2026年8月16日日曜日

『We Gotta Groove』開封・解読記 ―― 1976-1977のテープ記録を追いかけて

     前回、当コラムでは『Pet Sounds』の60周年記念盤を取り上げた。だが、実を言えば、もう一つの“本命”も同時に筆者の元へ届いている。1966年の『Pet Sounds』、そしてそのちょうど10年後。順番こそ逆になってしまったが、今回満を持して紐解くのは、ボックスセット『We Gotta Groove』である。単なる豪華な復刻箱の「開封記」として終わらせるつもりはない。本稿でやりたいのは、付属ブックレットの末尾に小さく刻まれた「完全セッショノグラフィ」を、日付順に丹念に洗い直すことだ。誰が、いつ、どのテープを回し、誰が卓に座ったのか。記録された数字と名前の点を繋ぎ合わせていくと、1976年から77年にかけてのBrianの十五か月と、あのスタジオで実際に何が起きていたのかが見えてくる。

Ⅰ 外箱


 12インチ角の外箱で、側面が開いており、中身はそこから引き出す。表にはあの円形のステンドグラスがある。青と紫のガラスが暗い木枠の中で放射状に組まれた、発表時から出回っている図柄で、いまさら説明も要らないだろう。ただ、この窓がなぜそこにあったのかは、ブックレットを読むまで筆者も知らなかった。それは後述する。厚みも重さも三枚組の箱としては標準的なところ。側面から中身を引き出すと、しっかりした手応えがある。


 裏を返すと、褪せた紙を模したクリーム地に、手書き風の書体で73曲の題名が三段に並ぶ。上に Brother Studio のロゴ、下端に Santa Monica, California 90401 ――Brother Studios があった 1454 5th Street の郵便番号である。手書きの曲名、スタジオのロゴ、街の名と郵便番号。この面は、テープの箱に貼るラベルの体裁で作られている。その曲目表には、34曲に※印が振られている。CD Only。LPに入るのは73曲中39曲。この非対称は発売前から公表されていたし、買った人間は全員それを承知で買っている。問題はそこではなく、何をLPに残し、何をCDへ送ったかにある。その選別に、本作の思想がはっきり出ている。Ⅲ章で見よう。
外箱から引き出されるのは、3枚のLP、紙ジャケットに収められた3枚のCD、そして40ページのブックレットである。


Ⅱ ブックレット ―― ミックスダウン欄を読む

 そのブックレットは、本の顔をしていない。角の潰れた段ボール箱――正確には、そう見えるように刷られた表紙だ。染みも折れ皺も、粘着テープを剥がした跡まで印刷されている。裏面には Scotch のタータン・チェックが刷られた券面。206 - 2 - 2500。3M の Scotch 206、幅2インチ、長さ2500フィート。当時のスタジオが基準として調整に使ったマスタリング・テープである。その脇に手書きで二行。30 IPS NON DOLBY。



 毎秒30インチ、雑音低減なし。特別な選択ではなく、当時の一流スタジオの多くがそうしていた。だがこの一行のおかげで、Brother Studio が15 ips 側ではなく30 ips 側だったことが分かる。同じ表記は『Love You』期のテープにも、また翌年の『Adult/Child』期にも現れるから、あのスタジオは少なくとも1976年から77年にかけて一貫してそちらだったことになる。中身はアルバムではなくテープなのだと、装丁が一文字も読まないうちに告げてくる。
 開くと、Howie Edelson の解説と写真、そして末尾に完全セッショノグラフィがある。作成者は Craig Slowinski ほか四名。全収録曲について、いつ、どこで、どの幅のテープの何トラックに録られ、誰がいつミックスしたかが記されている。この稿は、その欄を日付順に読み直す試みである。
 1976年初頭から翌1977年6月まで。本作ブックレットによれば、セッションが正式に始まったのは1976年1月である。ただしセッショノグラフィに日付の入る最初の録音は3月9日で、最後の記載は翌1977年6月25日。テープが実際に回っていたのは、その十五か月あまりということになる。この十五か月に、Brian は三枚分の録音を残した。1976年春の『15 Big Ones』、同年夏から冬の『Love You』、そして翌1977年の『Adult/Child』。順に見ていくこととする。


レコーダー部の拡大:右から2トラック 16トラック 24トラックが設置

 まずスタジオの造りから。ブックレットのコントロール・ルーム写真には、ミキシング・コンソール――現場でいう「卓」――の右にテープ・マシンが三台並んでいる。手前から2トラック、16トラック、24トラック。当時としては標準的な構成で、三台はそのまま制作の三段階にあたる。思いつきは一般のカセットに、本番の録音は24トラックに載り、トラックダウンされたものが2トラックへ落ちる。実際、1976年8月21日には24トラックと16トラックが同じ日に動いている。その卓の向こう、ガラス窓の先が録音室である。Earle Mankey は後年、その部屋を絨毯を貼り詰めたひどくデッドな空間で、寸法は Western の Studio 3 に近かったと証言している。そして設計したチーフ・エンジニア、Stephen Moffitt は、その構造を語っている。スタジオは基本的に長方形で、突き当たりに大きな空間があった。彼はそこに棚を組み、バンドのアーカイヴ・テープをすべてその裏へ収めた。すると壁が一つできる。ここは良い壁になる、端に何か意匠を入れよう――そう考えた彼は、大工の友人に八フィートの円形の枠を作らせ、知り合いのガラス職人に「この八フィートの円に北の空を」と頼んだ。背後に照明を置き、植物を配し、夜になると他の灯りを落として、そこだけを灯した。夜に音楽を作るには実に良い場所だった、と彼は言う。外箱のあの窓は、演奏者が立つ部屋の、いちばん奥にあった。その裏に、バンドの過去が全部積まれていたことになる。
 そして、その窓の前にピアノが置かれていた。Brian 自身がそう語っている。スタジオを作曲環境として使ってきた、良い環境だ、ピアノのすぐ後ろに円形のステンドグラスの窓があって、少し霊的な効果を与えている、あそこにいると安心するんだと振り返る。それ以前は自宅で作曲していていたが、直近はこのスタジオ中心だという。Moffitt はテープ棚を隠すために壁を作り、その端を飾った。Brian はその壁を背にして、『Love You』以降の作品群を書いていたのだ。

※二つの証言の出どころについて

インタビュー DIR


インタビュー2 WNEW-FM

本稿では、1976年から77年にかけてのラジオ・インタヴューを引用する。
 一つは、DIR Broadcasting が制作し、Dave Herman が聞き手を務めたもの。DIR は King Biscuit Flower Hour で知られる番組制作会社、Herman は WNEW-FM の名物 DJ である。ブックレットの出典欄は、これを1977年としている。
 もう一つは、WNEW-FM の Pete Fornatale によるもの。同出典欄には Fornatale が二度出てきて、WNEW の1976年のものと、Crawdaddy Rock Review の1977年のものが並ぶ。どちらも現在は「1977年のインタヴュー」として流通しているが、収録はもっと早いはずだ。中身がそれを示している。
 Herman との対話で、Brian は 『15 Big Ones』 を発売済みとして語り、『Love You』 をまだ 『Brian Loves You』 と呼び、「Still I Dream Of It」を二、三週間前に書いたばかりだと言っている。Fornatale との対話はもう少し絞れる。『15 Big Ones』 を「今年の春」の仕事として語り、8年ぶりのトップ10シングルを「今年」と言い、Rolling Stone の表紙記事を「最近」と呼び、Saturday Night Live に一人で出た件に触れている。その番組の放送は1976年11月27日だから、1976年の11月末から12月と見るのが自然だろう。
  Herman 版には、こういうナレーションが挿入されている――この会話が録音された直後、「The Beach Boys は題を『 Brian Loves You 』から『The Beach Boys Love You』 へ変更した」、と。収録は1976年、放送は題名変更後ということになる。「1977年」という表示は、放送または掲載の年を指しているのだろう。

1976年春 ―― 15 Big Ones、チーフ・エンジニアの期間

 1976年3月から5月。engineer 欄を見ると、Moffitt が大半を占め、Mankey が四曲。スタジオを設計した男が、自分の現場に立っている。当たり前の姿である。このアルバムの収録曲は多くが2025年ミックスのため、当時のミックス記載はほとんどない。唯一「Shake, Rattle And Roll」に April-May 1976 – Stephen Moffitt とある。

引き継ぎ ―― 二つの流儀

 もっとも、engineer 欄をよく見ると、この三か月のあいだにも名前が入れ替わっている。1976年3月9日「Sea Cruise」、10日「On Broadway」、15日「Mony, Mony」、16日「Just Once In My Life」と「Rock And Roll Music」、17日「Chapel Of Love」、18日「TM Song」。九日間で七曲、すべて Moffitt である。
 Mankey の名が現れるのは、同年3月30日の「Had To Phone Ya」から。以後、4月13日「Running Bear」、14・15日「Shake, Rattle And Roll」、5月8日「Short Skirts」。混在ではなく、交代である。
 なぜ交代したのか。ブックレットに、Moffitt 自身の説明がある。ただし彼が語っているのは雇った理由のほうだ。Earle を雇った一因は、彼の技術力を買ったからだという。電子機器を直せたのだ。自分も直せたが、いつも時間と気力があるわけではない。だから修理や整備の良い後方支援になった訳だ。そして自分は、ミックスを担当していた、と振り返る。つまり Mankey は当初、技術屋として採られている。実際、彼が Brother に入ったのは1974年頃で、覚えている最初の本格的なセッションは Elton John の「Don't Let The Sun Go Down On Me」のヴォーカル録りだった。『Love You』 の二年前である。役割が変わるのが1976年春で、そこで初めて二人の流儀の違いが表に出た。Moffitt はこう続けている。ミックスについての自分の考えは、Carl And The Passions のときからずっと同じだ。できるだけクリーンに、ありのままテープに入れて、途中で音をいじらないこと。Earle はまったく逆で、テープに入る前にいじるのが好きで、やりたいことを何でもやってしまうんだと語る。
加工した音を、そのままテープに録るということである。
 いじる手立ては三つある。イコライザーで周波数を削るか持ち上げるか。コンプレッサーで音量の幅を詰めるか。そしてエフェクター――フェイザー、ファズ、ハーモナイザーの類を通すか。素の音を録っておいてミックスの段階でこれらをかけるのが Moffitt、かけた状態で録ってしまうのが Mankey である。後者では、あとから音の足し弾きができない。低域を削って録れば、その低域はもう存在しないから、ミックスで上げようにも上げる元がない。ハーモナイザーを通して録れば、通していない音は取り出せない。
 だから Moffitt はこう言う。こちらは音の全帯域が手つかずでない状態でミックスすることになるから、エフェクトありの音を最初から扱うのはかえって難しい仕事になる。それが我々の流儀の違いだったと回想する。
『Love You』 のクレジットを見ると、その違いが目に見える。grand piano w/harmonizer。electric guitar w/phaser。electric guitar w/fuzz。Hohner Clavinet C w/Leslie speaker。エフェクトが、楽器名の一部として書かれている。ミックスでかけたのではなく、そう録ったわけである。Moffitt の流儀では、このアルバムは成立しない。1972年から自分でミックスしてきた男である。Mankey が修理と補助にいるあいだは衝突しようがなかったが、彼が録り始めた瞬間に、卓の上の前提が変わった。そして同年8月。『Love You』のセッションが始まると、録音は全曲 Mankey になる。Moffitt が engineer として最後に現れるのは、日付も曖昧な「Clangin'」――1976年の春から夏のどこか、一曲きりだ。
 その Moffitt が最後に卓に着くのが、同年10月2日・4日・5日の三日間である。トラックダウンしたのは、アルバムに使わない古いテープだった。ただしこれは、彼にしかできない仕事でもあった。あの部屋の奥、ステンドグラスの裏にバンドのアーカイヴ・テープを積んだのは Moffitt 自身であり、どこに何があるかを知っているのは棚を組んだ男である。1965年の「Sherry She Needs Me」、1970年の「Good Time」、1972年の「Lazy Lizzie」、1974年の「Ding Dang」。自分が仕舞ったものを、自分で出してきたことになる。
以後、Moffittの名はミックス欄から消える。
 入れ替わりに、Mankey が全部を引き受ける。同年11月16日には一人で四つの試作を仕上げ、12月末から Carl と組み、翌1977年には『Adult/Child』のすべてを一人で担う。Halfnelson ――のちの Sparks ――のギタリストだった男が、1973年に卓の側へ回って三年目のことである。付け加えておくと、Mankey はこのあと LA のパワー・ポップとパンクの現場へ移る。The Quick、Runaways、20/20、The Pop、Dickies、Three O'Clock、Long Ryders。そして本作ブックレット自身が、『Love You』 を1980年代の New Wave以後の早い影響源として挙げている。録る段階で音を作り込む流儀は、そのままパワー・ポップの作り方でもあった。因果は言えないが、Brother でこの一枚を録った男が、そのまま次の十年の音へ歩いていったことは事実である。
Moffitt が設計した部屋は、この十五か月のあいだに Mankey の部屋になっていた。

