2016年8月27日土曜日

あの孫悟空が耐え切れずに食べ天を追い出され五行山に閉じ込められた中国の桃、蟠桃。一年待ってようやく入手。甘くて歯ごたえがあって最も好きな桃のひとつだった。

蟠桃(ばんとう)という桃をご存じだろうか?形を見ていただければわかるが扁平で日本の桃と明らかに違う形。これだけでは興味は持たれないだろうが、あの孫悟空が天帝に蟠桃園の管理をまかされたものの、その美味しそうな香りに勝てず、9000年に一度生る不老不死になる蟠桃まで食い尽くし、これがきっかけで孫悟空は五行山に閉じ込められとた…と聞けばみな興味を持ってくれるだろう。昨年9月の「マツコの知らない世界」で取り上げられたものの収穫時期が過ぎていてネットでもまったく手に入らず、一年待ってようやく手に入れられたので、感慨ひとしおだ。前置きが長くなったので果たして美味しいのかどうか?甘くて硬さもあり、自分の最も好きな桃で最高に嬉しかった。自分の好きな果物は1位梨、2位桃とこの2トップは何十年も変わることがないのだが、桃に関しては熟して皮がぺろりと剥けてしまうものより、ある程度歯ごたえのある硬めの桃の方が好きだった。実家に桃が送られてくると手で押して(本当はダメ)硬さのあるものを選んで食べていた。しかし甘さがなければ論外。その中この平べったい蟠桃は、食べるには小さめだが、硬さと甘みと両方を兼ね備え、相当な高得点である。桃のかおりもいいし、これじゃ孫悟空は食べちまうだろうなと思った次第。今だったらギリギリ手に入るよ。(佐野邦彦)

2016年8月26日金曜日

手塚治虫の3大文章本、「手塚治虫小説集」「手塚治虫小説集」「手塚治虫映画エッセイ集成」(立東舎)は血沸き肉躍る戦後文化史である。

アンソロジストとして有名な濱田高志氏から手塚治虫の素晴らしい3冊のエッセイが送ってきた。どれも450P超のヴォリュームで、当然早くに紹介する約束だったが2カ月以上経ってようやく紹介することができた。申し訳ない。手塚治虫は私を含めマンガ家にとっての「神」であり、それはこの世界ではビートルズをも超える存在、読み飛ばして紹介するような失礼なことなど出来る訳などない。そのため3冊の内、その大半を読んだことが無かった「手塚治虫小説集」から読みだしたのだがこれがスローペースの原因だった。やはり手塚はマンガ家なので特にショートショート系の文を読むのに時間がかかる。映像イメージが出てこない。この本で1か月半。このあとの自伝「ぼくはマンガ家」になったら、まあ面白いのなんの、立身出世などの低次元のものをはるかに超えた、それもとても冷静には読めない血沸き肉躍る冒険活劇のような日本の文化史で、1日で読んでしまった。

戦後焼け野原となった東京。大阪から出版社を訪ねると東京は大阪をはるかに超えた惨状だった。さらにマンガを乗せる雑誌もまともになく手塚はマンガ単行本を描き下ろしていた。その後すでに医者になっていた手塚は、地元の大阪で、医者でお金を稼いでは電車で10時間近くかかけて東京の下宿で大好きなマンガを書くという離れ業の中傑作を次々書いていく。しかし東京人はそんな手塚に露骨な反感を示した。大宅壮一には「華僑」をもじって「阪僑」と揶揄されたそうだから今では信じられない話。ただ手塚にはお金を貯めないといけない壮大な野望があった。そこはキモなのでここでは後述。

手塚が生まれ育った宝塚には、小林一三の作った宝塚歌劇団があった。手塚は宝塚のきらびやかな世界に憧れ、さらに一作数十回もディズニーアニメーションを見てアニメーションへの憧憬を深める。超売れっ子マンガ家になっても1365本の映画を見て豊かな感性を磨いていた。戦前のマンガは平面で奥行きなどなく、コマは規則的に動くだけでもちろん深いストーリー性もなかった。そこに彗星のように現れた手塚はそれまでのマンガを根底から変え昭和20年代にはあの「ジャングル大帝」を残したのだ。ラストの大空の雲がレオの姿だったシーンを見た時に、自分が生まれるはるか前のマンガなのに、そのあまりの美しさと高潔さに涙が溢れたことを思い出す。マンガを支持する文化人がまだ少数しかいない中、あのサトーハチローが絶賛したのが嬉しいし、やはり感性のある人には伝わるのだなと思った。

