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1999年7月22日木曜日

Brian Wilson インタビュー(1999年7月11日)

 ビーチボーイズ(The Beach Boys)のブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)へ1999年7月11日の来日時、帝国ホテルにてインタービューを敢行した。

 新曲中心のアルバムとしては88年の『Brian Wilson』から10年、実質上のセカンド・ソロ・アルバム『Imagination』が昨年に発売されたのは記憶に新しい。間に『Sweet Insanity』という幻のアルバムがあったものの、およそ10年サイクルでしかフル・アルバムを発表できなかったブライアンが、まさかソロ・ツアーを やるなど思いもしなかった。そのソロ・ツアーが実際にアメリカで行われたと聞いても、それはスペシャル・イベントで続かないだろう、ましてや日本に来るな んて想像もしなかったが、日本公演が発表となり、にわかに騒然となった。
 Web VANDAのBBSも以降、ブライアン来日の書き込み一色になる。ああ、こんなに多くの人が待っていたんだと嬉しく思って見ていたが、本当に来るんだろう か、ドタキャンもあるのではと、一抹の不安を抱えて「その日」を待っていた。
     

 そんな中、来日発表の時からバーン・コーポレーションの椎名さんには、『Beach Boys Complete』の改訂版用にブライアンのインタビューが取れないかと頼んでいた。椎名さんよりBMGへ話が行き、BMG側は基本的にOKとのこと、あとはブライアン次第ということになる。
 そして来日の2週間前、招聘先とブライアン側とのミーティングで結論が出るということになり、遂にブライアン側の OKのサインが出る。やった!と喜んだものの、インタビューは15分という制限が付いたため、もうこうなっては、枝葉末節なことでも聞きたいことを聞いてしまおうと、全体の流れをある程度無視して質問を13問に削る。通訳はWebVANDAのShinnieこと岩井さん、質問事項をメールして英訳を頼み、いよいよインタビューの7月11日がやってきた雨まじりの日曜日、BMGの人との待ち合わせの1時間前の11時半に、私と岩井さん、椎名さんで集まり、簡単なミーティングをする。そして滞在するホテルへ向かうと、少しロビーで待たされたあと、ブライアンの滞在する部屋の前まで案内される。

 ここで打ち合わせなどワンクッションと思いきや、「どうぞブライアンが待っていますので」いきなり部屋の中へ通されてしまう。「えーそりゃないよ、心の準備っていうものが」と心の中でつぶやきながら部屋に入ると、いきなりソファに座ったブライアンの姿が目に飛び込んできた。
 圧倒的な存在感。オーラを発しているかのようだ。ブライアンは視線を机の上に落とし、その表情は堅い。上はアロハでリラックスした格好だったが、いかにも神経質そうで、緊張が走る。スタッフに声をかけられ、ブライアンはやっと我々を見た。
 あわてて握手をするが、ブライアンは手を添えただけで力はまったく伝わらず、温かい手の温もりだけが感触として残った。
 岩井さんが我々を紹介するが、私のところでにこやかにほほ笑んだ長身の男性が握手にやってきた。デビッド・リーフ、『Good Vibrations Box』の解説を書いたり、『The Beach Boys』という本も書いた、有名な音楽ライターだ。『The Beach Boys Complete』を見てとても気に入ってもらえたようで、私がそのライターということで、挨拶にきてくれたのだ。ブライアンも『The Beach Boys Complete』をペラペラめくり、66年の日本公演の写真を興味深げに眺め、ひとこと"Good"そしてインタビューが始まる。
 ここからの話は『Beach Boys Complete』の改訂版をご覧いただきたい。 ブライアンは始終無表情ながら、質問には必ず答えてくれた。カート・ベッチャーの事を聞いた時には、カート関連の曲をずっと集めている私が知らない曲をブライアンは歌い出した。また作曲方法について聞いた時も「Back Home」「California Girls」の一節を歌うなど、かなり誠実に答えてくれたのだと思う。ビーチボーイズに影響を受けたミュージシャンとして「カート・ベッチャー、アソシエイション、そしてフォー・シーズンズ」(あえて入れてみたのだが)と聞いたら、ブライアンは目を向いて「フォー・シーズンズだって?」。やばいと思ったそのとたん岩井さんが「いや、カート・ベッチャーとアソシエイションです」と言い直し、事なきを得た事もあった。ブライアンは途中で水を飲んでいたが、そのグラスを持つ手は細かく震えており、体調は万全ではないようだった。
 インタビューが終わり、向こうの方から記念撮影はどうとアプローチしてくれる。その際ブライアンは我々の肩にすっと手を回してくれたが、これには驚いた。


