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2016年8月26日金曜日

手塚治虫の3大文章本、「手塚治虫小説集」「手塚治虫小説集」「手塚治虫映画エッセイ集成」(立東舎)は血沸き肉躍る戦後文化史である。

アンソロジストとして有名な濱田高志氏から手塚治虫の素晴らしい3冊のエッセイが送ってきた。どれも450P超のヴォリュームで、当然早くに紹介する約束だったが2カ月以上経ってようやく紹介することができた。申し訳ない。手塚治虫は私を含めマンガ家にとっての「神」であり、それはこの世界ではビートルズをも超える存在、読み飛ばして紹介するような失礼なことなど出来る訳などない。そのため3冊の内、その大半を読んだことが無かった「手塚治虫小説集」から読みだしたのだがこれがスローペースの原因だった。やはり手塚はマンガ家なので特にショートショート系の文を読むのに時間がかかる。映像イメージが出てこない。この本で1か月半。このあとの自伝「ぼくはマンガ家」になったら、まあ面白いのなんの、立身出世などの低次元のものをはるかに超えた、それもとても冷静には読めない血沸き肉躍る冒険活劇のような日本の文化史で、1日で読んでしまった。

戦後焼け野原となった東京。大阪から出版社を訪ねると東京は大阪をはるかに超えた惨状だった。さらにマンガを乗せる雑誌もまともになく手塚はマンガ単行本を描き下ろしていた。その後すでに医者になっていた手塚は、地元の大阪で、医者でお金を稼いでは電車で10時間近くかかけて東京の下宿で大好きなマンガを書くという離れ業の中傑作を次々書いていく。しかし東京人はそんな手塚に露骨な反感を示した。大宅壮一には「華僑」をもじって「阪僑」と揶揄されたそうだから今では信じられない話。ただ手塚にはお金を貯めないといけない壮大な野望があった。そこはキモなのでここでは後述。

手塚が生まれ育った宝塚には、小林一三の作った宝塚歌劇団があった。手塚は宝塚のきらびやかな世界に憧れ、さらに一作数十回もディズニーアニメーションを見てアニメーションへの憧憬を深める。超売れっ子マンガ家になっても1365本の映画を見て豊かな感性を磨いていた。戦前のマンガは平面で奥行きなどなく、コマは規則的に動くだけでもちろん深いストーリー性もなかった。そこに彗星のように現れた手塚はそれまでのマンガを根底から変え昭和20年代にはあの「ジャングル大帝」を残したのだ。ラストの大空の雲がレオの姿だったシーンを見た時に、自分が生まれるはるか前のマンガなのに、そのあまりの美しさと高潔さに涙が溢れたことを思い出す。マンガを支持する文化人がまだ少数しかいない中、あのサトーハチローが絶賛したのが嬉しいし、やはり感性のある人には伝わるのだなと思った。

そしてこの戦後の黎明期には若きマンガ家達のほとばしる情熱があった。自分達が新しい文化の担い手になるという情熱だ。マンガ自体、小説に比べ俗悪なものとしてみなされ、さらに昔からの「大人マンガ」の描き手から手塚達の「児童マンガ」は低いものとバカにされていた。PTAからも目の敵に。二重三重の差別の中、若いマンガ家達のエネルギーは凄まじく、嵐のようにマンガ家達が家に上がり込み冷蔵庫を開け、酒を飲みその後は外へ繰り出され飲み最後は議論がヒートアップしてケンカ沙汰という日々。しかしそんな日々の中、手塚は見たい映画とあれば締め切りをふっ飛ばして、封切りが早いという理由で福岡まで飛行機で見に行ってしまう(飛行機に乗ることだけでも大変な時代なのに…)など、東京、大阪など各地で姿をくらましあまりに編集者が探して押し掛けるから旅館やホテルで「手塚先生はお泊りをお断りします」と言われる始末だったという。しかしこれだけのパイオニア、これだけの人気なのにもかかわらず、雑誌では人気に一喜一憂していたその貪欲さが、手塚が常に第一線にいた原因のひとつだろう。石森章太郎、藤子不二雄、水野英子、横山光輝、赤塚不二夫などが住み、手塚のアシスタントもやっていたという「トキワ荘」のエピソードは、常識の範疇としてここでは省略。この本の後半は「鉄腕アトムクラブ」に連載されていたもうひとつの自伝「ぼくのマンガ記」が全掲載されたが、その中の最高に面白かったエピソードを紹介したい。手塚が自分のアニメ制作会社の虫プロを作っていた昭和40年、最初自作の傑作「ナンバー7」が計画されたが、他局のあの「レインボー戦隊ロビン」の設定がかぶると知って内容を変更、「007」のようなカッコいい活劇にしようと「ナンバー7」を「ワンダー3」に変え、そこにボッコというかわいいリスのキャラを主人公の近くに置いてボッコは決して戦わない…という設定にして再スタートしたらこの設定はTBSに漏れて「宇宙少年ソラン」として見事にパクられてしまった。手塚は新しい「ワンダー3」を少年マガジンに連載を始めたが、なんと「宇宙少年ソラン」を連載に入れるというので、怒った手塚はマガジンの「ワンダー3」をすぐに打ち切って、まったく新しい設定の「ワンダー3」を少年サンデーで新連載した…というもの。我々マンガファンの間では伝説のように知られる少年マガジンの「ワンダー3」打ち切りの謎はこれだったのかと膝を打った。そして急ごしらえの「ワンダー3」が、数ある手塚治虫のSFマンガの中でも最高傑作になってしまうのだから奇跡としかいいようがない。私は1970年代後半から音楽を聴くのをほとんどやめ、昔のマンガをむさぼり読み、ニューウェーヴと呼ばれたマンガ家や24年組と呼ばれた少女マンガにどっぷりはまり、ついには自分でマンガのミニコミを10年間にわたって30冊出すほどになっていった15年間は、この「ワンダー3」が全てのスタートだった。それまでまともにマンガを読んでいなかった自分にとってこの出会いは、ビートルズやビーチ・ボーイズの音楽に出会ったのと匹敵する。自分は音楽一筋と思っている人が多いようだがまったくそうではなく、音楽とマンガとアニメーションを同じレベルで好きになったのはとても幸せなことだった。

