佐野邦彦
黒島沖の海
恒例の八重山&宮古の離島ツアーの季節がやってきた。今年は八重山の順番で、5回目となる。テーマは「課題達成」だ。2000年に行った波照間島に再度訪れて、ニシ浜の「ハテルマブルー」を堪能すること、2001年に行った黒島を、今回は自転車で回ってみたいこと、そして陸路がないため未だに足を踏み入れたことのない西表島の船浮集落へ渡り、廃村になった網取まで見てみたいこと、最後に、2島で構成されるパナリ(新城島)の上地島へ渡り、八重山の有人11島の全てに上陸して個人的な夢を達成すること、この4つの課題を達成するため、いつもの3泊4日を順に割り振った。その中でも後ろの二つが、今回のハイライトだ。八重山での予約はインターネットと電話で終わったので、あとは寝て待つだけ。
2008年7月30日
今回の基本ツアーはJALセールスで、今まで格安の料金設定だったオリオンツアーのプランより安い上にホテルが八重山ツアーの1回目から3回目までの常宿だったホテルミヤヒラだったので、迷わずこちらに決めた。
それに職場の同僚が、ショッピングで貯めたマイルで今年になって4回も沖縄へ行っている事を聞き、私もマイルを貯めようとJALカードに入ったため、もうマイルがつかないオリオンでは話しにならない。JALツアーズは、さすがJALグループだけあってはじめから航空券を発券してくれるので、ツアーデスクに集合する時間がないのも嬉しい。今まで何でこちらを使っていなかったのだろう...。残りはJTBのパンフレットで「単品OK」のマークが付いている八重山観光フェリーフリーパス(4000円で一週間、毎日1往復の離島便が利用できる超お徳用のクーポン)を買い、空港のパーキングでこれも単品で販売している東急観光の羽田空港駐車場のクーポンも購入しておく。こちらは3泊4日で8500円と安くなっており、旅行会社の提供するクーポンでは大概が空港外の駐車場に止め送迎の車に乗り換えないといけないプランばかりなので、これもお得。この2つは必殺の裏技なので、オススメである。
天気予報は、少々おもわしくない。フィリピンの近くにあった熱帯低気圧がいつしか台風に変わっている。水曜からの出発なのに日曜から月曜は暴風雨だ。火曜は曇り、出発の水曜は曇りのち晴れ、あとは晴れマークが並んでいるので、問題は水曜だけか...。前半は波が高いだろう。でもこういう時は「運がいい」と思うようにしている。八重山・宮古ツアーはもう9回目、個人的な準備は前日で十分とタカをくくっていたら、例によってiPodにムービーを取り込むなど余計なことをしているうちに徹夜になってしまう。6時20分発のJTAに乗るため4時起きしないといけないので、もともと平均睡眠時間が4時間もない私にとっては徹夜がちょうどいいかも。
羽田空港で見た石垣空港の天気は曇り、まあ予定通りだ。沖縄本島ではきれいに晴れていたが、宮古島あたりから雲が多くなる。石垣空港に降り立つと、風は強いが、雲間から時々陽が射し、お、意外といいじゃないかと心が弾む。小さな手荷物受取所で預けた荷物を待つが、新石垣空港ができれば、おそらくジャンボクラスの大きな飛行機が就航し、今よりはるかに多い観光客が押し寄せ、そこに混ざる無作法な連中によって八重山が汚されてしまうんじゃないかとふと不安になった。
調べたところによると八重山の2007年の観光客数は787,502人で、私が初めて八重山へ訪れた1999年が602,027人だったのに比べ3割も観光客が増えている。ちなみに宮古の2007年の観光客数は372,630人と横ばい状況が続き、八重山の半分以下とさみしい状況だ。石垣港の周りの街の活況、お店の多さに比べ、宮古のメインである平良の寂しさは一目瞭然、シャッターを下ろした店も多く、閑散という印象を受ける。宮古ほど寂しくなるのも問題だが、那覇のようになって欲しくはないという複雑な思いが頭をよぎっていた。
荷物を受け取り、さっそくタクシーでホテルミヤヒラへ向かう。車中、台風の話をしたら「ああ、小さい台風ね」と慣れた様子だ。でもそんな台風の時は車を出すのかと聞いたら、「海水交じりの雨だから無理。洗濯機の中と一緒よ。ワイパーのある前以外、何も見えなくなるよ」と、目からウロコの答えを聞く。
昨年は宮古へ行ったという話しをしたら、「宮古は行ったけど、食べ物がまずいね。」とそっけない感想。宮古は沖縄本島の人からは「あそこは変わっている」「気性が荒い」と言われ、八重山からも小ばかにされ、かわいそうな感もある。今日はこれから黒島へ行くと言ったら「僕は船がダメなので、前、黒島へ行った時、竹富島を過ぎた頃から揺れるでしょ、それで酔っちゃった」とのこと。こんなとりとめない話をしているうちにほどなくホテルへ着いた。たったの910円だ。ホテルへ荷物を預け、昨年より新しくなったという新離島ターミナルへ向かう。ほんとうにミヤヒラのまん前だ!これは素晴らしいロケーション。