 そしてみんな手持ちのCD(雨が降っていたのでLPを持ってきた人はいない)にサインをしてもらったが、私が日本のみの企画の『The Beach Boys Single Collection』、これは自分がシングル・ヴァージョンのマスター探しに奔走したものなので記念にと思って出すと、デビッドがすっと来て、そのボックスを手に取って中身を出してマネージャーとしばらく話をしていたのが印象的だった。
 最後に江村さんからもらったEMレコードのCDを4枚持っていき、ブライアンにこのCDはすべてトニー・リヴァースのワークス(ブライアンとトニーはイギリスのコンベンションで会ったことがある)だと言って渡すと、はじめて嬉しそうに笑顔を見せた。やはりブライアンが関心があるのは音楽なんだなと、納得のリアクションだった。

 
 その後ブライアンはサングラスをかけ、メリンダ、デビッド、あとマネージャーなどと連れ立って部屋を出ていった。行く先はHMV数寄屋橋店でのサイン会。 BMGの人に誘われ、我々もHMVでのサイン会を見ていくことにする。
 椎名さんはブライアン側のフラッシュ禁止という条件での暗い室内で高感度フィルム撮影に不安があったので、フィルムを買って撮影再チャレンジとなる。

 HMVではすでに人垣が何重にもできていた。そして抽選で当たったサインをもらえる50人が並んでいる。そしてブライアン登場。大変な歓声だ。机にはマイクが並べられていたのでブライアンは挨拶でもするのかなと思ったが、椅子に座ったブライアンは通訳に一言。「ではもうサインを始めましょう」と、すぐにサイン会が始まる。
 『Pet Sounds』や『Good Vibrations』のボックス、『Pet Sounds』『Imagination』のジャケットが多かったが、『Surfin' Safari』や『Stack-O-Tracks』を持ってくる人もいる。デビッドが何度もブライアンに耳打ちして、ブライアンの後ろでスタッフが打ち合わせを始めた。この隙に、『Pet Sounds』と『Good Vibrations』のボックスを裏表に組み合わせた知能犯が表にサインをもらうとすぐに裏返しにしてもうひとつサインをもらう。さらにスタッフが目を離していることをいいことにカバンからパンフレットを出して都合4つもサインをもらっていった。ブライアンも嫌そうにまだやるのみたいな顔をしていたが、いったいこの図々しい奴は誰だったのだろう。そして主催者から、ブライアンの好意でここにいるすべての人にブライアンが握手をしたいと、突如握手会に変わる。見に来ていた人はラッキー。
 こうしてHMVでの取材は終わり、私はデビッドに『Beach Boys Complete』を送る約束をして、会場を後にした。インタビュー、サイン会という実務での中心は明らかにデビッドで、インタビューでは「そうだねブライアン」と何度も声をかけていたし、サイン会で繰り返された耳打ちなど、デビッドの指示と助言でブライアンが動いていたのはほぼ間違いないだろう。

 翌12日は、東京での初日である。9日の大阪公演は大いに盛り上がったそうで、ブライアンは日本が一番僕を歓迎してくれていると始終上機嫌だったと、昨日呼び屋さんから聞いていた。これは当然、東京も盛り上がらないと。自分の席は真ん中の8列目と絶好のロケーションで、これはいい。よく見ると斜め前は萩原健太さん。
 まずは15分程度の自伝風の映画が上映され、気分がゆったりと落ち着いていく。そして映画が終わると同時に「The Little Girl I Once Knew」のイントロ。ブライアンの姿に大歓声が起こった。もちろん総立ち、夢に見たこの一瞬がやってきたと、心は躍る。ファルセットのリードを全面的に担当したジェフリー・フォスケット、そしてワンダーミンツのハーモニーは完璧で、今までみた過去2回のビーチ・ボーイズのライブでのハーモニーなど比較にもならないクオリティだ。
 2曲目の「This Whole World」では途中のアカペラがレコードと同じに再現され、これも嬉しい。ブライアンはマイクのパートを基本的に歌う。中音域でふらつく時があるが、これだけの長丁場を、大きな声で歌い続けることができたのは、以前では考えられない復活ぶりだ。歌詞はキーボードの前の2つのプロンプターで密かに写しだされているので間違うことはない。「Don't Worry Baby」「Kiss Me Baby」「In My Room」「Surfer Girl」と素晴らしいバラードが続き、ここではみんな座って聴いていたが、「California Girls」から再び立ち上がり、ビートの効いた「Do It Again」で大いに盛り上がる。「I Get Around」では観客が正確にレコードと同じハンドクラップをしていて、みんなにわかファンじゃないことが伝わってくる。「Let's Go Away For Awhile」「Pet Sounds」とブライアン抜きのインストもなかなか良く、演奏力もかなりのものだった。
 途中15分の休憩が入って「Wouldn't It Be Nice」からスタート。このキーでの入り方は今のブライアンには難しいようで、出だしは怪しかったが、コーラスが始まると一気にレコードと同じハーモニーに包まれていく。「Sloop John B」でも途中のアカペラ・パートがきちんと再現され、ファンを喜ばせた。そして「Darlin'」。ブライアンがこの名曲を歌うということでさらに盛り上がる。そして今名盤として再評価が最も高まっている『Sunflower』、このアルバムは私がビーチ・ボーイズを聴き始めた時の最新盤でこのアルバムによってビーチ・ボーイズの虜になっていた恩人のようなレコードだが、この中から「Add Some Music To Your Day」を披露(そのかわりに「This Could Be The Night」は外れた)してくれた。ゆったりとして暖かいハーモニーに聴き惚れたのは私だけではあるまい。ブライアンがリードを取る「God Only Knows」は、聴く人間を敬虔な気持ちにさせる力がある。名曲とは正にこういうものだ。「Good Vibrations」はレコードと寸分違わずに演奏し、ビーチ・ボーイズでの観客に歌わせるヴァージョンとは違って新鮮だった。そして「Help Me Rhonda」でさらに盛り上がる。
 アンコールは2回あり、1回目は「Caroline No」から始まり「Fun Fun Fun」まで4曲続くが、ベストは「All Summer Long」。その陽気な雰囲気とポジティブな歌声は、それまでのブライアンには感じられなかったもので、私の回りでもベスト・ナンバーという人が多い名演だ。そして2回目は弾き語りで「Love And Mercy」。ブライアンの歌声には表情があり、感動的なエンディングだった。
 このコンサートでは他に「Your Imagination」「Lay Down Burden」「South American」と3曲のソロでのナンバーがあるが、どれもブライアンの歌声は文句なしだった。それは自分が今、歌えるキーで曲を作っているからであって、ブライアンは今を生きるミュージシャンなんだということを実感させてくれる。確かにブライアンの音程は不安定なことがあるし、ぶっきらぼうな歌い方をする。そこのあたりを批判する人もいるが、ブライアンに何を望んでいるのだろう。
 私のような長年、ブライアンを見守ってきたファンにとっては、新曲を出すことから始まって、ここまで人前で歌えるようになっただけでも嬉しいのに、ワンダーミンツらの好サポートでレコードと同じハーモニー、サウンドがステージで再現されたことで十分満足だった。