1976年夏から冬 ―― Love You、三つの局面

 1976年8月から翌1977年1月まで。ここでミックスの現場は三つの局面に割れ、しかも三つは目的がまるで違う。その前に、このアルバムの出自を確認しておきたい。もともとの仮題は 『Brian Loves You』 で、Brian は自分名義で出すつもりだった。Herman との対話で、Brianはその題について嬉しそうに語っている。今回は投票にかける必要がなかった、一人ずつ当たったら全員が乗った、Brian loves you も Jesus loves you も同じことだろう、精神は変わらないんだと語る。ところが同じ1976年12月の別のインタヴューでは、ソロを出したいがバンド内の政治を刺激したくない、メンバーもこの素材を The Beach Boys のために取っておきたがっている、とも言っている。同じ人物が、同じ月に、二つのことを言っているわけである。そしてタイトルは実際に変わった。本作ブックレットは、より包括的な 『The Beach Boys Love You』 が選ばれたと記す。Herman 版の番組には、「この会話の直後に変更された」というナレーションが入る。全員が乗ったはずの題が、結局、『The Beach Boys Love You』 になった。
 さて、1976年8月から見ていこう。この月に24トラックが回ったのは、18日と21日の二日だけである。18日に「Ruby Baby」、21日に「Marilyn Rovell」と「I Wanna Pick You Up」。同じ21日、Brian は1965年の「Sherry She Needs Me」を棚から出して歌を入れ、この月のどこかで1972年の「Lazy Lizzie」にも手を加えている。新しく立ち上げたのは二曲、あとは古いテープへの追加録音だ。そしてこのうちアルバム本編に残るのは「I Wanna Pick You Up」一曲だけである。本セッションが始まるのは、この一か月半あとになる。

10月という月

三つの局面に入る前に、10月の異常な密度に触れておきたい。この十五か月の中で、ここだけが明らかに熱量のピークだ。
1976年10月13日「Honkin' Down The Highway」
     20日「The Night Was So Young」と「Let's Put Our Hearts Together」
     21日「Mona」
     27日「Let Us Go On This Way」
     28日「Love Is A Woman」。日付の特定できるものだけで六曲ある。
これに「1976年10月」とだけ記された「Roller Skating Child」「Solar System」「I'll Bet He's Nice」「Airplane」、そして「10月から11月」の「Johnny Carson」を足すと十一曲。『Love You』 のアルバム本編は十四曲だから、その大半がこの一か月で立ち上がったことになる。
 前年春の『15 Big Ones』 は三か月で十一曲。翌1977年の『Adult/Child』は五か月で八曲。1976年10月の一か月の密度は、1977年の五か月のそれを大きく凌駕している。そして1976年11月から翌1977年1月までの三か月、新しい曲は一つも立ち上がっていない。この期間に行われたのは、すでにあったテープへの重ね録りとミックスだけである。立ち上げと積み上げが、時期として分かれている。10月に十一本のテープをこなし、以後三か月それを蓄積し、12月末から仕上げにかかる。これから見る三つの局面の概要だ。

局面その一。1976年10月2日、4日、5日――旧作の棚卸し。Moffitt が一人。

この三日間に処理された曲は「Ruby Baby」「Marilyn Rovell」「Sherry She Needs Me」「Lazy Lizzie」「I Wanna Pick You Up」「Good Time」「Ding Dang」。すべて Moffitt 単独のミックスである。対象を見ると、1965年、1970年、1972年、1974年、そして1976年8月の録音ばかりだ。『Love You』の本編に使う曲のテープは、この時点でまだ一曲も存在していない。本セッションが動き出すのは10月13日以降である。つまりこれはアルバムのためのミックスではなく、8月に引っ張り出した古いテープを、聴ける形に整えていただけということになる。中でも「Sherry She Needs Me」の経歴は特異である。1965年3月29日に Western Recorders Studio 3 で1/2インチ3トラックに録音。1970年頃に Bel Air の自宅スタジオで2インチ16トラックへ移し替え。1976年8月21日に Brother でヴォーカルを追加し、同年10月4日に1/4インチへ落とされた。本作ブックレットのエンジニア欄には、Chuck Britz、Stephen Desper、Earle Mankey の三人が並ぶ。三人は三つの違う仕事をしている。Britz が演奏を録り、Desper がテープを移し替え、Mankey が歌を乗せた。目を引くのは二番目である。テープを移すだけの作業に、なぜエンジニアの名が残るのか?単なる複製ではないからだ。3トラックの音を16トラックのどこへ振り分けるか。左右をどう配し、どのトラックを空けておくか。1970年頃の Desper は、そこで判断をしている。
 ただし、その時点で新しい音が足された形跡はない。移し替えたきり、テープは六年ほど棚にあったことになる。1976年8月21日、Brian はそれを引き出し、題を改め、リード・ヴォーカルを重ねた。六年前に空けておいたトラックへ、歌を入れたわけである。

局面その二。1976年11月16日――候補を並べる日。Mankey が一人。

 この一日にミックスされた四曲は、すべて別ヴァージョンである。「Let Us Go On This Way」の別ミックス、「Love Is A Woman」の Al Jardine 歌唱版、「Johnny Carson」のイントロ付き、そして「Honkin' Down The Highway」の Billy Hinsche 歌唱版。誰に歌わせるか、イントロを付けるか。一日で四つの案を作り、並べて比べている。そして四曲とも、アルバムには採用されなかった。「Love Is A Woman」は Al のリードが落とされ、「Johnny Carson」もイントロなしが採られ、「Honkin' Down The Highway」は Billy Hinsche ではなく Al Jardine が歌うことになった。もっとも、別のリードを録っては落とすこと自体はセッションの常態だった。前年春の15 Big Ones 期にも、「Mony, Mony」に Billy Hinsche、「Sea Cruise」に Mike Love の不採用リードが残っている。11月16日が異例なのは、四つの案を一日でまとめて仕上げたことのほうだ。

局面その三。1976年12月29日――本番が始まる。Carl が座る。

 この期の特異な点は、Carl のミックス現場への登場である。のちに LP へ Mixdown Producer の肩書きが付く経緯につながる。Mankey と Carl の組が仕上げたのは、本編14曲のうち11曲。そのミックス日は、9曲までが「1976年12月、もしくは1977年1月」という曖昧な記載である。「Airplane」だけが「1977年1月」と月まで絞られる。
そして一曲だけ日単位まで分かっている。
「Johnny Carson」――1976年12月29日、Earle Mankey & Carl Wilson。
 Carl に Mixdown Producer の肩書きが付く曲のうち、日付の判明する唯一のものだ。年末の一日、あのアルバムのなかでも最も奇矯な曲から、Carl の仕事は始まっている。しかもこの曲は、同年11月16日に Mankey が単独で別ミックスを作っていた曲でもある。一度作った案を、Carl を迎えてやり直しているわけだ。
 残る三曲――「Good Time」「Ding Dang」「I Wanna Pick You Up」――は Moffitt 単独で、いずれも1976年10月4日か5日と日付がはっきりしている。新しく録った曲に、Moffitt は一度も触っていない。そしてもう一つ、Carl の名はアウトテイクには一度も現れない。「You've Lost That Lovin' Feeling」は1976年10月から翌1977年1月まで、まさに Carl が本編を仕上げていた同じ期間に、Mankey が一人で処理している。11月16日の四曲も同様だ。
 記録の精度も、担当者で分かれている。1976年10月に Moffitt が一人で処理した分は日まで残るのに、12月以降に Carl が加わった分は月すら定まらない。年末年始をまたいで断続的に作業が続いたのだろう。あるいは、テープ箱への記入が追いつかなかったのかもしれない。

その1976年12月に、もう一つのことが起きている。
 Brian を24時間態勢で管理していた Eugene Landy が、解任された。理由は報酬で、月一万ドルから始まった額を、彼が二万ドルへ倍増させたためだったという。解任を実行したのは Love 家の人間だったとされる。資料によって Mike の弟 Stan とも Stephenとも記されるが、いずれにせよ Brian の身柄の管理は、この時点で主治医の手からいとこたちの手へ移った。翌1977年5月、裏庭で Brian にボールを投げさせることになる男も、その一人である。
後見役が消えた月に、弟が卓に着いた。因果は証明できないが、時期はぴたりと重なる。


 入れ替わりに現れた Carl が何をしたのかは、本作の Creative Director である Alan Boyd が語っている。彼は当時からあの肩書き――Mixdown Producer――に驚いていたという。レコーディングの現場でそんな表記を見たことがなかったが、後年マルチトラックを精査する機会を得て、理由が分かった、と語る。Brian のトラックの録り方では、どのパートも曲の頭から終わりまで同じヴォリュームで一斉に鳴ってしまう。そのままなら、多くの曲が「Mona」のような響きになっていたはずだ、と Boyd は主張する。
 その起伏を、卓の上で作った男がいる。Carl である。フェーダーで各トラックの出入りを付け、奥行きを配し、曲に呼吸を与える。Carl こそがこのレコードを特別なものにした一因なのだと Boyd は言い、「Let Us Go On This Way」と「The Night Was So Young」がとくにそうだと挙げている。
なぜ、それを Brian 自身がやらなかったのか?
現場の側からも裏が取れる。Moffitt はこう語っている。
Brian は頭の中でテープが回っていたから、誰に何を弾かせるか分かっていた。必要なら自分で弾いて見せた。完全に古い流儀だが、古い流儀の良いところは時間を無駄にしないことだ。録音はまず歌から入り、その下にベースを敷く。ラジオで音楽を聴けば、聴こえてくるのは結局その二つだからだ。残りの楽器は、あとからその周りに配置していく。あんなやり方をする人間を、他に見たことがないね!
そして Moffitt はこうも続ける。Brian はミックスに関心がなかった、曲に四つ五つのパートが一斉に鳴っていても構わなかった、たとえそのパートの一つが二十人編成の管弦楽であってもだ。
それでも一つの塊こそが、Brianの音楽の響きなのだと。
そしてある日、Brian は Moffitt にこう言ったという。自分は片耳が聞こえない。だから状況はそっちで判断して教えてくれ。
録るところまでは、一人でできる。何をどう弾かせるかは、頭の中で鳴っている。だがトラックダウンしたとき、全体がステレオでどう聴こえるかを彼は判断できない。そこだけは、他人に委ねるほかなかったのだ。

