2026年4月7日火曜日

Thank you, baby. ― Bruce Johnston


 2026年3月、Bruce JohnstonはThe Beach Boysのツアー活動に区切りをつけると表明した。Rolling Stone誌への声明に感傷はなかった。「私の長いキャリアの第三章を始める時が来た。曲は永遠に書き続けられる、次に何が来るか聴いてほしい」。ソングライティングへの本格回帰を高らかに宣言した上で、もう一つの新たな活動として講演も視野に入れていることを明かした。かつてCary Grantが俳優業を退いた後、企業や大学で自らの人生経験を語る講演に活路を見出したことをヒントに、John Stamosの助けを借りながらその構想を温めているという。「これはさよならではない、またすぐ会おう」その言葉通り、7月のHollywood Bowlへの特別出演も予告されている。
 思いがけず始まった61年の旅は、今度は自らの手で次の扉を開けることで締めくくられた。静かで、どこか穏やかな区切り、まるで一曲を書き終えた作曲家が最後の和音を確かめるような、落ち着いた身の引き方であった。

 彼の作品の中に、「Thank You, Baby」という一曲がある。初めての恋が実らないと知りながら、それでも感謝を口にする、いつかは終わりが来ても、相手への感謝だけが残る。損得を超えた場所にある感情を、Johnstonは20代の初めに書いていた。その言葉が、半世紀以上のキャリアを経た引退の局面では、音楽と聴衆への静かな告白として別の響きを帯びる。
 Bruce Johnstonという人物の歩みもまた、この歌にどこか似ている。華やかな中心に立つというより、誰かの隣で音楽を支え、関係を築き、そして必要な時には静かに身を引く。その姿勢は、1960年代Los Angelesの制作現場において、数えきれないほどの仕事を通じて形づくられていった。

だからこそ、その音楽が形を取り始めた最初の地点に立ち返ってみたい。

 これから語られつつある「第三章」を理解するためには、彼がまだ無名の青年としてスタジオの扉を叩き続けていた時代――すなわち第一章――を見つめ直す必要がある。そこには成功の物語というより、関係を築き、技術を磨き、音楽の中で自分の位置を見出していった、一人の青年の静かな成長が刻まれている。
 話は1942年6月27日、Illinois州Peoriaまで遡る。「Florence Crittenton Home」というシングルマザー支援施設で、一人の赤ん坊がWilliam Baldwinという名で生を受けた。実母はGeorgia州Madison出身のティーンエイジャーだった。出自については長らく議論の対象となってきたが、後に本人がインタビューで「私はPeoriaで生まれ、養子に出された」と明言している。
 生後わずか3ヶ月。シカゴのWilliam & Irene Johnston夫妻に引き取られたその子は、「Bruce Arthur Johnston」という新しい名前を与えられた。ここから、一つの伝説が静かに動き出す。
 養父Williamは只者ではなかった。全米最大の薬局チェーン「Walgreen」のエグゼクティブ・バイス・プレジデントを務めた後、Justin Dartらと共に西海岸へ移りRexallを設立、社長の座に上り詰めた人物だ。1954年、Rexall本社の移転に伴い一家はLos Angelesの高級住宅街Bel Air(15461 Mildred Drive)の邸宅へ移住する。この特権的な環境こそが、Bruceに最高峰の教育と、ハリウッドという魔窟への黄金の切符を同時に手渡すことになった。Bel Airの邸宅と最高峰の教育環境が約束されたBruceに、次の転機が訪れるのに時間はかからなかった。
 Interlochen Arts Campとは、1928年に音楽教育者Joseph E. MaddyがMichigan州北部の湖畔に創設した、アメリカ最初の芸術系サマーキャンプである。当初はNational High School Orchestra Campの名で出発し、全米から選抜された若い音楽家たちが夏の数週間を共に過ごしながら本格的な演奏活動を行う場として設計された。その後、音楽に加えて演劇、視覚芸術、舞踊、映像へとプログラムが拡充され、1991年にInterlochen Arts Campへと改名。現在に至るまで、グラミー賞受賞者162名を含む世界屈指の芸術教育機関として名声を保ち続けている。Norah Jones、Josh Groban、そのBruceらが同じ地を踏んでいる。アメリカの主要オーケストラの奏者の約10パーセントがInterlochenの出身者だというデータが、このキャンプの水準の高さを端的に示している。1955年、13歳のBruceは上記プログラムでひと夏を過ごす。本格的なオーケストラの演奏を間近で聴き、同世代の音楽的才能に囲まれたこの体験は、後にTerry Melcherをして「10分あれば『Rhapsody in Blue』を弾きこなすが、上手すぎて商業的でない」と評させるほどの技術の源泉となった。

 ところが1956年9月、University High School(Uni High)に入学したBruceに異変が起きる。クラシック専門局KAFCを聴く傍ら、出力わずか250ワットの黒人専用ラジオ局KGFJに心を奪われたのだ。Hunter HancockやHuggy Boyといった伝説的DJが放つ未知のR&Bは、退屈な白人ポップスとはまるで別の宇宙の音楽だった。Bruceはこの「Rock'n Rollする人々」の音楽に急速に傾倒していく。
 そして運命の出会いが通学バスの中で起きる。近所に住む1歳年上のJan Berry、(後のJan & Dean)との邂逅である。Janという人間を理解するには、まずその頭脳の規格外ぶりを知る必要がある。IQは150以上、記録によっては180とも伝えられる天才で、後にJan & Deanでヒットを連発しながらUCLAで医学部進学課程を修了し、1963年には実際に医学部に入学している。
 Janという人間は、二つの顔を持っていた。
 学校の印刷室を使って公式レターヘッドを偽造し、架空のラジオ局「KJAN」を堂々と名乗る。各レコード会社に「プロモ盤を送れ」と要請する手紙を送りつけ、毎日200枚もの新譜を無料で手に入れ、余った分は友人に配った。しかしそのJanが、ガレージのオープン・リール録音機の前に座ると、まるで別人のように音と格闘し始めるのだった。14歳のBruceはこの落差に、何か決定的なものを嗅ぎ取った。
 二人が結んだ取り決めは傑作だった。「JanがBruceの宿題を代行する代わりに、放課後はBruce宅の豪華なグランドピアノをJanが弾き放題」という物々交換の密約である。Bel Airの邸宅の一室で繰り広げられたこの密室セッションこそ、後に世界を席巻するカリフォルニア・サーフ・サウンドの、最初にして最も目立たない発火点となった。
 高校生の傍ら、BruceはSandy Nelson、Kim Fowleyらとバンド「The Sleepwalkers」を結成する。なんとライバル校のFairfax High SchoolからPhil Spectorをギタリストとして借り出すほどの勢いを見せた。Uni HighがBel AirやWestwoodといった富裕白人層の子弟が通う学校であるのに対し、Fairfax Highは戦後にLA東部から移住してきたユダヤ系中産階級の街に根ざした学校だった。地理的には隣り合いながら、その社会的背景はまるで異なるそのライバル校から、後に『Wall of Sound』で時代を塗り替えるPhil Spectorまで引き抜いた、この時点でのBruceの立ち位置がいかに特別だったかがわかる。
 1958年の夏、BruceはLA周辺のダンスホールやショーを転々としながら有名無名問わず多くの歌手のバックを務めた。時にはEverly Brothersのバックでピアノを弾き、テレビ番組ではEddie Cochranが「Summertime Blues」を歌う傍らでやはりピアノを担当した。ギターの曲をピアノで弾くという奇妙な体験だったと本人は振り返っている。中でも最も頻繁にバックを務めたのが、デビュー間もないRitchie Valensだった。「Come On Let's Go」が全米42位のスマッシュヒットを記録し、まさにスターへの階段を駆け上がろうとしていた時期のRichieと、BruceはEl Monte Legion Stadiumなど各地のステージを共にした。1959年2月、Ritchieは飛行機事故で17歳の生涯を閉じる。あの夏の共演が、Bruceにとって彼の生きた姿を知る最後の記憶となった。
 Janとの密室セッションが少年の野心に火を点けたとすれば、その炎を一気に燃え上がらせたのは、1958年2月に起きたある惨劇だった。


1958年2月1日。この日付を覚えておいてほしい。

 University Highの生徒だったJan BerryとDean Torrenceを中心とした人種混合ボーカルグループ「The Barons」に、伴奏として参加していたのがBruce Johnston(ピアノ)、Sandy Nelson(ドラム)、Dave Shostac(サックス)の3人だった。 3人の訪問先はJohn Dolphinの事務所だった。Dolphinは黒人音楽界の大物プロモーターだが、その傘下レーベルRecorded in Hollywoodからは、5年前の1953年にMurry Wilson――後にThe Beach BoysのBrianの父として知られる人物――の楽曲がリリースされていた。BruceとWilson家が音楽史の上で交わるはるか前に、この場所がすでに両者を結ぶ糸を静かに手繰り寄せていたことになる。
自作のデモテープを手に、その事務所を訪れた15歳のBruceは、とんでもない惨劇の唯一の目撃者となる。印税トラブルを抱えた26歳の作家Percy Ivyが、Bruceの目の前でDolphinを5発の銃弾で射殺したのだ。Dolphinは泡を吹き、倒れ込んだ拍子にヒーターのスイッチが入るという地獄絵図の中で絶命した。
 驚くべきはここからだ。親友のSandy Nelsonが警察を呼ぶために走り出し、現場に静寂が訪れたその空白の数分間、Bruceはなんと銃を持ったままのIveyに向かってこう言い放ったという。