 14日にもコンサートに行ったが、すべてにぐっとよくなっていた。ブライアン自身も余裕が出て来ているようで、途中で「東京読売巨人軍」のハッピを来て登場し、「Tokyo Giants」のMCに大喝采のシーンもあった。
 全日行った萩原さんは「どんどん良くなっている。今日が最高じゃない」と言っていたが、その言葉を裏付けるように、閉演後に行ったバック・ステージでは、萩原さんはダリアンに今日はニューヨークと並んで最高のコンサートだったと言われたそうだ。ブライアンとメリンダ、デビッドはすぐに部屋から出てしまってホテルへ帰っていってしまったが、残ったワンダーミンツとジェフリーを囲んで、何度も記念撮影が行われていた。 

 こうしてブライアンのソロ・ツアーはあっという間に終わってしまった。ブライアンの口から聞いたところでは、次は「ロックンロール・アルバム」だとか「アンディ・パレイ・セッション」、さらに「ライブと新曲」という3種のアルバムが企画に上がっているようだ。 リプリーズ/カリブのリイシューも年内に予定されている。
 ポジティブになったブライアンが再び日本に来ることも夢ではないだろう。マイクとブルースらと共にのビーチ・ボーイズとしての活動にも期待したい。

(佐野邦彦)

1999年7月20日火曜日

☆Various: Girls Will Be Girls Volume 1(West Side/600)





最近は、Rev-Ola、Sequelと並びUSのリイシュー・レーベルを圧倒するクオリティのコンピレーションを作っているのがこのWest Side。Colpix、Roulette、Jubilee、DimensionなどEMI系のレーベルから女性シンガー、グループの曲を選び抜いたものだが、この選曲が素晴らしい。全31曲のうち19曲が64年から66年の作品で、未発表のデモも8曲ある。ビートルズがアメリカに上陸した64年以降は、オールディーズ色が急速になくなり、私のようなソフト・ロック系のサウンド、メロディが好きな人間も楽しめる曲が増えてくる。その中でも注目はテディ・ランダッツォ作・プロデュースのAnnabelle Foxの“Lonely Girl”だ。“Hurt So Bad”を思い起こさせる曲だが、起伏のあるドラマティックな曲想はさすが。なにしろ66年の作品といえば期待がますます持てるはず。ボブ・クリュー作のDiane Renayの“The Company You Keep”、ボブ・ゴーディオ作のJessica James & The Outlawsの“Give Her Up”、バリー・マン作のCinderellasの“Good Good Lovin'”(未発表)、ニール・セダカ作のBarry Sistersの“I Must Be Dreaming”など有名作家の曲もいいし、それ以外の中堅・無名作家の曲もいい。このコンピは本当におすすめだ。(佐野)
Girls Will Be Girls 1