そしてこの戦後の黎明期には若きマンガ家達のほとばしる情熱があった。自分達が新しい文化の担い手になるという情熱だ。マンガ自体、小説に比べ俗悪なものとしてみなされ、さらに昔からの「大人マンガ」の描き手から手塚達の「児童マンガ」は低いものとバカにされていた。PTAからも目の敵に。二重三重の差別の中、若いマンガ家達のエネルギーは凄まじく、嵐のようにマンガ家達が家に上がり込み冷蔵庫を開け、酒を飲みその後は外へ繰り出され飲み最後は議論がヒートアップしてケンカ沙汰という日々。しかしそんな日々の中、手塚は見たい映画とあれば締め切りをふっ飛ばして、封切りが早いという理由で福岡まで飛行機で見に行ってしまう(飛行機に乗ることだけでも大変な時代なのに…)など、東京、大阪など各地で姿をくらましあまりに編集者が探して押し掛けるから旅館やホテルで「手塚先生はお泊りをお断りします」と言われる始末だったという。しかしこれだけのパイオニア、これだけの人気なのにもかかわらず、雑誌では人気に一喜一憂していたその貪欲さが、手塚が常に第一線にいた原因のひとつだろう。石森章太郎、藤子不二雄、水野英子、横山光輝、赤塚不二夫などが住み、手塚のアシスタントもやっていたという「トキワ荘」のエピソードは、常識の範疇としてここでは省略。この本の後半は「鉄腕アトムクラブ」に連載されていたもうひとつの自伝「ぼくのマンガ記」が全掲載されたが、その中の最高に面白かったエピソードを紹介したい。手塚が自分のアニメ制作会社の虫プロを作っていた昭和40年、最初自作の傑作「ナンバー7」が計画されたが、他局のあの「レインボー戦隊ロビン」の設定がかぶると知って内容を変更、「007」のようなカッコいい活劇にしようと「ナンバー7」を「ワンダー3」に変え、そこにボッコというかわいいリスのキャラを主人公の近くに置いてボッコは決して戦わない…という設定にして再スタートしたらこの設定はTBSに漏れて「宇宙少年ソラン」として見事にパクられてしまった。手塚は新しい「ワンダー3」を少年マガジンに連載を始めたが、なんと「宇宙少年ソラン」を連載に入れるというので、怒った手塚はマガジンの「ワンダー3」をすぐに打ち切って、まったく新しい設定の「ワンダー3」を少年サンデーで新連載した…というもの。我々マンガファンの間では伝説のように知られる少年マガジンの「ワンダー3」打ち切りの謎はこれだったのかと膝を打った。そして急ごしらえの「ワンダー3」が、数ある手塚治虫のSFマンガの中でも最高傑作になってしまうのだから奇跡としかいいようがない。私は1970年代後半から音楽を聴くのをほとんどやめ、昔のマンガをむさぼり読み、ニューウェーヴと呼ばれたマンガ家や24年組と呼ばれた少女マンガにどっぷりはまり、ついには自分でマンガのミニコミを10年間にわたって30冊出すほどになっていった15年間は、この「ワンダー3」が全てのスタートだった。それまでまともにマンガを読んでいなかった自分にとってこの出会いは、ビートルズやビーチ・ボーイズの音楽に出会ったのと匹敵する。自分は音楽一筋と思っている人が多いようだがまったくそうではなく、音楽とマンガとアニメーションを同じレベルで好きになったのはとても幸せなことだった。

話は戻ってもう1冊の「手塚治虫映画エッセイ集成」はタイトルどおりのエッセイ集だが、アニメーションに関する比率が非常に多い。先に紹介した「ぼくはマンガ家」の中でも特に後半はアニメーション制作に関する話が中心となる。先に「後述する」と書いていた「阪僑」とまで揶揄されながらがむしゃらにお金を稼いだのは、自らのアニメ制作の資金作りのためだった。手塚は一貫してぶれずに自分の最大の夢であるアニメを作りたかった。そしてついに自分自身のアニメ制作会社である虫プロダクションを作って、その夢を果たす。

ただ手塚はアニメへの情熱は誰にも負けないが、作った作品の評価は低い。溢れ出るアイデアをアニメの中に入れ込むと流れを阻害してしまうことが分かっていないようだった。

自分は「太陽の王子ホルスの大冒険」によってアニメーションの素晴らしさに夢中になり、以降、アニメーションを見るために図書館から16㎜フィルムを借りてくる、輸入で非常に高額なビデオを購入するなど、グループでビデオを共有しながら必死に見た。今と違ってビデオソフトなどほぼ存在しない時代からである。後にLD時代、DVD時代を経ると、ソフトは溢れ相当数を購入したが、宮崎駿、森康二、大塚康生、小田部羊一、出崎統、杉野昭夫等のアニメ作品が揃えた中、手塚アニメはほとんど持っていない。持っているのは「音楽が富田勲」ということで買った作品がほとんどだ。

評価が低いだけでなく、手塚が日本初のTVアニメシリーズ「鉄腕アトム」のために生み出した極端に枚数を削減したリミテッド・アニメは、今のアニメ従事者の低賃金を招いた元凶として強く批判する人も多い。しかしこの点に関しては、私は手塚の反論を支持したい。自分が身銭を切って節約してTVアニメをスタートさせなければ、今の世界に誇る日本のTVアニメ文化は存在しなかったという手塚の思いだ。内容云々は別としてこの中に真実はある。

