2016年4月14日木曜日

VANDAに強いる地獄の要求!多額の赤字と、返品の山。自宅では底が抜けるので職場に隠して最後はチリ紙交換に…。そして山下達郎さんとのエピソード


「本は取次を通して本屋に配本される」ことをご存じだろうか?取次には「トーハン」「日版」とか有名な大手があり、そういう取次を通さないと全国の書店に行きわたることなど不可能。じゃあ新規に作ったミニコミ、私は1991年にVANDAを作ったが、実績も資本もないミニ出版はどうするかといえば、「地方小出版流通センター」という会社に「代行」を頼むしかない。ただし厳しい要求が課される。全国の主要書店に3号分は送りつけるので、その分を刷って納品するようにと。その数は1号に付き6000冊だった。印刷費だけでも3号分で200万を軽く超え、サラリーマンの副業の規模ではないが仕方がない。そして後に大量の返品が戻ってくるのだ。地獄。本屋のバイトをした方なら分かると思うが、書店には毎日大量の新刊の本と雑誌が送られてくる。当然、不要なものを同規模返品しないと置き場所がなくなるので、店員は新刊を置きながら、返品作業を並行して進める。日本は「再販価格維持制度」を堅持しているので、本にディスカウントはなく、原則本屋は遠慮なく本を「仕入価格」で返品できる。送られてきた本をどうディスプレイするかは本屋のセンスであり、新しい本は山ほど来るが、担当者に気に入られ表紙が見える「面出し」してくれれば大成功、しかし大半は本棚にさされ背表紙しか見えず、時間がくるとほぼ自動的に返品される。そうしてVANDAはパイロット版の1号を除く2号から4号が9か月程度全国の書店に置かれた。その頃は何と三カ月に1冊という超ハイペースで作っていたので、新刊を納品すると、大きなダンボールに詰められた返品が「着払い」で倉庫にしていた実家に送られてくる。まったく無名のミニコミが、マスコミに取り上げることもなく売れるなんてことはあり得ない。半数以上は返品され、実家の空き部屋は数千冊の返品の山で床が抜けるほど。これはヤバイと、もう時効(25年前の話)とさせていただきたいが、自分はその頃は先日退職した職場の総務で庁舎管理を担当していた。私は常に庁舎管理を委託している下請け業者の人には笑顔で接し、要望があれば叶うように配慮してきた。人間関係が良好なら何か無理難題が起きた時も、下請け業者の方は快く協力してくれるからだ。だから自分はこの大量の本の山を、職場の一角(空調のみの部屋の空スペース。設備担当者以外入る人はいない)に置かせてもらうよう、設備や、警備員、清掃に頼んで「ナイショね」で快諾を得た。運搬は職場の休日に実家から自分の車でピストン輸送した。指定の3号が終わると、あとはその置いてもらった書店からの注文に変わる。いきなり冊数は激減するが、こちらも手をこまねいているわけではなく、この地方小出版流通センターの書店ルートは仕切りも安く(65%)たいした事がないと半ば見切りをつけ、大手CD店への委託販売の営業に切り替え始めた、そちら方が仕切りも高く大量に購入してくれた。この頃の華はWAVEである。WAVEクアトロやWAVE池袋は特に好意的で、一店で500冊以上売ってくれたこともあるほど。ディスクユニオンのチェーンもよく販売していただいた。その他、北海道から沖縄まで「レコードマップ」でここはと思う店には直取りをお願いし、東京のレコード店は実際に行って取引店へ開拓していく。そしてある日、職場に置いていた大量の返品本を片付けないといけない事態が訪れる。空調の機械のメンテが必要で業者が入るということになり、このまま置いておくとバレるので緊急の処分が必要になった。実家に戻すのは量的に当然無理。少しだけバックナンバー用に実家に戻し、大半の本はちり紙交換をやっている知人に職場まで来てもらって処分した。もちろん作業は職場に誰も来ない日曜の夜。警備員さんや設備の人は分かっているので一切漏れない。業務日誌にも載らないのはそれまでの人間関係あってのこと。そうして数千冊のバックナンバーは「ゴミ」として消えていったのだが、置く場所があれば売れたかも…と後悔する気持ちがあった。