「刑務所から出てきたら、ぼくと一緒に曲を作ってレコーディングして一発当てよう!」

 15歳、死体が転がる部屋の中で、次のビジネスを語る少年。後に「ハリウッドの好青年」と呼ばれる男の中に、目的のためには手段を選ばない生粋のプロデューサー体質が完全に覚醒した瞬間だった。この異常なまでの胆力と商魂こそが、彼を単なるミュージシャンの枠に収まらない存在へと押し上げていく最初の証明だった。
 BruceとWilson家が音楽史の上で交わるはるか前に、この場所がすでに両者を結ぶ糸を静かに手繰り寄せていたことになる。そしてもう一つ、驚くべき事実がある。引き金を引いたその男、Percy Ivy自身もまた、同じ時代にThe Hollywood Flamesへ楽曲を提供していたソングライターだった。1953年、7-11 Recordsから出た78回転盤のB面「Baby, Pretty Baby」——作曲者欄にはIvyの名が刻まれている。Murryが同じグループに曲を書き、Bruceがその事務所に曲を売り込みに来た。殺された男も、引き金を引いた男も、そして15歳の目撃者も、全員が同じ磁場に引き寄せられていたのだ。ロサンゼルスの音楽史とはそういうものだ。
15歳でその胆力を証明したBruceは、高校生の傍ら音楽の現場へ深く踏み込んでいく。
 1959年、Sandy Nelsonの「Teen Beat」録音セッションでBruceが下した決断は今も語り草だ。録音された音が「ありきたりで、全く個性がない」と判断したBruceは、突如として履いていた靴を脱ぎ捨てると、グランドピアノの弦の中に力任せに突っ込んだのである。この即興の「靴によるミュート」が生み出した、鈍い打楽器のような未体験のサウンドが全米チャート4位の大ヒットを牽引した。靴一足で時代の音を変えた男、それがBruce Johnstonだ。
 さらにArwin、Martといった独立系レーベルでの活動を通じて、Bruceは業界の生々しい裏側を全身で吸収していく。録音日より前に業界誌にレビューが掲載される杜撰な書類工作。AFM(全米音楽家連盟)の規約を潜脱した非公式録音を、事後の書類工作で合法の体裁に整える仕組み。10代にして彼は、音楽が「芸術」であると同時に、書類一枚で権利が書き換えられる「冷酷な商品」であることを骨の髄まで理解した。のちのColumbia時代に巧みに活用される「制度の隙間を突く感覚」は、この時期に磨かれたものだ。
独立系レーベルで業界の生々しい裏側を吸収したBruceは、17歳でさらに大きな舞台へと歩を進める。
 17歳でBob Keene率いる「Del-Fi Records」のスタッフとなったBruceは、才能を全方位で解き放つ。事故死したRitchie Valensの遺作ライブ盤の編纂から、18歳での黒人歌手Ron Holdenの全権プロデューサー就任まで、何でもこなした。
 圧巻はUCLAのSigma Piフラタニティハウスで行われた「パジャマ・パーティー」だ。入会したばかりの18歳の新入生Bruceが数人の仲間を引き連れて演奏しに現れ、パジャマ姿の男女がどんちゃん騒ぎを繰り広げる狂乱の中、Del-FiのボスBob Keaneが録音機材を持ち込んでライブ収録を敢行した。事前にBruceからこのパーティーの「ワイルドさ」についてさんざん聞かされていたKeaneが、その熱気ごと売り物にしようと目論んだのだ。この音源は、Bob Keaneの「流行を安く、素早く、何度でも売り飛ばす」という荒々しいマーケティングによって、「The Surf Stompers」など様々な名義で世界中へ輸出された。挙句の果てに、別のバンド『The Centurions』のアルバムが、Bruceの『Surfer's Pajama Party』とほぼ同一のジャケット・同一のカタログ番号で発売されるという混乱まで生じた。プレス工場のミスとも言われるが、権利が軽視される日常を象徴する出来事だった。権利が軽視される日常の中で、Bruceは「世間の流行をいかにパッケージ化して利益に変えるか」という実戦的なマーケティング感覚を完全に体得した。自分の権利が踏みにじられる経験を積み重ねたからこそ、後にColumbia時代に報酬の抜け道を周到に設計できたとも言える。
 Del-Fiでの経験がBruceに業界の骨格を教えたとすれば、次に彼を待っていたのはその骨格に肉を盛る相棒との出会いだった。


 さて、物語に一人の重要な人物が登場する。Terry Melcherだ。

 Doris Dayの息子というだけで語られがちな人物だが、それは大きな誤りだ。1962年4月、20歳のTerryはColumbia Recordsの「マネジメント・トレイニー(経営研修生)」として週給55ドルのオフィスボーイからキャリアをスタートさせた。仕事の内容は文字通りニューヨークの街中を駆け回る雑用係だった。だが彼は雑用に甘んじず、上司を説得してDon KirshnerのAldon Musicに入り浸る許可を得た。そこでCarole King、Barry Mann、Gerry Goffinたちの職人芸を毎日間近で見学し、ヒット曲の骨格を体に刻み込んでいった。
 2ヶ月の研修後、1962年6月に西海岸のA&R担当へ異動。そして1963年1月、弱冠20歳でColumbia RecordsのアソシエイトA&Rプロデューサーに昇進する。当時のColumbia Recordsは、Andy Williamsに代表されるジャズ、クラシック、大人向けポップスの老舗として名声を持つ一方、急拡大する若者向けロックンロール市場への対応では完全に出遅れていた。西海岸の重役Irving TownshendがTerryに期待したのは、ティーン向けシングル市場の開拓という明確な使命だった。
 BruceのUni HighがBel AirやWestwoodの富裕住宅街を学区とするのに対し、TerryのBeverly Hills Highは超高級住宅地Beverly Hillsに位置する学校だ。同じ西LA地区の富裕校同士でありながら、学校間のプライドはむしろそれゆえに激しかった。
 一方Bruceとは、「あっちの学校(Beverly Hills High)の連中は全員ろくでなしだ」と反目し合っていた過去がある。それがスタジオに入った途端、二人は最強の制作ユニットへと変貌した。メジャーの潤沢な予算を「音楽大学」のように使い、ラジオのヒット曲を完コピすることで最新の録音技術とヒットの法則を独習していった。覆面グループ「The Hot Doggers」、自身のソロアルバム『Surfin' 'Round the World』、そして大ヒット連発の「The Rip Chords」――成果は次々と世に放たれた。BruceはTerryの母Doris Dayに楽曲「Falling」を提供し、絶大な信頼も獲得した。
 Terry がColumbiaのスタッフとして先に籍を置き、The Rip Chordsの「Here I Stand」をプロデュースしたのは1962年末のことだった。シングルはBillboard 51位に滑り込み、手応えをつかんだ。後年Bruceはこう振り返っている。「Terryがうまくやってくれて、私を雇う許可を取り付けてくれた」。こうして1963年、BruceはColumbia Records Hollywood のスタッフ・プロデューサーとして正式に着任する。自ら売り込んだのでも、重役の椅子を引き継いだのでもない。友人の信頼と、スタジオでの実績が、その扉を開けたのだった。
 Terryと継父Marty Melcherの間には、長年の緊張があった。Terryが自分の力でヒットを連発し始めると、Martyはそれを嫉妬した。ある日、二人は口論になった。Martyが吐き捨てた。「お前の曲を持って出て行け」。会計士が呼ばれ、Martyの会社Daywin MusicがTerryに支払うべき金額として345,000ドルの小切手が差し出された。Terryはそれを受け取ると、できる限り細かく引き裂いた。そして破片をMartyの顔めがけて投げつけ、こう言った。「これが、あんたと過ごした年月すべてへの礼だ」。後にTerryはこう振り返っている。「あれが転換点だった。345,000ドルの小切手を顔に投げつけられる人間なら、一人前だと思ったのだろう。あれ以来、彼は私を子ども扱いしなくなった」。
 1963年10月15日の夜、Columbia Records西海岸スタジオで歴史的なセッションが出来上がった。プロデューサーはTerryとBruce。表向きはThe Rip Chordsの公式メンバー――Phil Stewart、Arnie Marcus、Rich Rotkin、Ernie Bringas――名義のセッションだったが、スタジオで実際に歌ったのはTerryとBruceの二人だけだった。リードをTerryが、象徴的なファルセットをBruceが担い、ハーモニーは多重録音で積み重ねた。こうして全米チャート4位の大ヒット「Hey Little Cobra」が誕生した。
 後にErnie Bringasはこう記している。「The Rip ChordsにおけるTerry Melcherの存在は、The Beach BoysにおけるBrian Wilsonの存在に等しい。ただしBrianと違い、Terryは自分がメンバーでないグループのために歌っていた」。1964年1月23日、初期メンバーのPhilとErnieは補足契約への署名を強いられた。「The Rip Chordsという名前の全権利を放棄する」という内容だった。実質的な主導権は完全にTerryとBruceの手に渡った。
 バックを務めたのはSteve Douglas(サックス)、Hal Blaine(ドラム)、Frankie Capp(パーカッション)、Ray Pohlman(ベース)、Leon Russell(ピアノ)、Glen Campbell、Bill Pitman、Tommy Tedescoら、後にWrecking Crewと呼ばれる伝説的な集団だ。この時点で彼らは既に一堂に集っていた。

ここで、思わず声に出して笑ってしまうエピソードを紹介しなければならない。

 後年のファンとの会話の中で、Bruceはさらりとこう言い放った。「あの曲の一部は、ゴミ箱に頭を突っ込んだ状態で録音したんだ」。
 笑い話ではない。これは大真面目な、当時最先端の音響工学だった。
考えてみてほしい。1963年のスタジオにデジタル・リバーブなど存在しない。音に残響を加えたければ、物理的な空間を使うしかなかった。廊下の端で歌う、タイル張りのトイレを借りる、あるいはコンクリートの打ちっぱなしの部屋に向かってマイクを向ける......それが当時の「エフェクト」の全てだった。Sam Phillipsがスラップバック・エコーをテープの遅延で生み出し、Phil Spectorが巨大なエコーチェンバーを使って音を神話的なスケールに膨らませていた、まさにその時代の話だ。そしてBruceが選んだのは、スタジオの隅に転がっていたゴミ箱だった。頭を突っ込む。歌う。ゴミ箱の筒が独自の共鳴を作り出す。
この工夫が最も際立って聴こえるのが、曲の中盤に炸裂する「Shut 'em down」の一節だ。Bruceがファルセットではなく低く押し出すように歌うこのフレーズに、ゴミ箱の壁が生み出す独特のアンビエンスが乗っている。当時のリスナーには何がどうなっているのか全くわからなかったはずだ。それでも耳は正直で、「何かが違う」と感じさせる音がラジオから流れてきた。全米チャート4位という数字が、その判断の正しさをあとから証明した。
「Teen Beat」のセッションでは靴をグランドピアノの弦に叩き込んでユニークなサウンドを生み出し、「Hey Little Cobra」ではゴミ箱を音響装置に変えた。
録音技術そのものも、当時の二人を苦しめ続けた。「Hey Little Cobra」の多重録音は、現在では考えられないほど過酷な工程を経ている。当時主流だった3トラック・レコーダーには同期録音機能(セルシンク)がなかったため、一度録音したトラックをさらに別の3トラック・テープに移し、その上に新たな演奏を重ねるという「ピンポン録音」(バウンス録音)を繰り返すしかなかった。問題は、このダビングを重ねるたびに音が劣化していくことだ。テープからテープへコピーするたびに、高域が失われ、ノイズが蓄積し、最初に録音した時のあの「パンチ」が少しずつ削れていく。続く「Three Window Coupe」の制作では、この問題がさらに深刻な形で二人を直撃した。「3トラックから別の3トラックへ、何度もダビングを繰り返すうちに、録音のたびに音が一枚ずつ剥がれ落ちるように、あの『パンチ』は完全に死んでしまった」とBruceは振り返る。それでも彼はトラックを丸ごと録り直すまで諦めなかった。ゴミ箱とピンポン録音という原始的な道具立ての中で、Bruceは「どんな音が鳴っているか」という一点に向かって自分を研ぎ澄ませていった。