手塚はいいアニメクリエーターではなかったが、その審美眼は間違いなく、晩年、コミックボックス誌で今年のベストアニメ作品のアンケートに宮崎駿初監督作品である「ルパン三世カリオストロの城」と、ずうとるびの新井の映画の併映という悲しい扱いでしかなかった杉野昭夫=出崎統の最高傑作となった「劇場版エースをねらえ!」の2作品を見事に挙げていた。この時代、まだ宮崎駿の名前はマニアにしかしか知られていない程度、しかしこの2作品を挙げた事は、自分たちとまったく同じで、まわりで手塚の審美眼は凄いなと話題になったほど。そして同時期にマンガ家として気になる存在として吾妻ひでお、大友克洋をあげていて、このマンガの神様が、新進気鋭とはいえどもマニアにしか知られていなかったこの2人をライバルに挙げたのには、どれだけアンテナを広げてこれはというマンガを見抜く目があるのかとそれも驚いた。

手塚はマンガもアニメも大御所として安住することなく常に新しい刺激を受けて取り込もうとしていた。だからこそ、他の大家と違ってマンネリに陥ってしまうことがなかった。やはり手塚治虫は「神」だったのである。

最後に冒頭で紹介した「手塚治虫小説集」だが、この中には「蟻人境」という中編は大傑作。読みながら手塚のキャラが頭の中で動き出すようで、逆にこのなぜ作品をマンガ化しなかかったかが不思議なほどだ。(佐野邦彦)
 

2016年8月13日土曜日

Best Buyでビーチ・ボーイズの『Pet Sounds(50th Anniversary 2CD)』を購入するとオレンジワックスのイタリア盤「God Only Knows/Wouldn’t It Be Nice」の7 inch Singleがもらえる

アメリカのBest Buyでは時折、Best Buy購入者のみの特典盤を出してくれる。有名な所はブライアン・ウィルソンの『The Lucky Old Sun』にはBonus Trackとして「Good Kind Of Love(Featuring Carol King)」「I’m Into Something Good(Featuring Carol King)」「Just Like Me And You」が追加されていてこのCDでしか聴くことができない。フーの『The BBC Sessions』にもBonus Discが付けられ長く他では聞けなかった。そして今回、ビーチボーイズの『Pet Sounds(50th Anniversary 2CD)』に7inchシングルをBonusで付けたのだ。大きさ的に無理があるので封入されたカードのクーポンコードを打ち込むと後で送ってもらえるそうだ。内容は「God Only Knows/Wouldn’t It Be Nice」のイタリア盤シングルで、オレンジワックスである。音源的には違いがあるかチェックしたが、私の耳では同じモノ盤だと思う。伊藤博通さんから送ってもらった情報なので下記の画像が伊藤さんから送付してもらったもの。音源が同じなので私に購入予定はないが、Best Buyのサイトでは$21.99と安いので、マテリアル派の方は是非。(佐野邦彦)

55年前に絶滅したと思われたグロスミシェル種のバナナは奇跡的に生き残り、食べたお年寄りは涙ぐむ。そして絶海の孤島、南大東島のサワラの漬けの大東寿司は10貫550円と激安ながら美味さはピカイチ。

このHPのサブカル用に興味深くおススメの食べ物を2つ紹介しよう。

先日、日本テレビの「沸騰ワード10」という番組で、「お年寄りが泣いてしまうバナナ」というコーナーが衝撃だった。戦後1950年代から輸入されたバナナは高級品で、特別な時か病気の時しか食べられなかった。現在価格で12000円という時もあり、私もバナナは高級品という記憶がある。その頃のバナナは我々が今食べているバナナとはまったく別の「グロスミシェル」という品種だった。クリーミーで上品な控えめな甘さが特徴だったが、50年代後半からパナマ病というカビの病気が猛威をふるい、全滅してしまったのだ。以降この病気に強い「キャベンディッシュ」という品種がとってかわり我々が食べているバナナのほとんどはこの品種である。しかし「グロスミシェル」は東南アジアで密かに生き延びていた。TVではそれを輸入して巣鴨のお年寄りに食べていただいたら、みな「ああ、これだよ。この味だ」「甘さが控えめところが美味しいんだよ」と大絶賛。食べて涙ぐんでしまうお年寄りも多く「戦後の苦労していた時代を思い出してしまって」「いつも優しかった母親が自分の病気の時に食べさせてくれた」「高級品だったからお金を貯めて父親に食べてもらったことを思い出した」と絶句し、涙を流していた。いったいこれはどういう事なんだ?そんなに味が違うのか?わが家だけでなく親に食べさせたいと「グロスミシェル」を通販してくれるタイの「ホムトンバナナ」という卸のショップでひと月10箱までというサンプル品を送ってもらった。1014200円。高いバナナになってしまったが、これは絶対に食べたかったので迷いはない。届くと大きな箱に数房入っていたので、ウチの分以外に実家、母がお世話になっている方達、妻の実家、訪問医の先生、そして訪問リハビリのPTさん、妻が退職した職場と、年配の方とお世話になっている方に、「グロスミシェル」の由来のコピーを添えて、妻に配ってもらった。さて肝心な味だが、美味しい。確かに少しクリーミーで、甘いがやや酸味もあるので、飽きない感じだ。私と妻は今の「キャベンディッシュ」より気に入った。ただあまりに小さい子供の時の話なので懐かしいという感情は蘇ってはこない。それよりもこのもっと上の世代である母や義母はよりストレートに美味しい、これが好きだと、とても気に入ってもらえた。ただ20代の子供達はああバナナだというそっけない回答。このバナナ、成城のスーパーなどでは売っているそうなので、是非一度ご賞味いただきたい