1999年7月3日土曜日

★第1回 八重山諸島ツアー1999

Journey To Yaeyama Islands 1999


佐野邦彦


                               与那国島ナンタ浜



 私は北海道が好きだった。妻と最初に旅行したのは北海道、子供が2人とも小学校に入りやっと遠くの旅行が出来るようになった時に最初に選んだのもやはり北海道。どこまでも広がる緑の海、地平線まで伸びる一直線の道、雄大な緑の大陸が大好きだった。都合4回北海道へ行った。

しかし沖縄方面は皆無。沖縄というと夏になると出てくるテレビCMのように、若い女の子が群れ集い、それを目当てのアホな男どもが集まる「ナンパ」な場所だと思い込んでいて、まったく選択肢にはなかった。しかし4回目の北海道で、それまで見る事が出来なかった晴れた摩周湖の碧い湖面を見ることが出来たときに、私の中での北海道は一息ついたのである。北の端も行ったし、利尻・礼文にも渡った。もう行きたいところは特別残っていない。でも次の旅行もやはり遠くがいい。本州じゃ満足できん。じゃあ逆はどうだ。九州もそんなに心を動かさない。でも沖縄じゃあなあと思っていた時に、そうだ、どうせ行くのなら沖縄本島ではなく、もっと先へ行こう。

確か日本の端っこは与那国島って行ったな。そこまで行ってみよう。国境まで行くんだと考えたらわくわくしてきた。しかしどうやって行けばいいんだ?こうして私は旅行ガイドと旅行のパンフを読みあさった。パンフは安上がりで済ませるためだ。
3回目までの北海道はすべて単独でチケットを取った完全な手作り旅行だったが、その費用はかなりかさんでいた。その点、ツアーは安い。添乗員付きやバス観光でなければ、行き帰りの飛行機と宿泊ホテルがセットになっているだけで手作り旅行とまったく変わらない。団体行動が苦手な私にとっても何の問題もないと気づいたのは4回目の北海道であり、今回もツアーを利用しようと思っていた。このツアーの宿泊先、ベースキャンプは与那国の近くで最もリーズナブルな料金が設定されている石垣島となる。そして石垣島へ行けば隣は西表島だ。以前、職場の女性から「西表島はよかったよ。マングローブが生い茂りジャングルみたいでとても日本とは思えなかった。」と聞いたことを思い出していた。そんな秘境にも簡単に行けるんだ。これはますます楽しみが増えたと自分の頭はすっかり「八重山モード」に変わってしまったのである。
 八重山とは石垣島以降の8つの島々を指し、先島諸島とも言われる日本のもっとも南の島々である。なにしろ石垣島は沖縄から450kmも離れており、東京まではなんと2126kmもある。東京から札幌までが822kmなのだから北海道までの2.6倍の距離だ。その距離を知りわくわくはさらに増していく。そうしてと...石垣と与那国は127km、なに与那国と台湾は125km!そんなに近いのか。まさに最果てだ。
  この基本ツアー、行く時期によって値段は倍以上違う。特に7月20日から8月下旬までの夏休み期間は最悪だ。よってここは避けないといけない。旅行は職場の都合もあり土日をはさむ3泊4日が限界なので、子供達は2日間学校を休ませればよい。9月以降のケースは、沖縄方面は8月〜9月が台風シーズンなので、せっかく行っても台風で台なしというケースがしばしばありリスクが大きすぎる。なにしろツアーは20日前からキャンセル料が20%かかるのでリスクは出来る限り減らさないといけない。そのためすべての面でベストシーズンは梅雨が明ける6月下旬から夏休み前の7月上旬だ。そして行く時期は6月の下旬と決定した。どこの旅行代理店に問い合わせてもさすがにこの時期はほとんど空いていて選び放題。
 次に値段の比較である。まったく同じホテル、同じ時期なのに企画している旅行会社で値段がまた全然違う。一見安いようで利用しやすい時間帯、土日発着などリーズナブルだとその都度割増になるものもあり、よく検討しないと損をしてしまう。そしてその島のベストホテルがどのパンフでも大きく出ているが、そんなところは目の前がエメラルドグリーンの海であり景色は抜群の反面、港のある島の中心部からは離れていて、夜の町で食事をしたり、買い物をしたりする楽しみに乏しい。
よって港にある大きなホテルがベスト。パック料金が安い上に、夜の食事と買い物、さらに朝は他の離島へ行く船に乗るのにホテルから歩いていくだけという便利さがたまらなく、メリットの方が大きい。ホテルの前のビーチでずっと遊ぶならともかく、大半の人は毎日、他島へ渡って一日を過ごすのだから、迷わず港のホテルにすべきだ。私はホテル・ミヤヒラという石垣港にあるホテルを選んだ。これでホテルも決まった。
あとは肝心な天気。どこでも空いている状況に安心して、キャンセル料がかかる期間になっても大丈夫だろうとグズグズしていたら、最も安い東急観光の「あ!熱帯アイランド石垣島」というプランが満席になってしまっていた!まずい!次に安価で空いているプランを探して、なんとか「サンシャイン沖縄」というプランにすべり込むことが出来た。日程は1999年6月26日(土)〜29日(火)の3泊4日。朝食とレンタカー込みである。
  空港までのアクセスだが、以前の北海道では羽田までJR、モノレールで行ったところ帰りの時間が遅くなったため眠くなった子供を抱え疲労こんぱいした苦い経験があった。ツアー利用者だと車で空港まで行って3泊4日泊めても割引があり、以降、羽田空港へは車で行くことにした。
  さて、あとはオプショナルのツアーだ。2日目はJTBより安栄観光主催の西表島「マリュウドの滝&海水浴プラン」を申し込む。大人10000円、子供6500円の4人で32000円。3日目は最初の目的、与那国島の日帰りレンタカープランでこちらは4人で56800円である。ただし、この日帰りプランは1日2往復、プロペラ機のYS11による石垣=与那国間のフライトがあった99年6月30日までのもので、7月からの与那国航路はジェット機が飛ぶかわり基本的に1日1便になり、日帰りが困難になるため、プラン自体が無くなってしまう。期限ギリギリのこのプランもJTBだった。
  なおこれから写真と共に日ごとに紹介していくが、家族旅行なので家族が写っている事はご容赦いただきたい。こういうプライベートな写真を公開するのは個人的には好きではないのだが、他に選択肢がないのである。
  我が家は私も含めそれぞれ病気がちなので、こうやって旅行に行けるのはとてもラッキーな事だ。1年間、こうやって無事でいられた自らのご褒美でもある。行く喜びよりも行ける喜びの方が大きいし、また行けた喜びもあるのがちょっと他の方と違うかもしれない。でも1年1回、目標を決めておくのは私としてはいい励みになる。では第1回八重山ツアーから振り返ってみよう。