 スタジオの創意工夫で音を作り上げる一方、BruceはColumbia社内でも抜け目なく動いていた。AFMの契約書にはBruceの名前は演奏ミュージシャンとして記載されていない。それでも実質的なセッション・リーダーとして機能した彼は、巧妙な方法で報酬を得る仕組みを作り上げた。Columbia内部資料(Artist Contract Card)には、一晩のセッションでSteve Douglas(本名Steve Kreisman)に数千ドル単位の「編曲料(arr.)」が計上されている。しかしAFMの契約書には「編曲なし(No Arr.)」と手書きされ、続いてSteve自身のイニシャルと思われる「SDR」が記されている。「編曲者が存在しない」ことへの本人確認なのか、それとも彼が実質的な編曲者であることの証明なのか?この矛盾は今も謎のままだ。実際にはBruceとTerryが決めたアレンジの報酬が、Steveを名義上の受取人として経由し、彼らへ還流していた可能性が高い。BruceとTerryはColumbia社員であったためアーティストが受け取るロイヤリティを手にすることができず、この「制度の抜け道」が事実上の報酬となっていた。
Bruceは後年こう語っている。「Columbiaからの給料は微々たるものだったが、高額な編曲料の請求書を会社に提出した。印税が入らない代わりに数千ドルの編曲料を作り、その金でHawaiiへ飛び女の子たちと遊んでいた。まだドラッグが蔓延する前の話だ」。
Del-Fi時代にその感覚を体に刻み込んだBruceが、今度はColumbia Recordsというメジャーの機構の中でそれを洗練させていた。ある意味で、これは彼のキャリアを通じた一貫したテーマだった。報酬の仕組みが巧妙に設計される一方で、「Hey Little Cobra」の誕生をめぐる作詞クレジットの真相は、今なお霧の中にある。

作者は元Teddy BearsのCarol Connors(本名Annette Kleinbard)と弟M.H. Connorsだが、著作権上は半分しか権利がない、その裏側には少なくとも三人の別の人物が絡み合っている。
Gary Usherの証言から始めよう。Carolが彼の元に歌詞の断片を持って現れたとき、彼女が持っていたのは混乱した数行の歌詞だけだった。Usherはそれを整理し、決定的なサビ「Hey little Cobra, don't you know you're gonna shut 'em down」を書き上げ、彼女にTerry Melcherを紹介した。後にMelcherから「素晴らしい曲を手に入れた」と電話があった際、Garyは自分の関与を明かした。「要するにこれはTerry、Bruce、そして僕の3人で書いたようなものだ」と伝えたというが、クレジットに彼の名前が乗ることはなかった。TerryはBruceに電話した。「勢いがあるうちにRip Chordsのレコードにしないといけない。Columbiaのリリースのうち、ヒットチャート番組でかかったロックンロールはうちらの一曲目の売上が5万枚、二曲目が9万枚。それ以外は皆無だ」。翌日にはスタジオに入り、二人は文字通り午後から夜通しでレコードを仕上げた。
一方、Carol自身の話はさらに劇的だ。恋人のAC Bristolを大破させた彼女は、修理の相談でCarroll Shelbyのオフィスへ乗り込んだ。Shelbyとは1959年のLe Mans24時間レースを制した伝説のレーシングドライバーで、引退後はFordのエンジンを英国製シャシーに積んだ「Cobra」を世に送り出した人物だ。「CobraのフロントをBristolの後部に付けられないか」という突拍子もない依頼に、Shelbyは腹を抱えて笑い、こう言った。「1位になったら、何とかしてやる」。曲はチャート4位まで駆け上がり、ShelbyはCarolに約束通りCobraを1台贈呈した。さらにShelbyのLe Mans遠征にも同行し、当時FordのHigh Performance部門の責任者だったLee Iacoccaとも顔を合わせることになった。一方Terryは録音の条件として出版権の50パーセントを継父Martyの会社Daywin Musicに収め、残る50パーセントはCarolと弟MarshallのVadim Musicが保持した。才能だけでは扉は開かない。ヒットの代償は著作権で払う!それが当時のLA音楽業界の作法だった。
さらに笑えるエピソードがある。Brian WilsonとJan Berryは後日、Carolの元へ激怒した様子で現れ、こう言い放ったという。「この曲は女が書いたものだということは最初からわかった。Cobraをギアをニュートラルにしてゴールラインまで惰性で走るなんて、実際にはできないからな」。Carolは「だから何? 誰が気にするのよ」と一蹴したという。
クレジットの謎を残したまま、BruceとTerryの制作活動は次のターゲットへと向かう。1964年夏のことだ。

 1964年夏、人気下降気味だったスターPat Booneの再起をかけ、BruceとTerryはBrian Wilson作の「Little Honda」をプロデュースすることになった。Patは当時Las Vegasのホテルで公演中だったため、Terryはトラック収録を終えたテープを携えてLas Vegasへ飛んだ。
Terryはこう語る。「Patのショーが終わるのを待ってスイートルームへ向かった。彼が着替えている間、部屋のラジオから「ただいまチャート急上昇中!」と紹介されながら流れてきたのは、ライバルGary UsherがThe Hondells名義で放った、まったく同じ「Little Honda」だった。Patはそれが自分がこれから録音する曲だとも気づかず鼻歌で合わせている。まずいことになったと思った」。
結果はThe Hondellsの圧勝。「5,000ドルの制作費がふっ飛んだ」とTerryは真っ青になった。しかしGary側はこの顛末を後年楽しそうに語り継いでいる。「TerryはLas Vegasの大通りを車で走っているとき、ラジオから僕のThe Hondells版が流れてくるのを耳にして、先を越されたことの衝撃にハンドルを取られそうになり、同時に心臓が止まるかと思ったそうだ。」
だが負けたままでは終わらないのがこの二人だ。Garyが先にヒットを出すと、Terryは傲然と言い放った。「このガキが!俺より先にヒットさせやがって、何でもいいから曲を持ってこい。俺の手にかかれば何でもチャートに叩き込んでやる」。Garyが持ってきた一曲が「Comin' On Too Strong」だった。仲間内で「ガキ」と呼び合う二人が始めた賭けの結末は痛快だった。TerryはWayne Newtonに歌わせたが、実際にWayneが歌ったのは全体の1/4以下。残りのサビ、ハーモニー、バックコーラス、ファルセットの全てをBruceとTerry自身が多重録音で埋め尽くした。Garyは断言する。「あれはWayneの名を借りた実質的な『Bruce & Terry』のレコードだった」。
ところが、曲がヒットチャートを上昇し始めると、Wayneは恐怖に駆られて師匠のBobby DarinとCapitol Recordsへ駆け込み、「せっかくヒットしてるんだけど、このレコードのプロモーションを止めてくれ」と懇願した。スタジオの魔術で構築されたこのサウンドを、ライブで再現することなど自分には不可能だと分かっていたからだ。Terryはさらりと付け加える。「BobbyとWayneは実際にはお互いをまったく嫌い合っていた」。これが当時のL.A.音楽界の日常だった。

 そのL.A.スタジオ世界の黄金時代は、しかし1965年を境に急速に様相を変えていく。
 その変化は、スタジオの外から一本の電話という形でやってきた。
1965年4月7日、The Beach Boysはツアーの途上でNew Orleansに到着していた。
そのとき、Glen Campbellから一本の電話が入る。内容はきわめて実務的だった。これ以上ツアーに同行できないというのである。すでに約束していたThe Righteous Brothersのバックの仕事と日程が重なり、どうしても動けなくなったのだった。
 バンドにとってそれは突然の欠員であり、しかも次の公演は目前に迫っていた。代役を探す時間はほとんど残されていない。こうした状況のなかで、Mike LoveはLos AngelesにいたBruceに電話をかける。だがその用件は、いきなり加入を打診するものではなかった。彼が最初に口にしたのは、むしろ業界仲間に向けるような問いだった。
「誰か代わりに来られる人間を知っているか?」
 Bruceはこの電話を後年、「本当に急な話だった」と振り返っている。彼らは「昨日にでも欲しかった」ほど切迫していたという。彼の頭にまず浮かんだのは、若いミュージシャンのEd Carterだった。しかし彼は学業の都合で動けない。候補者は消えた。代替案もない。
そのとき、Bruceは一歩前に出る。
 「誰も見つからないなら、ぼくが行くよ。」
 それが彼の判断だった。ベースは弾けなくはないが、ピアノなら弾ける。ハーモニーも歌える。何より、今必要なのは完璧な人材ではなく、すぐに舞台に立てる人間だった。
こうして彼は急遽New Orleansへ飛ぶ。そして二日後の4月9日、ステージに立つことになる。準備は整っていなかった。衣装すら間に合わず、彼が身につけていたのはAl Jardineの予備のズボンだったという。サイズは合っていなかったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
 その夜、Bruceはエレキピアノを担当しつつ、Brian Wilsonのファルセット・パートを歌った。一方、Jardineがベースへ回り、編成を維持する。こうしてバンドは、即席の再配置によって公演を成立させたのである。
 しかしステージに出た瞬間、彼を迎えたのは歓声ではなく問いだった。
 客席から叫び声が上がる。

「Brianどこいったー?」

 Bruceはそのときの心境を率直に語っている。石を投げられるかもしれないと思った、という。それほどまでに、当時のBrianはグループの象徴だった。それでも演奏は続き、観客の熱狂はやがて彼を包み込んでいった。最初は圧倒されたが、その反応こそが彼を舞台の上に踏みとどまらせた。
 この人選について、Brian自身は後に「理にかなっていた」と語っている。彼はBruceを以前から知っており、Terry Melcherと共にレコード制作をしていたことも承知していた。ファルセットの声質が似ていること、演奏能力が高いこと、そして何より、追い詰められた状況のなかで即座に対応できる人物だったことが、その判断の根拠だった。
 ただし、この時点でBruce自身はまだ「正式メンバーになった」とは考えていなかった。ツアーを終えてスタジオに呼ばれ、「次のアルバムで歌ってみないか」と言われたときも、彼はなおColumbia Recordsの仕事を続けていたし、Brianがいつか再びツアーに戻る可能性を疑っていなかったのである。
 振り返れば、Bruce Johnstonの加入は制度的な決定というより、一つの出来事の連鎖だった。一本の電話から始まり、欠員が生じ、代わりが見つからず、そして本人が前に出た。その積み重ねが結果として、あの立ち位置を生み出したのである。
 それは計画された加入ではなかった。
 むしろ、現場を止めないための即断が、歴史を形づくった瞬間だったと言えるだろう。
それにしても、この加入はいかにも静かなものだった。Columbia Recordsとのアーティスト契約が障壁となり、Bruceは1967年のアルバム『WILD HONEY』まで正式メンバーとしてアルバムジャケットにクレジットされることができなかった。『PET SOUNDS』の裏ジャケットにはツアーメンバーとして写真が掲載されたが、それはあくまで添え物に過ぎなかった。1965年の『SUMMER DAYS』撮影時には「カメラマンの隣に立っていた」と本人が語るほどの周縁的な立場だった。それでも当時の公式コンサートブックレットは、この新顔をこう紹介している。「Beverly Hillsが、ついにHawthorneにやって来た!」山の手Bel Airで育ったこの男と、下町Hawthorne育ちのWilson一家との組み合わせを、一言で言い表した言葉である。