大きなコンクリートの建物に入ると、入って左が八重山観光フェリー、右が安栄観光で、その他の観光会社の受付が並ぶ。中央には乗船案内の2つの電光掲示板があり、それを見ていればいいのでわざわざガイドブックの時刻表を見なくてもよい。「八重山観光フェリーフリーパス」のクーポンを平田観光でパスに換えてもらうと、ちょうど10時半発の黒島行きの船が出て行ったところだった。八重山観光フェリーの次の便は12時30分なので2時間もある。よって別途代金がかかるが、新しく就航した石垣島ドリーム観光の11時30分発の船に乗ることにした。実はこれも予定通り。ヤエカン(八重山観光フェリー)とアンエイ(安栄観光)以外の新しい会社の船にも乗ってみたかったからね。待っている間も、新しい離島ターミナルは室内なのでクーラーが効いていて快適だ。
オレンジ色の見慣れないペイントの船が石垣島ドリーム観光だ。しかし乗り込んだのは我々4人の他は1人だけ。2001年の時はうちらだけだったので、一人多いだけか。マイナーな黒島便、泊り込みの観光客がもう出て行った後の昼の便、そして台風の後の便(この日の黒島は遊泳禁止になっている)という悪条件が重なっているからな。
船はタクシーの人が言っていたように、竹富島が見えなくなったあたりからおおいに揺れはじめ、船と同じくらいの波が次々押し寄せてくる。そのため、船首は何度も宙を浮いた状態になり、ふっと浮いてドーンと落ちるジェットコースター状態だ。しかしさすが運転するのが海人、定刻にピタリと着けた。
まずは「まっちゃんオバーのレンタサイクル屋」で自転車を借り、昼食を予約している「うんどうや」へ向かう。北海道と見間違えてしまいそうな牧草地帯を抜けるまっすぐな道をひたすら走っていくのだが、風が強く逆風であり、またこの平らな島でもわずかにある上りの傾斜がけっこう堪える。陽が出ていなかったからよかったものの、カンカン照りでは辛かっただろう。
うんどうやに予約していたのは、ヤシガニが丸ごと入った「ヤシガニソバ」。それでたったの1500円。謹慎中、黒島にずっと滞在していた島田紳助が、当時800円だったヤシガニソバを安すぎる!と諭したため、1500円(これでもメチャ安)に値上げしたという逸品は、島に住む「仙人のようなおっちゃん」が捕まえてきたヤシガニを使っており、このおっちゃんは、そのお代として泡盛を一瓶もらい、それを店で飲んでいくのだという。物々交換である。
当然ながら予約が必要で、あらかじめ電話で一匹(一杯?)予約しておいた。うんどうやに着き、予約していた佐野ですがと告げ、その他の注文もする。ヤシガニソバが出てくる間、店を見回したが、仙人みたいなおっちゃんはいない。しばらくしてヤシガニソバが出てきたが、ヤシガニが丸ごとどんぶりからはみ出している。期待していた不気味な光景だ。カニと同じように殻を割るハサミとほじくるための道具をくれるが、殻は固いし、身は少ない。ヤシガニソバはカニ好きの長男にあげ、少しもらったが、あまり美味しいものではなかった。やはり毛ガニの方が美味しいなあ。しかし珍品である。
そうしている内に、TVでも島田紳助に紹介されていた「仙人みたいなおっちゃん」が店へ入ってきた。そのTVを見ていた長男と私が思わず顔を見合わせてニヤリ。写真にでも収めておきたかったが、やめておいた。味は私が注文した味噌八重山ソバがベスト。何の味噌なのか、いい味だ。麺も固くて好みである。
その後、伊古桟橋へ向かうが、あまりに干潮で見るものがなく、仲本海岸へと向かう。
仲本海岸には無人の海の家があり、勝手に氷を作って所定の金額を置いていく。お釣りはみんなの置いていった売り上げから取るわけで、お客の善意だけで成り立つ、黒島ならではの心温まる商売だ。
仲本海岸は見事に潮が引いてリーフの中はプール状態、子供が水着で遊んでいたが、これなら水着を持ってくればよかったなとちょっと舌打ち。岸辺で海中生物好きの二男がクモヒトデを引っ張り出して、長男と大笑い。時折、日が射すものの、曇天と強い風、7年前とほとんど変わらない光景に、どうも黒島は我々にとって台風と縁があり、鬼門のようだ。
帰りの道は追い風で快調そのもの、心地よく草原地帯抜けて港へ戻った。黒島港にある土産物屋は、昔とははるかに充実していて、いくつかの黒島グッズを購入する。
帰りの船もかなり揺れていたため、離島ターミナルで、今日の波照間便を聞くと、最後の3便は出たものの途中で引き返す可能性ありという返事。外洋へ出るからなあ。明日の1便は無事、出るのだろうか...。
2008年7月31日
今日はまだ雲が多いものの、晴れ間が多くなっている。風も収まっていて、通常なら何の問題もない朝だ。