さてもうひとつ。まだ歩くことができた昨年9月、沖縄の南大東島で食べた大東寿司が気に入って何度も食べた。この大東寿司はサワラを醤油ベースの特製ダレで漬け込んだものを甘めのシャリに乗せた寿司である。評判がいいようで那覇空港の空弁で大量に売られるようになっていた。開けると種類はこの1種類だけ。漬けなので醤油は必要なく、そのまま食べられるのも便利。ご飯がもっちりとしていて食べごたえもある。サワラの漬け具合と甘めの酢飯のマッチングが最高であっという間に完食だ。漬けなので少し日持ちがするのもいい。歩けなくなってもう食べられないと諦めていたら、この前のHPで書いた石垣島の宮良に行ったPTさんがお土産に買ってきてくれた。嬉しい嬉しい、久々の大東寿司、こんな美味しいものがなぜ東京には入ってこないのだろう。東京はまだまだ味音痴の巣窟だな。高級寿司や1個数百円のパンを有り難がってFBやインスタで自慢しているのはアホ。原価が高けりゃうまいのは当たり前でそんなものは知りたくもない。安くて美味しいものベストなのにそれが手に入らなくてどーする?南大東島の大東寿司、伊良部島のうずまきパン(銀座のわしたショップで売っている宮古島で作っているものはまったくダメ!騙されないように)はその両横綱だ。大東寿司はは南大東空港ではなんと10550円、うずまきパン1個で150円。この安さ、東京では倍払ってもかなわない。いや大東寿司は3倍払っても江戸前は負けるな。那覇空港でお土産で売っているものは、サワラは南大東島直送だが那覇で作っているため運送費がかかるのか6個入り税込772円とちょっと高い。味はかなり南大東島のものに近いので、那覇空港で是非買って賞味してほしい。南大東島で食べてもらいたいところだが、南大東島は沖縄から400㎞も東に離れた孤島で飛行機で約1時間、片道25600円もかかるからな。ただし南大東島はビーチがないかわりに周囲が水深数千mの海なので、太平洋の見たこともない紺碧のブルーの海に囲まれ、島には今は廃線になったがサトウキビを運ぶ日本最南端の鉄道シュガートレインの跡(車両だけでなく道路に残った線路を探すのも楽しみ)が見られるなど他の沖縄の島とはまったく別の魅力が満載だ。島の寿司屋では他では一切食べられない深海魚のインガンダルマの寿司も食べられるよ。是非一度は行くべき。大東ソバも美味しいよ。(佐野邦彦)

 

何度もこのHPの旅行記の中で紹介した、撮影・録音・メモ全て禁止、アカマタ神クロマタ神が現れる秘祭が、石垣島の宮良で行われた。自分はもう歩けないが興味を持って行ってくれたPTさんからの新情報である。

