Johnny Kidd & The Piratesといえば、"元祖パブロック"や、"ビートルズ登場以前のロックンロール" と言われ、Guess Who? やThe Whoなどにもカバーされた「Shakin' All Over」のヒットがとても有名だ。海賊ルックでカットラスを振り回すライブパフォーマンスは圧巻だったという。映像がほぼ残っていないのは残念に思う。シングル音源、未発表音源が集められたベスト盤を聴いてみると、メンバーの交代が多かったこともあってか、まさにパブロックの元祖というような曲もあればマージービートの影響が強い曲、オーケストラを加えた曲など様々。パブロックの他、ロカビリー、パンク、ガレージ周辺への影響は今でも大きいように見える。
Shakin' All Over / Johnny Kidd & The Pirates
1950年代後半、ジョニー・キッド(本名: フレデリック・アルバート・ヒース)は、The Five Nuttersなどいくつかのスキッフルバンドに所属し、ペンキ職人をしながら作曲活動も行っていたそうだ。The Five Nutters時代の未発表デモ「Shake, Rattle & Roll」「She’s My Blood Red Beauty」も2015年にリリースされている。(Moochin' About – MOOCHIN12)
ジョニー・キッドと、マネージャーだったガイ・ロビンソン作の「Please Don't Touch」はJohnny Kidd & The Piratesのデビュー曲になるのだけれど、それ以前にこの曲はThe Bachelors(アイルランド出身の同名バンドとは異なる)に提供され、EMIのパーロフォン・レーベルからリリースされていたようだ。ジョニー・キッドは、その提供をきっかけに知り合ったEMIのHMVレーベルのマネージャー、ウォルター・J・リドリーからレコーディングテストを受けるように勧められて合格したことでHMVレーベルと契約する。そして1959年に自分達の「Please Don't Touch」をレコーディング、リリースした。この時、レコーディング名としてJohnny Kidd & The Piratesと名付けられた。オリジナルメンバーはリードボーカルのジョニー・キッド、リードギターのアラン・キャディ、リズムギターのトニー・ドハーティ、ベースのジョニー・(フルーツ)ゴードン、ドラムのケン・マッケイ。そしてマイク・ウエストとトム・ブラウンがバックコーラスとなる。実際にはHMVと契約していたのはジョニー・キッドのみで、他メンバーはセッションミュージシャンとしての起用だったよう。その後の活動期間中、把握しきれないほどメンバーの交代や追加のセッションミュージシャンの起用がある。
3枚のシングルをリリースした後、The Piratesはアラン・キャディを残して再編成されクレム・カッティーニ(ドラム)、ブライアン・グレッグ(ベース)が加わった。4枚目のシングルは最大のヒットとなった「Shakin' All Over」で、もともとはB面収録を予定して作られた曲だった。スキッフル歌手のチャス・マクデヴィットの店Frieght Train Coffee Barの地下で、コーラの木箱に座って6分程で完成させたそうだ。バンドでファーストテイクを録った翌日、ゲスト参加したジョー・モレッティ(Vince Taylor and His Playboysの「Brand New Cadillac」への参加でも知られる)がリードギターと、ライターを弦に当てて鳴らした音をオーバーダビングした2テイク目で完成した。想像以上の出来栄えだったためA面に変更され、1960年にリリースされるとイギリスチャート1位のヒットとなった。
ここからさらに3枚のシングルをリリースするもヒットは難しく、The Piratesの3人はバンドを離れてColin Hicks & The Cabin Boysに加入、後には「テルスター」のヒットで有名なThe Tornadosとして成功した。ジョニー・キッドはバックバンドを失い落胆していたけれど、新たにもともとThe Redcapsというバンドにいたジョニー・パットー(ギター)、ジョニー・スペンス(ベース)、フランク・ファーリー(ドラム)が加わり活動は継続した。
1962年のこの頃、ジョニー・キッドはソロ名義でのシングルをリリースしている。クライヴ・ウェストレイク作で、マイク・サムズ・シンガーズのコーラスとオーケストラをフィーチャーした「Hurry On Back To Love」は、彼らの経歴の中で注目されることは少ないけれど、これはこれでとても魅力的だと思う。
Hurry On Back To Love / Johnny Kidd
The Piratesは新体制となったものの、ジョニー・パットーが体調不良で脱退したため、ジョニー・スペンスとフランク・ファーリーは旧友のミック・グリーンを誘った。このミック・グリーンを加えたラインナップはJohnny Kidd & The Piratesの黄金時代と言われることも多く、Dr. FeelgoodやThe Who、The Rolling Stonesなど後世に大きな影響を与えている。このラインナップでリリースされた最初のシングルは1962年、アーサー・アレキサンダーのカバー、「A Shot Of Rhythm & Blues」だ。B面はボ・ディドリーのカバー「I Can Tell」。