ホテルミヤヒラのバイキングはメニューが多く、目移りしてしまって困る。和洋折衷で取ってきたが少々多すぎた。ある程度ゆっくりして、8時20分発の波照間島行き第1便のチケットを買いに離島ターミナルの端っこにある波照間海運の受付へ行くとそこは長蛇の列!30分以上前で既にこの列だ。台風で何日か足止めを食っていた人達が一挙に押し寄せたのだ。昨日覗いた時は事務の人は女性一人しかいなかったので、あの人が一人で発券しているのだろうか、一組が終わるのに2分程度かかっている。どんどん出発の時刻に近づいてきて、焦ってきたら、男性が出てきて「ご予約の佐野様はいらっしゃいますか」と声がかかる。助かった!やはり予約はしておくものだ。
ゴボウ抜きで事務所に呼ばれ、チケットを渡されると、「あんえい5号」と手書きで書いてある。「安栄ですか?」「そう、安栄に乗ってください」、あれ?ライバル会社じゃないのかなあ。この波照間便は波照間海運の大型船(90人乗り)と、安栄観光の小型船(12人乗り)の2つしか就航していないうえに、1日3便しかないので、他の島へ行くのとはまったく状況が違うのだ。けげんな気持ちで桟橋へ行くと、すでに波照間海運の船は出発するところで、出発後、直ちに安栄の大型船が入ってきた。そうか、こうやって状況に応じて船のサイズを変えているんだ。こちらもすぐに満席で、慌しく出航していく。昨日のように竹富島を過ぎることからゆれ始めるがこれは昨日経験したおり。
しかしさらに海の色が濃紺の外洋に出ると、船窓から海がうねっているのがよく分かるようになる。船と同じくらいの高さのうねりが次々押し寄せ、船は上下左右に派手に揺れる。特に波が大きい時は船が宙に浮いていることが分かるので、落ちるぞと!心の準備をしておけば揺れに対処できるようになる。しかし子供は泣くし、エチケット袋を手にする人はいるし、これが噂に聞いた荒天の波照間便か、いい体験ができた。でも波照間港に入ると正直、ホッとした。
予約していた「昴レンタカー」のボードを持っていた人に合うと、港の売店の人から車を受け取ってくださいと案内される。レンタカーは軽のワゴン車でちょっと驚いたが、念願のレンタカーを受け取り、心が軽くなる。
そう、2000年に訪れた時には波照間にはレンタカーがなく、レンタサイクルで走ったのだが、自転車がボロボロの上にまだ子供が二人とも小学生で自転車のサイズが合わず、けっこう起伏があるこの島の道路とその暑さとで疲れ果てた思い出が家族全員に残っていた。レンタカーは2,3年前から始まったらしい。日帰りの場合、ガソリン代込み5800円、レンタサイクルだと4台で5200円、これはレンタカーが圧倒的にお得だ。
すぐに目的のニシ浜(北浜)へ向かう。坂を下り始めると、懐かしいニシ浜の風景が目に飛び込んできた。この上から見下ろすニシ浜がきれいなのだ。駐車場は狭く、車は3台くらいしか置けないのだが、レンタカー自体、まだ数がないようで、なんとか置くことができた。水着はいつものように服の下に着ているので、着替えの必要がない。浜辺にシートをひき、荷物を置くと、いつものように二男は一目散に海へ飛び込んでいった。
ニシ浜は、本当にきれいな海だ。藍に近い翡翠色というべきか、ハテルマ・ブルーと称されるだけある。まだ雲が多かったので、深い藍ではなかったが、十分に美しい。八重山・宮古のビーチでも、指折りの美しさだ。水平性には大きな西表島が横たわり、そしてポッコリと盛り上がった仲ノ神島がアクセントを添える。
仲ノ神島は野鳥の繁殖地となった無人島で、有数のダイビングスポットでもあるらしい。リーフ内での魚は、奥の方にけっこういて楽しめたが、どんどん干潮になってきて水の透明度が下がってしまったため、いったんニシ浜を後にする。次に向かうのは、日本最南端の碑だ。先客は一組だけですぐに去っていったため、家族だけで好きに写真が取れる。2000年にここで写真を撮った時のポーズを思い出し、子供二人に同じ構図をしてもらい写真を撮った。しかし人間の記憶などあいまいで、左右が逆。まあ、いいか。本土から来た学生が建てた「日本最南端の碑」はとても素朴ないい雰囲気があり、みんなそこで写真を撮る。
その碑のすぐ横に、日本の右翼団体が建てた日の丸の碑があるが、これはいかにもうさんくさく、私を含め、みなこの日の丸が入らないように写真を撮る。少し離れた所に、役所が作った大きな石でできた最南端の碑があるが、これもみんな関心がない。でかければいいというものではない。