 1965年6月16日、Terry はColumbiaのスタジオに馴染みの顔ぶれを集めた。Hal Blaine、Glen Campbell、Larry Knechtel、いわゆるThe Wrecking Crewの精鋭たちだ。彼らはほんの数ヶ月前、まったく同じようにTerryに招集されていた。あのとき録音されたのは、The Byrdsのデビュー・シングルである。
 しかし今回のセッションで彼らが臨む仕事は、Bruce & Terryの新曲「Four Strong Winds」だった。Ian Tysonが書いたこのフォーク・チューンを、TerryはThe Byrdsと同じミュージシャンに、The Byrdsと同じ楽器編成かつ方法論で録音しようとしていた。
 その意図を、Terry自身が明快に語っている「あれは『Mr. Tambourine Man』の直後だったよ。俺は『よし、しばらくこの路線でいこう』と思ったんだ」。
 証言の正確さは、日付が証明する。The Byrdsの「Mr. Tambourine Man」がシングルとしてリリースされたのは1965年4月12日。それがBillboard Hot 100の頂点に達したのは6月26日のことだ。Bruce & Terryのセッションが行われた6月16日は、奇しくもThe Byrdsのファースト・アルバム『Mr. Tambourine Man』のリリース(6月21日)のわずか5日前にあたる。つまりTerryは、あのサウンドが絶頂に向かう瞬間を正確に見極め、その波に乗ろうとしていた。
 ここで注目すべきは、TerryがThe Byrdsの「外側」からそのサウンドを模倣しようとしていたのではない、という点だ。彼はThe Byrdsのプロデューサー当人であり、あの12弦Rickenbackerの響きを自らの手で生み出した張本人だった。すなわち「Four Strong Winds」のセッションにおいてTerryがやったことは、他者の作品を参照することではなく、自分自身の仕事を別の文脈に移植することだった。
 その結果として完成した「Four Strong Winds」は、The Byrdsの響きを継承する12弦ギターを核に据え、7月2日のオーバーダビング・セッションではMort Garsonの指揮のもと弦楽器と管楽器が加えられ、豊かでふくよかなプロダクションへと仕上げられた。リードはTerry、ハーモニーはBruce。ただしBruceはこの時期、The Beach Boysとのツアーと録音に拘束されており、6月のセッションには参加したものの、7月のオーバーダビングには不在だった。
 それにしても、このシングルにはもう一つ見逃せない文脈がある。The Rip Chordsはすでにシーンから消えていた。サーフ、車、ピカピカの天気、そういった意匠は使い果たされ、Bruce & Terryというデュオの看板だけが残っていた。Terryはその看板を、迷わず新しい時代の音で塗り替えた。選ばれたのはフォークとカントリーの香りを持つ曲たちであり、それをThe Byrdsの方法論で録音するという戦略だった。しかしTerryには、この時期すでにより大きな仕事が待ち構えていた。Paul Revere & The Raidersとの共同作業がいよいよ本格的な成果を上げ始めており、同年12月には「Just Like Me」がBillboard 11位のTop 20ヒットとなる。Bruce & Terryというユニットは、彼のキャリアにおいて徐々に中心から外れてゆく運命にあった。
 「Four Strong Winds」のセッション記録には、Bruce Johnstonがセッション・リーダーとして244.04ドル――通常の2倍のギャラ――を受け取ったことが明記されている。The Beach Boysとの二重生活を送りながらも、Bruceはこの6月のセッションにはきちんと顔を出していた。その存在が、この曲の完成度を支えたことは疑いない。

 The Byrdsのサウンドが時代を塗り替えていく一方で、BruceとTerryはColumbiaスタジオの奥に潜む別の武器に手を伸ばしていた。

Columbiaのスタジオには、知る者だけが知る秘密があった。

 クローゼットの奥に、巨大な機械が眠っていた。エンジニアたちはその存在を頑なに隠し、TerryとBruceが扉を開けようとするたびに「お二人には関係ない」と遮った。しかし二人は食い下がった。押し問答の末にようやく明かされた正体はL.A.初の8トラック録音機だった。
 Duke Ellingtonのために特別製造されたこの機器は、クラリネットとサックスの音を分離するという、エンジニアたちに言わせれば「非常に退屈な」目的のために作られた。ほとんど使われないまま、コードを束ねられてクローゼットに押し込められていた。
 「当然、ぼくらは引っ張り出して使い始めた」とBruceは語っている。「The Rip Chordsの頃に同期録音なしで何十回も音を重ねるという問題を抱えていたから。だからうまくいったんだ」。
 ところで、この8トラック機器を最初に実作品へ活用したのはいつのことだったのか?ここで興味深い食い違いが浮上する。
 Terryは「Mr. Tambourine Man」、すなわち1965年1月に録音されたThe Byrdsのデビュー・シングルが最初だと主張している。しかしBruceの記憶は異なる。8トラックを最初に使った作品を問われた彼は、こう答えた「たぶん『Summer Means Fun』と『Carmen』、そして本当に素晴らしいのに日の目を見なかった曲たちだと思う」。


The Sandpipers、デビュー・アルバムGuantanamera(A&M、1966年)
「Carmen」を収録し、Billboard Top LPs 13位を記録。
Bruce & Terryがチャートに届かなかった曲は、
こうして別の声で蘇った


 いずれもThe Byrdsのデビュー以前――あるいは少なくとも同時期――の作品である。Bruceの証言が正しければ、8トラック機器はThe Byrdsのセッションよりも早い段階から、すでにBruce & Terryの仕事に密かに持ち込まれていたことになる。
 二人の記憶はなぜ食い違うのか。あるいはどちらが正しいのか。今となっては確かめようがないが、この齟齬そのものが一つの事実を示唆している。8トラックとの格闘は、どちらにとってもそれほど日常的で、境界線の曖昧な体験だったのだ。革命はいつも、当事者が気づかないうちに始まっている。
 いずれにせよ、1965年10月22日のセッションで「Come Love」に8トラックが全面的に活用されたことは疑いない。Terryはこの日、30名以上のミュージシャンをColumbiaのスタジオに招集した。ハープシコード(Lincoln Mayorga)、ハープ(Verlya Mills)、Julius Wechterのパーカッション。Sid Sharpが束ねる弦楽セクションには、Bill Kurasch、Leonard Malarsky、Harry Bluestone――Los Angelesでも指折りの奏者たちが並んだ。ブラスにはLouis Blackburn、Tony Terran、Aubrey、"Tex"Bouck。Larry Marksが指揮台に立ちオーケストレーションを仕切った。
 Phil Spectorが証明したように音は重ねるほど、別の次元に達する。8トラックはその夢を、一気に現実に引き寄せる道具だった。そしてTerryには、4ヶ月前の「Four Strong Winds」セッションで多重録音の可能性に改めて目覚めていた経験があった。
 ただしエンジニアたちの抵抗は、この日も続いていた。Bruceの証言はあまりにも鮮烈だ
「ミキシング・コンソールに触ろうとすると、エンジニアたちはササッと機器をシャットダウンして部屋を出ていくんだよ。本当に変だった」。
 Alan and Marilyn Bergmanの作詞、Larry Marksの作曲による「Come Love」は、その闘いの末に完成した。ハープシコードの粒立ち、弦の厚み、ブラスのアクセント......それらが8トラックによって初めて相互干渉なく積み重ねられ、「音の壁」が築かれた。Terryが「持てる技をすべて注ぎ込んだ」と評されるだけのことはある、まさに力業の極致だった。
 Terryはのちにこう語っている。「『Come Love』は、Alan and Marilyn Bergmanが書き始めた頃に最初に録音された曲の一つだったと思う。その後『Windmills Of Your Mind』でアカデミー賞を受賞するとは、当時は思わなかったね」。歴史とはこういうものだ。誰が何者になるかは、後にしかわからない。
 批評家たちは反応した。Cash Boxは「Best Bet」、Record Worldは「4 Star Pick」「盛り上がりに盛り上がるバラード。二人は磁力のように聴衆を引き込む」と称えた。しかしアメリカの主要ラジオ局は沈黙した。全国規模のヒットには届かなかった。
 しかし太平洋の向こうで、奇跡が起きた。1966年4月から5月にかけて、香港のチャートでTop 10入りを果たしたのだ。L.A.のクローゼットから引き出された機器が生んだ音が、誰も予期しない場所で聴衆を見つけた。なおこのセッションにBruceは参加していない。彼はThe Beach Boysの仕事(BurbankのNBC-TVスタジオでのAndy Williams Show収録)に拘束されていたが、そのThe Beach Boysの現場でさえBruceの席にはBrian Wilsonが座っていた。Bruce & Terryにも、The Beach Boysにも、完全に属さない宙ぶらりんな状態、それが1965年秋のBruceの立ち位置だった。


 振り返れば、Bruce & Terryの音楽的軌跡は、ひとつの方向へと着実に動いていた。サーフィン、車、西海岸のライフスタイル.....初期の意匠が費消されていくにつれ、二人のサウンドはMORへと重心を移し、ストリングスや管楽器によるオーケストレーションを纏い、ハーモニーはより甘く、より厚いものへと変わっていった。「Come Love」のあの30人編成のセッションは、その到達点のひとつだった。意図したわけではない。ただ、より豊かな音を求めて手を伸ばし続けた結果として、二人は後にソフトロックと呼ばれるジャンルの設計図を、誰よりも早く引いていたことになる。

             
 1966年5月、Bruceは『PET SOUNDS』のプロモーションのためロンドンに滞在していた。元BeatlesパブリシストでThe Beach Boys担当となったDerek Taylorが約15本のインタビューをセッティングするかたわら、Keith Moon(The Who)をBruceに引き合わせた。
 二人はたちまち意気投合し、古くからの怪友Kim Fowleyも加わってEssex州RomfordへTony Rivers And The Castawaysのライブを観に繰り出した。The Beach Boysの楽曲をレパートリーに持つこのグループをBruceが気に入ったからだ。ステージに引っ張り上げられたBruceは、ベースを手渡されて途方に暮れた。「ぼくはどっちかといえばピアノ弾きなんだけど」そう言ったところでステージにピアノはない。複雑なベース・ラインを持つ「The Little Girl I Once Knew」では固まり、一方でKeith Moonのドラムは「繊細さ」とは無縁の全力投球。曲が終わるたびにTony Riversが「Keith MoonとBruce Johnstonに拍手を!」と言おうとすれば、Keithは間髪入れず「次は何やる?あ、その曲知ってるから叩かせろ!」
そのまま演奏は続いた!
 ここにも一つの妙縁がある。Kim FowleyはBruceのUniversity High School時代の旧友であり、二人はともにThe Sleepwalkersで活動した仲だった。そのFowleyは、Bruceより一足早く英国に渡り、1964年から現地のバンドを手がけることで独自の英国コネクションを築いていた。後にSlade、Soft Machine、Familyといった名前で知られることになる若手グループたちとの仕事がその証左である。BruceがロンドンでKeith Moonと意気投合したとき、隣にいたのは偶然にも、誰よりも早くこの街の空気を知っていた男だった。

しかしこの夜には、より大きな物語への扉が隠されていた。

 Romfordから戻ったある夜、BruceはWaldorfホテルのスイートでパーティーを開いていた。廊下でKeith Moonと話していると、Kim Fowleyが「戻ってきた方がいい。The Beatlesの二人がいて、Pet Soundsを聴きたがっている」と告げた。

部屋にいたのはJohn LennonとPaul McCartneyだった。

 Bruceは持参していた『PET SOUNDS』をかけた。一度では終わらなかった。Paulたちは二度、三度とかけ直すよう求めた。Bruce自身の証言によれば、その夜は約4時間、何度も繰り返して聴いた。「みんな、素晴らしい映画を観終わったときのように『Wow』となって、ただそれが最高を意味するとわかっていた」。
なお皮肉なことに、仲介役のKeithは、この音楽にそれほど反応しなかった。彼はThe Beach Boysの初期のサーフ・サウンドの方が好みだった――とBruceは後に苦笑いしながら明かしている。
 この夜が何を生んだか。Paulは後に繰り返し、明確に証言している――「Sgt. Pepper'sを録音する際に考え始めた大きなきっかけは、基本的に『Pet Sounds』だった」。The Beatlesの担当プロデューサーだったGeorge Martinも「『Pet Sounds』なしに『Sgt. Pepper's』は生まれなかった」と断言した。Rubber SoulがPet Soundsを生み、Pet SoundsがSgt. Pepper'sを生んだ、ロック史上最も有名な連鎖反応の触媒となったのは、Keith MoonとBruce JohnstonのLondonにおけるWaldorfの一夜だった。
そしてその出発点に、Romfordのあの爆笑ライブがあった。

1966年6月 KRLA-Beat誌記事    プロデュース予定だったが.....