さて私のライフワークだ。アカマタ神クロマタ神が現れる石垣島宮良の豊年祭は730日に行われた。八重山の4島の4部落だけで行われるこの秘祭中の秘祭は昭和30年代に撮影された2神の写真と、荘厳なその儀式の一部について書かれた本を読んで感激し、どうしてもこの目でみたいと調べに調べて、2011年に石垣島の宮良で見た。すべてが非日常の異世界で感動的だが、音楽の力で涙が出たのは、この豊年祭の歌のみ。パワフルでソウルフル、構成はコール&レスポンス、踊りながらのその洗練された歌は日本(ヤマト)でも沖縄のものでもない。毎週3回来てくれるPTの方にこの儀式について話したらすっかり魅了され今年の豊年祭に奥さん帯同で行き、あまりの素晴らしさに夫婦で泣いたという。奥さんは沖縄本島の方だが歌などすべてが沖縄のものではないという。こうやって書いているだけでもゾクゾクしてしまう。その感動を思い出すからだ。しかしいつどこで行われるかは全ての旅行ガイドにも、石垣市役所のホームページを見ても一切載っていない。タブー中のタブーだからだ。この宮良だけは歓迎はしていないが来てしまった人まで追い出すことがない唯一の存在。島の人は口を閉ざすが石垣市役所に直接聞けば日程は教えてもらえる。市長も来賓で参加しているからだろう。私が調べてPTさんに日程を報告、八重山に行っている間、訪問リハビリを休んでけっこうだから、どうだったか教えてねと心配するPTさんを送り出した。過去、隠れて撮影して袋叩きにあったのは何件もあり、新城島で行われたものを撮影しようとしたTVクルーは捕まってTVカメラごと海に放り込まれた…という記事を読んだことがあるからだ。そのためこのインターネットの時代でも見た感想を書く人が少数いるくらいでそういう人は私と同じ「掟」は絶対に守るので一切の写真も録音も流すことがなく、興味本位で乗せる人も前述の本のコピー写真を載せるのみ。You Tubeにもない。不届き者がいないのは本当にほっとする。帰ってきたPTさんの情報では、自分が行った時にはなかった「受付」が出来、その中に20人くらいいて来場者をチェックするようになったこと。沖縄の人である奥さんはためらいもなく受付へいき、寸志を包んで渡したそうだ。写真はお土産にもらった寸志のお返しの袋の表紙で、中はお菓子だった。そして宮良公民館長からのアカマタ・クロマタの儀式の後の挨拶で「これからは部外者の人は出て行ってください」と言ったそうでこれも前にはなかった。儀式の細かい雰囲気は、下記に私が2011年に行った時の感想文があるのでそれを是非読んでもらいたいが、広場の儀式のあと、2神と歌の人達が部落を一軒一軒回ってそれが朝まで続くわけで、禁止前なので私は運よく2軒見ることができたのだが、今回は儀式を守るムチのような棒をもった「なみだ」(新城島ではシンカと呼ぶので下記の文ではシンカと書いてある)に追っ払われ、絶対に来られないように厳重に道路という道路を封鎖していたそうだ。ただ、私も見た国道に面した神社は見られるよ(ここには警官がいてなんと信号も消している。だからだろう)と教えてくれたそうだが、怖くてウソだと思っていかなかったとか。ウソではなかったのにね。この豊年祭はすべての電気を落としてあるので道路はほぼ真っ暗、そのまま来場者用の駐車場へ向かうしかなかったという。それでもあまりも感動したので、来年も是非また行きたいと決意を固めていた。私は行った翌年の2012年に病気になってしまったので悔しいことにもう行けなくなってしまったが、それほどものすごい儀式なのである。ここはいったい日本か、いや沖縄か、完全な異世界に舞い込んでしまったほどのインパクトがある。PTさんからの新しい情報では男性神であるアカマタの前を先導するのぼりには亀が、女性神であるクロマタの方は鶴が描かれていたという。私が国会図書館で調べた古い写真では新城島ではアカマタののぼりには太陽、クロマタには月の絵だったのでこれは驚きだった。ただ意味はなんとなくわかる。自分はあまりに興奮していたのでのぼりの絵まで目に入っていなかった。また2神とも飛び上がるように踊っていた気がしたがそれは男神のアカマタだけで、女神のクロマタはじっとしていたそうだ。さらに歌のコール&レスポンスを受け持つハチマキを締めたたくさんの歌い手は白いハチマキがクロマタ側、赤いハチマキがアカマタ側ということが分かった。そして噂される盗撮した人間への制裁では死者が出たと地元の方は語っていたそうだ。まあ私はそういう掟破りをする人間は殺されても仕方がないと思うのが自分の意見。何でも「人権」を盾にする人がいるが「絶対ダメ」というルールを知りながら自分の利益のためにそれを破る人間に人権などない。そして新城島はもともと宿泊施設がないのでその間は船を全てストップして旧島民だけがチャーター船で参加するのみとなる。10人しか住んでいない島に数百人が戻ってくるというのだから島民の思いは深い。「はいむるぶし」など高級リゾートがひしめく小浜島は何の情報もなかったが、今回宮良と同日程だそうで、なんとその日は一日十数便もある定期船をほとんど止め、儀式が行われる集落に来られないようレンタル自転車もレンタカーも全て貸し出しを止めているという。もちろんホテルでは外へ出ないように警告しているだろうし、それでも見に行こうという不届き者は、道路に配置された「なみだ」に怒鳴られ追い払われたことだろう。4島で残る西表島の古見はもともと閑散としている西表のひなびた部落なので、ここは容易に近づけないことが推測される。このアカマタ・クロマタは時の琉球王府から「異様な姿で神の真似事をする者たちがいてこれは誤った風習なので禁止する」と何度も禁止令が出された。この原初の宗教は、米の伝来の感謝と豊作の祈りを歌っており、仏教が伝わる前のもので、度重なる弾圧を生き延びてきたので外部の者に対して極めて厳しくなったことはよく分かる。琉球王国は平和な国みたいなイメージがあるが先島諸島から奄美群島まで次々武力侵略で支配していく覇権国家で、過酷な税制を強いたので、ここ石垣島では琉球王府に対して反乱を起こしたオヤケアカハチは英雄扱い、銅像が立ちその名前の泡盛もあるほどだ。八重山でのアカマタ・クロマタが生き延びてきたのはこういう琉球王府の弾圧の歴史を克服してきたからだ。そしてこの石垣島の宮良にアカマタ・クロマタが残るのも、琉球王府による何度も行われた八重山の島民に強いた強制移住で、小浜島から強制移住されられた人達の部落だからだ。道路の右と左の違いだけで強制移住されられたので「野底マーペー」などその悲しさを歌った歌がいくつも残されているほど。さてあとは私が書いたかつてのレポートでその雰囲気を感じてもらいたい。

沖縄県八重山地方のみ、それも4つの部落だけで、非公開で行われる豊年祭がある。この豊年祭にはアカマタ、クロマタという来訪神が現れるのだが、この4つの部落全てで写真、ビデオ、録音、携帯電話、さらにはメモも取ることも禁止しているため、詳細は不明で、このインターネットの時代においても1枚の写真も見ることができず、完全な秘祭といえよう。

