings 1994-1997』※4枚組のライブ(ポニーキャニオン)

 

☆必要なコンピレーション

1994 『Singles & More(ポニーキャニオン)※「Laugh So Rough」は『Laugh+Rough』収録のものに比べ歌が始まる前のドラムの2拍がない。「Younger Than Yesterday」は『Laugh+Rough』収録のものは前の曲の「Laugh So Rough」のエンディングがイントロと被るようにつながっていたため、0.5秒くらいイントロが長い。そしてバッキングのドラムの大きくミックスされ、特に後半はかなり曲にメリハリが出ている。

1995 『四姉妹物語』(ポニーキャニオン)※同名映画のOSTL-R4曲参加。L-Rの「Dream On」はこれのみ。「Hello It’s MePiano Version)」も収録され、ピアノはMasahiro Hayashiでクレジットされている。ちなみに「Hello It’s Me」はSingle Versionで収録されている。

1997 『Singles & More Vol.2(ポニーキャニオン)※「Knockin’ On Your DoorSingle Version)」は17秒から33秒までのホーンのミックスが大きい。「ByeSingle Version)」はイントロのギター、エンディングのピアノが大きく間奏のオルガンが小さい。「Day By DaySingle Version)」は1分から15秒くらいの間のオルガンがほとんど聴こえない。「GameSingle Version)」はギターが大きくミックスされているがアルバムより11秒短い。「Nice To Meet YouSingle Version)」は歌のAメロなど電気処理したようなミックス。その他「DaysAlternate Mix)」「僕は電話をかけない(Alternate Mix)」収録。なお「Hello It’s M」はAlbum Versionだった。

2012  Who Is The Stars? Wits+Z Compilation Vol.2-20th Anniversary Edition(ウルトラ・ヴァイヴ)93年のライブ6曲収録

 

☆必要なシングル ※重要なのは★の14

1992 ★「Bye Bye Popsicle[Version]Single Version)」※最後が『Lefty In The Right』収録のものと同じエンディングがシンフォニックなアレンジのヴァージョンだが、ドラムが『Lefty In The Right』は左なのに比べ、シングルは右。そして15秒から21秒までの間奏のドラムが僅かに大きくミックスされた。(ポリスター)

1992 ★「Passin’ ThroughSingle Version)」※314秒以降のエンディング部分はこのシングルのみ。A面の「(I WannaBe With You」は222秒から53秒までと、310秒から33秒までをEditしたSingle Version。(ポリスター)

1993 「恋のタンブリングダウン」のシングル:「恋のタンブリングダウン(Edit)」※『Lost Rarities』よりフェイドアウトが16秒短く、その後、間をおいての24秒のジングルがない。「君に虹が降りた(Edit)」※『Lost Rarities』でのフェイドアウト後、間をおいての14秒のジングルがない。★「恋のタンブリングダウン(Reprise)」は1分の後の「素直になれたなら君のそばに届く笑顔を見せておくれ」の歌詞の部分はこのシングルのみ(ポリスター)

1994 ★「夜を撃ちぬこう」※アルバム未収録。A面は「Remember(ポリスター)

1994 ★「Hyper Belly Dance」★「Hello It’s MeInstrumental Version)」※2曲ともアルバム未収録。A面は「Hello It’s MeSingle Version)」で2017年版『Lack Of Reason』にもボーナス収録。シングルは『Lack Of Reason』収録のものに比べヴォーカルにエコーがかかっておらず310秒から30秒弱く続くシンバルが小さくミックスされている。(ポリスター)

1995 ★「Music Jamboree ‘95」※アルバム未収録。★「It's Only A Love Song」は『Lack Of Reason』収録のものと比べ曲が終わった後に8秒、アナログのプツンプツンという針音が加えられている。A面は「Knockin’ On Your DoorSingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1995 ★「Chinese Surfin‘」※アルバム未収録。A面は「ByeSingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1995 ★「Cowlick(Bad Hair Day)」※アルバム未収録。A面は「Day By DaySingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1996 ★「Good Morning Tonight」※アルバム未収録。A面は「GameSingle Version)」で『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1996 ★「Game(Live Version)」※1994年のライブでアルバム未収録。A面は「Nice To Meet You」の8インチシングルに収録。「Nice To Meet YouSingle Version)」は『Singles & More Vol.2』にもボーナス収録。(ポニーキャニオン)