高那崎の断崖をおっかなびっくり覘いたあと、再びニシ浜へ戻る。午後になって満潮に戻り始めたため、リーフ外からの海水によって一気に透明度が回復した。しかしずっとニシ浜にいるわけにはいかない。まだ寄りたいところがあるからだ。ニシ浜にある二つしかない更衣室は何人も並んでいて順番を待っていては時間がない。幸いワゴン車だったので車内で着替え、レンタカーの受付のおばさんが勧めてくれた「浜シタン群落」へいく。ニシ浜のずっと左端のこの場所は、大きな岩がつらなり、独特の光景だが、ここよりも海に抜けるまでの密林が面白かった。というのも蝶が乱舞していたからだ。昔見た怪獣映画で南海の島というと、こういう密林にいかにも吊るしてあるということが見え見えの蝶がたくさん舞っていたものだが、まったく同じような光景に出くわして、本当にそうなんだ!と思わず納得、想像じゃなかったのね。そしてずっと行きたかった雑貨店の「モンパの木」へ行く。わかりにくい場所にあり何度も迷ったが、地元の人が言っていた「掘っ立て小屋のよう」な懐かしい店を遂に見つける。嬉しいことに店番も当時と同じ店主だ。長いひげをたくわえ、記憶と同じ風貌だ。2000年の夏休み前に小学生の子供を連れて行った時、「学校はどうした?」「休んできたー」「そうか、君たちはいいお父さんも持って幸せだな」と言ってくれた気持ちいい人だ。店内には2000年に買ったものと同じTシャツも売っている。ここだけ時間が止まっているようで、なんだか暖かい空気に包まれる。ただ船の時間があるためあわただしく新しいTシャツやステッカー、便箋などを買い、車へ戻った。あの店主と話ができなかったことを今でも後悔している。
波照間発の最終便は、行きと同じ安栄観光の大型船がやってきた。波照間海運のチケットだからダメですよね?と尋ねると、どっちでもいいから乗ってという返事。どうやら両社は協力してこの波照間便を運行しているようだ。
帰りの船は行きほど揺れずに快適に過ごせる。石垣へ着いてからは、インターネットで人気ナンバー1と書いてあった焼肉店の「やまもと」へ行く。早く行かないと肉がなくなってしまうそうで、予約をしていた7時よりも早くに行くと、運よく前のお客が出て行ったので、すぐに席に付けた。上ロース、上カルビ1500円、ロース、カルビが980円だが、肉厚、大きさともに東京の倍以上あり、肉も極上だ。上ロース、上カルビは口の中でとけてなくなってしまうほど。そしていい肉なので油がポタポタ落ちて、油断をするとすぐに炎を吹いてしまう。食べきれないほど食べても飲み物も入れて4人で15000円程度と、信じられない安さ!こんないい肉をこんな安く食べられるなんて石垣島の人は幸せだ、東京の焼肉店にはもういけないな、など話ながら、ホテルへ戻っていった。実は明日も「やまもと」に予約を入れてあると告げると、子供は大喜び。明日も楽しみだ。
2008年8月1日
今日は今回の八重山ツアーのハイライトのひとつ、「西表秘境ツアー」だ。西表島を半周(陸路は半周しかない)した時に、端っこの白浜で、船浮行の船を見た。海路しかなく、人口40人のこの孤島のような集落に行きたい!と切望したが、定期便の時間が空きすぎていて宿泊しないと無理そうなので断念したが、いつか行きたいとずっと思っていた場所だ。そしてさらにその先に、やはり海路しかない網取というところがあり、以前は人が住んでいたものの、マラリアと、冬になると手前のサバ崎というところに三角波が立つため海路も閉ざされるという不便さによって廃村になったところがあるという。現在は東海大学海洋研究所が置かれ、僅かな人員が常駐しているだけらしい。
この2つの集落を見られることができないかと思っていたら、「しげた丸おもしろ1日ツアー」というこの方面のシュノーケリングを行っている船を見つけた。船浮、サバ崎、網取と回っていく、夢のようなコースである。そして昼食付で6800円、シュノーケリング3点セットをプラスしても7800円と、べらぼうに安い。インターネットで申し込み、指示のとおり、当日は8時30分発の上原港行の高速船に乗る。
9時10分に港に付くと、例によってワゴン車がお迎えだ。別の家族と祖納港へ向かう。さっそくしげた丸に乗り込み、我々の定位置(?)の船の屋上とういうべきか、一番上の甲板に座らせてもらう。船はゆっくりと港を出発、外離島(外パナリ)、内離島(内パナリ)を順に回っていく。他の乗客に取っては、通り過ぎていくだけの無人島かもしれないが、内パナリは昔、炭鉱があって1000人近い人間がタコ部屋同然で働かされていたという歴史があり、外パナリにはテント生活をしている浮浪者が一人いて、TVで「西表の仙人」として紹介されていた。ああ、ここには灼熱地獄で働かされていた人達がいたんだな、ああ、このビーチのどこかにおじさんがまだ住み着いているのかな、などと考えながら島々を眺めていた。
しばらくすると途中で船を泊め、用意してあるボートに乗り換える。ボートはマングローブの生い茂るクイラ川に入っていき、奥の「水落の滝」をチラリと見てすぐに引き返して言った。めったにいけない奥西表のこの滝が見られたのはラッキー。