私はこのWeb VANDAの旅行記でもその存在について折に触れ書いてきた。行われているのは新城島(パナリ)、小浜島、西表島の古見、そして石垣島の宮良。パナリのアカマタ、クロマタは昭和30年代に撮影された写真が一部の本に掲載されていて、実は私はその異形な姿を見てすっかり心を奪われてしまったのだが、そのパナリはここ3年、島に住む方に頼んでいたものの、今年も一切、非公開と告げられ、断念せざると得なかった。小浜島と西表島の豊年祭の情報は非常に乏しい。(ただし古見の豊年祭は、古い雑誌にその写真が掲載されていた。アカマタ、クロマタに加え、シロマタも現れる古見は、これらの部落の豊年祭の原型と言われているが、その姿かたちはパナリのそれと大きく異なっていて、祭りでの行動もかなり違う)その中、石垣島の宮良部落の豊年祭は、石垣市の中心から車で30分くらいの場所にあり、公開は一切していないものの、来る人をチェックし排除するまでには至らないようだ。これは脈がありそうだ。石垣市では宮良の豊年祭の日程をオープンにしている。2日のうち、後半の夜のムラプールに現れることは知っているので、その日は728日。もう7回目の八重山といいながら石垣島に友達がいるわけではないので、あてはまったくない。

しかし日程だけ分かれば、あとはすべてぶっつけ本番で、人に尋ねればなんとかなるのではと、飛行機の予約を入れてしまった。妻にも見に行かないかと声をかけたが、木曜日なので職場がそんなに休めない、また私のように魅入られているわけではないので、行かないという。それじゃあ豊年祭が終わった翌日、金曜の夜から合流しようと話がまとまった。まずは頼れるのは地元の人と、宿泊するホテル、使用するレンタカーの会社に、ダメもとで宮良の豊年祭の情報を求めておいた。すると宿泊先のホテルの方が親切にも当日の時間、会場の場所などを、石垣市役所に尋ねて聞いてくださっていた。このホテルアイランドリゾート石垣島イン八島は、各部屋の中に洗濯機と乾燥機が置いてあるスグレもの。沖縄県八重山地方のみ、それも4つの部落だけで、非公開で行われる豊年祭がある。この豊年祭にはアカマタ、クロマタという来訪神が現れるのだが、この4つの部落全てで写真、ビデオ、録音、携帯電話、さらにはメモも取ることも禁止しているため、詳細は不明で、このインターネットの時代においても1枚の写真も見ることができず、完全な秘祭といえよう。

さて、話は戻るが、会場の情報は「宮良の知念商会の近くの広場」というだけだ。駐車場があるかどうかは分からない。タクシーで...と勧められたが、東京と違って流しはないので帰りの保障がない。まずはとにかく下見と、車で宮良部落へ向かった。宮良川が出てきたので近い。ドキドキしてきた。すると道端の「ビデオ・写真・携帯電話 撮影・録音絶対ダメ!!」の看板が目に飛び込む。
やはりな。大丈夫かなと思ったがその横に「一般駐車場」の矢印が。一般...では部落の人以外でも大丈夫そうだ。さっそくそちらに車を進めて停車する。停まっていたのは他に1台のみ。まだ開始時間までには2時間もあるが、早くに行こうと思い、まずは道端にある知念商会を探す。店はほどなく見つかったが、その商店の周りに広場らしいものがなく、人気もなく、途方にくれる。これはこの店の人に聞くしかない。ジュースを1本買ってレジで聞いてみたが、若い人だったので、こっちの方だと思います、というアバウトな返事。これじゃ分からないなと思ったら、奥から中年の主婦の方が出てきてくれて、この道を登っていけば広場が出てくるからと具体的におしえてくれた。

会場の向こうの森からはドンドンドンという3連の太鼓の音がずっと聞こえている。あの森が、アカマタクロマタが生まれるというナビンドゥなのだろうか。夜の帳がおりてくると会場はいつしか500人くらいの人で埋まっていた。太鼓の音が聞こえる森からは女性や年配の男性達が列を作って会場へ集まり始め、赤い鉢巻、白い鉢巻の集団がそれぞれ100人くらいずつ、広場に分かれて座った。

夜の7時からは来賓の挨拶が続き、7時半に宮良公民館長から「聖地ナビンドゥより我々のニイル(ニイルピィトゥ=来訪神か?)の神様がやってこられます。その時は皆様、ご起立願います」とのアナウンスが入る。すると森の方からのぼりが2本現れ、その後ろのシンカの隊列の向こうに巨大な影が2つ見えてきた。

アカマタクロマタに違いない!この日は部落中の照明を落としているので、見えるのはほとんどシルエットだけ。これだけで凄い迫力だ。すると太鼓の音が突然ドドドドドドドンと連打に変わった瞬間、アカマタクロマタが広場に飛び込んできた。

でかい!高さは2.5m、横は2mはあるだろう。体中が草で覆われ、それぞれ赤と黒の巨大な面をつけているが夜光貝の目だけが夜の帳の中でキラキラ光り、その迫力はとても言葉では表現できない。子供が一斉に泣き出したという事実だけでもその衝撃が伝わるだろう。