九曲のカセット ―― 1976年10月の別のテープ

 その1976年10月には、もう一つ別のテープが回っていた。Disc 3(CD) の末尾に収められた、Brian のカセット・デモ九曲である。ピアノと歌だけ。10月の『Love You』及び棚卸し三日間と、年末の本セッション開始のあいだに、この録音が挟まっている。
なぜカセットだったのか?
セカンド・エンジニアの John Hanlon が理由を明かしている。Moffitt からこう指示されたという――マイクを二本立てて、この Nakamichi のカセット・レコーダーで全部録れ。Brian の邪魔をするな、録っていることを言うな。とにかく全部押さえろ。これはセッションじゃない、と。ある意味、意図的だった。Brian にまた創作させ、この素晴らしい仕事をさせようとしていたからだ。カセットが選ばれた理由も彼が明かす。Brian は八時間そこにいることもあった。スタジオのテープでは足りない。15 ips で回せば一巻三十二分、すぐに消費してしまう。あれは大げさにせず、ただ座って書くためのデモのはずだったと振り返る。

その九曲が、その後どうなったか。行き先で分けてみる。
デモの曲名行き先Mike の声
That Special Feeling未発表
It's Over NowAdult/Child
They're Marching Along1988年のソロ盤
Love Is A WomanLove You
MonaLove You
AirplaneLove You
Let's Put Our Hearts TogetherLove You
I'll Bet He's NiceLove You
Still I Dream Of ItAdult/Child
 五曲が『 Love You』 へ、二曲が 『Adult/Child』へ。一か月分の弾き語りから、二枚のアルバムの材料が同時に出てきている。ブックレットもそう書いていて、Brian の朝の作曲時間が、一枚ではなく二枚の新しいアルバムの種を生んだ、としている。
そして本人も、そう思っていたらしい。
1976年の暮れ、Fornatale との対話で Brian はこう語っている。ちょうど一か月ほど前、二枚のアルバムを録った。予定より二枚先行しているよと答える。聞き手が「待ってくれ、新作が二枚もか!」と聞き返すと、そうだ、とさらに答えている。
だがBrotherでのテープ処理記録は、そうなっていない。Brother で本番の録音が始まるのは、2インチ24トラックにテープが載ったときである。そして1976年11月の時点でそこに載っていたのは、『Love You 』の分だけだ。次のアルバムのセッションが始まるのは、翌1977年2月9日。
Brianが数えていたのは、普段のレコーダーではなく、おそらくこのカセット九曲だったのだろう。弾き語りが一本あれば、それはもう録れたことになる。頭の中でテープが回っていた男にとって、アルバム二枚はすでに存在していた。黒丸を付けたのは、クレジットに Comments: Mike Love と記された四曲である。弾き語る Brian の隣で、Mike が語りかけている。その Mike の言葉が、ブックレットにある。Brian が完全な曲の案を実際に出してきている、これは素晴らしい、と思った。ここ数年は必ずしもできなかったことだ。正しい方向への確かな一歩だった。聴いていて嬉しかったよ、と振り返る。
 確かに、その四曲のうち三曲は『Love You』へ進んだ。Mike が反応した曲が採用されたのか、それとも彼がいた日にたまたまその曲が弾かれたのか、それは分からない。そして残る二曲だが、どこへも行かなかったのは実は一曲だけである。「That Special Feeling」――これは今も未発表のままだ。
 もう一曲、「They're Marching Along」には続きがある。この曲は十二年ののち、題を「Little Children」と改めて、Brian Wilson のソロ・デビュー盤に収められた。1988年である。
(ちなみに筆者の記憶では、昔ソロ・デビュー盤リリース時、都内スポーツ用品店のCMソングとしてこの「Little Children」が使われていた記憶がある。どこかに公式の記録が残っている話ではないため筆者の勘違いかもしれない、もし同じCMを覚えている方がいたら、ぜひ情報を教えてほしい。) 
 1976年10月時点の Brian は、このセッションを『Brian Loves You』 として自分名義のアルバムで出すつもりだった。それは叶わなかった。だが同じ月の同じカセットから、一曲だけが十二年待って、本当のソロ・デビュー盤にたどり着いている。しかもこの曲は、Comments: Mike Love の四曲の一つだ。いとこが横で語りかけていた旋律が、最後はバンドを離れた場所で世に出た。

「Still I Dream Of It」は、Sinatraへの売り込み用だった

 九曲はすべて「Love You Brian Cassette Demos」という区分に収められている。だが、セッショノグラフィの媒体欄を見ると、最後の一曲だけが違う。
媒体日付engineer
前の八曲2トラック・カセット1976年10月Stephen Moffitt
Still I Dream Of It1/4インチ2トラック1976年10〜12月Earle Mankey
媒体が違う。担当者が違う。日付の書かれ方も違う。
三つの欄がすべて、他の八曲と食い違っている。カセットの八曲は「回しておいて放っておく」ための記録だった。ところがこの一曲だけは、業務用の1/4インチが用意され、Mankey が呼ばれている。思いつきを捉えたのではなく、録るつもりで録っている。
なぜか?
Herman との対話に、答えがある。
Frank Sinatra のために曲を書いた。二、三週間前に、Frank 個人のために書いたんだ。「Still I Dream Of It」という。今週それを彼に持っていく――Brian はそう語っている。受けてくれるとは思わないがね、彼は商業的な曲を探しているだろうから、と付け加えて。そしてもし Sinatra が断ったら Stevie Wonder と Elton John にも当たるかもしれない、彼らもやらないなら自分でやる、確実に、とも。
売り込み用のデモだったわけである。
 Frank Sinatra にカセットテープを渡すわけにはいかない。だから1/4インチが用意され、Mankey が呼ばれた。「Brian Cassette Demos」という括りにカセットでない一曲が紛れているのは、そもそもこの曲だけが外部へ正式に持ち出す前提で録られていたからだ。
そして Sinatra は断った。孤独と希望についての美しい曲だったが、彼は首を縦に振らなかった――ブックレットで Brian はそう振り返っている。Stevie Wonder も Elton John も歌わなかった。予告どおり、Brian は自分でやることになる。翌1977年2月9日、24トラックが回り始めた。なお、Sinatra へ持ち込んだことを気まぐれと読むのは当たらない。それがなぜかは、後の節で見る。
 Al Jardine はのちに、この曲と「It's Over Now」を 『Adult/Child』で好きな二曲に挙げ、あれは Frank Sinatra に扮した Brian だ、と笑っている。扮していたのではない。Sinatra のために書いた曲を、自分で歌うほかなくなっただけである。なお、この弾き語りは1995年、Brian のソロ盤『I Just Wasn't Made for These Times』にすでに収められている。九曲のうち、最も早く世に出た一曲だった。
 ちなみに、この曲のテープ箱の写真には 1-9-77 とあり、同じブックレットのセッショノグラフィが記す2月9日と一月ずれている。どちらが正しいかは分からないが、掲載された写真と掲載された資料が食い違っているのは確かだ。

1977年 ――『 Adult/Child』失速の記録

 ブックレットで Brian はこう語っている。『Adult/Child』 の編曲は Dick Reynolds に頼んだ。1964年に Christmas Album で我々と仕事をした男だ。そして同じ年に、彼は Sinatra 本人とも仕事をしている。Sinatra のような正統派な歌手のレコードと似た感触のものを作りたかった。だから Dick Reynolds を呼んだ。
そしてBrianはこう付け加える。グループの他のメンバーは、その案を気に入らなかった。レコード会社もリリースについて確信が持てなかった。レーベルはどちらかといえばメンバーの側についていた。こうして、アルバムはついに出なかった、と。
 題の由来については、Brian の回想録『I Am Brian Wilson』第二章が記している。Adult/Child ――人格には常に二つの部分がある、仕切りたがる大人と、世話されたがる子供と。そう言ったのは Eugene Landy である。前年末に去った、あの男だ。音楽史家 Keith Badman は、Brian がこの新しいアルバムに着手したのも、その元主治医の強い勧めによると伝えられている、と記している。
 『Adult/Child』のセッションで録られた曲のミックスは、すべて Earle Mankey 一人である。Carl の名前が一つもない。Moffitt の名前もない。例外は「New England Waltz」だけで、これは Western Recorders で Chuck Britz がその日のうちに仕上げている。もっとも、Disc 2(CD) には『Adult/Child』以外の曲も入っている。1974年から76年にかけて録られた「Holy Man」には、engineer として Mankey と並んで Moffitt の名があり、プロデュースは Dennis と Carl の連名だ。弟たちは同じスタジオを使った。ただし別のアルバムのために。 
『Love You』にダイナミクスを与えた男が、次のアルバムにはいない。それだけでも大きいのだが、日付を時系列に並べると、もっと具体的なものが見えてくる。まず1977年2月から3月。立ち上がりは早い。2月9日に「Still I Dream Of It」、2月25日に「Deep Purple」と「It's Over Now」が動き出す。そして3月11日、Brian は Brother を出て Western Recorders の Studio 1 に入り、大編成の曲を録る。ここまでは順調で精力的だ。
4月に創作のピークがやってくる。11日に「Everybody Wants To Live」と「It's Trying To Say」、翌12日に「Lines」。二日で三曲が立ち上がっている。そして13日には「It's Over Now」の最初のミックスも仕上がった。このアルバムが最も勢いを持っていたのは、この一週間だろう。
 そして5月、記載がない。新規録音がぱたりと止まる。セッショノグラフィのどこを探しても、5月の日付は出てこない。この空白の月に Brian が何をしていたかは、ブックレットに写真が載っている。添えられたキャプションはこうだ。
「Stan の身体調整プログラムの一環として、Brian はバスケットボール運動を推奨する。」
ここでは Stan が、Bellagio Road の家の裏で Brian にシュートの練習をさせている。


Stan Love ――元 NBA の選手で、この時期 Brian の身辺の世話と体調管理を任されていた。前年末に Landy が去ったあと、その役を引き継いだ形である。写真の Brian は、裏庭のリングに向かってボールを構えている。この身体づくりには前史がある。前年1976年の暮れ、Brian はラジオでこう語っていた。毎日ジムへ行って腹筋、腕立て、周回走、ラケットボール。一年で250ポンドから200ポンドまで落とした、次は190を目指すんだ。Landy の処方は投薬や面談だけではなく、ジムを含む生活の組み替えだった。
だが、テープが止まっていた月に彼がやらされていたのは、バスケットボールである。
ここで、ひとつ陰謀論を唱えさせてほしい。Stan Love は、Mike Love の弟である。Brian にとってはいとこにあたる。そして前年末、Landy を切ったのも Love 家の人間だった。そのいとこが、毎日 Brian を裏庭へ引っ張り出し、ボールを追わせている。曲は書かれない。アルバムは前に進まない。そしてアルバムが止まれば、バンドの主導権は空席になる。1977年5月、セッショノグラフィは真っ白だ。同じ5月の写真が、バスケットボールである。これを偶然と呼べというほうが無理だろう。
CarlやDennisは自作に取りかかり、Alは田舎に引きこもって薪割りに勤しんでいる
そしてこの空白でThe Beach Boysの主導権を手中に収めるのは誰だ?
そしてこの陰謀論、7月になるとさらに真実味を帯びてくる。それは後で見ることとしよう。