1999年6月26日(土)

  いよいよ初の沖縄方面の旅行だ。こちらは梅雨の真っ只中だが、石垣島は晴れとの予報。北海道もそうだが、東京が梅雨どきに出掛け、到着するとまぶしい太陽が迎えてくれるのは旅行の醍醐味のひとつ。まだ子供が小5と小3なので、朝の早いフライトはきついと考え、15:05分発のゆったり便を使う。どこのツアーも集合は出発便の1時間前、よって14:05分だ。車だと家から1時間ほどで着くのだが、早めに出ようと12:30分頃、出発した。案の上、環七は空いていて早くに着いてしまい、時間をたっぷり持て余してしまう。でも旅行は余裕がある方がいい。
  まずは那覇空港までフライトが2時間半。北海道よりも1時間長く、その距離を感じさせる。那覇でANA87便を降りると、想像を越えた熱気が迎えてくれた。暑い。さすが沖縄。
乗り継ぎには1時間45分もあり、小ぶりのANK439便に19:20分乗り込み、55分のフライトで石垣空港へ到着した。石垣空港は予想どおりの小さな空港で、一歩外へ出ると夜の8時だというのにむっとする暑さが肌にまとわりつく。荷物を受け取り建物から出るとレンタカー会社の人が色とりどりのプレートを持って待っている。手続きを終え、レンタカーに乗れば約10分で宿泊するホテルへ到着した。4人1部屋というのはやはり狭い。ベッドが4つ、隙間なく並べられている感じだが、何しろ羽田=石垣の普通片道運賃だけで51500円。そこに3泊宿泊が付いてレンタカーまで付いて6万円ちょっとなのだから文句は言えないね。

1999年6月27日(日)

  朝の食事はバイキング、好き嫌いが多い子供達には好きなものだけ選べるバイキングはベストだ。ミヤヒラは港の前と行っていいほど港に近く、5分ほどで港にずらりと並ぶ観光会社の受付へ到着する。今日、利用するのは安栄観光だ。八重山への船便は頻繁に出ていて、例えば今日行く西表島は2つの港、大原港と船浦港に1日合わせて25便も出ている。その大半が安栄観光と八重山観光の2社で分け合っているのだ。乗船券は別に事前に購入しておかなくても当日の10分前までに購入すれば十分。どうも遠い東京にいると、予約なしは不安だが、当日で十分だ。
  西表島行きは離島観光の中でも最も人気があるので船も大型だ。石垣港のエメラルドグリーンの海を切り裂くように、船はフルスロットルで進んでいく。船尾は外にイスがあるのだが、エンジン音が大きくて話は出来ない。船はどんどん加速して、時に波の上をジャンプするように滑空する。速い。こんなに船が速いものなのかと驚くばかりの高速船。同時に出発した他の観光船と競うように進んでいく。
海は徐々に色を変え、緑の内海から青い外洋へ出ると波は急に高くなる。エメラルドグリーンの海はビーチの回りだけではないのだ。サンゴ礁は島と島をベルトのように包んでいて、険しい外洋から島々を守ってくれている。