すると鉢巻姿の村民が一斉に歌い始めた。歌は掛け合いで歌われ、みな声を限りに大声で歌っている。歌詞は一切分からないが沖縄でも本土でもない音階で、そのキーは高く、全身全霊をかけて歌う。歌に合わせてアカマタクロマタは上下に体を揺すり、2本の幟を持つ旗手は旗を互いクロスさせながら飛び上がるように踊る。そして後半、歌い手は一斉にアカマタクロマタを取り囲み、手を叩き、踊りながら、出会えた喜びを爆発させた。歌はユニゾンになり、宮良の夜を歌で覆い尽くした。演出の見事さ、歌の素晴らしさに私は感動して涙ぐんでしまった。祭りには出店のひとつもないが、この豊年祭をみな心から待っていたことが伝わってくる。畏敬の念にあふれ、これこそが祭りの本来の姿なのではないか。

ここでいったん、広場での儀式は終わる。この後、2つの神は、シンカと歌い手と共に部落を一晩中、朝までかけて一軒一軒めぐり、祝福を与えていくのだ。もうこれだけ見られれば十分だと思い、一般駐車場の方向へ向かうが、なにしろ暗いので人の後を付いていくしかない。

すると突然、あの太鼓の音が聞こえてきた。見ると脇の家に人が集まっている。集まった人の間をぬって前へ出ると、ちょうどアカマタクロマタが民家を訪れているところだった。アカマタクロマタは広場さながらにかけあいの歌に合わせて上下に体をゆすっている。歌は広場でのテンションを保ち実に見事だ。広場では正面にいながら暗くてよく見えなかったので、アカマタクロマタの顔をよく見たかったが、ちょうど横からだったので見られたのは横顔だけ。歌が終わるとシンカはアカマタクロマタをさっと取り囲み、慌ただしく移動していく。ここでも見られたのはよかった。

でもこの暗さではいったん国道へ出るしかない。一般駐車場は国道から入ったので、正確な曲がり角を知るにはそれしかないと、国道方面へ行こうとすると、シンカが道を封鎖し、通らせてくれない。この先で儀式をやるんだな。仕方がない。横道を回って国道へ出ると、警察が国道の車を止めている。道路は異様に暗い。

すると国道に面した神社にアカマタクロマタが入ろうとしていた。迎える家は全ての戸を全開にしてお迎えしている。家の中には20人以上いただろうか、アカマタクロマタが敷地に入ってくると全員が満面の笑顔になり、いかに待ちわびたか伝わってきた。国道側は人垣なのでよく見るために神社の横の脇道へ行き、低い塀越しに歌と踊りを眺めていた。

後日、石垣島で何回かタクシーで移動した時に運転手さんに聞いたのだが、この歌、昔から部落に住んでいる人、移住してきた人など、それぞれみな違うのだそうだ。ただ同じ石垣の人でも歌の内容は分からず、宮良の人に、いくら内容を教えてくれといっても絶対に教えてくれないし、せめて由来だけでも懇願してもそれもダメ。あそこの人にとっては神様だからさ、と苦笑していた。

今回も位置が横なのでアカマタクロマタの顔がよく分からない。こっち向かないかなと思っていたら、シンカの中でもリーダー格と思われる手に杖を持っている人がやってきて、血相を変えながら、ここはダメだ、あっちへ行けと、手で押してくる。「早く早く!」と口走りながら押すので、道路の奥へ押し出されていくと、シンカの一団が小走りにやってきた。するとアカマタクロマタが自分のすぐ横を疾風のように通り過ぎていった。目の前で見られたし、意図せずに何度も儀式が見られたなんてなんてラッキーなんだろう。長年、恋焦がれていたから、神様がそうさせてくれたのかな。でもやっぱり横顔しか見られなかった。

駐車場へ行く道を見つけ、真っ暗な夜道を見上げると、空には降るほどの星。アカマタクロマタに出会えた喜びと、素晴らしい音楽に出会えた喜びではち切れてしまいそうな胸を、満天の星空がそっと包んでくれた。(佐野邦彦)
 

2016年8月11日木曜日

RYUTist 『日本海夕日ライン』(RYUTO RECORDS/RR-012)













5月末にここで掲載したNegicco 『ティー・フォー・スリー』のレビューへの反響は意外に大きく、恐縮ながら某SNSでORIGINAL LOVEの田島貴男氏にも触れて頂いた。
 こういった状況も踏まえて考察すると、過去こういった傾向が無かった訳ではないが、メジャー系に比べて様々な制約が少ないと思われる、ローカル発信のインディー系アイドル・グループへの楽曲提供は、マニアックな音楽趣向を持つミュージシャンやクリエイターにとって、オマージュの場となりつつあるのだ。
今回紹介するRYUTist(りゅーてぃすと)が8月2日にリリースした、セカンド・アルバム『日本海夕日ライン』もそんな1枚であり、所謂J-POP(あまり使いたくないカテゴリーだ)と呼ばれる表舞台で展開されているアイドル・アルバムとは一線を画し、WebVANDA読者をはじめ音楽通の音楽ファンも満足させる内容となっている。