次月6月は、手直しだけが残る。3日に「Shortenin' Bread」が一曲。これが最後の新曲である。あとは19日から25日にかけて、既存曲のミックスと再ミックス。「Still I Dream Of It」も「Lines」も、この一週間で何度も触り直されている。以後、テープは回らない。
 ここで、『Love You』との違いがはっきりする。あちらの本編は「1976年12月または翌1月」と月単位で記され、それきりだった。一度で決まって、終わっている。ところがこちらは「4月13日ミックス、その後6月まで再ミックス」「6月19日ミックス、20〜25日再ミックス」と、やり直しの記録が細かく残る。三か月以上かけて、同じ曲のミックスを何度も触り直している。Carl が仕上げて終わっていた工程が、このアルバムでは終わらなかった。
シングル「Honkin' Down the Highway」の発売は1977年5月30日である。前年に全米5位を得たバンドが、まるで反応を得られなかった。この惨敗が 『Adult/Child』を葬った――というのが定説だ。バンドが Brian の新作に見切りをつけた、と。
だが、日付が合わない。
シングルが世に出たのは5月30日。売れないと分かるまでには、少なくとも数週間かかる。つまりバンドが結果を知ったのは、早くて6月中旬だろう。ところが Adult/Child で新しい曲が最後に立ち上がったのは、4月12日である。シングル発売の一か月半も前だ。そこから先、5月は録音の記載が一つもなく、6月3日に一曲、あとは手直しで右往左往している。
結果が出るより前に、このアルバム制作の失速が起きていたのだ。
白状すると、筆者もその定説を書いた。本作のCD盤について書いた前稿で、シングルの惨敗が Mike Love の判断を促し、それが Adult/Child を葬ったのだ、と。日付を並べるまでは、そう見えていたのである。

同じ編曲者、二つの部屋

『Adult/Child』の編成について、記録から一つ見えることがある。
Reynolds が編曲・指揮した五曲は、録音場所で二つに分かれる。
1977年3月11日に Western で録った二曲「Life Is For The Living」「New England Waltz」には、トランペット四本、トロンボーン四本、ホルン四本が並ぶ。金管十二本。このアルバムが「ビッグバンド作品」と呼ばれるのは、ここに由来する。
Brother で録った三曲「Deep Purple」「It's Over Now」「Still I Dream Of It」には、トランペットが一本もない。金管がないわけではない。「Deep Purple」「It's Over Now」には、トロンボーンが四本ずつ入っている。フレンチ・ホルンも二本ずつ。無いのはトランペットだけである。そして「Still I Dream Of It」に至っては、トロンボーンもない。フルート三本、オーボエ、フレンチ・ホルン三本、あとは弦とチェロとコントラバス。三曲のうち、これが最も静かな編成だ。
なぜトランペットだけが外されたのか?
ブックレットに説明はない。だが、いくつかの記述を並べると、一つの見方が浮かんでくる。Brother の録音室は、先に触れた通り、絨毯を貼り詰めたデッドな空間である。
Hanlon は 『Adult/Child』 の弦のセッションをこう振り返る。あれは壮大な、懐古調の旋律と編曲だった。ピアノのデモから始まったものが、管弦楽になった。とても小さな一室に、大勢の弦の奏者を連れ込んだのだと回想する。
そして Mankey に至っては、弦の演奏家が本スタジオに収まらず、脇のライヴ・ルームにいた日を覚えている。他の演奏者は全員本スタジオにギリギリまで詰め込まれていたと彼は言う。
 トランペットは金管のうち最も高音で、最も鋭く、最も遠くまで響く。絨毯を貼った小部屋に四本並べれば、録音で真っ先に手に負えなくなるのはこの楽器だろう。トロンボーンなら、まだ抑えが利く。断定はできない。だが Brian が、トランペットの要る二曲だけを Hollywood まで運び、残る三曲は自分のスタジオで録った。その線引きが、部屋の寸法と無関係だとは考えにくい。もっとも、その狭い部屋で何が起きていたかとなると、話は牧歌的になる。
Hanlon は、弦の列のあいだを Carl と Brian の子供たちが走り回り、弓と弦をつまもうとしていたことを忘れられないという。Brian や Carl に子供をスタジオから出せと言う人間はいなかったし、そんなことは起こりようがなかった。なかなか可笑しかったと振り返る。

1976年に懐古調な曲を録るということ

1977年である。punk が出て、disco が満ちていた。『Adult/Child』が世の中とずれていたという証言は、そのとおりだろう。だが、誰の耳を基準にずれていたのか?Brian が最初に聴いた曲は Rhapsody in Blue だった。十代を魅了したのは Four Freshmen。そして本人がこう証言している。rock and roll に入ったのは Carl のほうが先だった。弟が Chuck Berry と Little Richard を聴いていた頃、自分は Four Freshmen と jazz を聴いていた、と。四歳年下の弟に、この分野では先を越されていたわけである。その耳にとって、rock は後から来たものだった。だから 『15 Big Ones』でカヴァーを並べたことも、『Adult/Child』で Dick Reynolds を呼んだことも、二つの奇行ではなく、同じ一つのことである。本人の言葉がある。1950年に書かれようが1970年に書かれようが、良い曲は良い曲だ。1976年に書かれたものでないからという理由で素材を切り捨てるのは、間違いだと思うと語る。そしてクレジットには、繰り返し現れる楽器がある。tack upright piano。ハンマーに鋲を打った、硬く乾いた音。酒場とラグタイムの音であって、rock の音ではない。Minimoog と ARP で作られたアルバムの土台に、この楽器が据わっている。あの十五か月は、時代とずれていたのではない。Brian が自分の時代と向き合っていただけである。1976年秋、彼が Sinatra に曲を持ち込もうとしたのも、同じ流れの上にある。日和ったのでも、権威に擦り寄ったのでもない。Four Freshmen が原動力となり、弟に遅れて rock に入った男が、自分の出どころへ一度戻ろうとしただけである。

誰が「完成」と言ったか

では、なぜ失速したのか?当事者たちは、それぞれ違うことを言っている。
Eugene Landy。自分は Brian を一人の全き人間にすることに関心があった、にもかかわらず彼らは1977年に間に合うよう、もう一枚アルバムを仕上げることに関心があった――そう言い残している。バンドが急がせたのだ、という言い分である。
Mike Love。本作ブックレットの中で、Warner Brothers はこの企画にいささか当惑していたようだ、と語る。Brian は噛み合わない断片をばらばらに持ち込んできた。それを聴いた Warner が、これはThe Beach Boys にとって商業的な方向ではないと感じたのは、おそらく正しかった。あまりに雑多な思いつきが多すぎたのだ、と。
Jeff Peters。バンドのマスタリング・エンジニアだった彼は、『Adult/Child』に関わった最後の一人である。企画が没になったことは、それほど意外ではなかったという。Brian自身の素晴らしい瞬間はいくつもあるが、このレコードを統一するものが何もなかった。「Still I Dream Of It」「Life Is For The Living」「Deep Purple」のような大編成のものがあり、そこへそれほど強くないアウトテイク小品が混じる。とくにあの時期、これは世の中の動きとひどくずれていた。『Love You』もずれていた。だが 『Love You』は筋が通っていて、格好よかった――と。
Brian Wilson。先に引用した通りである。他のメンバーが案を気に入らず、レーベルも確信を持てなかった。アルバムは、ついに出なかった。
四人とも、嘘は言っていないだろう。だが四人とも、同じものを見ていない。
Landy は1976年12月に解任され、それ以後は外にいた。Mike Love は1977年の春から夏、ヨーロッパにいた。Jeff Peters が関わったのはマスタリングの段階で、素材が出揃ったあとである。そして Brian は片耳が聞こえず、全体がどう鳴っているかを自分で確かめられない。そして誰も、工程の全体を見てはいない。十五か月の記録がまとまるのは、五十年後のことである。本作のセッショノグラフィが編まれるまで、そんなものは存在しなかった。その記録が語るのは、四人の誰とも違うことだ。1977年4月12日を最後に、新しい曲が立ち上がらなくなった。5月は一行も記載がない。6月に一曲入り、あとは手直しの繰り返し。

だが、記録からはもう一つ、別のことも見えてくる。

三作を並べると、卓の顔ぶれはこう動く。Moffitt と Mankey、Mankey と Carl、そして Mankey 一人。名前を並べただけでは、ただの人事である。だがトラックダウンという工程が何をする場なのかを考えると、この三行は別の意味を帯びてくる。24トラックを2トラックへ落とす。それは技術作業であると同時に、「これで完成だ」と宣言する作業でもある。誰かが卓の前で、もういい、と言わなければアルバムは終わらない。
ここで思い出しておきたいことがある。このバンドは投票制だった。
Brian 自身が語っている。「You've Lost That Lovin' Feelin'」も録った、「Shake, Rattle And Roll」も録った、たぶん使わないだろうが。「Running Bear」も録った。いろいろな曲を録ったが、全部は使えない。円盤の上には限りがある。Dennis はオールディーズを入れることに強く反対していた。だから投票にかけて、それが通った――と。だがトラックダウンは、投票にかからない。卓の前に座った人間が決める。曲順は皆で決め、何を入れるかは票で決め、しかし「これで完成だ」だけは、そこにいる者が言うのである。
その役を、三作それぞれを誰が担ったか?
 クレジットは三作ともProduced by Brian Wilsonである。クレジット上は当然Brianだ。
『15 Big Ones』 では、Carl の回想が本作ブックレットにある。実のところ、Dennis と自分は Brian が本来のバンド活動に戻ることを望んでいた。オールディーズのアルバムを助走にして、そのあともう一枚作るという絵を描いていた。ところが新しい曲を録り始めたところで、Brian がこう言った、もう十分に録った、これ以上は録りたくない。アルバムは完成だ、と。
『Pet Sounds』以来はじめて Produced by Brian Wilson の単独クレジットが付いたアルバムである。Mike Love も当時、彼は週五日か六日、二か月続けてスタジオに来ていたと語っている。決定権はBrian本人にあった。だからミックス欄にエンジニアの名しかないのは、Carl 役が要らなかったからだ。
 『Love You』 は前例がなかった。シンセと掠れた声でできた、誰も聴いたことのないアルバムである。プロのエンジニアに「良い塩梅」を判断させようがない。Brian の意図が分かり、なおかつ音楽家として卓に座れる人間が要る。それが Carl だった。Boyd がレコードで見たことがないと言う Mixdown Producer という肩書きは、前例のないアルバムが要求した、前例のない役職だったのではないか。そして事実、『Love You』のミックス記録は一度で終わっている。誰かが完成と言ったのだ。
 『Adult/Child』には、その誰かがいなかった。Mankey 一人が三か月、同じ曲を触り直し続けている。技術的な問題ではあるまい。決定する役目の人間が、スタジオにいなかった。こうして並べると、Brother の十五か月に一つの構図が見えてくる。作曲しているのは Brian 一人である。だが彼は、録ったものを自分でトラックダウンできない。片耳が聞こえず、全体を確かめられない。そこを、周りが黙って引き受けていた。
 Moffitt は Hanlon に、知らせずに録っておけと命じた。Carl は卓に座り、平坦なトラックに呼吸を入れた。Mike は弾き語りの横で感嘆し、Hanlon は弦のあいだを走る子供を止めなかった。誰も遮らなかったのである。Brian 自身、自室から出た経緯をこう語っている。妻と、医師と、弟たちと、母と、何人かの友人。その全員が、部屋を出てスタジオへ戻れと自分を説得した。感謝している、それが人を幸せにしているからだ。
 Edelson もこう書いている。あれは復帰というより、むしろ「集まってくること」だったのかもしれない。グループが Brian の周りに寄り集まり、それぞれの持ち味を Brother 期の企画に持ち込んだのだ、と。むろん、優しさだけではない。本人に知らせずに回されたテープが、半世紀後にこうして商品になっている。それでも、『Love You』はその体制で完成した。そして 『Adult/Child』は完成しなかった。卓に誰も座らなかったからではなく、座るべきときに、トラックダウンすべき曲が増えなくなっていたからである。もっとも、これも一つの見方にすぎない。セッショノグラフィは録音した日を記すが、曲の書けなかった日は記さない。1977年5月の空白が何であったかを、あの資料は語らない。