1997 ★「そんな気分じゃない ("JAM TASTE" Version)」※『Doubt』収録のものとはまったくの別ヴァージョン。演奏もアレンジも別物で、例えば間奏がブルースハープではなくボトルネックギターであったり、アルバムのヴァージョンは完奏するがこちらは37秒短くフェイドアウトする。

1997 ★「Stranded(Single Version)」※『Doubt』収録のものは冒頭9秒間にスタジオチャット的なギターが聴こえたがシングルではそれがなく、シングルのエンディングは逆に演奏が3秒長いが、パッと終わる演奏の後のカセットのスイッチを切るような音がカットされている。そしてシングルのみ312秒から32秒までのギターにジェットマシーンのようなシュワシュワした音がかかっている。A面は「Stand」。(ポニーキャニオン)

(作成:佐野邦彦)

●参考:サンプル盤のみ

1992 『Rough And Rough』(ポリスター)※「What "P" Sez?Long Version)」「Laugh So RoughRough Version)」

1993 『Land Of Riches Edit Sampler』(ポリスター)※「Both Sides Now(Long Version)」「Telephone Craze(Alternate Mix)

1994 『Listen To The Disc(ポニーキャニオン) ※『Lack Of Reason』より。「Easy Answers(Out Take)」「It’s Only A Love Song(Out Take)

1995 『Hello It’s Me Rare Tracks(ポニーキャニオン)※グリコの抽選でもらえる『四姉妹物語映画先取り缶』に入っていたCD。「Hello It’s Me(Strings Version)」「Hello It’s Me(Alternate Piano Version)」「Making Of Hello It’s Me(ナレーション入りだがDemo Track)

1997 『Doubt Promotion Sampler(ポニーキャニオン)※「僕は君から離れてくだけ(Alternate Version)」「アイネ・クライネ・ナハト・ミュージック(Alternate Mix)」「そんな気分じゃない(Alternate Mix)」
 

 

 

2017年2月5日日曜日

☆マギー・メイ:『12時のむこうに~アンソロジー1969-1975』(クリンク/CRCD5129-30)