 RYUTistは11年にオーディションにより結成され、新潟県新潟市中央区古町を拠点として活動する女性アイドル・グループで、現在のメンバーは、五十嵐夢羽、宇野友恵、佐藤乃々子、横山実郁の4名から構成されている。
これまでに4枚の公式シングル、『RYUTist HOME LIVE』というタイトルのオリジナル・アルバムをリリースしており、今年4月に学業専念のため卒業した大石若奈に代わり、最年少メンバーとなる横山を加えて発表したのが、この『日本海夕日ライン』なのだ。
日本海を南北に縦貫する新潟の海岸線”日本海夕日ライン”をテーマにしたという本作から、シティポップやフィレス~ナイアガラ・サウンド、ビーチ・ボーイズからウェストコーストロックのエッセンスを感じ取ることは音楽通にとっては容易だと思う。
なるほど楽曲提供をしたミュージシャンやクリエイター達もその筋に精通した強者揃いで興味深い。
まずはWebVANDAではお馴染みのThe Pen Friend Clubのリーダーである平川雄一、伝説のシュガー・ベイブ~山下達郎フォロワーで、79年にリリースした自主制作アルバム『LOVE』が、オークションでプレミアム・レア盤となり一躍注目され活動を再開したso niceを率いる鎌倉克行。
この2人をはじめ、新潟県柏崎市出身で音楽プロデューサー、作編曲家、シンガー、ラジオ・パーソナリティ-など多彩な顔を持ち、今年4月に『HOMMAGE』(USM JAPAN/ UICZ-4349)をリリースしたばかりのカンケこと柏崎三十郎、また新潟市在住で鈴木恵TRIOやEXTENSION58のヴォーカリストとして活動する鈴木恵(さとし)といったマニアに知られるミュージシャン達に加え、職業作家としてメジャー系アイドル・グループに多く曲を提供している永井ルイやKOJI obaこと大場康司などが脇を固めている。

ではアルバム収録曲から筆者が気になった曲を解説していこう。
 「Morning light Sunshine」は、CHAGE&ASKAやスキマスイッチのディレクターとして長年アーティスト達を支え続けた、むらたつとむの作編曲によるシティポップだ。イントロのギター・カッティングから80年代感覚溢れるサウンドは最早アイドル・ソングとは一線を画している。 続く「piece of life(socond piece)」は、70年代ファンクをルーツとするダンス・ミュージック・サウンドだが、魅力的なサビのリフレインは往年のモータウン・スタイルというか、H=D=H作品に通じる大場康司の作だ。
 「フレンド・オブ・マイン」は現役バンドマンの鈴木恵の提供曲で、明らかに冒頭2曲の職業系クリエイターの作風とは異なる。The Zombiesの名盤『Odessey And Oracle』(68年)収録の同名異曲であり影響下にあるとは思えないが、こちらは70年代後半のパワー・ポップの匂いがする。


   

「海岸ROADでオトナッTunes!」はカンケこと柏崎三十朗の作編曲で、シックスティーズ感覚にナイアガラ風味(大瀧詠一が手掛けた「うなずきマーチ」(82年))を加味している。懐かしさもあるファニーなアイドル・ソングであるが、4月にリリースされたカンケのソロ・アルバム『HOMMAGE』(16年)で展開される、もっとメロディックな曲を期待していただけに少し残念だ。


   

「日曜日のサマートレイン」は、鎌倉克行の作曲で編曲は大場康司によるシティポップ。ダンサンブルなアレンジングによってso niceをイメージさせることは難しいが、山下達郎サウンドを彷彿させる間奏のサックス・ソロは鎌倉のアイディアなのかも知れない。 

そして特に贔屓している訳では無いが、サウンド的にWebVANDA読者に最もアピールするのが、平川雄一の作詞と作編曲による「ふたりの夕日ライン」だろう。The Pen Friend Clubの「I Like You」(『Spirit Of The Pen Friend Club』収録 15年)と「街のアンサンブル」(『Season Of The Pen Friend Club』収録 16年)の魅力を1曲にとじ込めたような名曲である。 バッキング編成やコーラスを聴く限りThe Pen Friend Clubが全面的に参加しているようだ。

聴きどころが多い本作の中でも筆者がベストに挙げたいのが、実質ラスト曲の「金色の海と七色のDays」(作編曲:永井ルイ)である。中高音域を中心としたホーン・アレンジ(シベリウス的)、70年代のデッドなドラムのチューニングやバロック風のフレーズを多用する鍵盤はシカゴ(ジェームズ・パンコウのホーン・アレンジがミソ)を彷彿させるし、キング・ハーベストの「Dancing In the Moonlight」(73年)みたいな左チャンネルのエレピのリフが印象的だ。 オーヴァーダビングした間奏の無垢なコーラスはThe Third Waveに通じるし、ソフトロック・ファンも魅了するだろう。
最後になるが本作『日本海夕日ライン』は、Negiccoの 『ティー・フォー・スリー』と比較しても色褪せないアルバムだと思うので、興味を持ったポップス・ファンは是非入手して聴いて欲しい。
 (ウチタカヒデ)