そして Brian は、Brother を去る

 1977年6月25日を最後に、『Adult/Child』のテープは止まる。次に何かが動き出すのは7月である。その月、Mike Love がヨーロッパから帰国した。そしてバンド全員で Iowa へ行こう、と言い出す。Fairfield にある Maharishi International University――彼と Al Jardine が指導者資格を持つ、瞑想の学校である。夏休みで空になった宿舎の一棟にスタジオを組み、そこで次のアルバムを録る。7月から8月にかけて、実際に機材が運び込まれた。こうして生まれたのが
『 M.I.U. Album』 である。プロデュースは Al Jardine と Ron Altbach、Brian は名義上の役目に留まった。
さて、先ほどの陰謀論だが、ここで補強されてしまう。
Stan が Brian にボールを投げさせていた1977年5月、Mike Love はヨーロッパにいた。だが、それが何だというのか。指示など電話一本で足りる。むしろ現場から離れていたほうが、都合がよいくらいだ。そして帰国した7月、彼はバンドごと Iowa へ連れて行った。Brian の仕事場から、千五百マイル余り離れた土地へ。筋書きとしては、実に美しい。日付も揃っている。この手の話が好きな向きには、たまらない材料だろう。
だが、筆者は採らない。
1976年10月のカセットに、その理由がある。ピアノを弾く Brian の隣で、Mike が口を挟んでいる四曲。あれは商売の声ではない。旋律に聴き入って、思わず声が出てしまった男の声である。筆者は前回、そのことを書いた。書いた以上、半年後の彼を陰謀の主にはできない。
1961年から一緒にやってきた男である。いとこであり、幼馴染であり、あの声で「Fun, Fun, Fun」から「Good Vibrations」まで歌ってきた男だ。Brian の才能を誰より近くで見て、誰より長く付き合った。Brian 自身、あの声を最初に見出したのは自分だと語っている。Mike Love の家でクリスマス・キャロルを歌い、彼の低音に気づいて、Four Freshmen のパートを教え込んだのだ、と。あのバンドの土台は、Brian が Mike の喉に見た可能性から始まっている。
その男が、実の弟のスポ根バスケ野郎をいとこの家に送り込み、毎日ボールを追わせてヘロヘロにさせ、スタジオへ行く体力を奪ってアルバム制作から手を引かせた――そう読むのは、素人が書いた安っぽい推理小説のプロットである。動機は薄く、手口は迂遠で、証拠は状況証拠ばかり。第一、絵面が間抜けだ。Landy を切ったのも Love 家なら、そのあと Brian の面倒を見たのも Love 家である。囲い込んだのではなく、引き受けたのだ。そう読むほうが、はるかに事実に近い。順序はもっと単純で、もっと苦い。1977年4月半ばに Brian の筆が止まり、アルバムが細り、6月末にテープが止まった。空いた場所を、7月に帰ってきた男が埋めた。それだけのことである。そしてこうも言える。空席ができたとき、そこに座れる人間はバンドに一人しかいなかった。
 1976年の暮れ、Brian はラジオで弟たちの動向を語っている。Dennis がソロ盤を作っている、あいつがちょっとしたいい流れを作りかけている、Carl も同じことを考えているらしい、おそらく次は Carl だろう――と。弟二人は、その時点ですでに外を向いていたわけである。翌1977年、Brian の筆が止まったとき、Dennis は Pacific Ocean Blue の仕上げにかかっていた。本作ブックレットによれば、その企画はもともと Freckles という仮題で、Holland の続編になるはずだったセッションから派生したものだという。Carl もまた、のちに世に出る曲のプロトタイプを同じ部屋で録っていた。『Love You』 のように Carl が卓に着いてやれなかったのも、無理からぬことだった。Mike Love が主導権を握ったのではなく、握る者が他にいなかったのである。誰かが奪ったのなら、まだ話は分かりやすい。だが実際に起きたのは、そういうことではなかった。このボックスセットの扱う時代は、1977年6月で終わることになる。
 念のため言っておくと、Brother Studio が終わったわけではない。終わったのは、Brian の活動だ。その十五か月が、そのまま三枚のLPの中身である。本作ブックレットの解説者 Howie Edelson は、こう書いている。1976年初頭から1977年6月にかけて Brian Wilson が主導した曲と制作の量は、驚くべきものだ。当時のThe Beach Boys の直近の仕事どころか、米英の有名どころ全体から見ても異質だったかもしれないが、それは衝撃的なほど純粋だった、と。
本作の題は、We Gotta Groove: The Brother Studio Years という。だがLPに刻まれているのは、スタジオの年月ではない。Brian Wilson が活動した、その十五か月である。


Ⅲ レコード

ようやく盤である。
『Love You』のジャケットを取り出して、思わぬ因縁に行き当たった。このジャケットについて、Al Jardine はブックレットの中で恨みを述べている。アートワークは本当にひどかった。段ボールの質だ。音楽とは何の関係もない。だがレーベルが気にかけていないように見えた。粗い段ボール。どこか安っぽく見えて、これは絶対にうまくいかないと思ったと回想する。

ジャケットの質感の違い:下がオリジナル 上が本作

 そして2026年の本作に収められた『Love You』のジャケットに、あの粗い質感は再現されていない。手にしてみると、つるりとした紙である。上質紙を使ってはいるのだろうが、いずれにせよオリジナルのざらつきはない。49年越しに、Al の不満だけが叶えられた。しかも当の Al は、いまもそのアルバムをどこかで演奏している。
ちなみに、ジャケットのデザインは Dean Torrence ――Jan & Dean の Dean である。そして彼は、同じセッションで歌ってもいる。CD側に収められた「Hey There Mama」のバッキング・ヴォーカルに、彼の名がある。
 ただ、惜しまれることが一つある。内袋が再現されていない。オリジナルの内袋には、当時の妻 Marilyn と写った写真があしらわれていた。権利の都合なのかどうかは分からないが、あれも1977年の『Love You』の一部である。盤そのものは、重量がオリジナルと変わらない。近年の再発にありがちな180グラム仕様ではない。





さて、曲の選別の話である。LPとCDを分けたのは、容量ではなく時間だったのかもしれない。十五か月の内側がLPへ、外側がCDへ。実際、LPから外れた34曲を並べると、そう読める。1965年の「Sherry She Needs Me」も、1970年の Carl のガイド・ヴォーカルによる「Holy Man」も、「Carl's Song #1」と「Angel Come Home」の原型である「#2」も、Dennis の「String Bass Song」と「10,000 Years Ago」も、Marilyn が歌う「Honeycomb」も、みなLPの外側にある。箱に題名を与えた「We Gotta Groove」も、1976年11月16日に作られて落とされた四曲も、アルバムの外にあるという点では同じだ。つまりアナログ盤の上では、Brian 以外の Beach Boys がほぼ全員、姿を消している。筋は通っている。だがその線を引いた結果、Holland 以後 15 Big Ones 以前という、バンドが録音していないことになっている二年半に弟たちが残した仕事は、盤の上から丸ごと欠落した。

ここで、LPの並び順に目が行く。
LP1が『Love You』、LP2が『Adult/Child』、LP3が『15 Big Ones』。時系列で並べるなら、完全に真逆だ。1976年春の『15 Big Ones』から始まり、夏の『Love You』、翌77年の『Adult/Child』へと至るのが本来の順番である。なぜこの順なのか。商売上の理由は一目瞭然だ。本作は『Love You』のリマスター盤として売られている。だが曲目表の見出しを読むと、もう一つのことが分かる。LP3は「15 BIG ONES Outtakes and Alternate Mixes」。『15 Big Ones』というアルバムそのものは、本作に入っていない。三枚は、三枚のアルバムではないのだ。世に出たアルバムが一枚、出なかったアルバムが一枚、そして残り物が一枚。そして残り物に回された『15 Big Ones』こそ、十五か月の始まりである。編集の判断としては筋が通っている。あれは Pet Sounds 以来はじめて Produced by Brian Wilson の単独クレジットが付いたアルバムだが、八曲がカヴァー、七曲がオリジナル。世に出て、しかも売れた一枚である。わざわざ再現するまでもない、という判断だろう。
だが、この並びは別のことも語っている。1976年、バンド側が、新しいLPのための宣伝キャンペーンを組み立てた。The Beach Boys のキャリアで初めてのことだったという。掲げられたスローガンが「Brian's Back」である。7月5日発売の『15 Big Ones』と、同月から始まったツアーの宣伝だった。8月5日にはNBCで特番が放送され、これが号砲になる。広報会社 Rogers & Cowan を起用し、People 誌の表紙も取った。1966年の Pet Sounds でポップ音楽の頂点に立ち、翌年 SMiLE で崩れ、以後十年ほど表に出なかった男の帰還――そう売られたのである。断っておくと、このスローガンが掛けられたのは『15 Big Ones』までだ。翌年の『Love You』にも、その先の『Adult/Child』にも、同じ売り方はされていない。帰還が宣伝されたのは、十五か月のうち最初の数か月だけである。