先日紹介した実川俊晴の1975年以降のソロ・アンソロジー『TOSHIHARU JITSUKAWA POP SONGS 1979-2016』があまりに素晴らしかったので、このレーベルを超え多数のデモまで収録したコンピを実現してくれた制作・解説の高木龍太さんが、実川俊晴のそれ以前の、主にマギー・メイというバンドで活動していた前期作品集を既にリリースされていたので、高木さんに頼んで送っていただいた。このマギー・メイ『12時のむこうに~アンソロジー1968-1975』で、年代がつながった訳だ。ここで実川俊晴の音楽活動が分かった。九段高校に通っていた実川は、ビートルズ、そしてゾンビーズ、ビージーズ、ピーター&ゴードン、バーズ、などの特にコーラスに魅かれ、実川いわく「僕らのやっていた音楽はソフトロックだね」という意識で、GSが学生フォークかという潮流に属さない洗練されたポップ・サウンドを指向していた。1969年にまず東芝/エクスプレスよりマミローズの名でシングルを出すが、曲は別のメンバーが書いたものの、実川の歌を聴いたメンバーが、実川が歌った方が絶対いいと言ってレコーディング、そこで実川は自身のヴォーカルの魅力に気づくことになる。このシングルの演奏は残念ながらスタジオ・ミュージシャン。B面の「灰色の空」の方が、ハーモニーがあっていい出来だ。高校は進学校なのでみな学業優先で次々メンバーが入れ替わり、1970年にはハロー・ハピーに変わり、シングルを1枚リリースする。このシングルからは実川の曲で、演奏もグループで、特にB面の「朝日の見える丘」が洗練されたハーモニーに彩られたソフトロック系に仕上がっていて注目される。ここでさらにメンバーが就職などで抜けるが、実川は進学していた早稲田大学の音楽仲間とセッションをしたもののレコーディングには至らず、前の2つバンドメンバーと匿名で所属していた東芝のカバー企画LPに参加する。その中の1971年のレッドブラッズ名義で「No Matter What」を提供したが、これは高木龍太さんの労作コンピ『スウィーター!ルーツ・オブ・ジャパニーズ・パワー・ポップ1971-1986』(ポップトラックス)で聴くことができる。実川は音楽で身を固めていこうと決意していたので早稲田大学を中退し、集まったメンバー5人でマギー・メイを結成する。S&GPPMのハーモニーにも魅かれていた彼らはCS&Nの曲を歌っていたが、既にGAROがその路線でデビューしていたので、この路線ではなく、ハーモニーを生かしながらシャウト・ヴォーカルで(レコードではシャウトはないが)迫力あるサウンドで行こうとライブ活動を始める。そして1972年にマギー・メイ初のシングルをリリース、A面の「失くした心」は、マイナー調の曲だが、サウンド、ハーモニーのアプローチが洋楽に近い。そして1973年にポリドール傘下の洋楽レーベルに移籍してデビュー・アルバム『マギー・メイ・ファースト』がリリースされる。曲は2曲が共曲で残りは全て実川の作詞作曲だ。冒頭の「吟遊詩人」で冒頭のアコースティック・ギターからワンランクアップしたサウンドを十分に感じられる。ハーモニーの力は健在で、バッキングがパワーアップした。さらに次の2枚目のシングルになった「12時のむこうに」が傑作だ。アップテンポのアコースティック・サウンドにCS&N風の明快なハーモニーが映え、メロディも実川らしい爽快さがありベスト・ソングのひとつ。ジャジーなサウンドとハーモニー、そこに実川のハイトーン・ヴォイスが光る「ひとりぼっちの広場」は、従来にはないハイセンスな佳曲。アフロタッチのパーカッションにアコースティック・サウンドとハーモニーを乗せた「不言実行」も面白い。エレキギター、サックスをフィーチャーし、様々な展開をする洒落た「いらいら」も、新境地を開発しようという意気込みが感じられる。このアルバムの後にヒットを狙ったシングル「続・二人暮らし」をリリース、サウンド的には日本的な情緒のフォーク・ロックで、コーラスは少ないが本人達は満足した出来だといい、南こうせつがプッシュするなどラジオでは話題になったが、どのレコードもヒットしなかった。シングルA面になった3曲以外は全て初CD化で、貴重なリイシューだ。ディスク2は日本コロムビア移籍後の音源になる。まず1974年の先行シングルで、A面はフォークだが、B面の「私の小さなブティック」は、お洒落な愛らしいポップ・ナンバーで、歌い方もハイトーンで甘く、1979年以降の実川が感じられる快作だ。そしてアルバム『もぬけのから』がリリースされるが、ディレクターにしっとりとしたフォークが似合うと言われ、穏やかなフォークタッチの曲が多くなり、出来は不満だという。でもその中で光る曲があり、パイロットやラズベリーズを思い起こさせるパワー・ポップ風のギターが快調な「宝探し」や、ハーモニーとパーカッションが爽やかな「悪魔印のキャンディ」、哀調漂うメロディとコードが印象的な「ぼんやり」、シティ・ポップ・タッチの「地下鉄は終わり」、1979年以降のソロを予感させるトロピカルな「それから…」は十分聴く価値がある曲だ。1975年にマギー・メイのラスト・シングル「誓いのハイウェイ」はメロディもハーモニーも流麗で日本コロムビア時代のベスト・ソングのひとつ。B面のみ実川の曲ではないが、このアップなポップなナンバーもいい。この1975年にマギー・メイは解散するが、他にオムニバスのみの『永久保存版フォークあいうえお』にチェリッシュの「若草の髪かざり」のカバーを提供、さらにカルメンの1974年にシングルで実川が作詞作曲、演奏マギー・メイという「嘘みたい!?」も収録してあり、ディスク2も『もぬけのから』以外の曲は全て初CD化なのが嬉しいところ。アルバムには収録されていないが、1975年に実川が曲を提供し、とんぼちゃんのデビューシングルになったサビのメジャー展開とハーモニーが心地よい「貝殻の秘密」があるので、ご存知の方も多いと思う。この1975年にはあのSUGAR BABEが鮮烈なデビューを飾っており、その前に1973年には荒井由実が『ひこうき雲』、1974年『MISSLIM』、1975年『COBALT HOUR』と怒涛のリリースで既に日本のポップ・ミュージック・シーンを革新していた。マギー・メイでの活動は、この時期が潮時だった気がする。このCDで先に紹介した実川俊晴『TOSHIHARU JITSUKAWA POP SONGS 1979-2016』へつながるので、実川俊晴というほぼ無名の、しかし優れたミュージシャンの全ワークスを追えるようになったことは素晴らしいことだ。今のうちに必ず入手しておこう。(佐野邦彦)