 40分で船は西表島へ到着、途中で幾つも見える平らな他島とは違って、この島には山があり、どっしりとした重量感がある。西表島は石垣島より広い面積を持ち、沖縄本島に継ぐ大きさだというのに人口はわずか2000人、石垣島の22分の1しか住んでいない。それもそのはず、この島は90%が亜熱帯のジャングルで、道路も島の3/4しか通っていないのだ。この島にたった100匹しかいないという貴重なイリオモテヤマネコが太古の昔から生き残ってきたのは島を開発できなかったことが幸いしている。
  港で待っていたワゴン車に乗り込み、目指すマリユドゥの滝への出発点、浦内川の桟橋へ向かうが、道路はとても整備されていて快適だった。運転していたこの島の住人はイリオモテヤマネコを見たことがないと言う。観光客が出会うチャンスなど皆無に近いだろう。桟橋からはボートのような船でマングローブの川を上っていく。水面からタコの足のように飛び出た気根はいかにも亜熱帯を感じさせる。満々とした水を湛えた西表の大河はこの浦内川ともうひとつ仲間川があり、そちらも同じく観光船が頻繁に行き来している。
  船は軍艦岩という船着き場に到着し、我々はワゴン車でもらった弁当とお茶を手に徒歩40分という道程を歩き始めた。うっそうした木々の中のトンネルのように道があり、極彩色のトカゲが案内人のように目の前を通り過ぎて行く。回りの植生が違う。今まで見てきた日本の温帯の森と明らかに違うのだ。大きな木は空を覆い、太陽光は少ししか通らない。徒歩とはいうが、運動嫌いの私にはけっこうきつい道を歩いてようやくマリユドゥの滝へ到着した。

今は立ち入り禁止のマリウドゥの滝

落差はないが水量はけっこう多い。遊歩道は滝を見下ろす位置に出るので、滝を前にして写真を撮りたいと思い、苔ですべる足場をつたって下へ降りた。ほとんどの観光客は下まで降りてこない。
ここで時間を費やしたため、その奥のスロープのようなカンビレーの滝は到着したと同時に引き返すしかなかった。再び船で桟橋まで戻り、またワゴン車に。
海水浴コースを選んだ我々は星砂の浜で降ろされ、「何時の船で帰ります?」と尋ねられる。同乗の観光客は別のコースを選んでいたのでこの星砂の浜は短時間で出発し、どこかへ行くらしい。こんな離島ではコースといっても特別なバスがあるのではなく、ひとつのワゴン車が効率よく、兼用で各コースをこなすのである。そのため帰りの船もこちらの希望でいいらしい。なにしろ船が満員で乗れないということはないようなのだ。
  帰りの時間を告げ、その時間まで星砂の浜でシュノーケリングを楽しむことにした。砂浜はサンゴのかけらで出来ていて、海には生きたサンゴがあり、ビーチサンダルがないと確実に足を切る。初めての亜熱帯の海だ。一歩足を水に着けるとその暖かさに驚かされる。ぬるま湯のお風呂のようだ。波はまったくない。水中メガネに飛び込んできたのは青く愛らしいルリスズメや黄色のチョウチョウウオ、ちょっと下には大きなアオブダイ、まさに水族館で見ていたカラフルな別世界が、目の前に広がっている。海水の暖かさはまるで羊水のようで、いつまでも浸っていたい心地よさに満ちていた。
浜にいるのは多くて20人程度。この時期の八重山の海はいつも人が少なくてまるでプライベート・ビーチだ。伊豆や湘南の海と違って不要な音楽も流れてなく、あるのは美しい海と空、そして沸き立つ雲だけ。これが欲しかったのだ。こんな日本の果てにくるのは、自分の回りでは得られなかった新しい体験をしたくて来た人だけだ。いつしか時間はすばやく通り過ぎ、迎えのワゴン車が来る時間が近づいていた。

1999年6月28日(月)