そして当事者の評価は、割れている。
Mike Love は、半分肯定している。「Brian's Back」の部分は妥当だと思った、彼は実際にスタジオに戻っていて、我々と一緒にトラックを作り、自分も何曲かで直接一緒に仕事をした、だからその部分は筋が通っていると思ったと振り返る。
 否定したのは、その先である。精神の病を公に持ち出したことのほうが問題だった、人の最も深い、最も暗い秘密に踏み込むのは本人にとっても世間にとっても良いことではない、それが宣伝の一部になって音楽とはあまり関係がなくなってしまった、と。もっとも別の箇所では、こうも言っている。あれは宣伝であって、Brian が「戻って」いたかどうかについては意見が分かれる。スタジオでの権威の頂点に戻ることを期待するのは、求めすぎだった。あの時期のバンドは、もっと共同作業的であるべきだったと語る。
Al Jardine は、はっきり否定する。あのスローガンは単純に時期尚早だった、Brian はほとんどそこまで来ていたが完全ではなかった、彼はまだ立ち直る途中だったんだと言い、こう続ける。彼はある意味ではそこにいたが、別の意味ではいなかった。「Brian's Back」というメディア・キャンペーンは素晴らしい着想だったが、Brian は明らかに戻っていなかった。そこが問題だったのだ、と。そして、実質は Carl のプロダクションで、Carl の Brian への献身の結果だ、Carl が全部を縫い合わせたのだ、とも。
判断の材料は、Disc 1(CD) に入っている。
17曲目「Sherry She Needs Me」。1965年、Western Recorders。Al De Lory、Leon Russell、Carol Kaye、Earl Palmer、Howard Roberts、Billy Strange――十四人が並び、その全員に指示を出しているのが二十二歳の Brian である。8曲目「Solar System」。1976年10月、Brother Studio。演奏者の欄に、Brian 以外の名前が一つもない。11年。そして1965年のそのテープを棚から出してきたのは、11年後の彼自身だった。
戻ってきたのは、書く力である。1976年10月の一か月で十一曲。あの密度は疑いようがない。Brian 自身、『Love You』についてこう言っている。『Pet Sounds』のときと同じようにスタジオを使えた、『Pet Sounds』が二十代の自分の感じ方についての作品だったのと同じように、三十代の自分の感じ方についての曲を書いた、『Pet Sounds』以来はじめて満足できたアルバムだったと語る。
 戻らなかったのは、その先だ。十四人のミュージシャンを動かす力と、これで完成だ、と言う力。前者は自分で全部弾くことで埋め、後者は弟を呼ぶことで埋めた。翌1977年、その両方が使えなくなる。Brian は戻っていた。だが、戻ったのは半分だった。そして本作は、その半分が始まった季節の記録だといってもいい。
音の素性も記しておく。プレスは GZ Media、マスタリングは Burbank の Robert Vosgien、ミックスは The Audio Labs の James Sáez。テープの読み出しと修復は Mark Linett と Bill Smith。ラッカー・カッティングの担当者名は、公式クレジットのどこにも記されていない。そして手元の個体のデッドワックスには、309164 に E1 から E6 までを振った刻印が並ぶだけである。手書きの刻印は一つもない。クレジットにも盤にも、切った人間の痕跡は残っていないことになる。
 オリジナル盤と並べて聴くと、まずヴォーカルが違う。抜けと伸びが違うのだ。1977年のオリジナルは、倍音をいじったような、やや細い印象がある。ところがこの再発では、声が太く、前へぐっと出てくる。本来の録音は、こちらだったのだろう。そしてもう一つ、はっきり聴き取れることがある。エフェクトのかかったバックの楽器の音に、ハーモニーが確実に溶け込んでいる。
Ⅱ章で見た通り、このスタジオではエフェクトをかけた状態で音がテープに入っていた。ハーモナイザーを通したピアノ、フェイザーのかかったギター。声はその上に重ねられたのではなく、同じ質感の中に置かれている。Moffitt の流儀――素の音を録っておいて後で作る――なら、こうはならなかっただろう。記録から読み取った二人の流儀の違いが、盤の上で確かめられたことになる。次に、LP1のA面5曲目「Good Time」、7曲目「Ding Dang」、B面5曲目「I Wanna Pick You Up」。この三曲は、前後と質感が違う。だがそれは Moffitt の卓によるものとは限らない。素材の成り立ちが違うのだ。「Good Time」は1970年、2インチ16トラック。Bruce Johnston のクラヴィネットに Daryl Dragon のベース、トランペット三本にトロンボーン二本、ホルンが二本。「Ding Dang」は1974年、Carl と Billy Hinsche と Ed Carter と Ricky Fataar。「I Wanna Pick You Up」は Dennis のドラムと Carl のギター。三曲とも、人が弾いている。Brian が一人で層を積んだ曲ではない。
この差は、ヒスノイズに出る。本作のアナログ盤に針を落としても分かる通り、『Love You』の本編は、テープのノイズを隠していない。その理由を「30 IPS NON DOLBY だから」で片づけるのは、半分しか当たっていない。テープ速度が上がれば、S/N はむしろ良くなる。Dolby A を使わなければ、残った雑音はそのまま聴こえる。だが本当の発生源は、別にある。2インチを24本で割れば、トラックは一本あたり0.08インチほどしかない。細い帯ほど雑音は多く、しかも24本を2本にまとめれば、24本ぶんの雑音も一緒に足される。1965年の「Sherry She Needs Me」と比べれば分かる。あちらは二分の一インチを3トラック。帯は倍の幅があり、足す本数は八分の一だった。そして『Love You』は、一人の男が一トラックずつ音を重ねることできている。重ねた回数だけ、雑音も重なった。つまりあのヒスノイズは、単なる録音の粗さではない。Brian Wilsonがスタジオで孤独に音を重ね続けた、制作プロセスそのものが残した「生の足跡(副産物)」なのだ。この3LPは「アナログ・チェーンの成果」としては売られていない。テープからラッカーまでの経路が公開されていない以上、そこを評価軸にはできない。この盤の値打ちは別のところにある。それは二枚目までにある。ついに世に出なかったアルバムと、出したものの誰も売る気のなかったアルバムが、同じ体裁で並んでいることだ。Mike Love によれば、『Love You』は Warner との契約末期の作品で、バンドはすでにCBSと契約していた。レーベルに宣伝する気はまったくなく、プレスはおそらく5万枚程度だったという。届かなかったのではなく、届ける気がなかったのである。半世紀後、その二枚が、同じ厚みの紙に包まれて、同じ箱に収まっている。1977年に果たされなかったことが、そこでだけ果たされている。
最後にもう一人、Al Jardine について触れておく。
彼は『Love You』の現場にほとんどいなかった。L.A.の狂騒やツアーから距離を置き、ビッグサーの山にこもって薪を割っていたからだ。乗り気ではなかったが、結局スタジオへ呼び戻され、歌入れの段階になってようやく曲を覚えたという。彼が残したのは数曲のリードとバックコーラス。「あれは Brian のアルバムで、自分たちのものじゃない。作ったのは Brian と Dennis と Carl の三人だ」――Al はそう振り返る。だが1976年11月16日、Brother Studio では、彼の歌声が静かに試されていた。「Love Is A Woman」のリードヴォーカルはボツになったが、「Honkin' Down The Highway」では Billy Hinsche 版が退けられ、Al の歌が採用された。そして、その残った一曲こそが、このアルバム唯一のシングルカットとなる。「あの盤で唯一、ヒットになり得る曲を歌ったのは自分だ」と後年彼が語る通りの結果になった。

 その、いなかった男が、2026年の夏、このアルバムを演奏している。
2026年7月16日に全米ツアーを始めた Al Jardine と The Pet Sounds Band は、Pet Sounds の60周年とともに、『Love You』の曲をステージで演奏している。その一週間後の7月22日、Mike Love の Instagram に告知が出た。7月23日から9月3日までの約30公演を中止または延期し、9月下旬に戻る――「充電のための短い休止」だという。彼は85歳。今年 Bruce Johnston がツアー活動から引退したいま、初期からの現役はこの一人になった。5月末には一度体調を崩して公演をキャンセルし、6月14日に復帰していたものの、長年の協力者 Dean Torrence は Rolling Stone に、Mike が健康上の問題を抱えていると語っている。振替が決まったのは29公演のうち七本ほどで、「充電」後のMikeが戻るかどうかは分からない。
9月24日、Massachusetts で再開の予定だという。そこでは、本作からどの曲が選ばれるのだろうか?――「どうせ1曲も選ばれない」という我々の冷めた高括りをあざ笑うように1曲でもセットリストに滑り込むなら、半世紀前にMikeがあの作品群へ込めた密やかな敬愛は、本物だったということになる。


(text by
Akihiko Matsumoto-a.k.a MaskedFlopper)

■ 執筆・出典注記

本稿で扱った証言は、主に以下の3つの一次資料・原典に基づいている。

  1. 本作ボックスセットの付属ブックレットに収められた新規インタビュー

  2. 当時の歴史的メディア証言

    • Dave Herman による『DIR: King Biscuit Flower Hour』(1977年)

    • Pete Fornatale による『WNEW』(1976年)および『Crawdaddy Rock Review』(1977年)

  3. 上記のラジオ放送等のオリジナルアーカイブ音源(現在YouTube等で聴取可能)

なお、セッショノグラフィの再構成・日付の精査集計、およびそこから導き出された一連の考察と論解は、すべて筆者独自の分析に基づくものである。

2026年8月10日月曜日

The Third Wave『HERE AND NOW +2』

”5人姉妹ソフトロック・
ジャズボーカルのマスターピース

  ジャズボーカル・グループのThe Third Wave(以下サード・ウェーヴ)が唯一リリースしたアルバム、『HERE AND NOW』(MPS 14 263/1970年)が、ウルトラ・ヴァイヴ社のSOLID RECORDSから未CDシングル曲をボーナストラックにして、国内盤では26年振りに『HERE AND NOW +2』(CDSOL-3614)のタイトルで8月12日にリイシューする。 

  弊団体VANDAでは2002年出版の『SOFT ROCK The Ultimate!』で本作を紹介しており、ソフトロックの文脈でも評価が高い幻の名盤として知られ、そのサウンドに魅了されたミュージシャンやDJは多くいる。 
 筆者がこのサード・ウェーヴの音楽と初めて出会ったのは1990年代前半で、イギリスでネオモッズの旗手だったポール・ウェラーが率いたThe Style Councilの解散後にウェラーの相棒だったミック・タルボットが関わったアシッドジャズ・レーベル”Talkin' Loud”所属のGallianoやYoung Disciples、Omarの作品を愛聴していた時期と重なる。同レーベル創設者で批評家兼カリスマDJとして知られるジャイルス・ピーターソンが監修したコンピレーション『Talkin' Jazz Volume 2 (More Themes From The Black Forest)』(1994年)に収録された「Cantaloupe Island」だったと記憶する。このコンピはドイツの名門ジャズレーベル”MPS”に1960年代末から70年代に残された作品群からジャイルスが拘り抜いて選曲しており、多彩な収録曲の中でもひと際異色だったのが、ジャズピアニストのジョージ・デュークが手掛けたサード・ウェーヴによる、ハービー・ハンコック作「Cantaloupe Island」のカバーだった。

The Third Wave

 ではサード・ウェーヴのプロフィールに触れよう。表立った活動期間の短さにより情報が少ないが、彼女達はアメリカのカリフォルニア州サンフランシスコ出身のフィリピン系移民三世の5人姉妹によるグループで、結成当時の年齢は10歳から17歳だった。Georgie Ente(ジョージー・エンテ)、Jammie Ente(ジャミー・エンテ)、Jodie Ente(ジョディ・エンテ)、Reggie Ente(レジー・エンテ)、Stevie Ente(スティーヴィー・エンテ)から構成されており、ジャズクラブ・シンガーだった母親のJosephine Tenio (Ente/ジョセフィン・テニオ)の指導で歌うことを身に付けていった。
 音楽一族だったらしく、フィルモア地区の伝説的ナイト・ジャズクラブ“Bop City(バップ・シティ)”では叔父のFlip Nunez(フリップ・ヌネス)がピアニストをしており、クラブの本営業後アフター・フリー・ジャムセッションを時よりおこなっていたという。その際身内のエンテ姉妹をステージで歌わせることもあり、その歌声を偶々聴いて興味を持ったのが、当時ジョージ・デューク・トリオのベーシストだったJohn Heard(ジョン・ハード)だった。ジョンはジョージにサード・ウェーヴを紹介しその才能を見出され、本作『HERE AND NOW』に繋がったという。 

 このような偶然からもたらされた『HERE AND NOW』がレコーディングされたのは、西ドイツ(当時)のヴュルテンベルク州フィリンゲンにあるMPS スタジオで、1969年11月から1970年1月の期間にのべ3週間掛けられている。なおレコーディング当時のエンテ姉妹の年齢は13歳から19歳で、バップ・シティで歌っていた時期から成長していた。 
 本作のプロデューサーはMPSの創設者でエンジニアのHans Georg Brunner-Schwer(ハンス・ゲオルグ・ブルンナーシュヴェーア)だが、クレジット上アレンジとオーケストレーション・コンダクターになっているジョージが現場を仕切った実質的プロデューサーであり、当然ながらピアノなどキーボード類の演奏をしており、ベースは前出のジョン・ハード、ドラムには十代からカウント・ベイシーやデューク・エリントンのビッグバンドのメンバーだった名手のStu Martin(スチュ・マーティン)が参加し基本のリズムセクションになっている。
 1946年1月生まれのジョージはサンフランシスコ音楽院在学中からジャズクラブで演奏を開始して、1966年には自身のカルテットのアルバム『The George Duke Quartet Presented By The Jazz Workshop 1966 Of San Francisco』をMPSの前進レーベルSABAからリリースしており、この頃よりMPSと繋がりがあったことが分かる。1969年にはフランス人ジャズ・ヴァイオリニストのジャン・リュック・ポンティとジョージ・デューク・トリオでの『The Jean-Luc Ponty Experience with the George Duke Trio』(World Pacific Jazz/ST-20168)をリリースし同編成のライブも評判となり、キャノンボール・アダレイとフランク・ザッパの両人から同時期にグループへの参加を要請されるという、若手音楽家としてはこの上ない名誉をもって招かれそれぞれに参加している。 
 特にザッパのThe Mothers加入期は、オリジナル・アルバムでは『Chunga's Revenge』(1970年)から『Bongo Fury』(1975年)までだが、その後『Them Or Us』(1984年)までレコーディング・セッションでは長きに渡り参加しており、ザッパからの信頼度は高かったようだ。筆者的には『One Size Fits All』(1975年)収録の「Inca Roads」での変幻自在なキーボード・プレイとファルセットのリードボーカルを高く評価している。この様にファンキー・ジャズ界の重鎮と現代ポピュラー音楽唯一無二の巨人から同時に認められた才能は特筆すべきであり、更にクインシー・ジョーンズのメジャー系セッションへの参加も多く、クインシーがプロデュースしたマイケル・ジャクソンの出世作『Off The Wall』(1979年)にも参加するという離れ業をこなしており、正にジャンルを超越したスーパー・キーボーディストだったことが理解出来る。そんな一流音楽家として知られる前の活動期のジョージにとって、初の他者名義のプロデュース作品が本作『HERE AND NOW』なのである。