※情報はこちらまで

*マギー・メイの情報はこちらまで(現状、販売元直営の芽瑠璃堂、あとはタワー、HMV、ディスクユニオンは確実に通販可能)




2017年2月1日水曜日

The Pen Friend Club:『Wonderful World Of The Pen Friend Club』(サザナミ・レーベル/SZDW1029) 平川雄一インタビュー


 WebVANDAではお馴染みのペンフレンドクラブが、早くもフォース・アルバムとなる『Wonderful World Of The Pen Friend Club』を今月8日にリリースする。 昨年ボーカリストの交代劇があったものの、新たにサックス奏者をメンバーに加え、新生ペンフレンドクラブとして新たな第一歩を踏み出した。
またリーダー平川雄一がRYUTistへ楽曲提供したことで、彼らのサウンドの裾野が広がったといえる。

アルバムの詳しい解説については、弊誌佐野編集長と筆者による推薦コメントを読んで頂くとして、ここでは通算三回目となる平川氏へのインタビューを掲載したい。
The Pen Friend Club OFFICIAL WEBSITE
●各方面からの推薦コメント 


●まずはサード・アルバム『Season Of The Pen Friend Club』リリース後に高野ジュンさんが脱退し、3月には新たに四代目ボーカリストとして藤本有華さんが加入されていますよね。アルバム毎にバンドの看板メンバーの交代が続くというのは、リーダーとしてかなり大変な出来事だと思いますが、毎回スムーズに対応されていて感心しています。
苦労話もあると思いますが、その辺のエピソードを聞かせて下さい。

平川(以降H):はい、毎回アルバムが出る度にボーカルが脱退するのは最早ペンフレンドクラブ(以降ペンクラ)の風物詩と化した感がありますが、実際は「止むに止まれず」、「苦渋の決断」というのが実情です。
メンバーの交代には相当な体力が要ります。精神的にもキツいものがあります。
あとボーカル交代の場合、キーがほぼ全レパートリー変更されるので演奏するメンバーも大変です。とはいえ今回新たに加入したボーカル・藤本有華に出会えたことは本当に幸運でした。


●藤本さんは声量や声域的にも素晴らしいものがありますが、ペンクラに参加される前はどのような活動をされていたんでしょうか?

H:子供の頃から歌うことが好きで、よくディズニーやミュージカル映画の英語の歌を真似ていたそうです。
ただ社会人になるまではカラオケ程度で人前での歌唱は未経験だったそうです。 「歌いたい欲」を持ったまま就職後、会社の同僚たちとアコースティックバンド ”T-time.” を結成しますが、好評を得るも短期間で終了します。その後、初のフルバンド ”まいすぺ” を結成し、主に洋邦のスタンダード曲を演奏するバンドでしたが、このバンドも3年程で解散しています。
 「歌いたい病」を患ったままピアノ弾き語りを習いに音楽教室に通ったり(教室主催のコンクールで受賞)、ライブハウスのオープンマイクに参加したり。 そんな中、ペンクラからお呼びがかかった。そんな感じらしいです。 


●看板メンバーであるボーカリストが藤本有華さんに変わったことで、何か新しい変化はありましたか?
また翌月にはサックスの大谷英紗子さんが加入しますよね。バンド・サウンド的にも幅が出てきたと思いますが、具体的にはどんなことでしょうか?