しげた丸に戻り、ほどなく船浮集落に到着する。そんなにひなびた感はなく、きれいな集落だ。案内の女性添って集落を進んでいく。まず、民謡にも歌われたこの集落出身の絶世の美女、カマドマの碑を紹介されるが、その石碑の字があまりにもヘタなのにビックリ。これだけヘタ字の石碑など他にないだろう...。
その近くに小さな「東郷平八郎元帥来島の碑」があった。白浜のビーチが多い沖縄には、深さがないため海軍の軍艦が停泊できる良好な港が乏しいのだが、この船浮湾は、奥まった入り江にあるリアス式の深い港のため、天然の良港として重要と、東郷元帥が実際に来たのだそうだ。明治の船浮はいったいどんな佇まいだったのだろう。その後、船浮小中学校と「イリオモテヤマネコ発見の地」の標識を見て、港へ戻る。
愛するイリオモテヤマネコ達よ、どうか車のほとんどないこの船浮湾の周りで暮らしていておくれ。周遊道路の周りに来ると交通事故に遭ってしまうから。100匹しかいないというイリオモテヤマネコは、今年になってもう3匹も交通事故で亡くなっているという。
この西表にもユニマットのような大手のリゾート開発業者の手が入ってきているが、便利になると人間は生態系を壊していく。どうか、規制を緩めず、住民は監視を怠らず、開発業者に乱開発させないよう、島を守って欲しい。自然が残っているからこそ、西表なのだから。
船浮を出港してしばらくすると灯台が出てくる。これはサバ崎では?と思ったら、船のガイドでここがサバ崎とのナレーションが入る。そしてその手前の岩がゴリラ岩とも。ゴリラ岩とは話には聞いていたが、見事にゴリラの横顔だ。
ここで最初のシュノーケリングとなる。海に入ると、驚くばかりの見事な珊瑚の群落に言葉を失う。魚の数も圧倒的に多い。昨年行った宮古島の八重千瀬は珊瑚が白化し、魚も少なかったが、比較にならない生物の多さに圧倒される。この海は生きている!そして八重千瀬は、多数のオニヒトデに食い荒らされていたが、ここには一匹もいない。間違いなく、今までシュノーケリングした海でここが一番だ。続いて昼食のため、網取沖を横切ってその近くに船を停泊させる。網取は沖からしか見えなかったが、白い東海大学海洋研究所の建物が目立つだけで、その他の建物は散見する程度。いかにも廃村ということが伝わってきた。
廃村になった網取
昼食はちゃんとした弁当箱に入っていて、ジューシーのご飯にオカズも美味しく、おにぎりしか出てこないような今までのシュノーケリングの船とは雲泥の差だ。食事にも大満足。ここでもシュノーケリングができたが、アウトリーフながら浅そうだったので、休憩にあてた。
船はその後、外パナリの沖へ出て、そこでまたシュノーケリングとなる。ここも素晴らしい珊瑚の群落があり、深さも前よりあるため、もっと大型の魚が楽しめる。海の中での魚同士のケンカを見ていたり、家で今まで飼った海水魚がここには何種類いるだろうと数えたりしているうちにあっという間に1時間が経ってしまう。
そして祖納港には2時半頃に戻った。上原港までの送迎の車は、まだ時間があるので星砂の浜に寄りましょうと、降ろしてくれたが、喜ぶ他の家族と違ってもう4回も行った場所なので浜には下りず、お土産屋でアイスを食べたりしながら時間をつぶしていた。
このしげた丸のツアーは、いつもの翡翠色の海ではなく群青の海が続いていたが、切り立った西表の深い山々の間を縫うように進む秘境感漂うクルージングで、これも実に楽しい。全てに大満足のツアーだった。
石垣では2日連続で焼肉のやまもとに行き、また極上の焼肉をたらふく食らう。肉好きの二男でさえ、もう肉はしばらくいいと言い(翌日また平気で肉を食べていたが)、脂っこい肉が少々苦手の長男は「連続はやめたほうがいい」という。逆に返せば、それほど美味しくて食べ過ぎてしまったということ。実際、その長男は次も石垣がいいね(順番では宮古なので)というほどだった。
2日連続でお店にくる家族連れは珍しいようで、お店の方は帰り際に色々親しげに話しかけてくる。また来ますと約束し、店を後にしたが、帰り際によく見るとカウンター後ろは阪神タイガースのグッズばかり。石垣島でタイガースかと、ちょっと不思議な感じがした。帰り道に、石垣のそこここにある「ココス」というコンビニに寄って、夜の飲み物などを仕入れる。後で分かったことだが、沖縄でメジャーのコンビニである「ホットスパー」が名前を変えて「ココス」になったのだそうで、ココスに寄るのも日課になってしまった。
2008年8月2日
今日は今回の旅行で最大の目的である新城島(パナリ)の上地島の日だ。