  今回の旅行の出発点でもあった与那国行きの日だ。与那国行きの飛行機は10:50分に出る。乗るのはプロペラのYS11。かつて私は大阪=松本間でこの飛行機に乗ったが、離陸直前でのプロペラの高回転音がたまらなく好きだった。もうYS11は引退で、日本で最後まで残ったひとつがこの石垣=与那国ラインだった。それもこの30日に廃止され、以降はジェット機に変わってしまう。メモリアルのようなフライトだ。
私は興奮気味に「プロペラのエンジン音が分かる瞬間を聞けよ」と子供に話かけるが、あまり関心がないようだ。たった35分のフライトで与那国空港へ到着した。与那国空港は石垣空港よりもさらに小さく、売店も飛行機の到着の時に合わせて空いているだけ。空港でどこへ行けばいいのか分からずうろうろしているとようやく出会った係の人に食事が用意されているのですぐに食堂に行って下さいと告げられる。食堂の隅には4人分のお膳が置かれ、刺し身の回りにはハエが飛び回っていた。きっとこのハエ、たかっていたんだろうなと思いながら、こんなことを気にしては南国暮らしなどできんと、残さず食べた。
  食事の後、レンタカーを借りる与那国交通へ向かう。実は旅行の日程を決めかねている時、この与那国行きのプランだけが満席の日がいくつかあり、気になっていたので、JTBのパンフレットに書いてあったこの与那国交通へレンタカーの空き状況などを何度か尋ねていた。だいたいこの手の会社はまず女性の事務員が電話に出るものだが、電話に出るのは営業職とは思えない年配の男性の声ばかりで、答えはいつも「そんなに車がないから早くに申し込んで」というだけだった。
その与那国交通はプレハブの平屋で、中には居るのはおじいさん二人。車はプレハブの回りの空き地に何台か止まっているのみ。そうか、このおじいさん達に一生懸命問い合わせていたのかと、思わずニヤニヤしてしまう。ここでもらった島の地図は手書きで書いたと思われるなんとも微笑ましいもの。今でも大事にとってある。その地図には「渡難島(どなんちま)」と書かれている。そう、この与那国島は八重山の中でひとつポツンと離れていて、外洋、流れの速い黒潮を越えていかないと渡れず、「どなんちま」と呼ばれていたのだ。
  まずは真っ先に日本の最西端の碑がある西崎(イリザキ)へ向かう。対向車がまったくなく、バイクに1台出会っただけ。西崎の展望台はきれいに整備されているが、誰もいない。早速記念撮影をし、台湾の見える方向に目をこらす。
実は台湾が見えると言っても年に数回だけなのだが、その時は堂々たる台湾の3000m級の山並みが見られるという。水平線にうっすらと島影が見える気がするのだが、やはりこれは見えないというべきなのだろう。しばらく立ち尽くし、見えない台湾を追っていた。
与那国は戦後のしばらくは台湾との密貿易で栄え、人口は2万を越えていたと言う。しかししばらくして米軍の統治下に入り、密貿易が出来なくなると人は減り、現在は1800人が暮らすのみになった。結局、我々が去るまでの20分程度の間に観光客は誰もこないままだった。西崎から久部良に下るが、港には「国際カジキ釣り大会」のポスターがたくさん貼ってある。現在の与那国はカジキ釣りのメッカなのだ。
  港を離れ、次はまっぷるの旅行ガイドで見たナンタ浜へ向かう。道路にはどこにもナンタ浜と書かれていなかったが、このあたりかもと車を止め、道路の横の壁から海を見下ろすと、ガイドブックの写真のとおりの見事な弧を描いた浜が広がっていた。
見つけた!みんなを車から降ろして浜へ降りる。自然の造形とは思えないほどのきれいな瑠璃色の弧が、真っ白な砂浜に縁取られている。潮流が速いので遊泳禁止とあるが、たった一人、ゆっくりと小さな湾を縦断しながら泳いでいる人がいた。他には誰もいない。
サンゴの浜には時々緑のビンのかけらがある。こんな最果ての地でもゴミを捨てる奴がいるのかとその時は憤慨したが、実はこのビンのカケラは台湾から流れ着いたものであり、その断面は波に洗われ丸くなっていた。ここ、与那国の人は中学を出ると台湾へ渡っていたと言う。沖縄よりも台湾の方がはるかに近いのだ。その近くて遠い隣人から、こんなものが届いてくる。白い浜は強烈な太陽の照り返しで目を細めないとまぶしいばかり、その向こうに広がるあまりに美しい海はゆらめいて、時間はどんどん速度を遅めていった。この浜で海を眺めていると時間はゆったりと流れてしまう。これが南国の時間なのだろう。
  続いてサンアイ・イソバという与那国を統治していたという女傑が居住していたという高台、ティンダハナタへ向かおうとするが、道が分からなくなってしまった。誰か道を尋ねる人がいないかと探しながら走っていると、ようやく一人、若い男性を見かけた。車から降り、「すみません」と声をかけるとそそくさと家の中へ入っていってしまった。その後若い女性が出て来たので同じく道を尋ねると、「ちょっと待ってて」と家の中へ地図を探しに戻っていった。
その女性が戻って来るまでの1分ほどの間に聞こえてきたのは、電話で話している老婆の声である。ショックを受けた。まったく分からない。ヤマトの言語の知識ではまったく聞きとれない。完全な外国語だ。沖縄の言葉はヤマトの言葉と奈良時代にそのルーツを持ち、明らかな日本語方言なのだが、その差は英語とドイツ語以上というから分かるはずがない。さらに宮古の言葉、八重山の言葉、与那国の言葉があり、それぞれの差は津軽弁と薩摩弁以上に違うと言う。特に与那国の言葉は、他の島の人はほとんど分からないとも。そんな事前の知識があっても、現実にまったく分からない言葉を前にすると冷静さを失ってしまう。