H:藤本の歌唱力、英語の正確な発音は間違いなくペンフレンドクラブのサウンドをいい意味で変えました。「歌うこと」への藤本なりの美学、自信を感じます。
一緒にやっていて本当に頼もしいですね。
大谷は現役のクラシック科の音大生で(2017年1月現在)、音楽的素養に関しては僕が言うに及びません。やはり彼女にも演奏家としての美学、信念を感じます。藤本同様、非常に頼もしい存在です。
ライブではテナーとアルト。4thアルバムの録音ではバリトンサックスも演奏しました。おかげで僕の本当にやりたかったサウンドが実現しました。 (特に「Born To Be Together」や「Sherry She Needs Me」。) 


●大谷さんの参加も大きいですね。レッキングクルーにおけるスティーヴ・ダグラスの役割をしてくれるので今後の展開も楽しみです。
あとはバラード系の曲で彼女のサックス・ソロをフューチャーすることで盛り上がりますし、平川さんの作曲の幅も広がると思いますよ。

H:ですね。今回の4thアルバムでも数曲サックス・ソロを披露してくれています。大谷曰く「もっと80歳くらいのサックス奏者のように吹きたい(吹かねば)」とのことです(笑) 。
こういうことを言えること自体がいいなと思いました。



●今回のアルバムもサード同様に、オリジナル曲とカバー曲の比率が5曲と5曲ということですが、アイドル・ユニット RYUTistへの楽曲提供等(タイトル「ふたりの夕日ライン」)が創作意欲に火を付けたなど平川さんの中で心境の変化がありましたか?

H:もともと火はついていたんですが、油を注がれた形です。
RYUTist側からは「いつものペンクラらしい曲で。変にアイドルに寄せないで、自身の作品と思って作曲して欲しい。」というオファーだったので嬉しかったですね。なので最初からペンクラでセルフカバーするつもりで書きました。
「夕日ライン」というのは新潟の【日本海夕日ライン】という道路の名称でRYUTistのアルバムタイトルであり、そのアルバムのコンセプトでもあります。
ただ新潟とは元々縁の無いペンクラでやることを想定して「夕日ライン」を【夕日によってできるライン状の影】や【夕焼け空の雲間から射すサンバースト】などにも解釈出来るように、と思いながら書いたんですが...歌詞内で名言してないのでそこまでは伝わらないですよね(笑)。 ただの自分内設定です。

       
 
●アルバムに先行して、その『ふたりの夕日ライン』のセルフカバーをシングル・リリース(1月14日)して話題にもなっていますが、そもそもRYUTistに楽曲提供した経緯は?

H:新潟のバンド、鈴木恵TRIOの鈴木さんを介してRYUTistのディレクターさんから楽曲提供依頼のメールを頂きました。
ペンクラの最初期の頃から注目していたとのことで、大変熱烈なご依頼で嬉しかったですね。 他アーティストへの楽曲提供は未経験でしたが興味があったので二つ返事でお受けしました。 その後、カンケさん、so nice鎌倉さん、鈴木恵さんと作家陣が決まり、RYUTistを中心に作家間のつながりも強まりました。


●このRYUTistの『日本海夕日ライン』には、伝説のシュガー・ベイブ~山下達郎フォロワーのso niceを率いる鎌倉克行氏も楽曲提供していますが、直接彼と出会って何か得るものはありましたか?

H:話好きでとても気さくで本当に楽しい方ですね。ペンクラのこともお好きでいてくれてたり・・・村松邦男さんを紹介していただいたりもしました。

●今回もVANDA的にカバー曲の選曲が非常に気になります。 マン&ワイル(&スペクター)作のザ・ロネッツの「Born To Be Together」、グリニッチ&バリー(&スペクター)作のアイク&ティナ・ターナーの「River Deep-Mountain High」とフィレス・レコードづいていますが、この影響はどこからですか?
またフィフス・ディメンションでは全盛期を過ぎた71年作の隠れた名曲「Love's Lines, Angles and Rhymes」を取り上げていて、選曲的にも心憎いですが。

H:いずれも「好きな曲」です。 『Born To Be Together』はバンド初期からやりたかった曲です。こういう曲をやることに生き甲斐を感じています。
『River Deep-Mountain High』は藤本の好きな曲でもあります。アイク&ティナのレコーディング版とライブ版のいいとこ取りをしたような仕上がりを目指しました。
『Love's Lines, Angles and Rhymes』は「藤本なら実現できる。」と思い、取り上げました。 本人は「普段こんな歌い方をしないから恥ずかしい。」と語りますが、アルバム中、本人に一番ハマっている歌唱ではないかと思っています。
且つ、この曲は聴きどころの沢山ある仕上がりになりました。スネアのリムの響き。ベースの音色と動き。サックス、フルート、グロッケンの混じり具合。好きなトラックです。


●どの曲もオリジナルでアレンジが完成されているじゃない。カバーする際ペンクラらしさを感じさせることで気を配ったことは?