パナリは上地と下地の二つの島で構成されその間は数百メートル、干潮の時には歩いて渡れることもできるそうだが、明らかに別々の島だ。石垣島から見て黒島のさらに先、西表島の沖に浮かぶ双子の島は現在、住民登録している人が上地で8人、下地で2人という過疎状態、下地は島全体が牧場になっていて島には交代制で住み、上地の住民はみな石垣か西表に家があり、必要な時に滞在しているのだという。つまりずっと島に住んでいる人はひとりもいないのである。
しかし特に上地は神の島で、島最大のお祭りであり豊年祭には、元島民が数百人押し寄せ、3日3晩過ごすのだという。アカマタ、クロマタという神が現れるこの豊年祭は完全な秘祭であり、島民とその関係者以外見ることを許されず、撮影や録音、メモまで禁止されている。禁を破った者には、相当な制裁が与えられるそうだ。部外者を立ち入らせないため見張りの船を出し、また祭りの間は帰りの船を出さないという徹底ぶり。そのため島には立ち入り禁止の場所が多く存在するのだが、この上地島だけ八重山でまだ訪れていなかった。この島へ行けば八重山の有人の11島(今はカヤマ島にも1人住んでいる)の全てに行ったことになり、全島制覇が個人的な目標であるのだが、それ以上に今はアカマタ、クロマタのいる島に上陸できるという嬉しさがあった。この豊年祭は、島人の紹介があれば見ることを許可されるというので、いつかこの目で見てみたいと切望している祭りである。
話を聞くと、アカマタ、クロマタの異形の姿、驚くばかりの巨体は青草に覆われ、赤と黒の巨大な面、光る目、長い髭、頭の大きな葉など見た人の衝撃は測り知れないという。その異形の来訪神は深夜に現れ、アカマタ、クロマタの歌に送られて去っていくのだそうだ。アカマタ、クロマタは、海の彼方のニライ・カナイから来て稲をもたらしてくれたニロー神・ニイルピィトゥで、豊かな実りを授けてくれる。しかしこの祭りを見た琉球王府の役人は、「アカマタ、クロマタという2人の者が異様な格好をして神の真似事をしている。これは誤った風俗なので、今後このような事は禁止する」という御触れを出し、自分達に理解できない風習を禁じた。だからこそ、この祭りは村人以外、知られてはいけない秘密結社的な祭りとして密かに受け継がれていったのだろう。
新城島の他、西表の古見、小浜島、石垣の宮良でだけ、この祭りは続いている。他の島・集落の豊年祭は、ミルク神(弥勒のこと。ただし中国で布袋様が弥勒の生まれ変わりと言われていたことから、ミルクは布袋様のような福福しい笑顔になっている)が先導しているので、アカマタ、クロマタは仏教が伝わる前の、原始的宗教が残ったものだと思われる。250年以上、秘密を守り続けた祭りは神秘的な、荘厳なものになった。アカタマ、クロマタに興味を持つ人は多く、インターネットに見た感想は書いてあってもどのホームページでもアカマタ、クロマタの写真をあげていない。
アカタマ、クロマタの写真は、日本に復帰する前の八重山を描いた名著で、文庫で出版されている「新南島風土記」(岩波現代文庫)に載っており(未来社の「南西諸島の神観念」にも別の写真が掲載)、私はその写真に強烈なインパクトを受けて、ここパナリの事を真剣に調べるようになった。
以前のこのホームページでは、昨年の宮古ツアーの紹介文で、宮古島のパーントゥ・プナハと並べてアカマタ、クロマタの写真を載せてしまったのだが、しばらくしてホームページを管理していた我々のサーバがクラッシュして全てが消えてしまった。復旧は不可能で今は手作業で送信履歴からの復旧を行っているところだが、その当時は機械的な故障だと思っていたが、今になって考えると、興味本位でアカマタ、クロマタの写真をあげてしまったため消されてしまった、いや、大いなる力が働いて消してくれたと思っている。この事がふとわかった時、震えるような興奮と、その力を感じることができた喜びが湧き上がってきた。断っておくが、私はなにかどこかの宗教の信者ではなく、お寺にも神社にも教会にもこだわりがない平均的な日本人である。ただ、森の精霊とか、昔から言い伝えられているものにはきっと何かがいる。そこには大いなる力が存在しているはずだと確信している。その大いなる存在であるアカマタ、クロマタの島へ行くのだ。これが喜び以外の何であろう。
このパナリのシュノーケリング・ツアーは、運営する会社によって行く先が上地、下地と決まっていて、両方へいくプランはどこにも存在しない。2年前に選んだ上地観光は、下地を管理する牧場の人たちと関係があり、実際に港で荷物の受け渡しをしていた。
今回は上地へ行きたいので、インターネットで行く先が上地のものを探し、その中でも、昼食後に島内観光があった「マリンポイント」を選んだ。ここがいいのは他に出発が石垣港からであり、前回も最高の体験だった「高速船ではない船での石西礁湖(石垣島から西表島の間に横たわる世界最大級の珊瑚礁の海)のクルージング」をもう一度味わえるという願ってもないプランだったことが大きい。シュノーケリング3点セットを入れて昼食込み11000円(インターネットでの予約価格)と納得の価格だ。ただダイビング組も一緒なのでシュノーケリング・ポイントで少々待たされるデメリットはあるが、メリットの方がはるかに大きい。