日本という島国で、まったく別の言葉をしゃべる人達がいるというショック。八重山はかつてそれぞれが別の国だったのであり、琉球でもなかった。さらにこの与那国には文字がなく、明治になるまで取引にはカイダー字という象形文字を使っていた。私はこの後、八重山の文化と歴史に強い関心を持ち、「与那国ことば辞典」を買うなど、少しずつ八重山を知ろうとしている。そんなきっかけになったのが、この老婆の会話だった。
  ティンダバナの後は、島の反対側の東崎(アガリザキ)へと急ぐ。ここは天然記念物のヨナグニウマの放牧地で、小さい体のヨナグニウマがそこここに歩いている。馬糞が点在する草原をゆったりと上がると東崎の展望台。西表島が見えるというが、この日は見る事が出来なかった。
  そしてその隣のサンニヌ台に。ここは海底に海底遺跡と噂される巨大な構造物があり、ダイビング・スポットとしても有名だ。サンニヌ台は太平洋の荒波で岩が削り取られ全面が階段状になっており、壮大なスケールの大自然の牙の跡を見る事が出来る。下の方まで降りられるといってもあまりの迫力に足がすくみ、途中で断念せざるを得なかった。海から飛び出た奇岩の立神岩、軍艦岩が有名だが、特に人間の頭のように海中からぬっと頭を出す巨大な立神岩は、モアイのような人工の構造物で、海底遺跡と一体のものではないかとある琉球大学の教授は指摘している。

今は軍艦岩が見える道は閉鎖されたまま

  そしてこの後に空港へ戻った。与那国で有名なクブラバリ、トゥングダへは行っていない。
かつて薩摩藩に実効支配された琉球王府がこの八重山を占領し、人頭税という人口に応じた苛酷な税を課した。与那国は特に困窮し、定期的な人減らしを行っていたという。男は夜に突然鳴らされるドラの音を合図にトゥングダという田に召集され、そこにたどり着けなかった不具者や、その田から押し出された虚弱な者は集まった者によって惨殺されたという。また妊婦はクブラバリという断崖を飛び越えなくてはならず、落ちれば母子共に死に、飛び越えられてもみな流産したという。そんな悲しい歴史がこの島には300年も続いたのである。だから見に行きたくなかった。不幸な歴史を持つ場所を観光コースに入れるのはちょっと辛い。そして与那国空港16:35発の飛行機に乗って石垣島へ戻った。
  わずか5時間ちょっとの滞在だったが、およそ人に会うことのない島だった。1800人もの人がいったいどこにいたのか不思議な気がする。この寂寞とした空気を子供達はより強く感じていたようで、与那国島の印象は異口同音に「寂しい島」という。そして「もう行きたくない」と続ける。そうだろう。子供にとってここは寂しすぎる。沖縄独特のサンゴ礁の海も少なく、太平洋の荒波に立つ孤島、与那国。しかし私はまたここを訪れたい。歴史を知り、言葉を知り、島の風をもっと感じてみたい。そしていつか台湾をこの目で見るのだ。

1999年6月29日(火)

 午前中は上地観光主催の体験フィッシングを申し込んだ。一人6000円で計24000円。船には我々しか乗らず、貸し切り状態になった。船はポイントまで進み、船長は丁寧に海釣りを教えてくれる。初めての海釣りだ。まず子供達からヒット、グルクン、キツネウオが次々連れていく。カワハギや食べられないベラもかかる。そこそこの釣果を手に3時間で体験フィッシングは終わり、釣った魚は料金を払って冷凍で東京へ送ってもらうことにした。

その後は帰りの飛行機まで石垣島を見て回る。まずビーチホテル・サンシャインの前の海にしばらく見とれ、沖縄で唯一の国指定の景勝地、川平湾へ行く。グラデーションを変える緑の海に小島が点在し、確かに美しい。絵に描いたようだ。ちょっと出来過ぎの気もするが。
そしてビーチの美しさでは石垣一と言われる底地ビーチへ行くが、引き潮でほとんど海水がなく、白い砂が広がるばかりで早々に退散した。ビーチは潮の満ち引きを頭に入れておかないと、最もきれいな時間帯を逃してしまうことに気づかされた。
そしてホテルの人に「魚がいるビーチ」をおしえて欲しいと尋ねて一押しだった米原ビーチへ向かう。ここはゴツゴツとしたサンゴがあり魚が多く、シュノーケルには持ってこいだ。きれいな真っ白な砂浜だと魚はほとんどいない。パイナップルのような実がなるアダンの木の木陰はみな他の人にとられていて、灼けるような日差しの中、子供達が海で遊ぶさまをぼうっと眺めていた。もう旅行は終わりだ。これから数時間後には東京に戻っているのだ。ああ、こんな楽園のような所に住めればなあ。そんな事を考えながら、心の中でもう一度、ここに来ようとつぶやいていた。
18時発ANK440便で石垣を後にして、19時45分那覇発のANA92便に乗り換え、22時5分に東京へ戻った。東京は雨がちらついていた。