H:カバーする際、特に「ペンクラらしさ」は意識はしていません。ガレージバンドがこういった音楽を本気でやると、自ずと「らしさ」が出るんじゃないでしょうかね。
大きな声では言えませんが「オリジナルに勝ちたい(勝たねば)」という闘争心はあります。


●ビーチ・ボーイズのカバーが復活しましたが、65年のアウトテイクで、後にブライアンが98年のソロ作『Imagination』に「She Says That She Needs Me」と改名し収録された、「Sherry She Needs Me」ですが、これは平川さんならではの拘りですか?


H:これは昔から最高に好きな曲ですね。 ペンクラの2ndアルバム発売後くらいから密かに1人で録りを進めていたんですが、これまでずっと放置していました。 ある時、謎の音楽家・カンケさんがプライベートで録音したものを聴かせて頂いて、「俺もやらねば」という気になり今回の4thで取り上げた次第です。
基本的に65年BB版の音像をよりダイナミックに、明瞭にしようと。そこに98年BW版での追加要素を合わせたような仕上がりにしました。
このトラックはこれまでのペンクラ作品の中で一番好きです。特にテナーサックスとバリトンサックスの音色が最高です。

●なるほど、密かに一人多重録音でプリプロしていたんだ。
因みに平川さんはドラムまで演奏出来るので、マルチプレイヤーだと思いますが、メンバー含めたレコーディング本番までのプロセスを可能な範囲で教えて下さい。

H:メンバーの歌、楽器以外の素材は僕の方で全て予め宅録します。それをメンバーに聴いてもらって、各人に指示する感じですね。
ドラムのアレンジは祥雲(ドラマー:祥雲貴行)に全体の雰囲気を伝えて、あとは基本お任せです。祥雲アレンジの方が木目細かいので。

●サード・アルバムの山下達郎氏の「土曜日の恋人」に続き、大滝詠一氏の「夏のペーパーバック」を取り上げていますが、やはりペンクラのサウンドを聴く限り、この先人お二人の影響を受けていない訳は無いですよね?

H:もちろん、仰る通りです。日本人のミュージシャンで一番いいですね。次の5枚目の日本人カバー曲どうしようかなって感じです。

●オリジナル曲では一聴して「微笑んで」に惹かれました。 こんな名曲をどうやって作り上げたのか教えて下さい。

H:17年前、僕が18か19歳の時、まだ尼崎の実家で宅録をしていたときに原型を作りました。ほぼビートルズしか聴いていない時期です。
サビのメロディーは当時と全く同じで、Aメロ、Bメロはコード進行、メロディー共に変更しました。歌詞は全て書き直しました。
この曲は僕の原点みたいな存在なので、こうやって自分の納得のできる製品として完成させることが出来たのが凄く嬉しいです。あの頃の自分に聴かせたいです。

●ダイヤの原石は十代の頃に出来上がっていたんですね。そのデモも聴いてみたいですよ。サビメロは変わっていないということは、ソングライティング・センスが向上して、曲としての完成度を待っていたようで興味深いエピソードです。
こういった原石はまだあるんでしょう?

H:10代の頃作った曲で今でも出せそうなのは数曲あります。今後もちょっとづつ小出しにしていこうと思ってます。笑 あの頃のデモは・・・あのMDどこ行ったんかな・・・。見つかったらまたお聴かせします。

●最後にアルバムのPRと、レコ発ライヴ・イベントなど直近のライヴ・スケジュールをお願いします。

H:今回の4thアルバム『Wonderful World Of The Pen Friend Club』は目下ペンフレンドクラブの作品の中で一番出来がいいです。ぜひ聴いて確認してください。
2月以降のライブ予定はこちらです。

◎2/5 吉祥寺 伊千兵衛
◎2/19 HMV record shop渋谷
◎2/26 dues新宿
◎3/12 東高円寺 UFO Club


(インタビュー設問作成/文:ウチタカヒデ)