話は戻ってもう1冊の「手塚治虫映画エッセイ集成」はタイトルどおりのエッセイ集だが、アニメーションに関する比率が非常に多い。先に紹介した「ぼくはマンガ家」の中でも特に後半はアニメーション制作に関する話が中心となる。先に「後述する」と書いていた「阪僑」とまで揶揄されながらがむしゃらにお金を稼いだのは、自らのアニメ制作の資金作りのためだった。手塚は一貫してぶれずに自分の最大の夢であるアニメを作りたかった。そしてついに自分自身のアニメ制作会社である虫プロダクションを作って、その夢を果たす。

ただ手塚はアニメへの情熱は誰にも負けないが、作った作品の評価は低い。溢れ出るアイデアをアニメの中に入れ込むと流れを阻害してしまうことが分かっていないようだった。

自分は「太陽の王子ホルスの大冒険」によってアニメーションの素晴らしさに夢中になり、以降、アニメーションを見るために図書館から16㎜フィルムを借りてくる、輸入で非常に高額なビデオを購入するなど、グループでビデオを共有しながら必死に見た。今と違ってビデオソフトなどほぼ存在しない時代からである。後にLD時代、DVD時代を経ると、ソフトは溢れ相当数を購入したが、宮崎駿、森康二、大塚康生、小田部羊一、出崎統、杉野昭夫等のアニメ作品が揃えた中、手塚アニメはほとんど持っていない。持っているのは「音楽が富田勲」ということで買った作品がほとんどだ。

評価が低いだけでなく、手塚が日本初のTVアニメシリーズ「鉄腕アトム」のために生み出した極端に枚数を削減したリミテッド・アニメは、今のアニメ従事者の低賃金を招いた元凶として強く批判する人も多い。しかしこの点に関しては、私は手塚の反論を支持したい。自分が身銭を切って節約してTVアニメをスタートさせなければ、今の世界に誇る日本のTVアニメ文化は存在しなかったという手塚の思いだ。内容云々は別としてこの中に真実はある。

手塚はいいアニメクリエーターではなかったが、その審美眼は間違いなく、晩年、コミックボックス誌で今年のベストアニメ作品のアンケートに宮崎駿初監督作品である「ルパン三世カリオストロの城」と、ずうとるびの新井の映画の併映という悲しい扱いでしかなかった杉野昭夫=出崎統の最高傑作となった「劇場版エースをねらえ!」の2作品を見事に挙げていた。この時代、まだ宮崎駿の名前はマニアにしかしか知られていない程度、しかしこの2作品を挙げた事は、自分たちとまったく同じで、まわりで手塚の審美眼は凄いなと話題になったほど。そして同時期にマンガ家として気になる存在として吾妻ひでお、大友克洋をあげていて、このマンガの神様が、新進気鋭とはいえどもマニアにしか知られていなかったこの2人をライバルに挙げたのには、どれだけアンテナを広げてこれはというマンガを見抜く目があるのかとそれも驚いた。

手塚はマンガもアニメも大御所として安住することなく常に新しい刺激を受けて取り込もうとしていた。だからこそ、他の大家と違ってマンネリに陥ってしまうことがなかった。やはり手塚治虫は「神」だったのである。

最後に冒頭で紹介した「手塚治虫小説集」だが、この中には「蟻人境」という中編は大傑作。読みながら手塚のキャラが頭の中で動き出すようで、逆にこのなぜ作品をマンガ化しなかかったかが不思議なほどだ。(佐野邦彦)
 

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