 興奮冷めやらぬBruceはRomfordから戻った後、記者たちにこう宣言していた。「ぼくはプロデューサーに戻る!Tony Rivers And The Castawaysで仕事をする。きっとヒットを出させる!」。しかし実際は何も実現しなかった。Tonyたちは自力で「God Only Knows」のカヴァーを仕上げ、1966年7月22日――The Beach Boysのオリジナルと同日――にリリースした。Melody Makerチャートで46位。The Beach Boysのヴァージョンは2位だった。

 「God Only Knows」におけるBruceの役割は、一般に思われているより遥かに大きい。Carlがリードを歌い、BrianとBruceがハーモニーを担当したこの曲は、当初Marilyn、Diane、Terry Melcherを含む大人数で録音されていた。しかしBrianは過剰と判断し、Carl・Brian・Bruceの3声部に絞り込んだ。「God Only Knowsには3声部しかない――あれほど有名なBeach Boysの曲の中で唯一の例だ」とBruce自身が語っている。

 そしてコーダこそ、Bruceらしさが最も光る瞬間だ。長いセッションの末にCarlが疲れて帰宅し、残ったのはBrianとBruceの2人だけだった。Brianはエンディング・セクションのトップとボトムのパートを自ら歌い、ミドルをBruceに任せた。あの甘く繊細なコーダは、Bruceなしには存在しなかった。「彼が2つのパートを歌い、私が真ん中を歌った」——Bruceはその夜のことをそう振り返っている。加入から1年も経たない新参者が、Beach Boys史上最も美しいと言われる曲の核心部分を支えていたのだ。なお、このコーダにはひとつの注記が必要だ。モノ原盤ではコーダの冒頭でBrianがCarlのリードを引き継ぎ、BruceとBrianが交互に重なっていく。しかし1996年のステレオ・ミックスでは、Carlが後日同じマルチトラックに上書き録音したためBrianのパートが失われており、コーダ冒頭はCarlの声で始まる。Brianの痕跡は、モノ原盤の中に静かに刻まれている。



 「Thank You, Baby」という曲は、Bruce Johnstonが書いた楽曲のなかでも、とりわけ不思議な生命力を持つ一篇である。Bruce & Terryのオリジナルは時代の波に飲まれたかもしれないが、この曲そのものは静かに、しかし確実に、さまざまな歌い手の声を借りて生き続けた。ここではその足跡を、録音の年代順に辿ってみたい。


Graham Bonney(1967年1月) UK Columbia 45rpm DB-8111

Produced by Bruce Johnston and Graham Bonney

Arranged by Bruce Johnston and Arthur Greenslade


 カヴァー列伝の時系列を正確に辿るならば、その第一走者はイギリス人シンガーGraham Bonneyでなければならない。Bruceが「Thank You, Baby」をBonneyと共に再録音したのは1966年末、Londonのスタジオでのことだ。アレンジはBruceとArthur Greensladeが共同で担当し、プロデュースはBruce自身とBonneyの連名。つまりこのヴァージョンは、作者が自ら海を渡り、異国の歌い手のために腕を振るったという点で、このカヴァー列伝の中でも特別な位置を占める。翌1967年1月、シングルはUK Columbiaレーベル(DB-8111)から英国でリリースされた。英国の音楽プレスはこの盤を好意的に迎え、Melody Maker(1967年1月14日付)はBonneyを才能豊かな好感度の高いシンガーと評し、楽曲をすぐれたビート・バラードと位置づけた上で、The Beach Boysとの関連性がヒットへの追い風になりうると期待を示した。しかし実際には、ラジオからもリスナーからもほとんど反応を得られないまま、シングルは静かに消えていった。華やかな批評と冷淡な市場――この皮肉な対比は、Bruce & Terry時代のアメリカでの経験と、どこか重なって見える。



Claudine Longet(1970年5月)

LP RUN WILD, RUN FREE(A&M SP-4232)収録、Track 6/Side 2

Arranged and Produced by Nick DeCaro


 フランス生まれの歌姫Claudine Longetが「Thank You, Baby」をカヴァーしたのは1970年のことだ。A&Mレーベルにとって最も洗練されたアーティストのひとりであった彼女のために、アレンジャーのNick DeCaroは楽曲をきわめて繊細に仕立て上げた。Nickの手になるアレンジは、原曲のもつ素朴な温かさを、より室内楽的な親密さへと昇華している。注目すべきは、このLonget版とのちのRod McKuen版の二版のみが、作曲クレジットにDinee Dudleyの名を刻んでいる点だ。出版社表記はDaywin Music, Inc.(BMI)であり、他の多くのヴァージョンがArtists Music, Inc.(ASCAP)を使用しているのと対照的である。




The Captain And Tennille(1972年2月)

LP SONG OF JOY(A&M SP 4570)収録、Track 3/Side 2

Produced by Daryl "The Captain" Dragon and Toni Tennille


 The Captain And Tennilleによるカヴァーは1972年2月のアルバム SONG OF JOY に収録された。Toni Tennilleの歌声は、ポップスの文法に忠実でありながら、どこか説教壇から語りかけるような真摯さをあわせ持っている。後に彼らが「I Write The Songs」「Disney Girls」といったJohnston作品を積極的に取り上げることになる。作曲クレジットは「Bruce Johnston」単独、出版社はArtists Music, Inc.(ASCAP)。Bruceの名のみを刻んだこのシンプルな表記が、以後の「標準型」となっていく。


Rod McKuen(1972年5月)

LP ODYSSEY(Warner Bros BS 66383)収録、Track 3/Side 1

Produced by Rod McKuen


 詩人・作曲家・歌手という三つの顔を持つRod McKuenのカヴァーは、このシリーズの中で最も個性的な変種である。Rodはただ歌っただけではなく、楽曲の冒頭に新たなヴァースを書き加え、各所の歌詞にも手を入れた。その「改作」の対価として、クレジットには「Rod McKuen-Bruce Johnston-Dinee Dudley」の三名が並び、出版社もDaywin Music, Inc.とMcKuen自身のSalvation Musicの連名となっている――Salvation Musicという社名は、McKuenが救世軍の宿泊所で生まれたという出自に由来する、いかにも詩人らしい命名である。



Andy Williams(1976年5月)

LP ANDY(Columbia OC 34299)収録、Track 3/Side 1

Produced by Larry Brown


 かつてColumbia Recordsの屋台骨を支えたAndy Williamsがこの曲を手がけたのは、1976年のことだ。Johnstonもまた同時期に同じColumbia傘下でソロ活動を展開していたことを思えば、この符合はいかにも意味深長に映る。Larry Brownのプロデュースは堅実そのもので、Andyの成熟した声の魅力を無駄なく引き出している。クレジット表記は「B. Johnston」と略記され、出版社はArtist Music, Inc.(ASCAP)。



Bruce Johnston(1976年5月)

LP GOING PUBLIC(Columbia PC 34459)収録、Track 3/Side 1

Produced by Gary Usher


 作者自身によるセルフ・カヴァーは、このカヴァー列伝の白眉である。Gary Usherのプロデュースのもと、Bruceは全ヴァージョン中最長となる4分23秒をかけて、この曲を徹底的に「自分のもの」として再構築した。Andy Williamsのヴァージョンと同じ月に、同じColumbia Recordsからリリースされたという事実もまた興味深い。GOING PUBLIC には「I Write The Songs」「Disney Girls」とともにこの曲が並んでいる。Bruceの作家的自己像を語る上で欠かせない三曲が、一枚のアルバムに揃っているのだ。クレジットは「B. Johnston」、出版社はArtists Music, Inc.(ASCAP)。

                                        

Rosemary Clooney(1977年)

LP NICE TO BE AROUND(UAS 30008)収録、Track 5/Side 1

Arranged and Produced by Del Newman


 1950年代からポップスとジャズの双方で活躍し、長いキャリアを誇るRosemary Clooneyが、この曲をUKでひっそりと録音していた事実は、多くのリスナーにとって発見であろう。Del Newmanのアレンジは、Londonのスタジオ録音らしい品のよさに満ちている。出版社表記も演奏時間も盤面には記載されていないこの版は、「Thank You, Baby」の大西洋横断の証人として、ディスコグラフィー上に静かに佇んでいる。

                                

                                      

Trevor Chance(1978年)

LP LOVE IS(LP1)収録、Track 2/Side 2

Produced by Gordon Smith。UK(Simon Records)

 このリストの末尾を飾るのは、UKのSimon Recordsという小さなレーベルからリリースされたTrevor Chanceのヴァージョンである。作曲者名のクレジットは「Johnson」――"t"が抜け落ちたまま刻まれており、大西洋を渡るうちに名前がひとつ削られてしまったかのようだ。Gordon Smithのプロデュースによるこの録音の詳細は現在も不明な部分が多いが、LA生まれの一篇のポップ・ソングが、1978年のロンドンで名もなき歌手によって歌われていたという事実それ自体が、この曲のもつ静かな普遍性を雄弁に物語っている。

 八つの声が時代を超えて「Thank You, Baby」を歌った。Bruce & TerryがColumbia Recordsのスタジオで生み落としたこの小さな宝石は、まずBruce自身の手によってロンドンへと渡り、Graham Bonneyの声を借りて英国デビューを果たした。その後Claudine Longetのフランス的エレガンスとなり、Toni Tennilleの真摯な誠実さとなり、Rod McKuenの詩人的再解釈となり、やがて作者自身の手によって最も豊かな形へと結晶した。そして再び海を渡り、名前の綴りを間違えられながらも、ロンドンの片隅で歌われ続けた。一曲の歌の生涯とは、かくも豊かなものである。与えられた時間に感謝しながら、自ら静かに幕を引く。それがこの曲の真髄だとすれば、61年間ステージに立ち続け、自らの手で次の扉を開けたBruce Johnstonもまた、音楽とファンに向けて同じ言葉を贈ることができるだろう。

Thank you, baby.



詳細ディスコグラフィは 
佐野氏作成 2017/08/30記事Favorite Musician 全音源コレクティング第3回を参照されたい。

出典
Stephen McParland著
Bull Sessions With The Big Daddy: 
Interviews with Those Who Helped Shape The California Sound
Sound Waves And Traction: Surf and Hot Rod Studio Groups Of The '60s VOL.1
Sound Waves And Traction: Surf and Hot Rod Studio Groups Of The '60s.VOL.2

2026年3月31日火曜日

MEWCATUNE:『もう物語なんていらない/きっと正解』インタビュー★ゲスト~フレネシ


フレネシ作★令和アイドル・アンセムの傑作!