9時20分にホテル前に迎えのワゴン車が来て、離島桟橋の端の大橋にある船着場まで案内された。すぐに船の屋根にある甲板を占領し、全身に八重山の風と太陽を浴びて出航していく。昨日から波は見事に治まっていて、竹富島を過ぎてもほとんど揺れない。快適な、極上のクルージングだ。水平線から天を突くような入道雲が湧き立っていて、水面に灰色のスコールの帯を落としている。カッコいい雲だなと写真を撮っていたら、我々の真上にもどんどん雲が出てきて、いつしか空は雲で覆われていく。
まず午前中のシュノーケリングになるが、かなり深いポイントで、珊瑚礁の下には大型の魚が見えた。二男が首尾よくウミヘビを発見し、カメラでしばらく追っていく。泳ぎの得意な長男は魚類のようで深い海底までどんどん潜っていき、海底の岩の上に座ってピースサインをするなどもう余裕綽々。ライフジャケットを付けた我々と違って、なんとも楽しそうだ。しかしここには刺すプランクトンが多く発生していて、チクチクと痛く、一足早く切り上げて船に戻った。
そして上地島の桟橋に着いたとほぼ同時にスコールが降り始め、船の人の案内で、昼食を予定している小学校跡へ向かった。ここはとてもきれいに整備されている快適な場所だ。シャワーも完備、トイレもきれいで申し分がない。スコールが上がり、強烈な太陽が再び戻ると、バーベキューの準備になった。バーベキューは牛肉、おおきなエビ、焼鳥、骨付きのソーセージである。ごはんはジューシーのおにぎりで、昨日と同様にどれも美味しい。目いっぱい冷えたお茶が飲み放題なのも嬉しく、大満足の昼食だった。
食後、桟橋へ行くと、右側には石垣島、左の正面には大きな西表島が横たわり、海は琥珀色と群青に輝き、例えようもなく美しい。毎年、八重山・宮古の写真を年賀状にしているのだが、今年はここしかないなと目いっぱい写真を取りまくっていた。しかしすぐに島内観光が始まりますよーと呼ばれ、あわてて元の小学校跡に戻る。
案内は嬉しいことにこの島の住人で、ご自身もパナリ島観光という安栄観光の高速船を使ったツアーを主催されている西泊さんという方が担当してくれた。まずは普段は無人の家屋が多いのにきれいに整備されている集落を抜け、豊年祭が行われている美御嶽(ナハウガン)へと案内される。
ここは神聖な場所で、撮影はダメですと告げられ、カメラとビデオを袋にしまった。そして「島に来ている案内の人はみな島の住人ではないのでこの鳥居の中へは入れませんが、今日は私が案内しますので、もう少し奥まで行ってみましょう」と案内される。20mほど進んだところで、ここから先へは進めませんのでここから見てくださいと言われたその先には、見たこともない真っ白いアーチのような門があり、そこには太陽と月の絵が書いてある。「島の人間が最も大切にしている豊年祭の時には、多くの島の関係者がやってきて、みなこの中に入ります。ここに何百人も入るんですよ。」というが、どれだけ壮観な眺めなのだろう。
西泊さんは、「ここの祭りはとても独特なもので、大変貴重なものです。しかし最近、島の人ではない人達が憶測で勝手なことを書いているので(三流雑誌の「不思議ナックルズ」の事だろう)、昨年から島の人以外、一切見せないということになったんです」と言われてしまう。「しかしみなさんのような善良な方達には、貴重なものだから是非見てもらいたい、もし見たい時には私に言ってください」と続けてくれ、これは西泊さんを頼りにしていつか見せていただこう、私の真剣な思いを分かってもらおうと、次回の八重山ではまずパナリ島観光にツアーを申し込んでその時にゆっくりお話をさせてもらおうと決意をした。
ナハウガンのあとは、大きなガジュマルの木を見る。いくつも幹がからみあい、そこから横に広がって地面に多くの気根を下ろしているその様は、今にも動き出してきそうですごい迫力がある。生きている森、そこから伝わる生命のパワーを感じてなんだか心地良かった。
そして島の展望台とでも言えるクイヌパナという高台に上がると、そこからパナリの海がずっと見渡せる絶景中の絶景。島の緑と翡翠と琥珀と群青の海が彩なすグラデーションに絶句してしまう。下地島の先には遠く波照間島まで見えていた。
戻る道すがら、西泊さんが学生さんにと言って、他の小学生のお子さんにパナリ焼きの破片を上げていたので、二男を紹介してこの子も高校生です(大学生の長男まで言うとずうずうしいような気がして高校生の二男だけにした)と言うと、それは御免ね、大きいから学生さんと思わなかったと、小学生のお子さんに渡した3個の破片のひとつを返してもらって二男に渡してくれた