I Can Tell / Johnny Kidd & The Pirates
1963年になると、マージービートブームの影響を強く受け、この時のマネージャー、ゴードン・ミルズが作曲した「I'll Never Get Over You」をリリースした。これはイギリス4位のヒットとなった。B面は、ジョニー・キッドとミック・グリーン作の「Then I Got Everything」。
同年、ゴードン・ミルズ作の「Hungry For Love」、B面はベン・E・キングのカバー「Ecstasy」のシングルをリリース。これらと同日に録音していたリトル・ウォルターのカバー「My Babe」と、エドウィン & アルヴィン・ジョンソン作の「Castin' My Spell」はThe Piratesのソロシングルとして1964年にリリースされた。
次のシングルは、ナポリ民謡の「サンタ・ルチア」に英詞をつけてアレンジした「Always and Ever」だった。そしてB面曲の「Dr. Feelgood」は、70年代の代表的なパブロックバンドDr. Feelgoodの名前の由来にもなった、傑作のひとつとして語られる曲だ。
しかしこの頃からは、以前のキャバーン・クラブなどでのライブと異なり、ブラックプールで犬の出し物の後にライブをさせられるなど、退屈なショーが続きミック・グリーンはうんざりしていたそう。1964年の「Jealous Girl」のリリースを最後に彼は脱退し、Billy J. Kramer With The Dakotasに加入した。ジョニー・スペンスとフランク・ファーリーはバンドに残り、ギタリストが何人か加入脱退を繰り返すも失敗続きだった。
1965年、カナダのバンドGuess Who? が「Shakin' All Over」をカバーし、大ヒットする。カナダで1位、アメリカで20位を記録した。Guess Who? はもともとChad Allan And The Expressionsというバンドだったのだけれど、当時カナダのバンドは興味を持たれにくかったため、レコード会社はこのシングルをGuess Who? の名義で偽装し、ブリティッシュ・インヴェイジョンに紛れたバンドであるかのように見せかけてプロモーションした。「Shakin' All Over」が大ヒットしたことで、その後もこの名前が定着してしまったそうだ。後にクエスチョンマークをとり、The Guess Whoとなった。この年、本家のJohnny Kidd & The Piratesも「Shakin' All Over」の新バージョンをリリースしているのだけれど、注目されることはなかったようだ。
ミック・グリーン脱退後に4枚のシングルがリリースされ、その最後はジョニー・キッドのソロ名義で1966年にリリースされた「It's Got To Be You」だった。バックにジョニー・ハリス編曲のオーケストラ、バックボーカルにはThe Marionettesが参加し、ヒットを見込んでいたもののチャートインしなかった。
この後バンドは解散し、落ち込んだ生活を送っていたジョニー・キッドが音楽活動そのものを辞めることも考えていた時、ジョニー・キッドに雇われていたオルガン奏者レイ・ソーパーが、ジョニー・キッドのファンだったベーシスト、ニック・シンパー(後にDeep Purpleに加入)に連絡をとる。ニック・シンパーは同じくJohnny Kidd & The Piratesファンのロジャー・トゥルース(ドラム)とミック・スチュワート(ギター)に連絡し、新しいThe Piratesとしてジョニー・キッドを誘った。彼らの演奏が素晴らしく、元気をとり戻したジョニー・キッドは再びツアーを開始する。もともとはソロに転向する予定で、黄金期のメンバー、ミック・グリーン、ジョニー・スペンス、フランク・ファーリーにThe Piratesを名乗る権利を許可していたため、(このThe Piratesの活動は2000年代まで続いた)ジョニーキッドの新しいバンドはJohnny Kidd & The (New)Piratesと呼ばれた。再び観客からの期待も高まり始めた最中だった。1966年10月、移動中のジョニー・キッドとニック・シンパーが乗っていた車が衝突事故を起こす。2人は病院に搬送され、ニック・シンパーは一命をとりとめる。しかしジョニー・キッドは病院到着時に死亡が確認された。最後のシングルになった「Send For That Girl」はジョニー・キッドの死後にリリースされた。