 新潟を拠点に日本国内で活動するアイドルグループ、MEWCATUNE(ミュキャチュン)が、才女フレネシからのタイトル曲提供によるニューシングル『もう物語なんていらない/きっと正解』を4 月1 日にリリースする。
 

MEWCATUNE
左から早乙女かなめ、泡沫なこ、
世楽みこと、兎咲くるみ、夏萌りんな

 彼女達MEWCATUNEは、2021 年の夏にローカルアイドルの聖地とも言われ、弊サイトでも紹介しているNegiccoRYUTist(2024年12月に無期限活動休止)でも知られる新潟で結成された。「MEW=猫の鳴き声、CAT=猫、TUNE=旋律」をグループ・コンセプトとし、様々なジャンルで活躍するクリエイター陣から提供された楽曲とキュートなパフォーマンスを特徴とする新進気鋭の5 人組アイドルグループである。
 月10 本程のペースで、ホームタウンである新潟だけに留まらず、都内や全国各地で積極的にライブパフォーマンスを披露している。今年2月と3月には東京(西永福JAM)と新潟(新潟LOTS)でワンマンライブを開催し、大盛況のうちに終了させている。
 
 ここでは筆者による詳細解説に加え、本タイトル曲を提供して、Megu(Negicco)に提供した『めしませルルボン』も記憶に新しい、シンガーソングライターのフレネシへのインタビューと、ソングライティングやレコーディング時にイメージ作りで彼女が聴いていたプレイリストをお送りする。

 タイトル曲「もう物語なんていらない」は、アップテンポでビートを強調しながら複雑な構成を持つアイドル・アンセム(賛歌)だ。散文詩的歌詞にはアイドルとその推し活層の機微がちりばめられていて、これまでのアイドル・ソングにはあまりなかったテーマといえよう。
 ソングライティングとアレンジ的にはドラマティックなサビから始まる歌謡曲的転回で、フラットな歌唱がキュートで初期Perfumeの「wonder2」(「エレクトロ・ワールド」CW/2006年)に通じるバース1、それとサビを繋ぐアンニュイなバース2でサビに戻る。2コーラス目頭にはチャイニーズ・スケール風アルペジオを持つブリッジ・パートがあるなど、相対性理論をはじめとするゼロ年代サウンドのカラーが強く、作者であるフレネシのソロ作に通じる一筋縄ではいかぬエッセンスも潜んでいて、まったく聴き飽きない。マニアックながらキャッチーなフックを持ったヒット性のあるシングル曲に仕上がっている。
 全てのトラックのプログラミングはフレネシ自身が担当し、ブランクを感じさせない絶妙な譜割りのキック(バスドラム)やスネアの音色など、そのセンスは相変わらずだ。生のエレキベースはポップユニット“フラッシュバックあの人”を主宰し、フレネシのバックバンドにも参加していた山口洋輔がプレイしている。

 カップリングの「きっと正解」は、京都を拠点とする音楽グループ“EMERALD FOUR”を主宰する足立大輔がソングライティングとアレンジを担当した躍動的なギター・ポップだ。足立がプレイしたと思しき複数のギターを構築して多重録音されており、ティンパニーを入れたり、唐突なマンボのパートが挿入されたりと楽器配置やアレンジにも工夫されていて、この曲も聴き飽きさせない。
 

特別インタビュー★ゲスト~フレネシ

”MEWCATUNEの5人が持つ、物語に頼らない
「個としての輝き」がこの曲には詰まっている”
 
●立て続けの楽曲提供で多忙な中、今回もありがとうございます。
プレス向け資料によると、今回MEWCATUNEさんに楽曲提供することになったきっかけは、フレネシさんが以前参加していたxxx of WONDER(オブ・ワンダー:南波志帆、Dr.Usui、フレネシ、岸田メル、Julie Watai)のレーベルA&Rマンが同じことだったからということで、それはいつ頃決まったんでしょうか?
またMEWCATUNEさんについてはオファーされた当時ご存知でしたか?


 ◎フレネシ:2025年の10月上旬に三宅さんと一度数年ぶりのオンライン会議をして、11月5日に正式オファーをいただきました。その時初めて、MEWCATUNEを知りました。

 オファーを受けてから改めてプロデューサーの坂田さんを含めたMTGをし、年内にアレンジまでのFIXを目指して、制作を始めました。


●アイドルグループへの楽曲提供は今回が初めてでしょうか?
メンバーのソロとしては、これまでに最近のMeguさんをはじめ何回かあったと思いますが、声質の異なる複数のボーカリストによって歌うことを前提にする訳で大変だったかと。
パート毎にソロを取るメンバーを選んでいくとか、サビではユニゾンとハモらせるパートをどこで分けるなど、ソロとは違いますからね。


◎フレネシ:グループへの楽曲提供は初めての機会で、他の作家さんの提供曲をじっくりと聴きこみました。

各メンバーのパート分けはプロデューサーの坂田さんが担当しています。コーラスのラインについては試行錯誤しましたが、最終的にはユニゾンとなりました。


●正式オファーから曲作りとアレンジFIXまでのスケジュールがややタイトですね。本作「もう物語なんていらない」のテーマやコンセプト作りについてですが、MEWCATUNEさん側からはどのようなリクエストがあったでしょうか?
例えば、フレネシさんのこれまでのソロ曲の中から挙げられたとかですね。

MEWCATUNEとフレネシ

◎フレネシ:坂田さん、三宅さんからリファレンスとして挙げていただいたのが、私の楽曲2曲で…「GO ROPEWAY」的な王道ギターポップ・ソング・テイスト、「渚のアンドロメダ」に入るドラム要素があると盛り上がりそう、と具体的にリクエストをいただきました。

 これらの楽曲は、私の作品としてはやや異質なロックテイストで、得意分野ではないだけに「あの感じですね!」と即座に再現できるサウンドではなかったため、作詞作曲までの骨組みを完成させた後、実はアレンジでかなり苦戦しているのです。何をどれだけ足しても何か足りないまま、という。


●成る程、盛り上がるアップテンポな曲でというオーダーだったんですね、確かにフレネシさんの世界観からはやや異質だったかも知れません。
そんな状況下で曲作りやレコーディングの時期と特筆すべきエピソードをお聞かせ下さい。今回のレコーディングは一人多重録音ではなく、以前フレネシのサポート・メンバーでアレンジも手伝っていたベースの山口洋輔(フラッシュバックあの人)さんも参加していますね。このあたりの経緯は?


◎フレネシ:アレンジャーとしては私よりずっと先輩で、メジャー、インディー問わず数多くお仕事をこなしている彼とは、普段から音楽制作の相談に乗ってもらう間柄で…。今作では、ギターのプログラミングが入った時点で音源を聞いてもらったところ弾きたいと申し出てくれて、ベースのトラックを送ってくれました。それがばっちりハマり、さすがだなあと。山口君の音は、もはやフレネシサウンドの要ですね。生ベースの存在がグルーヴの輪郭を明らかにするというか。足しても足しても足りない何かを、ようやく埋めてくれたような。

そして、アレンジ段階でスランプに陥った際、長谷川カオナシさんにも相談しまして…「このラインにはコーラスがハマりそう」だとか「サビのキメはタイミング合わせるといいかも」など、具体的なアドバイスをいただき、ありがたかったです。それらのアイディアを本作のアレンジに取り入れています。

さらには、製作途中で迷いが生じた時、谷山浩子さんにも背中を押していただいて…相談できるミュージシャンが身近にいるありがたみを感じます。


●旧知の山口さんの他、昨年フレネシさんがアレンジャーとしてソロアルバムに参加した長谷川カオナシさん、そのアルバムに同じように参加されたレジェンド・シンガーソングライターの谷山浩子さんなど、音楽活動再開後に知り合った方まで相談できるミュージシャンが多くいることは頼もしく、ありがたいことですよね?


◎フレネシ:それは本当にその通りだと思います。
一人で悩んだ末にお蔵入りした曲は数知れず。悩みを言語化するだけでも、回路がつながって解決の糸口が見えることもあったりしますね。



●本作「もう物語なんていらない」の曲作りやアレンジ、レコーディング中のイメージ作りで聴いていたプレイリストをお願いします。

フレネシ・リファレンスプレイリスト
★MEWCATUNE『もう物語なんていらない』

Ma jeunesse fout le camp…/Françoise Hardy
(アルバム『Ma jeunesse fout le camp...』1967年)

GALZ XYPHER/COCONA from XG
(Single『GALZ XYPHER』2022年)
※アルバム未収録のデジタルリリース作品。

アイドルばかり聴かないで/Negicco
(アルバム『Melody Palette』2013年)

ラッキーカラー/SHY(アルバム『ずっとラプソディ』2007年)

Go Ropeway/フレネシ(アルバム『ドルフィノ』2013年)

渚のアンドロメダ/フレネシ(アルバム『ゲンダイ』2012年)

ミュンヘナーCMソング
(1980年代後半〜90年代初頭の静岡ローカルCMソングとして有名)

◎フレネシ:この内容で補足説明がないと「なぜ…」となりそうなので、一言ずついいでしょうか。?

フランソワーズ・アルディの『Ma jeunesse fout le camp...』が描く、若さが去りゆく際の空虚な美しさに、(音楽シーンに限らず)現代社会全体に蔓延る「物語への過度な依存」を重ね合わせたんです。

Negiccoの「アイドルばかり聴かないで」は、楽曲の主題を三宅さんに相談したところ「そういえばそんな曲ありましたよね、アイドルがアイドルばかり聴かないでって歌う…」とこの曲を挙げていて…無意識のうちに小西さんプロデュースのこの曲に影響を受けていたのだと思います。

ちなみに私の推しを一人挙げるとするならば、それはXGのCOCONAさんですが、今作のプロットを考える上で、最初に出会った衝撃のソロラップMVを振り返るなどしました。

ラッキーカラー/SHYは、プロアクティブのCMソングで00年代の後半によく流れていた曲なんですが、商品と映像とががっちりイメージできるこの曲みたいなポップさを目指したい、と参考にしました。

ミュンヘナーのCMソングも同じですね…これは、子供のころにしか聞ていないハズなのに今も歌える。キャッチーなCMソングには学びが多いです。



●最後に本作「もう物語なんていらない」のアピールをお願いします。

◎フレネシ:音楽の聴き方が2010年辺りから明らかに変わってきてるね、って話をスタッフと最近したところです。私たち(主語が大きいかもしれませんが)の世代を束ねて縛っていたスノビズムはもはや鳴りを潜め、体裁のための言い訳を用意せずとも堂々とオタクを名乗っていい時代。民主化したってことなのかな、とも思いますし、音楽自体は器で、物語を運ぶ装置になったようにも感じます。変化したというより、元来そういうものだったのかも。

本能に訴えかけてくる魅力には抗う必要もないのだけれど、音楽が音楽として教養や物語から独立してただ存在してもいいのではないか…という、私なりの問題提起でもあったりするのですが、そんな理屈は一旦置いておいて。 