。船の出発の時間が近いため小学校跡で待っていたら、西泊さんがどこからかいくつものパナリ焼きの破片を探してきてくれ、これも持っていきなさいと渡してくれた。なんて親切な方だろう。絶対もう一度パナリに行くぞ!とさらに意を深くした。
ちなみにこのパナリ焼きとは、このパナリに伝わる素焼きの焼き物で、ろくろを使わず手ひねりで作ったものだと言う。もろいものだったので、今は一部が石垣島に現存しているだけで、大変、高価なものだという。製法としてカタツムリの殻を入れていた、などと書かれていたが、それは西泊さんによると製法を知られないためにうその情報を流していたものだと今は考えられていて、実際は、貝殻をつぶして練りこんでいたのだそうだ。だからいただいた破片の中には多くのキラキラとした貝殻の粒が見える。こんな貴重なものが島の中ではたくさん散らばっているのだ。
あと今回は、このパナリにある人魚神社(アーリィウガン)へも行けなかった。いにしえのパナリでは、琉球の王様が不老不死の薬としてザン=人魚(ジュゴンのこと)を獲ってその肉を献上するよう命じられていた。島民は必死にザンを捕まえ、そしてその頭蓋骨はアーリィウガンへ祭っていた。
もちろんここは立ち入り禁止で、中に入った者には不幸がおきるという。インターネットでこのアーリィウガンの概観を見たが、うっそうと茂る密林の奥に朽ちたような鳥居があり、とても中へなど入る気持ちがおきない緊張感漂う場所だ。次に訪れた時には遠くから佇まいだけ眺めてみたいと思っている。
多くの思いを残した上地島を出ると、この石西礁湖の海の中でも最も美しい黒島沖の海で午後のシュノーケリングが始まった。青く輝くこの海に囲まれると、楽園とは、天国とはきっとここのことだろうと思う。
二男はいつの間にかライフジャケットを取っていて、素もぐりの練習している。そのうちに数メートル下の海底まで手をついて帰ってくるなど、すぐに上達してしまった。フィンさえあれば泳ぎはまったく大丈夫らしい。長男も負けずにもぐっていたら耳抜きがうまくできなかった時に鼻血を出してしまい、その後、すぐに鼻血が出るようになってしまった。我々だけではなく、船のインストラクターにも潜りを止められてしまったため、長男は面白くなくなったようで、海から出てデッキの上でふて寝(?)を始めた。そこで私が船に戻り、さっきインスタラクターのお兄さんがやっていたようにこの高いデッキから海に飛び込んでみたらと勧めると、ニコニコしながら飛び込みをはじめた。二男も続くようになり、それを見ていたインストラクターの兄さんは、巨大なウミヘビのようなナマコを海から浮上した長男に手渡し、気味悪がった長男は二男にそれを渡す。海洋生物好きの二男は巨大ナマコなどまったく平気なので喜んで受け取り、碧い海へ思いっきり投げこんだ。笑顔が続く楽しい光景だ。ただしその間にナマコ嫌いの女性の悲鳴も聞こえてはきたが。
シュノーケリングが終わると、船上のデッキは我々家族しかいなくなくなる。碧く輝く海を見わたすと前には石垣島、重なるように平たい竹富島、左手に少し盛り上がった小浜島、時折隣に小さくペシャンコなカヤマ島が見える。そして真横には巨大な大陸のような西表島、後方に二つ並んだパナリ島、下地の牧場のサイロがチョコンと飛び出しているのがかわいい。そして右手にはこれも平たい黒島と、360度が島ばかり。「八重山」とはよく言ったものだ。本当に八重に島がある。
心地良い風を全身に浴びながら、碧と翠の輝く海、様々な形を織り成す島々の緑、水平線の沸き立つ入道雲、そのパノラマを眺めている。こんな場所に、こんな時間にいられることに感謝しながら、そしてここが日本である喜びを噛みしめながら、近づいてくる石垣島を眺めていた。緑の帯だった小さな石垣島は、いつしか水面にビルが立ち並ぶ近代的な姿に変わっていた。
帰りの便はゆっくりで、前回と同じ19時30分発の那覇行きに乗り、21時発の羽田行きに乗り換える。23時20分に羽田に着き、日をまたいだところで自宅へと戻った。旅行の間、母が面倒をみてくれていた愛猫達は、まだ警戒模様。でもほどなく擦り寄ってきた。
旅行の全ての計画を立てている私は、こうして無事に帰ってくると一年で最大の仕事を終えたような気持ちになって、やっと安堵に包まれ、ホッとできる。来年は、宮古島で唯一、行っていない多良間島の横にある水納島へ行かないといけない。5人家族だけが住むこの島は、その家族の方のチャーター便しかなく、初めて宮古島以外の島で一泊しないと行けない。さて、これから計画がスタートだ。まずはインターネットで情報収集と、すぐに来年の準備に入ってしまった。さらにアカマタ、クロマタを調べて再来年の準備。やれやれ。
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