回転する盤の上で、当時の声がよみがえる。この60周年に合わせ、いまも歌い続けるメンバーたちが当時を語った記事がいくつも出ている。なかでも米 Variety 誌や AP 通信(いずれも2026年5月)は、記念式典の前後に Mike Love、Al Jardine、Bruce Johnston へ取材し、Pet Sounds をめぐる証言を引き出していた。取材中、Al Jardine は Hollywood のランドマークの上階の窓の外をカモメが舞っているのに目をとめ、太平洋までがこのアルバムを祝福しているようだ、と笑ったという。そして Al Jardine は、「Sloop John B」誕生のくだりをこう語っている。バンドを始めた頃から、自分はフォークソングをやりたかった――と。もっとも、その願いはなかなか叶わなかった。そもそも The Beach Boys がサーフィンの歌で売り出したのは、サーファーだった Dennis Wilson のひと声がきっかけだったという。自分たちはサーフィンをやっているのだから、その歌を作ればいい、と。それがそのままバンドの看板となり、フォークの出番はずっと後回しにされてきた。それでも Al は諦めず、もとは "The Wreck of the John B" と呼ばれていたこの曲を Brian に持ちかけ、「コードをひとつ足そう、ハーモニーを広げられる、このフォークソングを The Beach Boys の曲にできる」と説いた、と。そして、1958年にこの曲を吹き込んだ Kingston Trio を自レーベルに抱えていた Capitol Records に感謝する、とも言い添えた。それがこの好機を与えてくれたのだ、と。 Al が言う「コードをひとつ足す」とは、控えめな言い方である。その実、半世紀以上にわたって語り継がれてきた逸話は、もう少し具体的だ。フォーク好きの Al が、ピアノに向かう Brian に Kingston Trio 版を弾いてみせたところ、Brian は「Kingston Trio は得意じゃない」とにべもなかった。それでも諦めず、Al は原曲のままでは「通用しない」と見た。三つの和音だけで素朴に進むフォークの、サブドミナント(IV)からトニック(I)へ明るく戻る、その素直な解決の途中に、Al は二度の短和音(ii)をひとつ滑り込ませた。長調の中に、半瞬だけ短調が翳る。IV → I という単純な往復を、IV → ii → I という三角形の寄り道へと変えたのだ。たったそれだけの工夫で、平板だった折り返しに「ふっ」とした陰影が生まれ、ヴォーカルがコーラスを広げる余地ができた。あの「I wanna go home...」を支える独特の哀切は、この一つの ii から始まっている――そう The Beach Boys 流に組み替えてみせ、翌日には Brian がスタジオへ呼んでいた、というのが Al 自身の証言であり、ライナーノーツにも刻まれた定説である。素朴な海の歌が、わずか一日で、あの緻密なポップ・コーラスの傑作に化けたのである。 その Brian の凄みは、Mike Love の有名な皮肉に裏返って残されている。完成途中の音を聴かされた Mike が、こんなものは誰の耳に届くんだ、と Brian に向かって言ったというのである――「犬の耳にでも届くのか?(The ears of a dog?)」と。バンド内随一の売れ線派だった Mike にとって、Brian が踏み出したこの内省的で実験的な領域は、売れる The Beach Boys の方程式から外れた危なっかしい寄り道に見えていた。だからこその「犬の耳か?」だったわけだが、揚げ足取りのつもりだったろうこの一言を、Brian はかえって気に入ってしまう。録音の幕切れには、Brian の愛犬 Bananaと Louieの吠える声が、過ぎゆく汽笛とともに忍ばせてある。アルバム名は Pet Sounds――ペットの音、と決まった。もっとも、誰がこの題を発案したかは諸説あって、Brian は「Mike のあの皮肉が着想源だった」と語り、当の Mike は「犬が吠えていたから自分が『Pet Sounds と呼ぼう』と言ったのだ」と譲らない。どちらが正しいかは、もう確かめようがない。確かなのは、犬の声と一枚の名盤が、互いに名を貸し合っていたという事実だけである。以来 Mike は Brian を「Dog Ears」――犬の耳――と呼ぶようになった。他の人間には聴き取れぬものまで録音から拾い、ついでにメンバーの不純な思考まで聴き分けてしまう、というわけだ。ついでに Mike は、当時のスタジオでの Brian を「Stalin of the Studio(スタジオのスターリン)」とも呼んでいたと、後年笑いながら振り返っている。完璧主義の独裁者、ということなのだろう。商売の物差しで毒づいた男と、その物差しに収まらぬ耳をもった男――皮肉が逆向きに刺さってアルバムの題になったのだから、世の中、わからないものである。 アルバムの商業的失敗は、Brian に深い影を落とした。Mike Love は振り返る――あれほど多くを注ぎ込み、あれほど力を尽くしたのだから、Capitol Records のあの冷淡な扱いに、彼が打ちのめされなかったはずがない、と。