 ここからは収録曲を解説していく。冒頭の「Waves Lament」はオリジナルのジャズ・ボサノヴァで、サード・ウェーヴ名義のエンテ姉妹による共作である。通常5声のジャズ・コーラスはルート音(主旋律)に対し、3度、5度(4度)、7度、9度(11度、13度等テンション)を加えてヴォイシング(和声の構成音の配置)を工夫することでその個性を出していく。特に血縁の姉妹(兄弟)によるコーラスは遺伝子学的にも似た声質と考えられるが、微妙に異なるため、一人多重録音コーラスとは違う効果を持っている。「波の嘆き」と題されたこの冒頭曲は、ボッサのリズムで波を、テンションを効かせたヴォイシングで嘆きを表現している。なお驚くべきことにコーラスについてはジョージではなく、エンテ姉妹が自分達で主導してアレンジしていたらしい。母親でシンガーのジョセフィンからのアドバイスはあったにせよ、10代でこのようなコーラス・アレンジを構築していたのは敬服するしかない。 
 またボサノヴァの発祥地であるブラジルには、バイーア州出身の4人姉妹女性コーラス・グループ、Quarteto Em Cy(クアルテート・エン・シー)が1959年から活動しており、1960年代中期にはアメリカにも活動の場を広げ、1966年にはアンディ・ウィリアムス・ショーマルコス・ヴァーリと共に出演するほど人気があった。この「Waves Lament」や「Once There Was A Time」を聴いていると、スウィングル・シンガーズやダブル・シックス・オブ・パリなどのプロフェッショナルなジャズボーカル・グループより、後年自身のソロアルバム『Feel』(1974年)にパーカッショニストのアイアート・モレイラや彼の妻でボーカリストのフローラ・プリムを参加させ、ブラジル音楽にも深く精通していたジョージの頭には、サード・ウェーヴをアメリカ版エン・シーに育てようというイメージが多少あったのかも知れない。 
 続く「Niki」はジョージにサード・ウェーヴを紹介した恩人でもあるベーシストのジョン・ハード作で、シャッフルのリズムを持つソフトロック調のヴァースから、ホーンセクションが入るビッグバンドジャズ風のブリッジとサビに転回していく。この曲ではホンキートンク風に高域で激しく響くジョージによるピアノのインタープレイも素晴らしい。 

 そして「Maiden Voyage」は、ジャズピアニストのハービー・ハンコックのモーダル・ジャズ期(新主流派)の傑作曲(1965年)のカバーで、「Cantaloupe Island」と同様ハービーを敬愛していたジョージの審美眼による選曲らしい。ハービーもこの曲を自身の最高傑作と答えていたインタビューがあるほどだ。
 ここでのカバーもオリジナル同様、SUS4系の独特なヴォイシンのコードがシンプルに繰り返される音像が壮麗で、サード・ウェーヴのコーラスで解釈されることで神秘性が増して、得も言われぬ美しさを感じさせる。またオリジナルではトランペットのフレディ・ハバードが奏でたテンション・ノートを模した、高域のコーラスが入る瞬間は毎回鳥肌が立ってしまう。掛け値なしに美しい音楽とはこの曲のことだろう。 
『Maiden Voyage』Herbie Hancock


 一転してポール・マッカートニー作でビートルズの「Got To Get You Into My Life」(『Revolver』収録1966年)は、ほぼ同時代的にエンテ姉妹が聴いていたであろうビートルソング・カバーである。他の収録曲と異なり、一般的にも知られたグループの有名曲であるので、直向きに歌っている姿が目に浮かぶ。アレンジ的には原曲が持つR&B特有のはねるリズム感覚をジャズ解釈していて、ノンクレジットだが右チャンネルでアコースティックギターのカッティングが聴こえるので、ピアノで表現できないパートを補強したと思われる。
 続く「Stormy」は弊サイト読者をはじめソフトロック・ファンにはお馴染みだろう。オリジナルはClassics IVの1968年のシングル曲で、メンバーでギタリストのジェームズ・バーニー・コブが作曲し、彼らのプロデューサーだったバディ・ブイが作詞して、バンドとしては「Spooky」(1967年)に続き全米ビルボードの5位まで上がりヒットしている。ソフトロック界ではトミー・ロウが『Dizzy』(1969年)で取上げていたのが知られており、イギリスのオルガン奏者のジョージ・フェイムは『Going Home』(1971年)、サンタナも『Inner Secrets』(1978年)でAOR風にアレンジして取り上げている。インスト・カバーではデイヴィッド・T・ウォーカー、ガボール・ザボ、ミーターズなど意外なアーティスト達もカバーしており、皆この曲のメランコリックな旋律の虜になっていたのだろう。
 曲の雰囲気や恋人との別れを綴ったトーチソングの世界観など、本作でのサード・ウェーヴのカバーが最もマッチしているのではないだろうか。イントロの繊細なピアノに導かれてユニゾンから徐々にハーモニー・パートに移行し、ドラマティックに転回していくアレンジは素晴らしく、サビでは歌詞に出てくるStormy=嵐を表現した歌唱が圧巻である。とにかく全てのソフトロック・ファンは必聴だろう。

 アナログ盤ではB面冒頭の「Chloe」は、ガス・カーンの作詞、ニール・モレ(本名チャールズ・ダニエルズ)の作曲によるジャズ・スタンダードで、戦前の1927年に発表された楽曲のカバーである。スタンダード・ナンバーということでジョージやサード・ウェーヴはジャズクラブ時代に演奏し、歌っていたのかも知れない。ここではビッグバンドジャズのアレンジに、多彩なスキャットを披露していて聴き飽きない。 
 続く「Once There Was A Time」は、メンバーのジャミーによるオリジナルのスローなボサノヴァで、対位法のパートやテンションを効かせたパートなどミックスを含めて見事な構成で、姉妹達のコーラス・アレンジのクオリティの高さを感じさせる。バッキングではフルートやオーボエでさり気ないオブリガードを入れて引き立てている。
 再びポール・マッカートニー作で、アルバム後半ではビートルズの「Eleanor Rigby」(『Revolver』収録1966年)を取り上げている。ジャンルを超えた素材としてポールの曲は普遍的でミュージシャンを刺激するのだろう。同じジャズ界では1967年にウェス・モンゴメリーが『A Day In The Life』でこの曲を取上げており、ドン・セベスキーが緊張感のあるストリングス・アレンジを施していた。ここではオリジナルやそれまでのカバーでは考えられなかった、イントロやサビで「Eleanor, Eleanor, Eleanor, Eleanor・・・」と輪唱するコーラスを加えている。極めて斬新なアレンジであり、聴き手にこの曲の歌詞の世界観を強く焼き付けるのである。 

 「Don't Ever Go」はメンバーのレジーのオリジナルで、イントロのアコースティックギターのアルペジオが印象的なフォーク調のシンプルなソフトロックだ。バッキングがジョージ達ジャズ・ミュージシャンなので、この手のシンプルな曲もドラマーのテンポ感やピアノの豊かな和声感覚が際立っている。 
 本編ラストは「Cantaloupe Island」で、前半に収録された「Maiden Voyage」同様、マイルス・デイヴィスの弟子筋でピアニストのハービー・ハンコック作品のカバーである。オリジナルはブルーノートから1964年にリリースされた『Empyrean Isles』に収録されており、ハービーのファースト・ソロアルバム『Takin' Off』(1962年)収録曲「Watermelon Man」のMark IIと呼べる、ブルースにラテン・フィールを融合し昇華させた傑作である。
 ここではジョージのアレンジでテンポアップして、より躍動的なファンキー・ジャズに仕上げており、原曲が内包していたラテン・フィールを色濃くさせている。サード・ウェーヴによるスキャットもパート毎に複雑な構成なのだが、自分達の歌声を楽器としたような野性味まで感じさせるパフォーマンスは圧巻である。これはジョージ達の巧みで圧倒的な演奏に本能的に呼応した結果ではないだろうか。
 1992年にイギリスのジャズ・ヒップホップ・グループUS3が「Cantaloop (Flip Fantasia)」と題し、オリジナルのハービーのフレーズ・サンプリングを含むカバーで世界的にヒットさせた。筆者はそのUS3のヴァージョンを先に聴いていたが、1994年『Talkin' Jazz Volume 2 (More Themes From The Black Forest)』に収録されたサード・ウェーヴが嘗てカバーしたヴァージョンを初めて聴いて、直ぐにそちらの方に魅了されてしまったのだ。この1曲だけでも本作『HERE AND NOW』を聴く価値があるので強くお勧めする。


『Questions 67+68 / Love Train』
 (MPS Records 3110) 
 ボーナストラックは『HERE AND NOW』と同じ1970年にリリースされた、7インチシングル『Questions 67+68/Love Train』(MPS Records 3110)の両曲で今回が初CD化となる。
 オールドロック・ファンならご存知の通り、タイトル曲「Questions 67+68」(「Questions 67 and 68」)はアメリカ・イリノイ州出身のブラス・ロックバンド、シカゴのファースト・シングルである。創設メンバーの一人でキーボーディストのロバート・ラムのソングライティングにより1969年7月にリリースされ、アルバム収録のオリジナルは5分を超えるため、シングル用に約3分半にエディットされている。
 サード・ウェーヴのカバー・ヴァージョンでは、ジョージによって最小限で的確なホーンアレンジが施され、オリジナルにあった長めのインタープレイのパートがオミットされ、2分52秒とかなりコンパクトな尺になっている。これは彼女達のボーカルとコーラスがメインであるために取られた処置だろう。尺の短いシングル曲ということでコーラス・アレンジもシンプルにまとめられている。プリティーなジャケット・デザインからも伺えるが、音楽性の高いジャズ・ファンより一般のポップス・ファン向けにアプローチしたのではないだろうか。 
 カップリングの「Love Train」はジョージ作で、これが非常にクールなファーストテンポのソウルジャズ・ファンクなのだ。間奏にドラムブレイクを持たせているのはジェームス・ブラウンからの影響と思われるが、2026年の現在でも古さを感じさせない。この7インチの両曲とも『HERE AND NOW』のレコーディング・セッションのアウトテイクなのだが、この曲だけサウンドの毛色が異なっており、ジョンのベースは本編で聴けるウッドベースではなく、明らかにエレクトリックのフェンダー系ベースのサウンドで、この曲の躍動感の肝になっている名演である。


TV Special『The Third Wave』
出典:https://www.imdb.com/?ref_=hm_nv_home
 
 本作『HERE AND NOW』リリース後のサード・ウェーヴの活動を調べてみたのだが、1971年2月には西ドイツの公共放送局にて『The Third Wave』のタイトルでエンテ姉妹5人が30分間のテレビ特番に出演して放送されていた。演出はヴァレリオ・ラザロフとヤナ・マルコヴァが担当しており、特にヴァレリオは当時ヨーロッパのテレビ業界では、斬新なカメラワークとポップな視覚効果を駆使して広く知られたルーマニア出身の奇才ディレクターだった。このよう敏腕スタッフにより彼女達のボーカル・パフォーマンスをステージ仕立てにした番組で、放送後はヴィデオやDVDなどのソフト化は一度もされておらず、放送局のアーカイブに残っている可能性は低いという。筆者も非常に観てみたいのだが、当時の視聴者が録画した動画が発掘されるのを待つしかない。