苦労して作って、言われたとおり大金をつぎ込んで刷った本をゴミにしてしまう悲しさ。実際、この3冊の在庫はすぐにショートして「在庫切れ」になってしまう。特にVANDA3号にはデビュー時からのファンというとり・みき氏をメイン・インタビューアーにした山下達郎さんの最高のインタビューを掲載していた。新作アルバムの話ではまったく同じ受け答えになるのは分かっていたので、早々にその話題は切り上げ、好きなマニアックな音楽の話や、映画の話など、山下達郎さん、とり・みきさん、そして私の間でしか出来ないコアな話題でインタビューは盛り上がった。あとはどう編集するかだ。お二人の言葉はいじれないので、自分の言葉でポジションを変えて流れを作って素晴らしい内容のインタビューになった。すると山下達郎さんがすぐに反応してくれた。VANDA3号が出た後のソロコンサートで私が中野サンプラザの座席に座っていると山下さんが「えーみなさん。お存知はないかもしれませんが、佐野さんというサラリーマンの方が作っているVANDAというミニコミがありまして、そこに僕のインタビューが載っているのですが、今までのインタビューで最高の内容です。是非読んでいただきたいので見つけたらご覧ください」とまさかの自分の名前まで出して会場で宣伝してくれたのには本当にビックリした。そしてこのインタビューがきっかけで、発足したばかりの「山下達郎オフィシャルファンクラブ」の表紙と、中の4コママンガ「タツローくん」はとり・みきさんの専属となり、今も山下さんととり・みきさんの強い信頼関係は続いている。VANDA3号のインタビューは、山下達郎さんのツアーパンフにリライトされたので「幻の…」にならなくて良かったが、掲載誌のVANDA3号をちり紙交換に出した後は大いに後悔したものだった。ラストエピソード。そのインタビューの時の山下さんの「探究盤」はBruce & Terryの「Don’t Run Away」のシングルだった。私はフォーエヴァーレコードの藤本さんから購入していたが、山下さんは一歩の差で買い逃してしまったようだ。この曲は、オマージュとして山下さんの名曲「Only With You」が作られたほどのブルース・ジョンストンの渾身の傑作。そこで山下さんに「佐野さん、Don’t Run Awayのシングル持ってる?僕の9Minutes Of Tatsu Yamashitaと交換しない?」と尋ねられたものの、この「9Minutes Of Tatsu Yamashita」は今でこそCDのボーナストラックで聴けるが、当時は挙式で配られたと噂された超レア盤で心が動く人も多かったのかもしれないが、実はこのピクチャーレコードも藤本さんから入手していた。ということで丁重にお断りしたのだが、翌々年のレココレの「私のこの1枚」のコーナーに山下さんが「Don’t Run Away」を掲載していた時には本当にほっとしたもの。ついでに思い出したが、この頃に初めてあのビーチ・ボーイズの『SMILE』の最初のブートレッグが日本に入ってきた。もちろんLPで、曲によってはビーチ・ボーイズではない音源もあったまさに最初の「SMILE」だったが、ともかくこの世に形となって表れたのでそれはもう興奮したもの。このブートを入手できたのは大阪のフォーエヴァーレコードの藤本さんだけで4枚だけだった。そのうち2枚は山下さんと私であることは間違いない(笑)このLP、音源的には今は価値がないものだが、最初に見つけた「宝島」の地図の切れ端なんで今も処分せずに持っている。この時期から2004年にブライアン本人が再現するまでの20数年間、世界中のビーチ・ボーイズ・ファンと『SMILE』コレクターが、時々洩れてくるセッション音源のブートを元に幻の『SMILE』に迫ろうと競っていたのは、今となっては楽しい「宝島」探しの旅だった。キャプテンキッドの宝物は今でも見つからないが、秘境中の秘境、トカラ列島の宝島に隠されているとか、沖縄の宮古諸島の大神島の洞窟が怪しいとか、日本にまでそういう噂があり、宝探しは見つからないから楽しい。(佐野邦彦)

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