Bruce Johnston の加入経緯は、本人の口にかかるとあっけないほど身も蓋もない。「僕は Columbia Records の A&R マンだった。Mike が電話してきたのは、業界の人間を一通り知っていたからだ」。レコード会社の内側で新人を発掘し、プロデュース・アレンジ・契約を取りまとめてきた男――その業界知識ごとバンドに呼ばれた、というわけだ。1965年加入の彼は、Pet Sounds 録音のほんの少し前に合流したばかりで、60年後のいまもなお「新参者」と冗談半分にからかわれる。六十年経って「新参者」――こうなるともう、終身名誉新参者と呼んでさしあげるべきだろう。とはいえその「新参者」は、全13曲からなる Pet Sounds のうち、6曲ほどでバッキング・ヴォーカルに加わっていたとされる。ゴールド認定が2000年まで遅れた理由を問われると、Bruce は元 A&R マンの顔に戻った。Capitol がつけたと言っていた宣伝予算は、Pet Sounds ではなく別のところに流れていたのだ――そう皮肉まじりに種明かしをしてみせる。今でこそ「Pet Sounds は名盤」と讃えているが、内側ではドル箱の別の盤に予算をつぎ込んでいた、業界の二枚舌。商売とは、つまりそういうものなのだ、と。A&R マン時代に、レーベルがどう数字を粉飾し、どう旧譜を黙殺し、どの口実でプロモ予算を新譜の弾に付け替えるか、ラジオを回すための袖の下――いわゆるペイオラ――が誰の懐にどう流れるか、そのえげつない裏側を散々見せられてきた男の言葉だけに、説得力がある。 もっとも RIAA の記録をたどると、真相はもう少し間が抜けていて、そのぶん可笑しい。そもそも RIAA は、レーベルが全出荷記録を添えて正式に申請しないかぎり、指一本動かさない。ところが Capitol は、肝心のその書類をどこかへやってしまっていた。数年越しでようやく申請にこぎ着けたかと思えば、出荷履歴を掘り起こせずに取り下げる始末。結局2000年、直近15年分の数字だけをかき集めて、ようやく再申請に漕ぎつけた。逆算すれば、この不朽の名盤は34年かけて50万枚――年に1万5千枚ずつ、つまり一日およそ40枚という、実に慎ましいペースでゴールドに到達したことになる。同じ2000年2月、R&B 歌手 Angie Stone(2025年に他界)のデビュー作 Black Diamond は、発売わずか4か月でゴールドに認定されていた。同じ月の認定リストに、片や4か月、片や34年。だが、この不思議な数字は統計のいたずらに過ぎない。RIAA が数えるのはレコード会社から店舗へ「出荷」された枚数で、客がレジでいくら買ったかは映らない仕組みになっているからだ。一方、Billboard 誌のチャート集計元として知られる SoundScan という別の追跡会社は、1991年から全米の小売店のレジ・バーコードをスキャンして、実際にレジを通った枚数を数えてきた。その数字をひもとくと、Pet Sounds は1991年からの九年間だけで21万枚も売れていた。要するにこの傑作は、売れていなかったのではない。誰かの机の引き出しの奥で、自分を証明する一枚の書類が見つかるのを、34年間ただ黙って待っていたのである。
60年が過ぎた。針を落とせば、肉眼には見えぬ絵が盤の上で回り出し、回転の中から Wouldn't It Be Nice の最初の一音が立ち上がるなんて、とっても素敵なことじゃないか?。Brian の耳だけが聴いていた音は、いまも止まることなく回り続けている。私はその回転を、ただ眺めていたかったのだ。
和製ブラジル音楽シンガー・ソングライターのTOYONOが、音楽活動デビュー25周年記念を飾る今年、7thアルバム『A Delicadeza do Instante 瞬間の繊細さ』からの先行シングルとして、竹内まりやの『夢の続き』(unchantable records / UCT-065)をカバーして、アナログ7インチで5月27日にリリースする。
前作『黒髪のサンバ』(VICL-64639)から、実に10年振りとなるニューアルバム『A Delicadeza do Instante』には期待が高まるばかりだが、その完成度を計り知れるのが、この7インチ『夢の続き』と言えるだろう。
1990年代にパンデイロ奏法に革命を起こしたスザーノについては説明不要かも知れないが、日本の音楽界にも信奉者が多く、THE BOOMの宮沢和史から山崎まさよしなど著名アーティストにまでその影響力は及んでいる。なおスザーノがギタリストのレニーニとのユニットで1993年にリリースした『Olho De Peixe(魚眼)』は一家に一枚の必聴アルバムであることを付け加えておく。
カップリグのAKAKAGE's Back to 90's Remixヴァージョンでは、シェイク系のややアップテンポなリズムトラックにアダプトされ、90年代ハウスミュージック風のピアノは、大阪を拠点に活動するキーボーディストの岩井ロングセラー(Iwai Longseller)がプレイして、クラブ仕様のサウンドに仕上げている。この7インチのアートワークにも触れるが、なんと、このリミックスをしたAKAKAGE=伊藤陽一郎自身が手掛けているおり、その多才さで八面六臂の活躍をしている。
2026年にソロデビュー25周年を迎えたTOYONOは、その歩みと新たな挑戦を刻むリオ制作の記念アルバム『A Delicadeza do Instante 瞬間の繊細さ』を携え、5月23日にTOKYO FMホールにてアニバーサリー公演を開催する。