 1972年にはスティーヴ・ミラー・バンドのドラマー、ティム・デイビスのセカンド・ソロアルバム『Take Me As I Am(Without Silver Without Gold)』収録のタイトル曲にメンバー全員コーラスで参加している。サウンド的にはカントリー・テイストを持つブルーアイドソウルで、『HERE AND NOW』で繰り広げられたような複雑なコーラスとは異なるシンプルなアレンジにとどまっている。因みにこの曲にはギターにマイク・ブルームフィールド、エレクトリックピアノにベン・シドランという豪華な面子が参加しているので気になったのだが、アルバム・プロデューサーが名匠グリン・ジョンズということで納得した。 

 その後30年を経てしまうが、2000年以降もサード・ウェーヴのメンバー達は音楽活動を継続しており、2005年には現在ホノルル在住のジャズ・サックス奏者Aaron Aranitaの『Don't Stop The Feeling』収録の「Is It You?」に、ジョージーとジャミー、そして親族らしきジョディ(Jody Ente)の3名でコーラスとして参加している。この曲のサウンドは所謂スムーズ・ジャズ系のインストで、彼女達のコーラスの出番が少ないのが残念だ。
 またメンバーの家族でシンガーソングライターをしている娘の動画アカウントには、2000年にサード・ウェーヴのメンバー全員が集まって、ジャズのスタンダード曲を披露している動画が2009年にアップロードされていたので紹介しておく。
 なお本作の実質的プロデューサーで、一流ジャズ・キーボーディストだったジョージ・デューク氏は2013年8月に惜しくも逝去している。

 
The Third Wave circa 2000 - All the Things You Are
出典:https://www.youtube.com/@cocomaire




(テキスト:
ウチタカヒデ


[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

ヒア・アンド・ナウ [ サード・ウェイヴ ]
価格:2,200円(税込、送料無料) (2026/8/10時点)

2026年7月5日日曜日

短冊CDの日2026


 2023年から展開されていた『短冊CDの日』のキャンペーン・イベントも今年で4回目となり、7月7日”七夕の日”に開催される。 
 このキャンペーンは1988年に8cmサイズのCDを短冊型パッケージにしたシングルCDが生産開始されて35周年となった、2023年から展開されている『短冊CDの日』のイベントであり、密かなブームの兆しを見せているのだ。
 1990年代に青春時代を送った世代にとっては懐かしく、デジタル配信で育った令和の若い世代にとっては、この8cmサイズのCDのフォーマットは、アナログ盤やカセットテープと同様に音楽産業のリバイバル・ブームと言えるのだ。

 今月1日に弊サイトで吉田哲人のインタビューを掲載したばかりの、イエスハッピー!/吉田哲人の『I Saw The Light』もこのキャンペーンにエントリーしている作品なので未読の方はチェックしよう。


関連記事
★イエスハッピー!/吉田哲人『I Saw The Light』
吉田哲人リリース・インタビュー>記事はこちら

 
 ここでは『短冊CDの日 2026』にエントリーされて、7月7日に同時リリースされる中から、弊サイトのカラーや筆者の好みやで選出した作品を中心に紹介したいと思う。各作品の文末に予約リンク先を付けているので、筆者の解説で興味を持った読者は入手して聴いてほしい。

●短冊CDの日2026 Supported by Pococha公式サイト:https://tanzaku-day.jp/



sommeil sommeil と なんちゃらアイドル 
『9月の海はクラゲの海』(NRSD-3176)

  まずは2人組アイドルグループ”sommeil sommeil(ソメイユ・ソメーユ)”と”なんちゃらアイドル”の2組のコラボレーションによる、ムーンライダーズの「9月の海はクラゲの海」(『ドント・トラスト・オーバー・サーティー』収録1986年)カバーから取り上げたい。
 4月23日にリリースされたばかりの岡田徹氏トリビュートアルバム『Adventures in Modern Recording by TOHRU OKADA』でも覚和歌子 with Life Goes Onが取上げていたが、ライダーズ史上屈指の美しさを誇るこのメロディは、巧みな歌唱力で歌い上げるタイプの曲では決してない。例えるならフェデリコ・フェリーニ監督『道』(1954年)でのジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)の生き方に通じる純粋無垢な歌唱が似合うのだ。そしてその直向きさが聴く人の心を強く打つ。掛け値なしに名曲とはそういうものなのだ。


 ここでのカバー・ヴァージョンは、sommeil sommeilのnemumiと夢乃なこ、なんちゃらアイドルの御茶海(みさみ)マミとあおはるが、4人のユニゾンと各々のソロパートに分けてボーカルを取っており、その無垢な歌声を聴かせている。編曲と演奏は1989年に結成されたベテラン・バンドのスキップカウズのリーダーでギタリストの遠藤肇が担当し、モジュレーションが効いたギターリフを中心に、岡田徹へのシンパシーが感じされるサウンドを構築している。
 カップリングにはsommeil sommeilがなんちゃらアイドルの「PansyとDaisy」(同名7インチシングル/2020年)、なんちゃらアイドルの方はsommeil sommeilの「夕立クロニクル」(『Re:relation』収録/2025年)をトレードしカバーしているのがユニークだ。バックトラックはそれぞれのオリジナルを流用しているようだが、ボーカルの声質やキャラクターが異なるのでファンは楽しく聴けると思う。
disk union 予約>こちらをクリック



平野友里
『MICKEY』(NRSD-3174)

 昨年PRINCESS PRINCESSの「世界でいちばん熱い夏」と渡辺美里の「恋したっていいじゃない」カップリング・カバーで短冊CDをリリースしたアイドル・シンガーのゆり丸こと平野友里は、今回Great Hunting主宰で敏腕A&Rマンの加茂啓太郎のプロデュースにより、アメリカの女性シンガーで振付師のトニー・バジル(Toni Basil)が1982年に大ヒットさせた「MICKEY」をタイトル・ソングとしてカバーしている。
 またカップリングは平野友里のセルフ・プロデュースで、小室哲哉の作編曲とプロデュースでヒットしたhitomiの「CANDY GIRL」(1995年)を取り上げている。前者は加茂が発掘したクリエイターのZuuun、後者はマイクロスターの佐藤清喜が編曲と演奏及びプログラミングを担当しており、いずれのサウンドもダンス・ミュージックとして優れているのでDJ諸兄は必携だろう。
disk union 予約>こちらをクリック


 
 なんちゃらアイドルや平野友里とレーベルメイトで、同日に短冊CDをリリースする他のアーティストも触れておこう。シンガー・ソングライターのルカタマと、伝説のガールズバンド“マサ子さん”のボーカルまゆたんで結成された女性2人組ユニットTAMAYURAMは、昨年の『bye-bye, tape echo』に続き、1980年代子供番組「どきんちょ!ネムリン」のテーマ曲をカバーした『ぴんく ピンク PINK』(NRSD-3175)をリリースする。
disk union 予約>こちらをクリック


 前出の『Adventures in Modern Recording by TOHRU OKADA』にも参加した、富士山ご当地アイドルグループで井出ちよのソロユニットというべき3776(みななろ)は、昨年の『さよなら渦巻きの中の私』も音楽性が高かったが、今年の『六四』(EXTE-3776)も変拍子と巧みなギターカッティングを持つ実験作ポップスで音楽通を唸らせるだろう。
disk union 予約>こちらをクリック




松永天馬
『唇まで8センチ / 背中まで45分』(NRSD-3172)

 そして最後に紹介するのは、前衛ポップロックバンド、アーバンギャルドのリーダーでボーカルの松永天馬がソロ名義で『唇まで8センチ / 背中まで45分』をリリースする。
 両A面扱いであるがメインタイトル曲は、本キャンペーンの短冊CDのサイズである8cmから着想されたと思しき松永による作詞と、音楽プロデューサーでソングライターの佐々木喫茶(ささき きっさ)が作編曲した書き下ろしの新曲である。
 作家や詩人の肩書を持つ松永の歌詞の世界は、エスプリが効いた言葉の選び方やダブルミーニングの使い方もプロフェッショナルな仕事で、佐々木による1980年代中期のYAMAHA DX7などのアタックの強いFM音源系シンセサイザー・ベースやブルースハープを模したリード・シンセのリフ等々、懐かしくも新しいエレクトロポップ・サウンドにマッチしている。主役である松永のボーカルもBPMが変化しまくるこの曲でピッチや表現力など申し分なく、正にこの短冊CDキャンペーンのアンセム(Anthem)として相応しい完成度なのだ。


 両A面のカップリングは、井上陽水がソングライティングして沢田研二(以降:ジュリー)に提供した「背中まで45分」(1983年)のカバーである。ジュリーにとっては38枚目のシングルで、同曲のシングル・ヴァージョンの編曲を担当したのは、嘗てりりィのバイバイ・セッション・バンドやナイアガラ・レーベルのセッションにも参加していたベーシストの吉田建で、彼が率いるエキゾティクスがジュリーのバックバンドだった時期(1981年~1984年)でもあった。当時のニューウェイヴ・サウンドとの親和性が高い時期でも知られ、ジュリーとエキゾティクス、それを許容したプロデューサー加瀬邦彦(元ザ・ワイルドワンズのリーダー)の先見性の高さは、音楽界の最前線を生き抜いてきた一流の嗅覚と言えよう。
 ここでのカバー・ヴァージョンの編曲と演奏及びプログラミングは、アーバンギャルドのサポート・キーボーディストも務めるシンセサイザー奏者の杉山圭一で、陽水の独特な歌詞世界に流れているデカダンスでアンニュイなイメージを巧みに演出している。オリジナルの編曲はシングルVer:吉田健、アルバム『MIS CAST』収録Ver:白井良明(ムーンライダーズ)と各人の異なるセンスによって制作されていたが、杉山は更に個性的なサウンドを追求している。それはエキゾチックなミッドテンポのポリリズムやフィル・マンザネラ(Phil Manzanera)に通じるギター・サウンド、空間の隙間を活かしたミックスで施したサウンドで、ロキシー・ミュージック(Roxy Music)の最終作『Avalon』(1982年)を彷彿とさせて、実に素晴らしいカバーになったと一聴して魅了されてしまった。
disk union 予約>こちらをクリック


 なお松永天馬が率いるアーバンギャルドは、彼らが主宰する恒例のミュージック・フェスティバル「鬱フェス」を9月に開催するので、興味を持った読者は是非参加してほしい。
 同フェスにはバンドの二枚看板である松永と浜崎容子を中心に交流を持つ、神聖かまってちゃんや大槻ケンヂなど個性的な著名アーティストやバンドが多くゲスト出演し、弊サイトでもお馴染みの才女シンガー・ソングライターのフレネシの出演も決定している。
関連記事
浜崎容子/『フィルムノワール』>記事はこちら
★フレネシ記事一覧>記事はこちら  


アーバンギャルドpresents
 鬱フェス 2026

◎日時:2026年9月21日(月・祝)
開場 14:00 / 開演:14:30~

◎会場:CLUB CITTA’(神奈川県):アクセスはこちら

◎出演者
アーバンギャルド

◎ゲスト出演者
神聖かまってちゃん
大槻ケンヂ(オーケンギャルド)
挫・人間
色々な十字架
東京メルヘン倶楽部
フレネシ
水中、それは苦しい
赤いくらげ
絵恋ちゃん
古山菜の花
カラコルムの山々
AIR-CON BOOM BOOM ONESAN

◎イープラス先行チケット予約:こちらをクリック


(テキスト:ウチタカヒデ