MEWCATUNEの5人が持つ、物語に頼らない「個としての輝き」がこの曲には詰まっています。発売日は奇しくもエイプリルフール。究極的には「物語なんていらない(いや、いるだろう)」かもしれないですし、4月1日、彼女たちの新しい一面に、ぜひ驚いてください。


●そう言えば、フレネシさん自身の新曲「Undo-Onchi」も3月13日に配信リリースされたばかりですが、”運動音痴”をテーマにしたということで、そんなユニークなテーマにしたきっかけと、同曲のアピールもお願いします。
脱力しそうなテーマと歌詞ですが、洒脱でコンチネンタルなコンポーズとアレンジは、イタリアン映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネやピエロ・ピッチオーニに通じて、好きにならずにいられません。


◎フレネシ:これは、私の何気ない日常からこぼれ落ちた歌ですね。
乙女社主宰のイタルさんが、私のブログに書いた「運動が苦手」という独白を拾い上げて、「運動音痴」というテーマを閃いたそうです。

最初にデモを聴いたときは、「本気でこれを……? 私は一体どんな顔をして歌えばいいの?」と正直戸惑いました(笑)。ですが、アレンジが進むにつれて思わず唸ってしまうほどの名曲に化けていきました。イタルさんの低音ボイスによる合いの手も、絶妙なアクセントになっています。

実は、イントロと間奏のハーモニカの旋律、そしてジャケットの切り絵イラストは私が手掛けています。特にイラストの「ちょっと不機嫌そうな表情」にはこだわりました。

周りの景色も雨も、世の中は案外暖かくて優しい。それなのに、自分だけが取り残されたように孤独で灰色、少しだけ憂鬱……。そんな私の内面を、イタルさんは恐ろしいほど正確に理解してくれているなと感心します。歌っていて、心の底から楽しいと思える一曲になりました。
インフレイションに続いて、いつか、この曲もカラオケに入ってほしいですね。運動音痴で方向音痴…きっと共感してくださる方も多いのではないかと…そんな気持ちでいます。



フレネシ・プロフィール
8歳で、ささやき声しか出なくなる。20歳で衝動的に音楽活動を開始し、大学卒業までの2年間に50曲余りを作曲。
2009年6月、乙女音楽研究社からリリースした初のフルアルバム『キュプラ』が、HMV インディーズチャート1位、カレッジチャート1位を獲得し注目を集める。
その後、『メルヘン』『ゲンダイ』『ドルフィノ』の3枚のアルバムを発表したのち、2014年12月27日のワンマンライブ「フレネシ学園 伝説の終業式」をもって活動を無期限休止。
2020年にストリーミング配信が開始されたことで海外の音楽ファンを中心に新たな注目を集め、 累計再生回数は数千万回に達し 「渋谷系のビョーク」とも称される。
2025年10月31日に11年ぶりの新作『除霊しないで』を発表し活動再開を宣言、さらには12月22日に『おやすみルナモス』を発表し、大きな話題を呼んでいる。
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(設問作成、本編テキスト:ウチタカヒデ



2026年3月15日日曜日

The Pen Friend Club:『Songularity』リリース★インタビュー後編

The Pen Friend Club『Songularity』

リリース★インタビュー後編
(インタビュー前編はこちら

前列左よりリカ(A,Gt,Cho)、そい(Key,Cho)、西岡利恵(Ba,Cho)
後列左より平川雄一(Gt,Cho)、祥雲貴行(Dr)、中川ユミ(Glo)、Niina(Vo)
大谷英紗子(Sax)は現在海外在住で休団中

“「自分一人では辿り着けない場所に行ける」
という面白さのほうが大きいです。“

●本作『Songularity』の曲作りとレコーディング期間を教えて下さい。また各ソングライターの方を含めて、その期間のエピソードをお聞きしたいです。

◎平川:曲作り自体は2023年頃から断続的に始まっていて、本格的に「アルバムとしてまとめよう」と動き出したのは2024年の後半でした。
ソングライターそれぞれが持ち寄った曲を、何度もアレンジし直し、歌詞を書き換えながら、レコーディングも含めてかなり長い期間じっくり向き合うことになりました。
多くの楽曲では、前々作に続いてミュージシャンのYouth Yamadaに作詞を担当してもらっています。一方で、Niinaの単独曲や彼女がメインで手がけた楽曲は彼女自身が作詞し、リカの曲でも作詞で共作しました。そして前述したように今回、そいも初めてペンクラに楽曲を提供しています。
結果的に、合計5名のソングライターを擁するバンドになりました。『Songularity』の制作を始めてからは、まるで曲が溢れるように次々と生まれていった感覚があります。
あるライブの打ち上げで「曲が増えすぎてどうしようもない」と悲鳴を上げていたところ、音楽家のカンケさんから「じゃあ二枚組にしてしまえばいい」と言われて(笑)。あの一言も、今振り返ると印象深い、この作品の転機となった出来事だと思います。
個人的に特筆すべき点としては、僕と西岡利恵との作曲共作が増えたことです。
 「コード進行とAメロ、サビまではあるけど、Bメロだけ思いつかない」といった場面で西岡利恵に助けを求め、そこから一緒に曲を完成させてもらうことが何度もありました。

◎西岡利恵:『Songularity』 の制作がどんな風に始まったのか記憶があいまいになるくらい長かった気がしてますが、作り始めて曲が増えていく中で20曲2枚組にしようって話になって、いいねー!て盛り上がったものの録り始めるとやっぱり多くて、なかなか進まなくて焦りつつもなんとか録り終えたという感じでした。
曲作りに関しては、今回自作曲の他に平川と4曲、Niinaと2曲共作もさせてもらってます。曲の一部だけを作ったり、もともとあるコード進行に合わせて一部メロディを考えたりとかが多いんですが、自分には思いつけないものがまず基準にあって作っていくというパターンだからこそ思いつくものがあって、これが楽しいんです。

●業界では大先輩のカンケさんからのアドバイスは大きいですね。また作曲面で平川さんは西岡さんとの共作曲が増えたとのことで、初期のレノン=マッカートニーのようですが、パート毎に繋げて1曲に仕上げていくコツはどういったことでしょうか?各々にソングライティングのスタイルがあるので、自然に1曲として仕上げていくのは大変だと思いますね。

◎平川雄一:レノン=マッカートニーのように、というのは光栄ですが(笑)、実際はもっと実務的です。
僕の場合はコードや構造の骨組みを先に作ることが多いのですが、展開部分で行き詰まることがある。そういう時に西岡に渡すと、自分では選ばないメロディの跳躍やリズムの処理が返ってくる。それで一気に曲が立体的に跳ねるんです。
大変さよりも、「自分一人では辿り着けない場所に行ける」という面白さのほうが大きいです。
最終的には、どちらがどこを書いたかよりも、“The Pen Friend Clubの曲として自然かどうか”が基準です。そこさえ揃っていれば、スタイルの違いもむしろ「良さ」になると思っています。

◎西岡利恵:平川との共作の場合、平川が作ったコード進行がまずあることが多いんです。そのコードの雰囲気である程度方向性が示されるのと、たぶんもともと聴いてきた音楽のジャンルや年代に重なる部分もあるので、世界観が大きくズレたりは起こりにくかった気がしてます。


後列左より4人目がリカ(A,Gt,Cho)

◎リカ:今回のアルバムの製作期間の中で私が1番心に残っているのが、前作のレコーディングの為にメンバーのお家に集まった時にNiinaとリーダーがセッションしながら曲を作ったことです。(のちに「Grow」になる曲です。)
残念ながらその場に全員が集まっていたわけではないのですが、メンバーの家族も一緒に呑んだり食べたりしながら温かいカジュアルな空気の中で音楽を作る場に居られたことが、自分の中で知らずに抱いていた憧れや夢見ていたことが思いがけず現実となって目の前に現れたような感覚でとても幸せな時間でした。これまでのバンド活動の中でも、自分の人生の中でも忘れられない時間だと思います。
その日の夜にお風呂の中で"Lily's Smile"というサビのフレーズが頭の中に流れ出して、次の日には私も曲作りを始めていたのがボイスメモに残っていました。その日に感じた気持ちや感覚が消えないように、すぐにでも曲に落とし込みたかったのをよく覚えています。


 
Lily’s Smile (Official MV)

●楽しいレコーディング風景が目に浮かびます。またそんな出来事が自身のソングライティングにも影響されたということですね。リカさんはペンクラに加入されたことがきっかけで、シンガー・ソングライターとして成長できたことは何でしょうか?

◎リカ:自身で曲を作ることも、自分の声や演奏が録音され作品として残ることも、ステージに立つことも、このバンドに加入してから初めて経験する事ばかりなので、自分自身がシンガー・ソングライターという自覚はあまり無いんですが全てにおいて成長させてもらっているのではないかなと思います。
ペンフレンドクラブは私にとっての音楽活動のスタート地点であり、今もなお大切な場所です。

Niina(Vo)

◎Niina:一年以上前のある日、何人かで集まって曲の最初のコードを作り始めた時から、こんなにも早く時間が過ぎたなんて、いまだに信じられません。
あの週末、あの集まりこそが、今こうして胸を張って「完成した」と言える、唯一無二のペンクラ・アルバムへと向かう旅の始まりでした。そしてそれは、私たちバンドメンバー一人ひとりが前へ進むための、確かな原動力でもありました。

もちろん、その道のりは決して平坦ではありませんでした。意見がぶつかり、苛立ち、言い合いになったこともあります。確か、何人かは泣いたはずです。(私もその一人です!)

それでも、そんな混沌の中には、いつもたくさんの笑いがありました。頭の中でクリエイティブな火花が散り、互いのアイデアがぶつかり合うことで、次々と新しい発想が生まれていく。解決策を見つけ、笑える瞬間を見つけ、前に進むためのモチベーションを見つけながら、バンドとしての絆を保ち続ける——それは本当に多くの章からなる旅で、私はそのすべてを心から楽しんでいました。

ひとつ、当時とても辛かった出来事をシェアさせてください。

私は自分で掲げた目標と、それを達成することへのメンバーからの期待に、強いプレッシャーを感じていました。気持ちが追い込まれ、ストレスからやる気を失い、作業を先延ばしにしてしまっていた時期がありました。締め切りが迫る中、スケジュールを守ることで精一杯だったバンドリーダーの平川さんを、限界まで追い込んでしまったと思います。彼も、きっと私と同じか、それ以上に大きなストレスを抱えていたはずです。

私は彼を怒らせてしまい、私自身も感情的になってしまいました。それは、メンバーとの間で経験した中で、最も大きな衝突でした。

それでも私は、その日のうちに立ち直ることができました。
メンバーに囲まれ、支えられていたからこそ、その日、私は自分の役割を最後までやり遂げることができたのです。あの瞬間はとても緊張感があり、繊細でしたが、同時にバンドやメンバー、そしてこの音楽を聴いてくれる人たちへの愛を、強く実感しました。
多くのことを学び、そしてあの出来事があったからこそ、私たちは以前よりもさらに強く結ばれたのだと、今ははっきりと感じています。

●Niinaさんは日本に帰国して6年、ペンクラに加入されてから3年になりますが、幼い頃から15年の長い期間イギリスで生活されていたので、日本に生まれ育って暮らしてきた他のメンバー達とは考え方や感覚的なズレはある筈です。お話を聞いて、そんなカルチャーの違いや期待に対するプレッシャーから立ち直ることができたのも、音楽を通して平川さんをはじめメンバー達と理解し合えたからだと考えだと思います。
本作のレコーディングやこれまでのライブ活動を経て、これからもこのバンドで長く活動していける自信がついたのではないですか?

◎Niina:そうですね、正直、バンド活動以外のところからくるストレスで、続けられるのかと不安になった時期は一時的にありました。でも、そこで一度状況や自分の気持ちを落ち着かせてみると、こんな仲間は一生見つからないなと思ったんです。
ただの音楽好き同士が、たまに集まってバンドをやるという関係ではなくて、これはもしかしたら私だけがそう思っているのかもしれませんが、死ぬまでの友達だと思っている人たちです。
これまで頑張ってきたアルバムや、積み重ねてきたライブの経験も含めて、今のところ、私が東京に住んでいる限りは、みんなと楽しく音楽を演奏して、歌って、作り続けていきたいという気持ちが強いです。

前列左がそい(Key,Cho)

◎そい:今回は1曲、「Merry-Go-Around」を作曲させていただきました。実は大元のメロディ自体はかなり前にできていて、数年前に「The Pen Friend Clubにこんな曲があったらいいな」とイメージして作ったものなんです。平川さんにも一度聴いてもらったのですが、当時制作していたアルバムの方向性とは少し合わず、いったんお蔵入りになっていました。
そこから時間を経て、メンバーの意見も取り入れながら構成を再構築し、今回あらためて形にすることができました。平川さんのアレンジによって世界観がより立体的になり、Niinaの歌が入ったことで、想像以上にドラマティックな楽曲になったと感じています。

●そいさんが作曲された「Merry-Go-Around」が、アレンジによってペンクラ・サウンドに生まれ変わったようですね。以前からご自身はソロのシンガー・ソングライターとして活動されていますが、ペンクラに加入して7年近くになります。ソロ作品にフィードバックされて得られたものはなんでしょうか?

◎そい:ペンクラに加入してから、コーラスワークの魅力を強く感じるようになり、自分のソロ楽曲にも積極的に取り入れるようになりました。
そして、これまでしっとりとした楽曲が中心だったソロ活動にも、ペンクラから学んだノリよく盛り上がれる曲など新しい方向性が加わり、表現の幅が広がったと感じています。



“『Songularity』は、
今のThe Pen Friend Clubがどこに立っていて、
どこへ行こうとしているのかを、
そのまま音にしたアルバム”

●では各メンバーの方からお聞きしたエピソードの中で、完成してから振り返って、本作にとって重要だったと感じたものを教えて下さい。

◎平川:『Songularity』は、今のThe Pen Friend Clubがどこに立っていて、どこへ行こうとしているのかを、そのまま音にしたアルバムです。
全20曲、頭から最後まで通して聴いてもらいたいです。今の時代とは逆行してるとは思いますが、それでもアルバムという形を信じたいと思っています。


◎西岡利恵:曲数が多いことそのものも『Songularity』の重要な色になってる気がしてるんですが、さらに今回5人のメンバーが作曲していることもあって、たくさんの曲の中でも色んな世界観に切り替わっていく感じがおもしろいなと思っています。


◎リカ:じっくりと製作に時間をかけたこと、そして今まで以上に楽曲に対する自分たちの考えや意見をみんなで伝え合えたような気がするので、そのことは作品全体の仕上がりにとても大きく影響しているのではないかなと思います。
時間をかける事に私はメリットもデメリットも感じましたが、少しずつ濃さを重ねながら、時間に余白も生まれ、その間に新しい視点やアイデアも多く生まれたような気もします。


◎Niina:アルバム制作の過程で私たち全員が経験した、あの"感情ジェットコースター"のような日々が、いくつかの曲を完成させるまでの道のりを形作っていったのだと、私は強く感じています。

個人的には、「無理に強がらなくてもいい」ということに気づきました。
できるだけ多くの曲を一人で、誰の力も借りずに作り上げたいという自分のプライドよりも、グループとして一つになり、それぞれの強みやアイデアを持ち寄って素晴らしい曲を生み出すことの方が絶対大切だと気づきました。
お互いのベストを引き出すためのチームワーク、つながり、そして支え合い。
それこそが、私にとってこのアルバム制作において欠かせない、とても大切な要素でした。


◎そい:これまでは、どちらかというと平川さんの色が強いバンドという印象があったかもしれません。でも今回は、メンバーそれぞれの個性を活かしながら楽曲を制作し、意見を交わし合ってアルバムを完成させることができました。それはバンドにとって大きな変化だったと思います。
私は作詞には関わっていませんが、メンバーそれぞれが“自分たちが歌う言葉”に真剣に向き合っていたのも印象的でした。時間をかけて丁寧に作ったからこそ、聴くほどに味わいが深まる作品になったのではないかと感じています。


左より平川雄一(Gt,Cho)、祥雲貴行(Dr)、西岡利恵(Ba,Cho)、
リカ(A,Gt,Cho)、大谷英紗子(Sax)、Niina(Vo)、中川ユミ(Glo)

●本作の曲作りやアレンジ、レコーディングのイメージ作りで聴いていた楽曲を
メンバー全員で合計20曲程を選曲下さい。

『Songularity』着想曲プレイリスト

Back In The U.S.S.R./The Beatles(『The Beatles』1968年)

Now And Then/The Beatles(『Now And Then - Single』2023年)

A Day In The Life/The Beatles
(『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』1967年)

Surf’s Up/The Beach Boys(『Surf’s Up』1971年)

That Same Song/The Beach Boys(『15 Big Ones』1976年)

Summer Means New Love/The Beach Boys
(『Summer Days (And Summer Nights!!)』1965年)

Isn’t She Lovely/Stevie Wonder
(『Songs in the Key of Life』1976年)

You Are the Sunshine of My Life - Single Version With Horns
/ Stevie Wonder (『Original Musiquarium』 1982年)

Eden Rock/The Fifth Avenue Band
(『The Fifth Avenue Band』1969年)

Eyes Of The World/Grateful Dead(『Wake of the Flood』1973年)

Paradise/Norah Jones (『Visions』 2024年)

Underdressed at the Symphony
/Faye Webster(『Underdressed at the Symphony』2024年)

Feeling Sad Tonight/Carole King (『Rhymes & Reasons』 1972年)

A Summer Song/Chad & Jeremy(『Yesterday’s Gone』1964年)

Let No Man Steal Your Thyme/Pentangle(『Pentangle』1968年)

Grand Hotel/Procol Harum(『Grand Hotel』1973年)

Lost Stars/Keira Knightley
(『Begin Again (Music From and Inspired
By the Original Motion Picture)』2014年)

SANDY/Ronny & The Daytonas(『SANDY』1964年)

Band On The Run/Paul McCartney & Wings
(『Band On The Run』1973年)

Do It Again/The Beach Boys(『20/20』1969年)



●リリースに合わせたライブの予定が判明していればお知らせ下さい。

◎平川:リリース後は、4月から6月にかけてレコ発ツアーを予定しています。

・4月25日(土)
  東京・渋谷LOFT HEAVEN
・5月2日(土)
  大阪・天満橋RAW TRACKS
・6月20日(土)
  名古屋・鶴舞KDハポン

【詳細・予約】
アルバムの楽曲を中心に、今のバンドの形をそのままライブで伝えられたらと思っています。


●最後にメンバー皆さんから本作『Songularity』のアピールをお願いします。

◎平川:現メンバーのうち5名が作曲を担当しており、演奏面でも以前とは違う一面も覗かせる、メンバーそれぞれの個性がはっきりと表れた、非常にバラエティに富んだ曲が揃っています。初めてThe Pen Friend Clubを聴く方にも、今のバンドの幅や奥行きを自然に感じてもらえる作品だと思います。


◎西岡利恵:メンバーそれぞれの持ち味とか、バンドとしての変化がこれまで以上に感じられるアルバムなってると思います。最後まで聴いてみてもらえたら嬉しいです。


◎リカ:ボリュームたっぷりなので聴き終わると満足感もたっぷりですが、不思議とまた最初からリピートしてみようかなとも思える中毒性もあるアルバムだな、なんて思います。
聴いていると色々な国や星々を旅しているような気持ちに私はなります。
みなさんにも「Songularity」の世界をゆったりと何度でも楽しんでもらえたらいいなと思います。


◎Niina:今までのペンクラとはまったく違う、作曲したメンバーそれぞれの個性がはっきりと表れた、最高にクセになるアルバムだと思います!
一聴して「この曲めっちゃいい!」という曲もあり、何度も聴いて、しっかり聴いて、、気づいたらすごく好きになっている曲もある。
そのどちらも、このアルバムならではの楽しみ方だと思っています!


◎そい:個人的な話になりますが、アルバム制作期間中に第一子を授かりました。お腹に命が芽生えたなかでの制作でしたが、メンバーに支えられながら無事にレコーディングを終えることができました。そんな背景もあって、私にとっては特別な思い入れのある作品になっています。ぜひたくさん聴いて、それぞれの楽しみ方で味わっていただけたら嬉しいです。


◎祥雲貴行:
2枚組のアルバムというと、自分が高校生くらいのときには今よりも聴くことが多かった記憶があります。
まず曲がたくさん入っててうれしい~という無邪気な感想があって、キャッチーな1枚目と渋めな2枚目というのがありがちで、最初は1枚目の方が好きだけど聴き込んでいくと2枚目の方が好きになっていくパターン。
「Songularity」への印象もそれに似ていて、MDプレーヤーでJ-POPをヘビロテしてた当時の、今思うと自分の原点のような気持ちを思い出しました。

「Songularity」はそれぞれの曲に作曲者の個性がよく出ていながら自然な全体の調和もあるので、通しで聴くとより深い満足感があると思います。
メンバーたちの少しずつ異なる好みや生い立ちが互いにインスピレーションを与えていて、そういうところから生まれる意外性がアルバム全体の奥行きにつながっているのかなと思いました。
またそんな意外性から、ドラムのアレンジを考えレコーディングを進める過程では予想外に苦労したり楽しめたりする瞬間が多く得られました。

ときどき思わぬ角度から不意打ちをくらうような新鮮さ、バンドの中心部にある古典へのリスペクト、意欲、未来への期待。
アルバムを聴く時間を通じてそういったもの(あるいはまったく別のもの)を感じてもらえたら幸いです。


◎中川ユミ:今回の新しいアルバムは2枚組で20曲あります。毎回再生する度に(ちょっと多いな…)と思うのですが、いつの間にか2週目3週目といつまでも聴いていたりします。本当に飽きがこないので、ぜひいろいろな方に手に取ってもらいたいと思います。


◎大谷英紗子:メンバーの想いが今まで以上に詰まったアルバムになっているのではと思います。全曲オリジナル、本当にすごいアルバムです。私はレコーディングしながら、いちファンとして楽しんだ感覚でした。是非お気に入りの曲を見つけて色んな場面で聴いていただけたら嬉しいです。


(設問作成編集、本編テキスト:ウチタカヒデ